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Work

2026.03.14長編 ・ 211分

溺れかたを知っている

欲しいと思われることでしか自分を確かめられなかった女が、繰り返しの果てに、自分の輪郭をほんの少しだけ触れてみる話。

溺れかたを知っている

01

第一章 日常という形

朝のルーティンは、渚にとって一種の確認作業だった。

 六時四十分にアラームが鳴る。iPhoneの画面が暗い天井に白い光を投げ、渚はその光に顔をしかめながら右手を伸ばす。画面を見る前に通知バッジの数を確認する癖がついていた。赤い丸の中の数字。それが何であるかを見るまでの〇・五秒ほどの間に、期待と警戒がない交ぜになった感覚が胸の底を通り過ぎる。今朝は三件。メルマガ、天気アプリ、そしてクレジットカードの引き落とし通知。渚はそのどれにも触れず、アラームだけを止めた。

 ベッドから足を下ろすと、フローリングがひんやりと足裏に触れる。三月の半ば、西荻窪の1LDKはまだ朝に暖房がいる。リモコンを探すのが面倒で、渚はそのままキッチンに向かった。

 コーヒーは決まってハンドドリップにしている。豆はカルディで買う中深煎りのブラジル。電動ミルで挽き、ペーパーフィルターに粉を移し、細口のケトルで湯を注ぐ。最初の蒸らしで粉がふくらむのを見る。その三十秒間だけ、渚は何も考えなくていい。湯気が鼻先をかすめ、部屋にコーヒーの匂いが広がっていく。砂糖は入れない。ミルクも入れない。入れたいと思ったこともあるが、いつの間にかブラックで飲む自分が定着してしまった。それがいつからだったか、もう思い出せない。

 洗面台の前に立つ。鏡の中の自分を見る。二十八歳の顔。化粧水、美容液、乳液。手のひらで押さえるようにして順番に重ねていく。肌の調子は悪くない。頬のあたりにほんの少し疲れが出ているが、ファンデーションで隠せる程度のものだった。渚はこの「隠せる程度」という判断を下す自分のことが、ときどきよくわからなくなる。何を基準に、何から隠しているのか。ただ鏡の中の自分が「大丈夫そう」に見えると、それでいいと思えてしまう。

 出かける前に、部屋を見回す。シンクに洗い物はない。テーブルの上には昨日買った文庫本と、飲みかけの炭酸水のペットボトル。クッションはソファの上に二つ、きちんと並んでいる。月に一度くらい、深夜に突然片付けたくなる夜がある。そういう夜は二時、三時まで押し入れの奥を引っかき回したり、本棚の順番を入れ替えたりする。終わると床に座り込んで、何をしていたのかよくわからなくなる。でも翌朝、きれいになった部屋を見ると少しだけ安心する。そういうことの繰り返しで、渚の部屋はいつも片付いていた。

 ドアの鍵を閉める音が、静かな廊下に響く。

 七時五十二分の中央線に乗る。杉並から新宿方面へ向かう車内は、この時間帯にはもう座席が埋まっている。渚はドア横のスペースに立ち、窓の外を見る。線路沿いの住宅の屋根、ベランダに干された布団、小さな公園の遊具。見慣れた景色が後ろへ流れていく。窓ガラスにはうっすらと自分の顔が映っていて、渚はそこから目をそらすように視線を下げた。

 スマートフォンを取り出す。充電残量は八十三パーセント。LINEを開く。特に見るべきものはなかった。Instagramのストーリーズをいくつかタップする。大学時代の友人が沖縄旅行の写真を上げていた。白い砂浜、青い海、ハイビスカス柄のワンピース。渚は画面を長押しして写真を止め、一瞬だけ見つめて、指を離した。次のストーリーに切り替わる。誰かの犬。誰かのラテアート。誰かの夕焼け。渚はそれらを淡々とタップしながら、荻窪を過ぎ、阿佐ヶ谷を過ぎた。

 勤務先は新宿三丁目のIT企業で、渚はマーケティング部に所属している。四年目。広告運用とSNS施策を担当していて、週に二回ほどクライアントとのミーティングがある。仕事は嫌いではなかった。数字を追いかけ、仮説を立て、施策を回す。結果が出れば手応えがあるし、出なければ原因を探る。感情の入る余地が少ないから楽だった。

 オフィスに着くと、まずコーヒーを淹れる。備え付けのドリップマシンではなく、自分のデスクに置いてある小さなドリッパーで。朝に家で飲んだのと同じ手順を、もう一度繰り返す。同僚の山崎さんに「花田さんって本当にブラック派だよね」と言われたことがある。「砂糖入れたら? 疲れてるときは甘いほうがいいよ」。渚は「慣れちゃって」と笑って答えた。慣れた、というのは本当だった。ただ、何に慣れたのかは自分でもよくわからない。苦さに、なのか。苦くても平気な自分でいることに、なのか。

 午前中はデスクワーク。クライアント向けのレポートを仕上げ、来週のキャンペーンのクリエイティブ案について広告代理店の担当者にメールを送る。昼前にチームミーティング。渚は自分の担当案件の進捗を簡潔に報告し、他のメンバーの報告にうなずき、適切なタイミングで質問をした。

「花田さん、さっきのインサイトの切り口、すごくいいと思う」

 チームリーダーの川島がミーティングの後で声をかけてきた。渚は「ありがとうございます」と言い、少しだけ口角を上げた。褒められることに慣れている。慣れているから、それが嬉しいのかどうか、一瞬考えてから判断するようになっている。嬉しい。たぶん嬉しい。でもそれは、正しく評価されたという安堵のほうが近い。

 昼休み、渚は一人でオフィスの近くのカフェに行く。サンドイッチとアイスティー。窓際の席に座り、文庫本を開く。活字を目で追いながら、ページが進まない。文字は読んでいるのに内容が入ってこない。そういう日がある。渚はしおりを挟んで本を閉じ、代わりにスマートフォンを手に取った。LINEのトーク一覧を上から下へスクロールする。母からの「今度のお休み、いつ?」というメッセージに既読がついたまま返信していないことに気づく。あとで返そう、と思う。あとで、というのは渚にとって便利な時間の引き出しで、そこにしまったものの半分くらいは忘れてしまう。

 午後はクライアント先での打ち合わせ。渚は資料を映しながら、今月の数値と来月の施策案を説明した。クライアントの担当者——四十代の男性で、いつも腕時計をいじりながら話を聞く人——が、渚の説明の途中で口を挟む。

「それ、もう少しリーチ伸ばせないの?」

 口調は穏やかだが、数字への不満が透けている。渚は一拍置いて、「ターゲットの再設計も含めて、来週までに改善案をお持ちします」と答えた。一拍置くのは、反射的に「すみません」と言わないための間だった。この間を取れるようになるまでに、二年かかった。

 打ち合わせが終わり、オフィスに戻る電車の中で、渚はさっきの自分の受け答えを頭の中で再生していた。大丈夫だったと思う。でも、大丈夫だったかどうかを確認しないと気が済まない自分に、少し疲れる。

 十八時四十五分に退社。帰りの中央線は、朝よりも人が多い。渚はイヤフォンをして音楽を聴く。プレイリストは最近あまり更新していない。半年前に作った「夜用」というリストをそのまま流している。シューゲイザーとアンビエントが交互に入っている。音楽の趣味は誰にも話さない。話す必要がないから、というよりも、話したときの相手の反応を想像して面倒になるからだった。

 西荻窪で降り、駅前のコンビニに寄る。サラダとヨーグルトと、なんとなく棚の前で立ち止まって、グミを一つ。レジ袋は断り、エコバッグに入れる。マンションまでの道を歩きながら、空を見上げた。三月の夜空は、都会では灰色がかった紺色にしか見えない。星は見えるような、見えないような。渚はそういうことを、誰かに言いたいとは思わなかった。ただ、見上げたということだけが残る。

 部屋に入り、コートを脱ぎ、手を洗い、着替える。サラダを皿に移し、ドレッシングをかける。テレビはつけない。スマートフォンをダイニングテーブルの上に置く。画面を上にして。

 食事を終え、食器を洗い、ソファに座る。足を折り曲げてクッションを抱える姿勢が、渚の定位置だった。スマートフォンを手に取る。二十時十七分。

 LINEの通知が一件入っていた。

 宮下陸。

 渚の指が画面の上で止まる。通知バナーに表示された一行を読む。

「今週どこかで飲める?」

 それだけだった。スタンプも絵文字もない。句読点もない。宮下はいつもそうだ。短いメッセージを、前触れなく送ってくる。間隔はまちまちで、三日のこともあれば二週間空くこともある。渚はその不規則さに慣れていた。慣れている、と思っていた。

 トーク画面を開く。前回のやりとりは五日前。渚が送った「おつかれ」に、宮下が「おつかれー」と返して終わっている。その前は宮下が撮った写真——夕方の公園のベンチを斜めから撮ったもの——が送られてきて、渚が「きれい」と返している。会話の履歴をスクロールすると、こういう断片的なやりとりが点々と並んでいる。深い話はない。待ち合わせの時間と場所を決めるための事務的な連絡と、どうでもいいやりとりの間に、ときどき会って、飲んで、そのまま宮下の部屋に行く。そういう関係が半年ほど続いていた。

