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2026.03.14 ・ Episode 035章 ・ 31

第三話 風哭高原の黒い犬

その話を最初に聞いたとき、わたしは古典の焼き直しだと思った。  人里離れた高原。代々続く家。黒い犬の呪い。心臓の悪い当主が夜の湿原で急死し、遠くないうちに若い後継者がやってくる。

第三話 風哭高原の黒い犬 のカバー

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九条玻璃事件帖

いまは 第三話 風哭高原の黒い犬 を読んでいます。続きや別の話もここから辿れます。

1

第一章 来訪者

その話を最初に聞いたとき、わたしは古典の焼き直しだと思った。

 人里離れた高原。代々続く家。黒い犬の呪い。心臓の悪い当主が夜の湿原で急死し、遠くないうちに若い後継者がやってくる。

 筋立てだけ拾えば、できすぎている。だが、できすぎた話ほど、現実の中では人を殺しやすい。九条玻璃はそういう種類の事件を好んだ。

 北原蓮司が九条調査室へ来たのは、二月の終わり、東京にしてはよく冷えた午後だった。四十代半ばの医師で、北海道東部の町立診療所に勤めているという。背の高い、風に吹かれ慣れた男だったが、九条が応接卓の向こうで「どうぞ」と言った瞬間だけ、白いマグカップを持つ手がほんの少し乱れた。

 それは男がみな見せる、あの一瞬のためらいだった。相手が美しいと意識したくないのに、身体の方が先に気づいてしまう時の、どうしようもなく不器用な間である。

 九条はもちろん気づかない。

「長旅だったでしょう」

 そう言って彼女が差し出したのは珈琲ではなく、渋い番茶だった。相手が医師だと分かると、彼女はたいていカフェインを一段落とす。気遣いなのか観察なのか、その境目はいつも曖昧だ。

「ええ。ですが、来る価値はあると思ってきました」

 北原は鞄から薄いクリアファイルとタブレットを出した。

「亡くなったのは、鷺森宗孝さん。六十八歳。北海道の風哭高原一帯を所有する鷺森家の当主です。酪農、再生可能エネルギー、観光施設、いくつかの関連会社。地方ではかなり大きな家ですよ」

「死因は」

「表向きは急性心不全です。ただし」

 彼は言いにくそうにタブレットの画面をこちらへ向けた。

 夜のトレイルカメラ画像だった。霧のなか、遊歩道の端に巨大な黒い塊が写っている。犬に見えなくもない。狼ほど細くはなく、熊ほど鈍くもない。目のあたりだけが白く滲み、口元には妙な光がこびりついていた。

「鷺森さんは死ぬ一週間ほど前から、夜になると黒い犬を見たと言い始めました。家族は妄想だと思った。けれど、この画像が出た」

 わたしは画面を覗き込んだ。霧とノイズのせいで輪郭は曖昧だが、不気味な説得力だけはある。

「これは現場近くで?」

「ええ。風哭高原の木道の入り口です。宗孝さんは三日前、夜九時すぎ、その木道の先で倒れているのが見つかりました。転倒の痕跡はあるが、致命傷はない。心臓が先に止まっている」

「最後に目撃した人は」

「甥の真澄さんへ電話をかけようとしていたらしい。履歴が残っていました。その直前、わたしにも短い通話が来ています。内容は……『また犬が来た』だけでした」

 九条は黙って画像を見ていた。視線が画面にある時ほど、彼女の顔は冷える。美人が無表情になると、たいていの人はそこで言葉を選ぶようになる。北原医師もそうだった。

「鷺森家には、黒い犬の伝承があるそうですね」

 九条が言った。

 北原はうなずいた。

「明治の頃、鷺森家の当主が高原の湿原で使用人を死なせ、その夜から家の者は黒い犬に見張られるようになった、という話です。土地の古老は今でも信じている人が多い」

「先生は?」

「信じていません」

 答えは早かった。

「ですが、人が信じているという事実は、病理より厄介です。恐怖は本物ですから」

 九条はそこで、ようやくタブレットから目を上げた。

「若い後継者、というのは」

「宗孝さんの甥、鷺森真澄さんです。三十一歳。ドキュメンタリー映像の仕事をしていて、ここ数年はカナダにいました。明後日、相続と葬儀のため帰国します」

「その方も危ないと?」

 北原は、しばらく沈黙してから、もう一枚の紙を出した。

 古びた便箋をコピーしたものだった。そこには達筆すぎて嫌味な字で、たった一行だけ書かれている。

 次は若い鷺森だ。犬は血筋を嗅ぎ分ける。

「宗孝さんの遺品のなかにあった匿名文です。宗孝さんは見せびらかしませんでしたが、わたしには相談した。警察は悪質ないたずらとして処理しています」

「警察は正しいかもしれませんよ」

 九条は言った。

「いたずらは、しばしば人殺しの下書きです」

 北原の喉が目に見えて上下した。九条は机へ肘をつかず、まっすぐ座っているだけなのに、言葉に妙な重さが乗る。

「先生は、何を依頼したいんです」

「真澄さんを守ってほしい」

 北原はまっすぐ答えた。

「あの土地では、いま誰もが半分は伝承を信じ、半分は遺産を見ています。宗孝さんの顧問弁護士、隣接地の自然保護研究所、風力発電会社、親族、古い使用人。みな口では鷺森家を案じながら、胸の内では別の計算をしている。あの若い人を、一人で帰すのは危ない」

 九条はすぐには答えなかった。代わりに、北原の靴を見た。

「東京駅からまっすぐ来たわけではないですね」

 北原がまばたきする。

「どうして」

「靴底に泥炭の粉が残っています。空港や駅の泥ではない。先生は東京へ出る前、風哭高原の木道をもう一度見てきた」

 北原は苦く笑った。

「あの場所を、自分の目で確かめておきたかったので」

「何か見つけましたか」

「大きな足跡の写真は撮れた。ただし翌朝には消えていた。雪でも雨でもなく」

「消したんでしょう」

 九条は、まるで次の頁をめくるみたいな口調で言った。

「では、人間の仕事です」

 北原が少しだけ息を吐く。目の前の女探偵が、呪いを呪いとして扱わなかったことへの安堵だった。

「有坂さん」

 九条がわたしを見た。

「先生と一緒に風哭高原へ行ってください」

「あなたは?」

「東京に残ります」

 彼女は番茶を一口飲んだ。

「鷺森家と風哭自然研究所、風力発電会社、それから家族の戸籍を調べたい。土地と血筋は、田舎ではたいてい同じ顔をしていますから」

「わたし一人で?」

「先生がいます。鷺森真澄さんも、たぶん話の分かる人でしょう」

「それは、励ましているんですか」

「事実を言っています」

 九条はそこでわずかに笑った。医師が湯呑を取り落としかけたのを見て、わたしはひそかに気の毒になった。三十二歳の女が無自覚に人の鼓動を乱すのを見るのは、もう慣れたつもりでいて、案外慣れない。

「もし本当に犬が出たら?」

 わたしが聞くと、九条は平然と答えた。

「まず、犬として疑ってください。その次に、人間として」

 そうして始まった第三話は、後になって振り返れば、九条玻璃の事件簿で最初の長い冬だった。

2

第二章 霧の館

風哭高原は、地図で見るよりずっと広かった。

 釧路空港から車で二時間半。国道を外れると、景色は急に薄くなる。牧柵、低い丘、凍りかけた湿原、白く霞む防風林。背の高い風車が遠くで回っていた。便利さを諦めた土地の広さは、東京生まれの人間を簡単に黙らせる。

「ここらでは、風が鳴くんです」

 運転する北原が言った。

「湿原と斜面の角度で、夜になると犬の遠吠えみたいな音になる」

「それで風哭」

「ええ。観光用にはいい名前ですが、昔から住んでいる人間にはあまり縁起がよくない」

 鷺森家の館、風哭館は、丘の肩へ建っていた。昭和の初めに建てられた山荘を増改築したもので、石と木でできた重たい建物だった。正面の車寄せには高級車が二台並び、裏手にはドローン配送の着陸パッドまである。古さと新しさが、金で無理やり同居させられている家だった。