 付き合ってはいない。宮下はそういう言葉を使わないし、渚も確認しない。確認しないことが、二人の間の暗黙のルールになっている。渚はそのルールを自分から作ったわけではなかったが、壊そうとも思わなかった。壊したらどうなるかを想像すると、宮下が困った顔をして黙るか、あるいは笑って話をそらす場面しか浮かばなかった。

 「今週どこかで飲める?」

 渚はその一行を見つめたまま、返信を打たない。打てないのではなく、打たないことを選んでいるつもりだった。でも本当のところ、何と返せばいいのかわからないのだ。「いいよ」と返せばいい。それだけのことだ。金曜の夜に下北沢あたりで会って、焼き鳥を食べて、ビールを飲んで、宮下の撮った写真をスマートフォンで見せてもらって、少し笑って、タクシーに乗って。渚はその流れを知っている。知っていて、それを望んでもいる。望んでいるのに返信できないのは、望んでいることを認めたくないからなのか。それとも、望んでいるのかどうかが本当にはわからないからなのか。

 スマートフォンを裏返してテーブルに置く。

 立ち上がって、冷蔵庫を開ける。炭酸水のペットボトルが二本と、使いかけのバター、賞味期限が昨日のヨーグルト。渚はヨーグルトを取り出し、蓋を開け、スプーンですくって口に入れた。酸味はまだ普通だった。ゴミ箱に容器を捨て、手を洗う。

 ソファに戻り、スマートフォンを手に取る。画面をつける。二十時四十三分。宮下のメッセージはまだそこにある。既読はつけていない。渚はトーク画面を開かずに、通知バナーだけを見ている。

 こういう時間が、渚には昔からあった。誰かからの連絡に対して、自分の中で答えが決まっているのに、それを形にするまでに妙な空白が生まれる。その空白の中で、渚は自分がどう見えるかを考える。すぐに返したら軽く見えるだろうか。遅すぎたら興味がないと思われるだろうか。ちょうどいい時間というものがあるとしたら、それはいつなのか。そんなことを考えている自分が馬鹿みたいだと思いながら、やめられない。

 二十一時を過ぎた。渚はソファの上で姿勢を変え、仰向けになって天井を見た。天井の模様は入居してから三年間まったく変わっていない。当たり前のことだが、変わらないものを見ると少し落ち着く。

 スマートフォンを顔の上に持ち上げ、LINEを開いた。宮下のトーク画面。既読がつく。

 渚は「いいよ」と打った。そのあと、少し迷って「金曜は?」と続けた。送信ボタンを押す。メッセージが青い吹き出しになって画面に表示される。

 それだけのことだった。

 スマートフォンを胸の上に置き、目を閉じる。宮下がいつ返信するかはわからない。すぐかもしれないし、明日の昼かもしれない。渚はその不確定さの中に自分を置いておくことが苦手だった。待っている時間は、何もしていないのに消耗する。テレビをつけても本を読んでも、意識の端に「まだ返事が来ていない」という事実がちらついている。

 二十一時十八分。スマートフォンが振動した。

 渚は目を開け、画面を見た。

「金曜いいね 下北の前のとこにする?」

 渚は「うん」と返した。宮下から親指を立てたリアクションがついて、それで終わった。

 渚はスマートフォンをテーブルに置いた。今度は画面を上にして。

 風呂に入ろうと思って立ち上がりかけ、またスマートフォンを手に取った。宮下とのトーク画面を開き、自分が送った「いいよ」と「金曜は?」を見る。宮下の「金曜いいね」を見る。何を確認しているのかわからない。でも確認してしまう。自分の言葉が変ではなかったか。冷たすぎなかったか。かといって重すぎもしなかったか。「いいよ」は正解だったのか。もっと他に何か言うべきだったのか。

 渚はスマートフォンをソファに投げるようにして置き、浴室に向かった。

 シャワーを浴びながら、今日一日を振り返る。仕事は問題なかった。クライアントへの対応も悪くなかった。昼に読めなかった本のことを少し思い出し、明日は読めるだろうかと考えた。コーヒーを三杯飲んだ。水を飲む量が足りていない。明日はもう少し水を飲もう。そういう些細な反省と計画が、シャワーの音と一緒に流れていく。

 誠司のことを考えたのは、湯船に浸かっているときだった。考えようとしたわけではない。宮下のメッセージに返信したことと、誠司のことは何の関係もない。ないはずなのに、頭の中で二人が並んでしまう。

 田中誠司。三年付き合って、渚から別れを切り出した。二年前のことだ。理由は——渚が七海に言った言葉を借りるなら——「好きじゃなくなったから」。でもそれは正確ではなかった。好きだったかどうかもよくわからないまま三年が過ぎて、わからないことに耐えられなくなったのだ。誠司は穏やかで、優しくて、渚のことを大事にしてくれた。大事にされている実感はあった。ただ、大事にされればされるほど、自分がその愛情に見合う人間なのかどうかが不安になった。その不安を誠司に言うことはできなかったし、言ったところでどうにもならないと思っていた。

 誠司は今、別の女性と婚約している。共通の友人のInstagramでそのことを知った。写真の中の誠司は、渚が知っている顔で笑っていた。渚はその写真を長押しして保存しようとして、やめて、画面を閉じた。スマートフォンの写真フォルダの奥——「2024」というフォルダの中の「旅行」というフォルダの中に、誠司と二人で行った箱根の写真がまだ入っている。消さなかった。消す理由がないから、というのは嘘で、消すという行為に意味を持たせたくなかったのだ。深いフォルダの中にある限り、偶然目に入ることはない。存在しているけれど見えない。そういう場所に置いておくのが、渚にとっては一番楽だった。

 湯船から上がり、髪を乾かす。ドライヤーの音で何も聞こえなくなる時間が、渚は嫌いではなかった。鏡の中の自分が、温まった肌の色をしている。目の下にうっすら影がある。二十八歳。来年には二十九歳。三十歳が見えてきている。数字に意味はないと思おうとしているが、数字の周りにくっついてくる「そろそろ」とか「いつまで」とか、そういう他人の時間割が、渚の首筋に冷たい指先のように触れてくる。

 ドライヤーを止め、スキンケアをして、パジャマに着替える。ベッドに入る前に、もう一度スマートフォンを確認する。LINEに新しいメッセージはない。宮下とのやりとりは、さっきの親指のリアクションで止まっている。それでいい。それでいいのだ。

 渚はスマートフォンを充電器に繋ぎ、ベッドに入った。枕に頭を預け、目を閉じる。

 返信した直後から、また確認している自分がいた。何度画面を見ても変わらない文面を、何かが変わっていないかと確かめるように見返す。いいよ。金曜は? うん。それだけの言葉に、渚は自分のすべてを賭けているわけではない。賭けているわけではないのに、賭けたような気持ちになる。

 眠りに落ちる直前、渚はかすかに思った。明日も同じ朝が来る。コーヒーを淹れ、電車に乗り、仕事をして、帰る。そのルーティンの中に、自分がちゃんと収まっていることを確認する。ルーティンの形をした日常が、渚を支えていた。支えているのか、縛っているのか、そのどちらなのかは、考えないことにしていた。

02

第二章 おめでとうと言えた

おめでとう、と渚は言った。声が自分のものだということを、少し遅れて確認した。

 水曜日の昼休み、デスクでサンドイッチを食べているときに七海からLINEが来た。画面に表示された文字を、渚は二度読んだ。

「婚約した!!!」

 ビックリマークが三つ。七海にしては多い。そのあとに指輪の写真が送られてきた。細い指にシンプルなプラチナのリング。背景は白いテーブルクロスで、光の加減からして夜のレストランだろう。渚はその写真を拡大して見た。爪がきれいに整えられている。ジェルネイルの色はベージュピンク。七海は昔からネイルにだけは手を抜かない子だった。

「おめでとう!!すごい嬉しい」

 渚はそう返した。返してから、ビックリマークの数が適切だったかを一瞬考え、考えたことを恥じた。友人の婚約を祝うのにビックリマークの数なんてどうでもいい。どうでもいいはずなのに、考えてしまった。

 七海からはすぐに返信が来た。「ありがとう 来週あたりみんなでごはんしない? 美帆と遥も誘うから」

 みんな。渚と七海と、大学時代からの友人である鳥居美帆と長谷川遥。四人のグループ。卒業してからも年に三、四回は集まっている。誰かの誕生日、年末の飲み会、たまたま予定が合った週末。集まれば楽しい。楽しいのは本当だった。ただ、四人の中での自分の立ち位置が、年を追うごとに少しずつずれていくような感覚があった。美帆は一昨年結婚した。遥は医薬品メーカーで管理職になった。七海は婚約した。渚は——渚は、マーケティング部で四年目を迎えた二十八歳の、恋人のいない女だった。

 いない、と言い切れるかどうかはわからない。宮下がいる。でも宮下を「いる」と数えていいのかどうか、渚自身にもわからなかった。少なくとも、友人たちに紹介できるような関係ではない。紹介したら何と説明するのだろう。たまに会って飲む人。写真を撮る人。冷蔵庫にビールと柑橘系の果物しかない人。

「行く行く!楽しみ」

 渚はそう返し、スマートフォンを伏せた。サンドイッチの残りを食べ、コーヒーを飲み、午後の仕事に戻った。

 土曜日の夜、恵比寿のイタリアンに四人が集まった。

 七海が予約した店は、路地を入ったところにある小さなトラットリアで、壁にワインの瓶が並んでいる。テーブルにはキャンドルが灯っていて、七海はその光の中で、左手の薬指に光るリングを見せながら経緯を話した。