 玄関で迎えたのは、鷺森真澄本人だった。

 三十一歳。背が高く、日焼けした顔つき。映像の現場で生きてきた人間らしい無駄のない動きだった。喪服がまだ身体へ馴染んでいない。

「北原先生から話は聞いています」

 彼はわたしへ手を差し出した。

「有坂蒼さん。出版社の方、でしたよね」

「ええ。いまは半分、探偵助手みたいなものです」

「半分で済みますか」

「済まないことが多いです」

 真澄はそこで初めて少し笑った。まだ叔父の死の硬さを背負っていたが、理屈の通じる男だという印象はすぐに持てた。

「九条さん本人は」

「東京で別の調べ物をしています」

 それを聞いて、真澄は露骨に落胆しなかった。だが、北原医師から事前に彼女の噂を聞いていたらしく、「そうですか」と言うまでにほんの短い間があった。

 館の中には、事件に必要なだけの人間が、きちんと揃っていた。

 家政を取り仕切る御厨文江。鷺森家に二十年以上仕える女で、顔の皺まで几帳面だった。顧問弁護士の村尾重親。柔らかい物腰の裏に、数字だけを信じる男の硬さがある。隣接する風哭自然研究所の所長、神津朔也。四十前後、痩せた長身で、野外活動の人間にしては手入れの行き届いた声をしている。彼の妹だという神津沙映。白い顔立ちの、静かな女だった。

 神津は挨拶の時から、こちらをよく見ていた。いや、正確には、わたしより九条が来ていないことを確認するみたいな目つきだった。

「噂の探偵は不在ですか」

「ええ」

「残念だ。東京の人は、伝説を笑いに来るのかと思っていました」

「笑えるかどうかは、見てから決めます」

 そう答えると、神津は薄く笑った。人好きのする表情なのに、どこか相手へ先に印象を押しつけようとする癖がある。

 沙映はその横で一言も余計なことを言わなかった。ただ、視線だけが時々こちらへ流れ、そのたび何かを言いかけてやめるように見えた。

 その晩、真澄の案内で、宗孝が倒れた木道まで行った。

 館から南へ十五分。湿原を横切る木道は、遊歩道と呼ぶには荒れていた。古い板が夜露で濡れ、左右は黒い水を溜めた泥炭地へ落ちている。昼でも視界の端が曖昧で、夜ならなおさらだろう。宗孝の遺体は、この木道が小さく曲がるところで見つかったという。

「叔父は、ここを一人で歩くのが好きでした」

 真澄は手袋越しに手摺を叩いた。

「夜の湿原は何も見えないのに、音だけはやたら大きい。風とか、水とか、自分の靴音とか」

「黒い犬の話は、信じていますか」

 わたしが聞くと、彼は少し考えた。

「子供の頃は。でも今は、誰かがその話を利用しているんだろうと思っています」

「誰が」

「それが分からないから困っている」

 真澄はそう言って肩をすくめた。

「叔父の死を悼んでいる人間と、相続の話を急ぎたがっている人間が、きれいに重なっているんです」

 館へ戻る途中、沙映が追ってきた。神津の“妹”だ。

「有坂さん」

 彼女は声を低くした。

「真澄さんを、夜に一人にしないで」

「それはどういう」

「言えることだけ言います。ここでは、怖がった人から順番に間違えます」

「神津さんのことですか」

 そう聞くと、沙映は唇を結んだ。

「今夜は窓の鍵を確かめてください」

 それだけ言い残し、彼女は急いで館へ戻っていった。

 真澄の部屋は二階の南端にあった。書斎を兼ねた広い部屋で、壁一面に叔父の残した書類と地図が並んでいる。東京なら高級ホテルにしてしまいそうな広さだが、ここでは単に冬の寒さが広がるだけだった。

 夜十一時を回った頃、最初の遠吠えがした。

 犬と断言するには長く、風と片づけるには意志がありすぎる音だった。館じゅうの窓が薄く震え、真澄が反射的に立ち上がる。

「聞きましたか」

 北原医師が頷く。

「前にも何度か」

 その二分後、庭の自動照明が一斉についた。

 真澄がカーテンを引く。雪の残る芝の上に、大きな足跡が四つ、濃く沈んでいた。犬のものに見える。だが普通の犬より、ひと回り大きい。

 わたしたちが外へ飛び出した時には、もう何もいなかった。足跡だけが、館の南壁から暗い庭木の方へ続いている。途中でぷつりと消えていた。

「飛んだわけじゃない」

 わたしが言うと、北原が懐中電灯を下げた。

「雪の表面だけを歩かれたか、板でも敷いたか」

「あるいは最初から、見せたいところにだけつけたか」

 振り返ると、真澄の顔が少し白くなっていた。

 その夜、わたしは九条へ長い報告を送った。電波は不安定で、半分は夜中に、残り半分は朝方に届いたらしい。

 返ってきたのは短い一文だけだった。

 犬より先に、人間の経路を見てください。

 東京に残っているはずの女探偵の声が、そこにはいつも通り静かに響いていた。

3

第三章 追われる相続人

高原では、朝の光がかえって不安を濃くする。

 夜の間に起きたことが、日が昇ると全部現実の輪郭を持って並ぶからだ。大きすぎる足跡、木道の傷、使用人たちの硬い顔、村尾弁護士の早すぎる相続説明。伝説より、人間の方がよほど鮮明に不吉だった。

 朝食の席で、村尾が真澄へ言った。

「宗孝様の遺言執行には、来週までにいくつか決めていただく必要があります。風力発電区画の持分、研究所との共同保全契約、館の維持費」

「叔父が死んで三日ですよ」

 真澄が冷たく返す。

「ずいぶん急ぐんですね」

「土地は待ってくれません」

 村尾は微笑みを崩さなかった。

「それに、風哭高原の管理責任者が不在のままだと、町も困る」

 その横で神津朔也が口を開いた。

「真澄さんが嫌なら、研究所が当面の保全を引き受けてもいい。こちらは湿原のデータも持っている」

「親切ですね」

 真澄が言う。

「叔父が死んだ直後に、それを言えるくらいには」

 神津は笑って受け流したが、沙映だけが湯呑へ目を落とした。

 昼前、わたしは館の裏手から湿原へ出る古い保守路を一人で歩いた。九条の言う「人間の経路」を見るためだ。足跡は夜の霜でほとんど消えていたが、泥の残り方を見るかぎり、館から木道へ最短で入る道は一つではない。裏の車庫脇から、使われていない観測小屋へ続く道があった。

 観測小屋は半ば朽ちていた。だが中には新しい痕跡がある。缶詰の空き、乾電池、携帯用ガスコンロ。そしてトレイルカメラのSDカードのケース。

「それ、返してもらえますか」

 振り向くと、戸口に若い男が立っていた。髭が伸び、頬がこけている。逃亡者の顔だった。

「あなたは」

「畑中譲」

 名前に聞き覚えがあった。鷺森家の元ドローン技師。昨年、機材横流しの疑いで解雇され、そのまま行方が分からなくなっていると北原から聞いていた。

「盗みに来たわけじゃない」

 畑中は言った。

「ここで見たものを、警察に言っても信じてもらえないと思っただけだ」

「何を見たんです」

 彼はすぐには答えず、代わりにケースを指した。

「そのカードの中身を見れば早い」

 ノートPCで確認すると、夜間映像が数本入っていた。古いポンプ小屋の裏手、雪の上に大きな黒い犬が鎖につながれている。画角の端に、人間の脚が映る。背の高い男で、膝下までの防水ブーツ。犬の口元へ何かを塗りつけていた。

「顔は」

「映ってない。だけど声は聞いた」

 畑中は唇を舐めた。

「神津所長だよ」

 わたしは映像をもう一度見た。確かに、ごく短く男の声が入っている。高くも低くもない、よく通る声だった。神津かどうか、その場では断定できない。

「どうして黙っていたんです」

「俺が最初に見たのは、宗孝さんが死ぬ前だったからだ」

 畑中は荒っぽく言った。

「でかい黒犬が夜の湿原を走ってるのを見て、まず俺の頭がおかしいと思った。そのあと神津所長に言ったら、『湿原の観測用だ』って笑われた。だけど宗孝さんが死んだ。次は俺の番だと思って隠れた」