「彼がね、急にさ、今日どこか行こうって言い出して。で、お台場のほうまで車で行って、海沿いのレストランに入ったら、個室だったの。それで——」

「えっ、個室? 気づかなかったの?」美帆が身を乗り出す。

「全然。だって普通のディナーだと思ってたから。で、デザートが来たときに、お皿の横に小さい箱が置いてあって——」

「やばい、映画みたい」遥がワインを持ったまま声を上げる。

 渚は微笑みながらその話を聞いていた。七海の目が輝いている。頬が紅潮している。それはワインのせいだけではないだろう。七海は幸せそうだった。本当に幸せそうで、渚はそのことが嬉しかった。嬉しいという感情に嘘はなかった。七海は大学のゼミで出会った最初の友人で、就活の時期に二人でファミレスに籠もってエントリーシートを書き合った仲だ。社会人になってからも、渚が誠司と別れたときに最初に電話をくれたのは七海だった。夜の十一時に電話をかけてきて、「今から行こうか」と言った。渚が断ると「じゃあ明日ね」と言って、翌日の昼に渋谷のカフェで三時間、渚の話を黙って聞いてくれた。

 だから、嬉しいのだ。七海が幸せになることが、渚は本当に嬉しい。

 ただ、嬉しいのと同時に、別の何かが胸の底にある。名前をつけたくないから、渚はその感情を見ないようにしていた。見ないようにしながら、ワインを飲み、前菜のカルパッチョを食べ、七海の話に相槌を打ち、ときどき笑い、ときどき「いいなあ」と言った。

「渚は?」

 不意に七海が言った。

「何が?」

「いい人いないの、最近」

「いないよ」

 渚は即答した。即答できたことに、自分で少し驚いた。嘘ではない。嘘ではないのだが、正確でもない。宮下のことが頭をよぎったが、よぎっただけで通り過ぎた。

「えー、もったいない」美帆が言う。「花田ってモテるのにね」

「モテないよ」

「モテるでしょ。合コンとかで一番人気だったじゃん、昔」

「それ十年前の話でしょ」

 笑いが起きた。渚も笑った。十年前。二十歳のとき。確かにそういうこともあった。今はもう合コンには行かない。マッチングアプリを入れたこともあるが、三日でアンインストールした。顔写真とプロフィール文で誰かを選ぶという行為が、渚にはできなかった。選ぶ側に立つことが怖かったのか、選ばれる側に立つことが怖かったのか、今となっては区別がつかない。

「渚ってさ、誠司くんと別れてから誰とも付き合ってないの?」

 七海の声は柔らかかったが、問いは直接的だった。七海はそういう人だ。遠回しにしない。「それってさ、要するに……」と核心に向かう言い方をする。渚はそれが好きだったし、ときどき怖かった。

「うん、付き合っては、いない」

「三年も付き合ったのにね。好きじゃなくなったって言ってたけど、本当にそうだったの?」

 テーブルの上のキャンドルの炎が揺れた。美帆と遥は黙って渚を見ている。渚はワイングラスの脚を指で回しながら、少し考えた。

「好きじゃなくなったっていうか……うーん、なんだろうね。わかんなくなったんだと思う。好きなのかどうかが」

「それって好きじゃなくなったってことじゃないの?」

「そうかもしれない。でも、嫌いになったわけじゃないから。嫌いになれたら楽だったかもね」

 渚は軽く笑って、ワインを一口飲んだ。七海は少しだけ眉を寄せたが、それ以上は追わなかった。代わりに美帆が「まあ、タイミングってあるよね」と空気を柔らかくして、話題は七海の結婚式の時期に移った。

 二次会にカラオケに行こうと美帆が提案したが、遥が「明日早いから」と断り、渚もそれに便乗した。店の前で四人がそれぞれのタクシーやバスに分かれる。七海が渚の腕を軽くつかんで「今日来てくれてありがとね」と言った。渚は「当たり前でしょ」と答え、七海の手を握り返した。七海の手は温かかった。渚の手は冷えていた。三月の夜風が首筋にあたる。

「おめでとう。本当に」

 渚はもう一度言った。七海は嬉しそうに笑い、手を振って、駅のほうへ歩いていった。渚はその後ろ姿を見送りながら、コートのポケットに両手を入れた。

 恵比寿から中央線に乗り換えるために、山手線で新宿に出る。山手線のホームは土曜の夜にしては空いていた。渚はベンチに座らず、ホームの端に立って電車を待った。スマートフォンを取り出す。充電残量は四十一パーセント。さっき店の中で写真を何枚か撮った。七海と四人の集合写真。料理の写真。ワインの写真。渚はカメラロールを開き、それらの写真を見返した。

 集合写真の中の自分を見る。笑っている。目尻が下がり、口角が上がり、自然な笑顔に見える。見える、と渚は思った。見えるのだ。実際に楽しかったのだから、この笑顔は嘘ではない。嘘ではないのに、写真の中の自分がどこか他人に見える。

 山手線が来た。渚は乗り込み、ドア横に立った。車内は酔った若い男女のグループや、スマートフォンを見つめるサラリーマンや、眠っている女子高生で半分ほど埋まっている。渚は窓ガラスに目を向けた。トンネルに入ると、ガラスに車内が反射して、渚自身の顔が映る。

 その顔を見て、渚はあるフレーズを思い出した。公演後の役者の顔。どこかで読んだのか、誰かが言っていたのか、思い出せない。舞台が終わった後、楽屋で化粧を落としている役者の顔。疲労と高揚が入り混じった、しかしもう誰にも見せなくていい顔。窓に映った自分の表情が、それに似ていると思った。

 ——いま楽しかったのは本当なのに、どうして後味がこうなるんだろう。

 新宿で中央線に乗り換える。ホームの階段を上がり、下りる。この乗り換えは何百回もやっている。体が覚えている動きをなぞりながら、頭の中は別のことを考えている。

 七海が婚約した。それは喜ばしいことだ。七海の彼——名前は確か、山本さん——は七海が三年ほど前から付き合っている人で、渚も一度だけ会ったことがある。穏やかそうな人だった。七海が「この人」と決めたのなら、きっといい人なのだろう。渚はそう思おうとしている。思おうとしているのではなく、そう思っている。思っているのに、心のどこかが沈んでいる。

 沈んでいる理由を、渚は知っていた。知っていて、言葉にしたくなかった。

 比べている。

 七海と自分を。美帆と自分を。遥と自分を。結婚した人、婚約した人、管理職になった人。そして自分は。自分は何を持っているのか。1LDKの部屋と、四年目の仕事と、名前のつかない関係と、深いフォルダの中の元彼の写真。

 渚は目を閉じた。電車の揺れが体を左右に傾ける。自分が嫌になる。こういう考え方をする自分が嫌だ。友人の幸せを素直に喜べない自分が嫌だ。いや、喜んでいるのだ。喜んでいるのと同時に、沈んでいる。その両方が同時に存在することが、渚には耐え難かった。どちらか一方ならまだいい。完全に喜べるか、完全に嫉妬するか。そのどちらかなら、自分の感情をつかめる。でも両方が混ざっていると、自分がどういう人間なのかわからなくなる。

 中央線は高円寺を過ぎ、阿佐ヶ谷を過ぎた。車窓の向こうに、マンションの明かりが流れていく。渚はスマートフォンを取り出し、Instagramを開いた。何を見るでもなく、フィードをスクロールする。誰かの夜景。誰かの料理。誰かの猫。誰かの赤ちゃん。渚はそれらを見ながら、何も感じないようにしていた。何も感じないことが、こういう夜の乗り越え方だった。

 西荻窪で降りる。改札を出て、夜の商店街を歩く。飲食店からこぼれる明かりと、酔った人の笑い声。渚はイヤフォンをしていなかった。イヤフォンを取り出すのが面倒だったのか、それとも何かの音を聞いていたかったのか、自分でもわからなかった。

 コンビニには寄らなかった。部屋に着き、コートを脱ぎ、靴を揃える。手を洗い、うがいをする。リビングの電気をつけ、ソファに座る。バッグからスマートフォンを出す。七海からLINEが来ていた。

「今日ほんとに楽しかった!渚のおめでとうが一番嬉しかったよ ありがとね」

 渚はその文面を読み、「こちらこそ!幸せにね」と返した。返してから、「幸せにね」という言葉が上から目線に聞こえないか心配になったが、もう送ってしまった。既読がすぐについて、七海からハートの絵文字が返ってきた。渚もハートの絵文字を返した。

 それで、会話は終わった。

 渚はスマートフォンを置き、ソファに深く体を沈めた。天井を見上げる。見上げたまま、しばらく動かなかった。部屋は静かだった。冷蔵庫のかすかな音だけが聞こえている。

 今日、自分はちゃんとやれた。ちゃんとおめでとうと言えた。ちゃんと笑えた。ちゃんと楽しめた。ちゃんと友人として振る舞えた。「ちゃんと」の数を数えている自分がいて、渚はそのことに気づいたが、気づかなかったことにした。

 立ち上がり、洗面所に行く。コンタクトレンズを外し、メイクを落とす。クレンジングオイルで顔を覆い、指の腹でくるくると馴染ませる。ファンデーション、アイシャドウ、マスカラ。一日分の顔が溶けていく。洗い流し、タオルで拭き、鏡を見る。

 素顔の自分がいた。目の下にクマがある。頬が少しこけて見えるのは、照明のせいかもしれない。渚は鏡の中の自分をじっと見つめた。さっきの窓ガラスに映った顔とは違う。あれは暗い背景の上に浮かんだ像で、輪郭が曖昧だった。鏡の中の顔は、はっきりしている。毛穴も、眉の左右の微妙な非対称も、唇の皮がほんの少し剥けているところも、全部見える。

 公演後の役者の顔。

 その言葉がまた浮かんだ。渚は鏡から目をそらし、化粧水を手に取った。

 パジャマに着替え、ベッドに入る。枕元のスタンドライトだけ残して、部屋を暗くする。スマートフォンを見る。二十三時四十七分。宮下からの連絡はない。金曜日の約束は確定しているから、それまでは特にやりとりもないだろう。それが宮下との関係の通常運転だ。

 七海は毎日、山本さんとLINEをしているのだろう。おやすみ、と送り合って眠りにつくのだろう。渚は一瞬そういうことを想像して、すぐに頭から追い出した。想像しても意味がない。自分が望んでいるものが何なのか、それすらわからないのに、他人の関係を想像しても仕方がない。

 目を閉じる。今夜は眠れそうだと思った。疲れていた。ワインを三杯飲んだ。体が重い。まぶたが重い。

 いつから、感情より先に正解を選ぶようになったんだろう。

 その問いが、眠りに落ちかけた頭の中を通り過ぎた。今日の自分はどうだったか。おめでとうは本心だったか。本心だった。でも本心だったと確認しないと不安になるのは、なぜなのか。答えを出そうとした。出そうとしたが、思考が重力に引かれるようにほどけていき、輪郭を失い、やがて渚は眠りに落ちた。

 翌朝、日曜日。渚は八時過ぎに目を覚ました。カーテンの隙間から薄い光が入っている。しばらくベッドの中にいて、スマートフォンを見た。通知はなかった。

 起き上がり、コーヒーを淹れる。いつもと同じ手順。蒸らしの三十秒間、渚は窓の外を見た。向かいのマンションのベランダに、シーツが干してある。風でゆっくりとふくらんでいる。

 コーヒーをマグカップに注ぎ、ダイニングテーブルに座る。砂糖は入れない。ミルクも入れない。渚はブラックのコーヒーを一口飲み、昨夜のことを思い出した。七海の指輪。キャンドルの光。四人の笑い声。電車の窓に映った自分の顔。鏡の前の素顔。

 全部終わったことだった。終わったことは、もう大丈夫だった。渚はコーヒーを飲みながら、今日の予定を考えた。洗濯をして、掃除機をかけて、買い出しに行く。午後は本を読むか、ネットフリックスを見るか。金曜日には宮下に会う。それまでの日々を、渚は日々として過ごす。

 テーブルの上で、スマートフォンが振動した。七海からだった。

「昨日のみんなの写真、インスタに上げていい?」

 渚は集合写真を思い出した。あの、自然に笑って見える自分の顔。

「いいよ」

 と返した。

03

第三章 母の声の体温

電話が鳴ったとき、渚は爪を切っていた。

 火曜日の夜、二十時過ぎ。ソファの上に広げた新聞紙の上で、右手の爪を一本ずつ切っている途中だった。薬指を切り終えたところで、テーブルの上のスマートフォンが振動し、画面に「お母さん」と表示された。

 渚は爪切りを置き、スマートフォンを取った。

「もしもし」

「ごめん、今大丈夫?」

 母の声だった。花田佐和子。五十八歳。千葉県船橋市に父と二人で暮らしている。電話をかけてくるのは月に二、三回。必ず冒頭に「ごめん、今大丈夫?」と言う。渚が何をしていても、何時であっても。その言葉が先に来ることで、こちらが大丈夫と言う以外の選択肢がなくなることに、渚はずいぶん前に気づいていた。気づいていて、指摘したことはない。

「大丈夫だよ。どうしたの」

「別に大したことじゃないんだけどね」

 母はそう言いながら、大したことを話す。大したことじゃないと前置きしてから本題に入るのが母の癖で、その前置きの長さで内容の重要度がわかる。今日は短かった。

「真由んとこの颯太くんがね、今日初めて『ばあば』って言ったのよ」

「へえ、もう喋れるんだ」

「喋れるっていうか、まだほとんど単語だけなんだけどね。でも『ばあば』はちゃんと言えたの。真由が動画送ってくれたから、あとで渚にも転送するね」

「うん」

 渚は新聞紙の上に散らばった爪の切れ端を見ながら答えた。颯太は姉の真由の長男で、今年の六月で三歳になる。渚は正月に会ったきりだった。正月の颯太は、渚の顔を見て二秒ほど固まった後、母の後ろに隠れた。渚は「人見知りの時期だね」と笑ったが、甥に忘れられていることが、思ったよりも胸に触った。会う頻度が少なすぎるのだ。でも会いに行く理由を作れないまま、月日が過ぎていく。

「真由ね、最近ちょっと疲れてるみたいで」

「そうなの」

「颯太くんがイヤイヤ期っていうのかな、それに入ったみたいで。ご飯も食べないし、着替えも嫌がるし。旦那さんも忙しいでしょ。真由、一人で抱え込むタイプだから心配で」

 渚は「うん」と言いながら、姉の顔を思い浮かべた。花田真由、三十二歳。四つ上の姉。結婚四年目。夫は銀行員で、横浜のマンションに三人で住んでいる。真由は昔から要領がよく、成績もよく、友達も多く、大学は渚と同じところに指定校推薦で入った。渚は一般入試だった。そのことを気にしたことはなかったが、気にしていないと自分に言い聞かせていた可能性はある。

 真由は正解の道を歩いている——そう渚が感じていることを、渚は誰にも言ったことがない。大学を出て、就職して、二十八で結婚して、三十で出産して。順番通り。タイミング通り。真由自身はそんなことを意識していないだろう。ただ自分の人生を生きているだけだろう。でも渚から見ると、姉の人生には枠線があって、その中にきちんと色が塗られているように見える。渚の人生にも枠線はあるのかもしれないが、自分ではよく見えない。

「渚も今度、真由のとこに遊びに行ってあげてよ。颯太くんも喜ぶと思うから」

「うん、行けたら行くね」

「行けたら、じゃなくて」

「わかった。今度連絡する」

 母の声に微かな力が入った。「行けたら」で流されることを嫌がっている。渚はそれを感じ取り、「わかった」と言い直した。言い直すと母は安心したように「ありがとね」と言った。渚は新聞紙を折り畳みながら、自分がまた「ちゃんとした娘」の台詞を選んだことに気づいていた。

「渚は元気?」

 話題が移った。母が「渚は?」と聞くとき、それは単なる体調の確認ではない。その三文字の中に、仕事のこと、生活のこと、恋愛のこと、将来のこと、すべてが折り畳まれている。渚はそのことを知っている。知っていて、どこまで開くかを毎回判断している。

「元気だよ。仕事も普通だし」

「忙しいの?」

「まあ、普通に。でも残業そんなにしてないから大丈夫」

「ご飯ちゃんと食べてる?」

「食べてるよ」

「自炊?」

「半分くらいは」

 半分というのは盛っている。週に一度か二度、サラダを作ったり、パスタを茹でたりする程度で、あとはコンビニか外食だ。でも「あんまりしてない」と正直に言うと、母は心配し、心配が長くなり、最終的に「今度作り置き持っていこうか」と言い出す。渚はそれを避けたかった。母の作った料理が嫌なわけではない。母が持ってくると、部屋を見られる。部屋は片付いているから問題はないのだが、母がこの1LDKに入ると、空間が変わる。母の目で見た自分の部屋は、渚が見ている部屋とは違うものになる。何が足りないか、何が多すぎるか、それを母の基準で測られることが、渚には窮屈だった。

「仕事は順調なの?」

「うん、まあまあ」

「四年目でしょう。もうだいぶ慣れたんじゃない?」

「慣れたっていうか——うん、まあ、やることはわかってきたかな」

「昇進とかは?」

「まだそういう段階じゃないよ。うちの会社、そんなに早くないから」

 母は「そう」と言った。その「そう」には、納得と不満が半分ずつ入っているように聞こえた。母は渚の仕事の具体的な内容をよく理解していない。「マーケティング」という言葉は知っているが、渚が日々何をしているかは把握していないだろう。ただ、娘がちゃんと働いていて、ちゃんと暮らしていて、ちゃんとした将来に向かっていることを確認したいのだ。渚はその確認作業に応じる役割を、長年引き受けてきた。

「あのね」

 母の声のトーンが少し変わった。渚はソファの上で姿勢を正した。

「なに」

「別にね、これは全然、急かすつもりはないんだけど」

 この前置きの後に来る話題を、渚は予測していた。

「真由がね、この前ちらっと言ってたの。『渚はいいな、自由で』って」

 渚は黙った。

「真由は別に嫌味で言ったわけじゃないと思うのよ。真由は真由で大変だから、渚のことがちょっとうらやましいのかもしれないし。でも、お母さんも思うのよ。渚は自由でいいなって。自由なうちに、いろいろ——」