「次?」

「俺、余計なデータも見たんだよ」

 彼は声を落とした。

「神津所長は、鷺森家の戸籍をずっと集めてた。研究のためじゃない。血筋を確かめるみたいに」

 そこまで聞いたところで、外から金属音がした。

 畑中の顔色が変わる。

「来た」

 彼はわたしを押しのけるように裏口から逃げた。追いかけると、遠くの斜面に黒いSUVが一瞬見えたが、すぐ防風林の向こうへ消えた。

 館へ戻ると、沙映が勝手口のところで待っていた。

「ここで話すと見つかる」

 彼女はそう言って、物置へわたしを引き入れた。

「わたしは朔也の妹じゃありません」

 最初の言葉がそれだった。

「妻です」

「やっぱり」

「薄々は?」

「ええ」

 彼女は弱く笑った。

「わたしは、東京で朔也と知り合いました。自然保護の仕事をしている、頭のいい人だと思っていた。でも違った。あの人は、風哭高原へ来てからずっと鷺森家の戸籍と昔の写真ばかり見ていた。自分がこの土地の持ち主になるべきだと、本気で思っている」

「なぜ」

「祖母が鷺森家の人間だったから」

 沙映はかすれた声で続けた。

「昔の分家で、家を出たまま記録の端へ追いやられた人。朔也はそれを“奪われた血筋”だと言っていた。真澄さんがいなくなれば、自分が正しい継承者だと証明できる、と」

 その日の夜、真澄は実際に襲われた。

 夕食後、彼は気分転換だと言って、館のすぐ下の木道まで一人で出た。わたしは北原と後を追っていたが、途中で風が強くなり、手元の灯りが揺れた。その時だった。

 前方の霧が割れて、巨大な黒いものが飛び出した。

 犬だった。

 今度は、画像でも影でもない。筋肉の塊みたいな大きさの黒犬が、低い唸りとともに真澄へ跳びかかった。口元が青白く光っていた。塗料めいた、不自然な光だ。

 真澄が倒れ、北原がフレアを焚く。赤い光のなかで犬の輪郭がはっきりした。大型犬、それも相当に訓練された個体だ。首輪に小さな発信器が見えた気がした。

 わたしが真澄を引きずり、北原が杖で犬を払う。犬は一度だけ大きく吠え、次の瞬間、霧の向こうへ消えた。走り去るというより、呼び戻されたような消え方だった。

 館へ戻った真澄は、さすがに顔面蒼白だった。

「見たでしょう」

 彼は震える手で水を掴んだ。

「あれが、叔父を殺した」

「犬です」

 わたしは言った。

「化け物じゃない。誰かが飼っている」

 そう言い切ったものの、わたし自身の鼓動はまだ速かった。九条なら、ここで何を見るだろうと考えた。足跡か、首輪か、真澄の匂いか、それとも沙映の青ざめた顔か。

 深夜、ようやく九条から返信が来た。

 短かった。

 明日から、真澄さんを絶対に一人にしないでください。わたしも動きます。

 その文面に、東京からの距離は感じられなかった。