「お母さん」

「うん」

「私、自由だと思う?」

 渚は自分でもなぜそんなことを聞いたのかわからなかった。聞いた瞬間、聞かなければよかったと思った。母は少し間を置いて答えた。

「……自由じゃないの?」

「いや、自由だよ。うん、自由。好きなときに好きなことできるし」

 渚は慌てて軌道修正した。母を不安にさせたくなかった。不安にさせると、母は考え込み、数日後にまた電話をかけてきて、さらに踏み込んだ質問をする。そのサイクルを渚は知っていた。

「ならいいんだけど」母は言った。「男の人のことは、聞かないほうがいい?」

「聞いても答えることないよ」

「いないの?」

「いないよ」

 二度目の嘘——嘘なのかどうかもわからない答えを、渚はこの数日で繰り返していた。七海に聞かれたとき、そして今、母に聞かれたとき。宮下は「いる」に含まれるのか。含まれないのだとしたら、宮下とは何なのか。何でもないのだとしたら、金曜日に会いに行く自分は何をしているのか。渚はその問いを頭の隅に押しやり、母との会話を続けた。

「お見合いとかは——」

「しないよ」

「最近はアプリとかもあるんでしょ? 美帆ちゃんのお母さんが——」

「お母さん」

「はい」

「大丈夫だから」

 渚の声は穏やかだったが、境界線を引いていた。母はそれを感じ取ったのか、「そうね」と引き下がった。引き下がるとき、母はいつも少し声が小さくなる。渚はその小さくなった声を聞くたびに、罪悪感に似たものを覚える。母は心配しているだけなのだ。娘が幸せかどうか知りたいだけなのだ。その気持ちを拒絶しているわけではない。ただ、母の心配に応えるために「幸せです」と言えるだけの材料が、渚の手元にはなかった。

「お父さんは元気?」

 渚は話題を変えた。

「元気よ。相変わらず。最近ゴルフばっかり。土日はほとんど家にいないの」

「それは前からでしょ」

「前からだけど、退職したら少しは家にいるかと思ったのに。朝早く出てって、夕方帰ってきて、ビール飲んで寝る。会話なんてほとんどないのよ」

 母の愚痴は以前から同じ内容だった。渚はそれを聞きながら、適切な相槌を打つ。「そうなんだ」「大変だね」「たまには二人でどこか行けばいいのに」。母は「そうなのよ」「大変なのよ」「行こうって言っても乗り気じゃないのよ」と返す。この会話は台本があるように毎回同じ構造で進む。渚はその台本通りに自分の役割を果たしながら、心のどこかで、両親の関係を外から見ている自分に気づいている。三十年以上一緒にいて、会話がなくなって、それでも離れない二人。それは愛情なのか、惰性なのか、依存なのか。渚にはわからない。わからないが、自分がいつかああなる可能性について考えると、胸の奥が重くなる。ああなるためには、まず誰かと三十年を始めなければならないのだが。

「渚、聞いてる?」

「聞いてるよ」

「最近ぼーっとしてない? ちゃんと寝てる?」

「寝てるよ。七時間は寝てる」

「七時間? もう少し寝たほうがいいわよ。お肌にも——」

「お母さん、私もう二十八だよ」

「二十八だから言ってるのよ」

 母の声に笑いが混じった。渚も少し笑った。こういう瞬間は嫌いではなかった。母の小言は面倒だが、その奥にある体温は確かに感じる。電話越しの声は、対面よりもむしろ温度が伝わりやすいのかもしれない。余計な視覚情報がない分、声の質感だけが耳に届く。母の声は少ししゃがれていて、語尾が柔らかく下がる。この声で「大丈夫?」と言われると、大丈夫ではなくても大丈夫だと答えたくなる。

「じゃあね、また電話するから」

「うん」

「体に気をつけてね。無理しないで」

「わかった」

「あ、あとね——」

「うん?」

「今度の日曜、空いてたら家に来ない? 桜、もうすぐ咲くから。近所の公園の桜がきれいなのよ。真由たちも来るかもしれないし」

「うーん、日曜か。ちょっと予定見てみる」

「また『行けたら』でしょう」

「そうじゃなくて。本当に見てみる」

「はいはい」

 母の「はいはい」は諦めではなかった。待つ、という意思表示だった。母はいつも待っている。渚の返事を、渚の決断を、渚が自分から何かを言い出すのを。渚はその「待たれている」という感覚が、ときどき息苦しかった。期待されているのとは少し違う。ただそこにいる、という圧。悪意はない。善意しかない。善意だからこそ、退けない。

「おやすみなさい」

「おやすみ。渚」

「うん」

「——元気でね」

 母はそう言って電話を切った。渚は「元気でね」の余韻が耳に残ったまま、スマートフォンをテーブルに置いた。

 部屋が静かだった。

 さっきまで母の声で満たされていた空間が、急に広がったような、あるいは縮んだような、奇妙な感覚があった。渚はソファに座ったまま、しばらく動かなかった。テレビのリモコンに手を伸ばしかけて、やめた。音楽をかけようかと思って、やめた。何もしない時間が、電話の直後には必要だった。

 安心している。母の声を聞くと安心する。それは確かだった。船橋に両親がいて、横浜に姉がいて、自分は西荻窪にいる。それぞれが別の場所で暮らしていて、電話で繋がっている。その距離感は渚にとってちょうどいいはずだった。ちょうどいいと思って選んだ距離だった。

 でも電話を切った後に感じるのは、安心だけではなかった。息苦しさ、と呼ぶには大げさだが、胸のあたりが少し重い。母の声を聞いている間、渚は「花田家の次女」に戻る。ちゃんとした娘。心配をかけない娘。元気で、仕事もして、ご飯も食べて、ちゃんと寝ている娘。その役割を演じているつもりはなかった。ないのだが、電話が終わると、何か一枚脱いだような感覚がある。脱いだのは何だろう。鎧ではない。もっと薄いもの。しわのない、きれいにアイロンのかかったシャツのようなもの。

 渚は立ち上がり、キッチンに行った。コップに水を注ぎ、飲む。冷たい水が喉を通っていく感覚に意識を集中する。母のことを考えるのを止めるために、体の感覚に頼る。渚にはそういう癖があった。考えたくないことがあるとき、手を動かすか、水を飲むか、歩く。思考を体に預けて、頭を空にする。

 コップを洗い、ふきんで拭き、棚に戻す。一連の動作を丁寧にやる。丁寧にやることで、何かをコントロールしている気持ちになる。自分の手が動いている。自分の意志で動いている。それだけのことが、こういう夜には支えになる。

 リビングに戻ると、スマートフォンの画面が光っていた。LINEの通知。渚は画面を見た。

 宮下陸。

「金曜、19時で大丈夫? 下北のあの焼き鳥屋」

 渚はその文面を読み、少し間を置いてから返信した。

「大丈夫。19時ね」

 宮下から「おk」と返ってきた。それだけだった。いつもそうだ。宮下との連絡は短い。用件だけが行き来する。その簡潔さが楽だと感じていた時期もあった。今も楽だと思っている。ただ、楽だと感じることに、ときどき不安がよぎる。楽なのは、何も求めていないからなのか。求めないから楽なのか。求めたいのに求めていないから、楽だと思い込んでいるのか。

 金曜日に宮下に会う。焼き鳥を食べて、ビールを飲む。宮下は最近撮った写真を見せてくれるだろう。渚はそれを見て何か感想を言うだろう。宮下は「それ、撮っていい?」と言って渚の横顔を撮るかもしれない。渚はそれを断らない。撮られることは嫌いではない。宮下のカメラの中に自分がいることは、ある種の安心感がある。自分がそこにいたという証拠が、誰かの手の中に残る。

 でもその安心感は、本当の安心なのだろうか。

 渚は思考を止めた。止めて、切りかけのまま放置していた右手の爪を思い出した。新聞紙はもう折り畳んでしまった。新しく広げるのが面倒で、洗面所に行き、洗面台の上で残りの爪を切った。小指の爪を切るとき、深爪しそうになってびくっと手を引いた。少し痛い。血は出ていない。切った爪を水で流す。排水口に消えていく小さな白い欠片を見て、渚はなぜか母の声を思い出した。「体に気をつけてね」。

 部屋に戻り、ベッドの準備をする。枕の位置を直し、布団をめくり、スマートフォンを充電器に繋ぐ。充電残量は三十四パーセント。一日の終わりは、いつも四十パーセントを切っている。自分もそうかもしれない、と思った。一日の終わりには、何かが四十パーセントを切っている。何の四十パーセントなのかはわからない。

 ベッドに入る。仰向けになって、天井を見る。

 真由は「渚はいいな、自由で」と言ったらしい。自由。その言葉の響きは、誰が言うかによって温度が変わる。真由が言う「自由」は、選択肢がある、ということだ。まだ何にも縛られていない、ということだ。でも渚にとっての自由は、何にも繋がれていない、ということに近い。繋がれていないことと縛られていないことは、傍から見れば同じだが、中にいる人間の体感は違う。

 母の「ごめん、今大丈夫?」が頭の中で反響している。あの言葉は謝罪ではない。許可を求めているのでもない。ただの挨拶だ。でもあの挨拶を聞くたびに、渚は「大丈夫」と答える自分を用意しなければならない。大丈夫ではない夜にも、大丈夫と言う。大丈夫じゃないと言ったことが、この十年でどれくらいあっただろう。たぶん、一度もない。

 横向きになる。枕に頬を押しつけ、目を閉じる。金曜日のことを考える。宮下の顔を思い浮かべる。三十二歳。少し長めの髪。黒いTシャツの上にカーキのジャケット。笑うと目が細くなる。笑わないときは、何を考えているかわからない顔をしている。渚はその「わからなさ」に惹かれたのかもしれない。わからない人のそばにいると、自分もわからなくていい気がする。お互いにわからないまま、隣にいる。それは楽だ。楽だが、寂しい。寂しいが、楽だ。

 渚の意識がまどろみに沈みかけたとき、母の声がもう一度浮かんだ。「元気でね」。あの最後の一言は、いつもの「体に気をつけて」とは少し違っていた。何が違うのかはうまく説明できない。ただ、「元気でね」は願いのように聞こえた。命令でも確認でもなく、祈りに近い何か。渚は布団の中で唇を動かした。

 お母さん。

 声には出さなかった。出さなかったが、その三文字が口の中に残った。お母さん、と呼ぶ声が自分でも子どもっぽく聞こえた。二十八歳になっても、暗い部屋の中でその言葉を思い浮かべると、十歳の自分に戻ったような心もとなさがある。それが恥ずかしくて、渚はそれ以上何も考えないようにした。

 明日は水曜日。週の真ん中。金曜日まであと二日。渚はそのカウントダウンに小さな期待を感じている自分に気づき、期待していることにまた少し怯えた。期待するということは、がっかりする可能性を受け入れるということだ。渚はがっかりすることが苦手だった。苦手というより、怖い。がっかりしたとき、自分が何をするかわからないから。何もしない、ということをするのだ。何も感じなかったふりをして、いつも通りの顔で、いつも通りの生活を続ける。それが渚の処世術であり、護身術であり、たぶん一番の弱点だった。

 眠りは、考えるのをやめた後に来た。唐突に、足元から引きずり込まれるように。渚の最後の意識は、母の声でも宮下の顔でもなく、朝に飲むコーヒーの味だった。明日もあの苦さから一日が始まる。砂糖は入れない。ミルクも入れない。それだけが決まっていて、あとのことは何も決まっていない。何も決まっていないことが自由なのだとしたら、渚は確かに自由だった。その自由の中で、渚は目を閉じたまま、少しだけ息を吐いた。

04

第四章 保留という親密さ

宮下陸は、渚の知っている男の中で、いちばん静かにドアを閉める人だった。

 金曜日の夜、荻窪の居酒屋で飲んだ。宮下が選んだ店だった。カウンターだけの、八席しかない店で、壁にはマジックで書かれたメニューが画鋲で留めてある。焼き鳥と日本酒がうまいらしい。宮下はこういう店を知っている。渚が自分では絶対に入らないような、看板のない、階段を降りた先にあるような店を。

 「最近どう」と宮下が聞いた。

 「どうって」

 「仕事とか」

 「普通。忙しいけど、まあ普通」

 宮下はハイボールのグラスを傾けながら、ふうん、と言った。その「ふうん」の音程が少しだけ上がるのが、興味がないわけではないが深入りもしない、という宮下なりの距離の取り方だった。渚はもうそれを知っている。一年半も経てば、相手の相槌の温度くらいはわかるようになる。

 「七海が婚約した」と渚は言った。

 「へえ。あの、よく飲みに行ってた子?」

 「うん」

 「おめでとうだね」

 宮下は自分の焼き鳥の皿から砂肝をつまんで食べた。それだけだった。それ以上聞かない。渚がどう思っているか、寂しくないか、焦っていないか、そういうことを聞かない。聞かないのが優しさなのか、興味がないのか、それとも聞いたら自分にも何かが返ってくると思って避けているのか。たぶん全部が少しずつ混ざっている。

 「陸は最近なに撮ってるの」

 「んー、この前、朝の四時に多摩川行って、橋脚撮ってた」

 「橋脚」

 「うん。光がさ、ちょうど水面に反射して、橋脚の裏側だけ明るくなる時間帯があるんだよ。十五分くらいしか続かないんだけど」

 渚はそれを想像してみた。まだ暗い河川敷に一人で立って、橋の裏側に光が当たる十五分間をじっと待つ宮下陸。その姿は好きだと思った。そういう、誰にも見せるつもりのない時間を持っている人のことを、渚は好きだと思う。ただ、その「好き」がどういう種類のものなのか、一年半経っても正確にはわからなかった。

 二軒目は行かなかった。宮下が「飲み足りないけど、外寒いな」と言い、渚が「うち来る?」と言い、宮下が「いいの?」と聞き、渚が「ビールくらいあるよ」と答えた。

 このやりとりを、二人は何度繰り返しただろう。台詞は毎回少しずつ違うが、構造は同じだ。どちらかが提案し、どちらかが確認し、どちらかが受け入れる。そこに断る選択肢があったことは一度もない。最初からそうなることがわかっている夜を、わざわざ手順を踏んで進めていく。その手順の丁寧さが、二人の関係の全部だった。

 渚の部屋は西荻窪駅から歩いて八分のところにある。1LDKで、築二十三年のマンションの四階。エレベーターはない。階段を上がるとき、宮下は渚の二段うしろを歩いた。追い抜かない。並ばない。二段うしろ。その距離を渚は背中で感じていた。

 部屋に入ると、渚はまずエアコンをつけた。三月の夜は中途半端に寒い。コートを脱いで、ハンガーにかける。宮下は玄関で靴を揃えてから上がる。何度来ても靴を揃える。渚の部屋を自分の場所だと思っていない人の所作だった。

 冷蔵庫からビールを二本出した。アサヒのスーパードライ。宮下は銘柄にこだわらない。出されたものを飲む。渚はグラスに注ごうとして、宮下が「缶でいいよ」と言うのを待ってから、缶のまま渡した。これも毎回同じだ。

 リビングのソファに並んで座った。テレビはつけない。宮下はスマホを出して、昼間に撮った写真を見せてくれた。橋脚の写真ではなく、猫の写真だった。商店街の魚屋の前に座っている三毛猫。光の加減がよくて、猫の目が琥珀色に透けている。

 「いい顔してるね」と渚が言った。

 「この猫、いつもここにいるんだけど、撮らせてくれたの初めてなんだよ。いつもは逃げる」

 「信頼されたんだ」

 「どうかな。たぶん、眠かっただけだと思う」

 宮下はそういうふうに言う。自分が選ばれた、とは言わない。偶然だった、タイミングがよかった、相手の都合だった、と言う。それが謙虚なのか、本当にそう思っているのか、あるいは選ばれることを引き受けたくないのか。渚にはわからない。

 「写真ってさ」と宮下がビールを飲みながら言った。「基本的に引き算なんだよ」

 「引き算?」

 「うん。何を撮るかじゃなくて、何を撮らないか。フレームの外に何を置くかで決まる。足していくと散漫になるだけでさ」

 渚はその言葉をぼんやりと聞いていた。引き算。何を入れないかで決まる。それは写真の話なのか、それとも。

 「渚は足し算の人だよね」と宮下が言った。

 「え?」

 「仕事の話とかしてるとき、あれもこれもって考えるタイプでしょ。全部カバーしたい、みたいな」

 「……そうかも」

 宮下はそれ以上何も言わなかった。渚も聞かなかった。足し算の人。それは褒められているのか、分析されているのか。宮下は時々こういう、渚の輪郭に触れるようなことを言う。でも触れるだけで、掴まない。形を確かめるように指先を沿わせて、そのまま離す。

 二本目のビールを開けたあたりで、会話が途切れた。途切れた、というより、言葉がなくても平気な時間に移行した。宮下がスマホで何かを見ている。渚はソファの背にもたれて天井を見ていた。

 沈黙が怖くないのは、この人とだけだった。

 誠司とは、沈黙が来ると渚の方が先に何かを言った。場を埋めなければいけないと思っていた。黙っていると、自分がつまらない人間だと思われる気がして。でも宮下とは黙っていられる。それは楽だった。楽だった、のだと思う。

 ただ、その楽さは、信頼から来ているのか、諦めから来ているのか、渚にはわからなかった。

 宮下が渚の髪に触れたのは、三本目のビールの途中だった。ソファに座ったまま、右手で渚の左耳の後ろの髪をすくうように触った。渚は動かなかった。

 「切った?」と宮下が聞いた。

 「先週。三センチくらい」

 「似合う」

 その二文字を言うときの宮下の声は低くて、少しだけ乾いていた。渚はその声の質感を知っている。この先どうなるかを知っている声。渚は宮下の方を向いた。宮下の目は暗い茶色で、酔っているせいか少し潤んでいた。渚はその目を見て、自分が何を求めているのかを考えた。

 この人に欲しいと思われたい。

 その欲求は、性欲とも恋愛感情とも少しずれたところにあった。自分の体が、この人の視界の中心にあること。この人の手が自分に伸びてくること。それを確認するたびに、渚の中の何かが一瞬だけ満たされる。水を含んだスポンジのように。でもすぐに乾く。いつも、すぐに。