4

第四章 玻璃の不在

翌朝、真澄の部屋の扉の下に封筒が差し込まれていた。

 白い無地の封筒に、プリンタで一行だけ。

 叔父の死の真相を知りたければ、今夜十時、風返しの石標へ一人で来い。

「行く必要はありません」

 北原が即座に言った。

 だが真澄は封筒を握りしめたまま、視線を逸らさなかった。

「叔父を殺した人間が、まだこの土地にいる。だったら、会わないまま逃げるわけにはいかない」

「逃げる必要もありません」

 わたしは言った。

「ただ、一人で行く必要がないだけです」

 村尾弁護士は露骨に反対した。警察へ渡せ、館から出るな、正式な相続手続きだけ進めろ。神津朔也はその逆で、妙に穏やかだった。

「真澄さんが行きたいなら、止める方が危ないかもしれない。相手は追いつめられている。無視したら、今度は館の中へ来る」

 その言い方が、わたしには不自然に思えた。危険を強調する人間の目ではなく、予定通りに事が進むのを確認する人間の目だった。

 沙映は何も言わなかった。ただ、真澄が席を立ったあと、わたしとすれ違いざまに小さな紙片を握らせた。

 古いポンプ小屋。西の枯れ沢。

 それだけ書いてある。

 九時半、真澄は黒い防寒着を着て、館の南側から木道へ出た。表向きは一人で行かせたことになっている。実際には、わたしと北原が少し離れて後を追い、さらにどこかに町の警官が潜んでいる手はずだった。

 その手はずを整えたのは、九条玻璃である。

 彼女が風哭館へ姿を見せたのは、そのわずか二時間前だった。正面玄関からではない。裏の勝手口から、まるで昨夜から館にいたみたいな顔で入ってきた。

「遅いですよ」

 思わず言うと、九条はコートの雪を払った。

「遅くありません。ちょうどいい」

「ちょうどよくない。あの犬が昨日、真澄さんを食いかけたんです」

「ええ。だから今日で終わらせます」

 その平然とした言い方に、わたしは腹が立った。九条はたまに、相手の安全と事件の解決を同じ計量器へ載せる。どちらも大事にしているのは分かるが、重さのかけ方が人並みではない。

「真澄さんを餌にするつもりですか」

 九条は少しだけ目を細めた。

「餌にするつもりなら、あなたに怒られるような顔はしません」

「いまの顔で十分腹が立ちます」

 北原医師が咳払いをし、場が少しだけ元に戻った。九条はそのあと、東京で調べたことを手短に話した。

 神津朔也の祖母は、たしかに鷺森家の分家筋だった。戦後の混乱で家を離れ、戸籍は別の姓へ移っている。直系ではないが、鷺森本家が絶えれば、相続争いに名乗り出られる程度の血縁はある。さらに、神津は近年、村尾弁護士を通じて風哭高原周辺の地役権を少しずつ押さえていた。犬の伝説より、こちらの方がよほど現実的だった。