 渚は宮下の手首に自分の手を重ねた。

 寝室に移動したのは自然な流れだった。渚がベッドサイドの間接照明だけをつけた。宮下がコンタクトを外したいと言って洗面所に行った。その数十秒の間に、渚は枕元のティッシュの位置を確認し、充電中のスマホを裏返し、昨日洗ったばかりのシーツの匂いを一瞬だけ確かめた。

 こういう準備を自分がしていることを、渚は嫌だとは思わなかった。ただ、この準備の手際のよさが、自分が何回この夜を繰り返してきたかの証拠のような気がして、少しだけ口の中が苦くなった。

 宮下はコンタクトを外すと目が少し小さくなる。裸眼の宮下は、いつもより幼く見える。その顔を、渚は好きだった。

 宮下の手は丁寧だった。丁寧で、慣れていて、渚のことをよく知っていた。一年半の間に学習した渚の体の地図を、宮下は正確にたどる。左の鎖骨の下。右の腰骨の上。耳の後ろ。それは心地よかった。確かに心地よかった。でも渚は、その心地よさの奥にある空洞を、いつも同時に感じていた。

 欲しいと言われたい。もっと。もっとはっきりと。

 宮下は多くを言わない。息遣いと、時折漏れる短い声と、渚の名前を一度だけ呼ぶ。それだけだった。渚はもっと言葉が欲しいと思っている。好きだと言ってほしいとか、そういうことではなく。自分がここにいることを、声で確かめたかった。

 終わった後、宮下は仰向けになって天井を見ていた。渚は横向きで宮下の肩のあたりを見ていた。宮下の肩には小さなほくろが三つあって、三角形を描いている。渚はそれを一年半前の最初の夜に見つけて、今でも毎回確認している。まだある。まだ同じ場所に。

 「シャワー借りていい?」と宮下が聞いた。

 「うん」

 宮下が浴室に消えている間、渚はベッドの中で膝を抱えた。シャワーの音を聞いていた。水音はいつも同じだ。誰が浴びていても、シャワーの音は同じ。でも今この音を立てているのは宮下で、さっきまで渚の隣にいた人で、もう少ししたらここからいなくなる人だった。

 宮下は泊まらない。

 正確に言えば、泊まることもある。十回に二回くらい。でも今夜は金曜日で、宮下は土曜の朝に打ち合わせがあると言っていた。だから帰る。渚はそれを、二軒目に行かなかった時点でわかっていた。

 シャワーから上がった宮下は、渚のバスタオルで体を拭いた。洗面所に宮下用のタオルを置いたことはない。置いたら何かが変わってしまうような気がして、渚は自分のタオルを共有させている。それは親密さなのか、線を引いているのか、自分でもわからない。

 宮下が服を着る姿を、渚はベッドの中から見ていた。Tシャツを頭からかぶる動作。ジーンズのボタンを留める指。ベルトを通す手つき。それらの動きに迷いがないことが、渚を少しだけ傷つけた。立ち去ることに逡巡がない人の動作だった。

 「コーヒーでも淹れようか」と渚は言った。引き止めるつもりはなかった。たぶん。

 「いや、大丈夫。明日早いし」

 「そっか」

 宮下がリビングに戻って、ソファの上に置いていた上着を取った。黒いマウンテンパーカー。左ポケットのファスナーが少し壊れていて、完全に閉まらない。渚はそれを前に指摘したことがあるが、宮下は直していない。

 「今日、ありがとう」と宮下が言った。

 ありがとう。渚はその言葉の温度を測った。何に対してのありがとうなのか。飲みに付き合ってくれて。部屋に上げてくれて。一緒に寝てくれて。全部が含まれている言葉のはずなのに、どれも正確には指していない。「ありがとう」は便利な言葉だ。何も言わないことと、ほとんど同じくらい。

 「うん。気をつけてね」

 渚は玄関まで見送った。宮下はスニーカーを履いて、ドアを開けた。三月の夜気が入ってきた。冷たかった。宮下が「じゃあ」と言い、渚が「じゃあね」と返した。

 宮下はドアを静かに閉めた。カチャ、という小さな音だけ。乱暴に閉める人は自分の存在を残していく。静かに閉める人は、何も残さずに去っていく。

 渚はドアに鍵をかけた。チェーンもかけた。それからリビングに戻って、テーブルの上を見た。ビールの空き缶が三本。宮下のが二本、渚のが一本。宮下が使ったグラス——結局、途中からグラスに移していた——にはビールの泡の跡が筋になって残っていた。

 ソファに座った。宮下が座っていた場所に。クッションがまだ少しへこんでいた。ほんのわずかに温かい気がした。気のせいかもしれない。

 スマホを見た。LINEの通知はなかった。宮下は帰り道にLINEをしない人だった。「着いた」も言わない。渚もそれを求めない。求めたら何かが壊れる気がしていた。何が壊れるのかは具体的にはわからないが、今あるものの均衡が崩れる。保留されている何か。名前のついていない何か。

 寝室に戻った。シーツを替えるかどうか迷って、替えなかった。宮下の匂いが残っていた。柑橘系のシャンプーの匂い。渚は自分がラベンダーのシャンプーを使っていることを思い出した。混ざった匂いがする。二人分の。

 以前、宮下の部屋に行ったことがある。中野坂上のワンルーム。仕事場兼自宅で、デスクの上にモニターが二台と、カメラが三台並んでいた。冷蔵庫を開けたら、ビールとグレープフルーツと、すだちが入っていた。それだけだった。渚は笑って、「ビールと柑橘しかないじゃん」と言った。宮下は「生きていけるよ、これで」と答えた。

 あの冷蔵庫のことを、渚は時々思い出す。必要最低限のものしか置かない人。引き算の人。フレームの外に何を置くかで決める人。渚は宮下のフレームの中に入っているのだろうか。それとも、意図的に外に置かれているのだろうか。

 布団に潜った。目を閉じた。さっきの宮下の手の感触がまだ残っていた。左の鎖骨の下。右の腰骨の上。正確な手。でもその正確さが時々怖い。渚の体を知っているということと、渚を知っているということは、違う。

 宮下は「次いつ会う」を言わなかった。

 渚も聞かなかった。

 聞けなかった、のではない。聞いてはいけない、と思っていた。聞いた瞬間に、この関係に輪郭が生まれる。輪郭が生まれたら、名前をつけなければならなくなる。名前をつけたら、それを失う可能性が生まれる。失う可能性が生まれたら、渚は怖い。

 だから保留する。いつも保留する。保留している間は失わない。保留している間は、傷つかない。そういうことにしている。

 でも保留って何だろう、と渚は思った。保留しているのは関係なのか、感情なのか、それとも自分自身なのか。

 眠れなかった。

 起き上がって、キッチンに行った。水を一杯飲んだ。時計を見たら午前二時十七分だった。テーブルの上のビールの空き缶をまとめてゴミ袋に入れた。宮下が使ったグラスをシンクに持っていった。

 スポンジに洗剤をつけて、グラスを洗った。泡の跡がきれいに落ちていくのを見ていた。グラスが透明に戻っていく。宮下がここにいた証拠が消えていく。

 すすいで、水切りカゴに伏せた。手を拭いた。

 これに名前をつけなければよかった、と思ったのか、つければよかった、と思ったのかわからなかった。

 渚はもう一杯水を飲んで、寝室に戻った。今度は少しだけ眠れそうな気がした。枕に顔をうずめた。柑橘とラベンダーが混ざった匂いがした。どちらのものでもない、二人の間にだけ存在する匂い。

 それが消えるまでに何日かかるかを、渚は数えたことがない。数えたら、何かを認めなければならない気がしたから。

05

第五章 婚約パーティーの夜

七海は白いブラウスを着ていて、それが似合っていた。似合っていることが、渚にはちゃんとわかった。

 婚約パーティーと言っても大げさなものではなかった。代官山のイタリアンレストランの半個室を借りて、十五人ほどの集まり。七海と婚約者の翔太、双方の友人と、翔太の同僚が数人。渚は七海側の友人として呼ばれていた。

 渚は紺色のワンピースを着ていった。膝下丈の、シンプルなもの。三十分迷って選んだ。華やかすぎず、地味すぎず。主役を立てながら、でも自分もちゃんとしている、という絶妙なところを狙った。そういう計算を無意識にしている自分を、渚は嫌いではなかった。少なくとも表面上は。

 会場に着くと、七海が入り口で待っていた。

 「渚! 来てくれてありがとう」

 七海は渚を抱きしめた。香水の匂いがした。いつもと違う、少し甘い香り。

 「おめでとう、七海」

 「ありがとう。ねえ、今日めっちゃ可愛い。その色似合うよ」

 「ありがとう」

 七海の褒め方はいつも率直で、だから信じられた。この人は嘘を言わない。お世辞も言わない。似合わなければ何も言わない。だから「似合う」と言われたら本当に似合っている。渚はそのことに安心した。小さな、取るに足りない安心だった。でも渚にはそういう小さな安心の積み重ねが必要だった。

 翔太は三十一歳で、メーカーの営業をしている人だった。背が高くて、笑うと目が細くなる。七海が「それってさ、要するに、いい人ってこと」と紹介したとき、翔太が照れくさそうに笑ったのを渚は覚えている。いい人。七海が選ぶ人はいい人なのだ。