「それから」

 九条は畑中のカードを机へ置いた。

「犬はポンプ小屋の裏で飼われていた。沙映さんが示した場所と一致します。首輪には追跡用の発信器。呼び戻しは超音波ホイッスルか、低出力のスピーカーでしょう」

「口の光は」

「家畜用の蛍光マーキング剤です。夜間の個体識別に使う。濃い霧とヘッドライトがあれば、十分化け物に見える」

 言葉にすると、恐怖は急に現実へ戻る。犬は犬で、飼い主は人間だった。

 風返しの石標は、木道が湿原の中央で二手に分かれる地点に立っている。古い測量標識で、膝丈ほどの石柱だ。その周辺だけ地面が少し高く、霧の中で島みたいに見える。

 十時二分。

 風が止んだ。

 その直後、湿原の奥で遠吠えが鳴る。昨日より近い。真澄が立ち止まった。わたしは二十メートル後方の観測柵の陰に身を伏せ、北原は反対側にいる。九条の姿は見えない。

 もう一度、遠吠え。

 今度は右から。

 霧の裂け目に、青白い口元が浮かんだ。

 黒犬は一直線に真澄へ向かって走ってきた。昨日より速い。首輪の発信器がわずかに赤く点滅している。真澄が動けずにいるのが見え、わたしは飛び出した。

 その瞬間、左手の闇で短く火花が上がった。

 乾いた発砲音。

 犬の体が空中でぶれ、木道へ横倒しになる。だが完全には止まらない。低く唸りながら起き上がろうとする。二発目が入った。今度は前脚が崩れた。

「下がって」

 霧の向こうから九条の声がした。

 姿が現れたのは次の瞬間だった。濃紺の防寒コート、耳を隠す黒い帽子、手には猟銃ではなく麻酔銃。静かな顔のまま、彼女は倒れた犬へさらに一歩近づいた。

「大丈夫です。効きます」

 その言葉が犬に向けたものなのか、こちらへ向けたものなのか分からなかった。

 背後で誰かが走る音がした。神津朔也だ。彼は湿原の西側から姿を現すと、状況を一目見て踵を返した。追った警官のライトが揺れる。

「神津さん、そっちは」

 北原が叫ぶより早く、九条が短く言った。

「底が抜けます」

 言葉通りだった。

 霧の向こうで、誰かの悲鳴がひとつ上がる。続いて泥炭の表面が崩れる、鈍い水音。警官の叫び。ライトの光が散る。湿原は一度何かを呑み込むと、驚くほど静かになる。

 その場での救助は不可能だった。地元のレスキューが来るまで近づけず、来た時にはもう遅かった。

 戻りの車中で、わたしは九条へ言った。

「来ていたなら、もっと早く姿を見せてもよかったでしょう」

 彼女は窓の外の闇を見たまま答えた。

「神津朔也は、飼い犬より人間の目を警戒していました。わたしの存在を悟ったら、今夜は動かなかった」

「だから真澄さんを立たせた」

「ええ」

 短く認める。

「でも、わたしは外しません」

 その言い方は傲慢に聞こえる一歩手前で止まっていた。腹は立つ。立つのだが、実際に外さなかった以上、反論の言葉は少し弱くなる。

 九条玻璃はそういう女だった。人を安心させるより先に、結果で黙らせる。

 犬は館の納屋へ運ばれた。巨大なカネコルソで、口元には青白い薬剤がこびりつき、毛並みの一部には鷺森家の家畜識別に使う蛍光塗料が混ぜられていた。化け物ではない。ただ、人間の悪意で十分すぎるほど恐ろしく仕立てられていただけだ。

 長い夜の核心は、そこでようやく終わった。

5

第五章 湿原に残るもの

神津朔也の遺体が湿原から引き上げられたのは、翌朝のことだった。

 風哭館の応接間には、事件に最後まで関わった人間だけが残された。真澄、北原、村尾弁護士、沙映、わたし、そして九条玻璃。外では風車が回り、湿原の上に薄い朝霧が残っている。高原は何もなかったみたいに明るかった。

「では、順番に」

 九条は暖炉の前に立った。

「まず、宗孝さんの死からです。宗孝さんは犬に噛まれていません。けれど、殺された。神津朔也は宗孝さんの心臓が悪いことを知っていて、夜の木道へあの犬を放した。自分で見た“黒い犬の呪い”から逃げようとして、宗孝さんは転倒し、そのまま心停止した」

 真澄が膝の上で拳を握る。

「叔父は、最初から標的だったんですね」

「ええ。ただし神津の本命は、たぶんあなたでした」

 九条はそう言って、机の上へ数枚の戸籍謄本の写しを置いた。

「神津朔也の祖母は、鷺森家の分家筋に連なる人です。戦後、家を離れて姓を変えた。血筋としては遠い。でも本家の直系が絶えれば、彼は法的な争いの場へ立てる程度の位置にいた」

 村尾弁護士が青ざめる。

「その資料を、どこで」

「東京で寺の過去帳と除籍を見ました」

 九条は平然と言う。

「あなたも知っていたでしょう、村尾さん」

 村尾はしばらく黙り、やがて小さく認めた。

「……神津さんから相談は受けていました。あくまで将来、鷺森家に相続人がいなくなった場合の話として」

「将来、では遅かった」

 九条の声は冷たい。

「だから彼は、宗孝さんをまず脅し、次に真澄さんを追い出すか殺す必要があった。しかも、ただの利権争いに見せたくはなかった。土地を奪う理屈に“呪い”が混じっていた方が、自分の中で気持ちがいいからです」

 沙映が顔を上げた。

「あの人は、ずっと言っていました。“鷺森家は自分から奪った土地へ怯えながら返すべきだ”って」

 九条は頷いた。

「ええ。でも実際には、風哭高原の地役権と買収オプションも押さえていた。血筋だけでは足りないと分かっていたから、金の段取りも済ませていた。呪いを語りながら、やっていたことはひどく現代的です」

 わたしはそこで、畑中が言っていた話を思い出した。

「犬を飼っていた場所はポンプ小屋。じゃあ遠吠えは」

「半分は本物、半分は機械です」

 九条は答える。

「首輪の発信器と超音波ホイッスルで犬の動きを制御し、風力施設の点検スピーカーへ録音した遠吠えを重ねた。霧の夜なら、音の位置は簡単にずれます。足跡も同じ。見せたい場所にだけつければいい」

「口の光は、家畜用の塗料」

 北原が低く言う。

「ええ。蛍光マーキング剤に油分を混ぜて、毛と口元へ塗った。ヘッドライトやフレアが当たると、死んだ獣みたいな青白さになる」

 真澄が長く息を吐いた。

「じゃあ全部、人間が作った」

「伝説だけは昔からありました」

 九条は少しだけ視線を和らげた。

「でも、その形を借りたのは人間です。怖い話には、いつもそれを利用する人間がいる」

 沙映はその場で、神津と夫婦であったこと、犬の存在に気づいた後でやめさせようとして逆に監視されていたこと、真澄へ送った警告文のいくつかは自分が差し込んだことを話した。兄妹のふりをさせられていたのも、館へ自然に出入りし、真澄の近くへ寄るためだったという。

「すみません」

 彼女は真澄に向かって頭を下げた。

「もっと早く言うべきでした」

「あなたのおかげで助かった部分もあります」

 真澄はそう答えたが、声には疲れがあった。許すというより、もう怒るだけの力が残っていない声だった。

 そのあと、畑中譲も保護された。夜のうちに北原が診療所へ匿っていたらしい。彼はカードのデータを警察へ渡し、神津がポンプ小屋で犬を飼育していたこと、宗孝の死の前夜にも木道付近で犬を見たことを証言した。

 事件としてはそれで十分だった。

 だが長編というものは、犯人が分かったあとにも少しだけ残る。人が死んだ土地を、では誰がどう引き受けるのかという、面倒で現実的な残り方だ。

 真澄は午後、湿原を見渡す窓の前でわたしたちに言った。

「売りません」

 誰へ向けた宣言かは、みな分かっていた。

「少なくとも今すぐには。叔父が何を守ろうとしていたのか、まだ全部は分からない。でも、呪いだ利権だって騒いだ連中の好きにさせるのは違う」

 北原が、初めて深く息をついた。

「それでいいと思います」

 村尾弁護士は反論しなかった。できなかったと言うべきかもしれない。

 帰りの飛行機で、わたしは九条に聞いた。

「今回は、ずいぶん土地の匂いがする事件でしたね」

 彼女は窓の外の雲を見たまま、少し考えた。

「ええ。もっと小さい」

「小さい?」

「犯罪の設計図としては」

 九条は言った。

「でも、小さいから無害とは限りません。地方の家、古い血筋、利権、怨恨。そういうものだけでも人は十分に壊れる。むしろ、誰か一人の大きな悪意へまとめない方が、現実に近いこともあります」

「救いがないですね」

「ありますよ」

 珍しく、彼女はすぐ答えた。

「犬は犬だった」

「そこですか」

「大事でしょう」

 そして彼女は、ほんの少しだけ笑った。

 その笑い方を真正面で受けるたび、わたしは三十を過ぎても人間は簡単に動揺するのだと思い知らされる。九条玻璃は相変わらず、その効果に無頓着だった。

「有坂さん」

「何です」

「次は東京にしてください。湿原は靴が重くなる」

「あなたが言いますか。わたしを先に行かせておいて」

「でも、ちゃんと間に合いました」

「それで許されると思ってるでしょう」

「少しは」

 そう言って、彼女は目を閉じた。

 風哭高原の黒い犬は、こうして終わった。

 伝説は残るだろう。湿原に風が鳴るかぎり、誰かは夜ごと遠吠えを聞いたと言うはずだ。

 けれど、わたしたちは知っている。

 あの夜そこを走ったものが、呪いではなく、人間に飼われた黒い犬だったことを。

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第二話 神楽坂朗読館の代役