 席はくじ引きで決まった。渚の左隣には七海の大学時代の友人である女性が座り、右隣には翔太の友人の男性が座った。

 「加藤です。翔太とは大学のサークルが一緒で」

 「花田です。七海とは高校からの友達で」

 加藤という男は三十歳くらいに見えた。丸い眼鏡をかけていて、グレーのジャケットを着ている。IT系の会社でエンジニアをしているらしい。渚と同じ業界だった。

 「マーケティングですか。じゃあ、エンジニアが作ったものを売る側ですね」

 「そうですね。作る人がいないと始まらないので」

 「いやいや、売ってくれる人がいないと意味ないですから」

 社交辞令の往復。渚はこういう会話が得意だった。相手の言葉を受け取って、少し上乗せして返す。場が円滑になるように、自分の角度を微調整する。仕事でもプライベートでも、渚はずっとそうしてきた。

 料理が運ばれてきた。前菜の生ハムとルッコラのサラダ。パスタが二種類。メインは肉か魚を選べる。渚は魚を選んだ。加藤も魚だった。

 「魚派ですか」と加藤が言った。

 「今日は、なんとなく」

 「僕もなんとなくです。なんとなく同士ですね」

 悪くない会話だった。加藤という人は、押しつけがましくなく、でも沈黙を放置もしない、ちょうどいい距離感で話す人だった。渚はそれを心地よいと思った。

 途中で七海と翔太のスピーチがあった。翔太が先にマイクを持ち、七海との出会いから婚約までを簡潔に話した。そのあと七海が「それってさ、要するに、運命だったってことだよね」と笑い、会場が温かい笑いに包まれた。渚も笑った。本当に笑えた。七海が幸せそうで、それはよかった。

 よかった、と思う自分と、その「よかった」の下に薄く広がっている別の感情と。渚はそれを見ないようにした。今夜は見ないでいい。今夜は七海の夜だ。

 食事が進むにつれて、席を移動する人が増えた。渚は自分の席にいた。加藤も同じ席にいた。

 「花田さんは、西荻窪にお住まいなんですか」

 「はい。駅から少し歩きますけど」

 「いいところですよね。商店街が好きで、たまに行きます」

 「え、そうなんですか」

 渚は少し驚いた。西荻窪の商店街にわざわざ来る人は珍しい。

 「古本屋が好きで。西荻って個人の古本屋多いじゃないですか。あと、あのカレー屋。名前忘れちゃったんですけど、路地入ったところにある」

 「ああ、たぶん知ってます。黄色い看板の?」

 「そうそう。あそこのキーマカレーがすごくおいしくて」

 会話は自然に流れていった。古本屋の話から読書の話になり、お互いの仕事の話になり、翔太と七海の馴れ初めの話に戻り、また別の話題に移った。加藤はよく笑う人だった。渚の言葉にちゃんとリアクションをくれる人だった。

 渚はワインを三杯飲んでいた。少し酔っていた。酔うと、渚は普段より少しだけ声が高くなる。少しだけ笑いやすくなる。少しだけ、相手の目を長く見る。

 加藤の目がときどき渚の鎖骨のあたりに落ちるのを、渚は気づいていた。紺色のワンピースは胸元が少し開いている。意図したわけではない。でも、意図していなかったと言い切る自信もなかった。

 見られている。

 その感覚が、渚の中の何かを落ち着かせた。宮下と会った翌週の土曜日。宮下からはあの夜以降LINEが来ていない。渚からも送っていない。いつものことだ。いつものことなのに、いつもと同じように、少しだけ心もとない。

 加藤の視線は、宮下の視線とは違った。宮下の目は渚を見るとき、観察している目だった。美しいものを見るときの、少し離れた目。加藤の目は、もっと素朴だった。興味がある人を見る目。好意を隠しきれていない目。

 渚はそれを受け取っていた。能動的に求めたわけではない。でも、拒んでもいなかった。加藤の視線を浴びながら、渚は不思議な安堵を感じていた。自分はまだ見てもらえる側にいる。選ばれる可能性のある場所にいる。

 二次会には行かないことにした。七海が「渚も来なよ」と言ったが、「明日早いから」と断った。嘘だった。明日は日曜で、何も予定はない。

 加藤が「よかったら連絡先交換しませんか」と言った。渚は少し迷ってから、LINEのIDを教えた。迷ったのは本当だった。でも断る理由も見つからなかった。断る理由がないことを理由にして、受け入れた。

 レストランを出て、代官山の坂を下りながら、渚は春の夜気を吸った。三月中旬の風は、冬の名残と春の予感が混ざっていた。コートのボタンを上まで留めた。

 駅に向かって歩きながら、スマホを取り出した。LINEを開いた。宮下とのトーク画面。最後のやりとりは一週間前の金曜日の夜、「じゃあね」で終わっている。渚が送った「じゃあね」。既読がついている。返信はない。

 渚は文字を打った。

 『今日、七海の婚約パーティーだった』

 送る必要はなかった。宮下に報告する義務はない。宮下は七海のことをほとんど知らない。名前と、渚の親友であるということくらい。それなのに渚はこのメッセージを送ろうとしている。

 理由はわかっていた。加藤の視線を浴びたあとで、宮下に連絡したくなっている。別の人に見られたことで、宮下のことを思い出している。それは何なのか。罪悪感ではない。渚と宮下は付き合っていないのだから、罪悪感を覚える理由がない。嫉妬でもない。自分が嫉妬されたいのか、自分が嫉妬しているのか、どちらでもない。

 ただ、確かめたかった。宮下がまだそこにいることを。

 送信ボタンを押した。

 電車に乗った。土曜の夜の井の頭線は混んでいた。つり革につかまりながら、スマホの画面を見ていた。既読はつかなかった。宮下は土曜の夜に何をしているのだろう。写真の整理をしているかもしれない。誰かと飲んでいるかもしれない。別の女の部屋にいるかもしれない。その可能性を考えると、胃のあたりがきゅっと縮まった。

 付き合っていないのだから、宮下が誰といても渚に文句を言う権利はない。それはわかっている。わかっているのに、この感覚は何だろう。所有欲とも違う。もっと、もっと生々しいもの。自分が唯一ではないかもしれないという可能性に触れたときの、あの底冷えのする感覚。

 渚は窓に映る自分の顔を見た。紺色のワンピース。少し落ちかけたリップ。耳元の小さなピアス。今夜の自分は悪くなかった。加藤が鎖骨のあたりを見ていたのだから、悪くなかったはずだ。

 でも、悪くないことと、十分であることは違う。

 西荻窪で降りた。改札を出て、商店街を歩いた。土曜の夜十時半、まだ何軒かの店に明かりがついている。渚は加藤が話していたカレー屋の前を通った。黄色い看板。もう閉まっていた。

 歩きながら、もう一度スマホを見た。既読はまだつかない。渚はトーク画面を閉じて、加藤から届いたメッセージを見た。

 『今日はお話できて楽しかったです。西荻窪のカレー屋、今度行きたいです。よかったらご一緒しませんか』

 丁寧な文面だった。誠実そうだった。渚はそのメッセージをスクリーンショットするでもなく、返信するでもなく、ただ読んだ。読んで、スマホをポケットにしまった。

 帰り道、信号待ちをしているときに宮下からの返信が来た。

 『おつかれ。楽しかった?』

 三文字。渚は立ち止まった。その三文字を読んで、胸のどこかがゆるんだのを感じた。宮下はまだそこにいる。まだ返信をくれる。まだ渚のことを認識している。

 それだけのことで安堵している自分が、渚には見えていた。見えていて、なお止められなかった。

 『うん、楽しかったよ』と返した。

 嘘ではなかった。楽しかった。七海の笑顔は本物で、翔太はいい人で、料理はおいしかった。加藤は感じのいい人だった。楽しかった。でも「楽しかった」の底には、別の感触が沈んでいた。

 家に着いた。ドアを開けて、靴を脱いで、コートを脱いで、電気をつけた。一人の部屋の匂い。自分だけの匂い。先週は宮下のシャンプーの匂いがした寝室も、もう渚の匂いしかしなかった。

 洗面所で化粧を落とした。クレンジングオイルでマスカラを溶かしながら、鏡の中の自分を見た。化粧を落としていく顔。描かれたものが消えていく顔。素顔の渚。この顔を、宮下は知っている。誠司も知っていた。加藤は知らない。

 知られていることと、見られていることは違う。

 今夜、加藤に見られていたのは渚の表面だった。紺色のワンピース、少し開いた胸元、笑うと上がる声。それは渚が作ったものだった。意図して作ったわけではないが、長い時間をかけて磨いてきた表面。感じがよくて、落ち着いていて、でも隙がないわけでもない渚。

 その表面を見て加藤は興味を持ってくれた。それは悪いことではないはずだ。でも渚は知っている。表面を見て近づいてきた人は、中身を見たときに離れていく可能性がある。その可能性が渚を怖がらせる。だから渚はいつも、表面だけを差し出して、中身は渡さない。中身を渡さない限り、本当には傷つかない。

 パジャマに着替えて、ベッドに入った。スマホを見た。宮下からの返信はもう来ていなかった。渚の『楽しかったよ』で会話は終わっている。宮下は「何が楽しかった?」とも「誰がいた?」とも聞かない。渚の報告を受け取って、おしまい。それが宮下だった。

 加藤からのメッセージにはまだ返信していなかった。カレー屋に行きませんか。返信した方がいい。今夜のうちに。でも渚は返信しなかった。

 返信しない理由を、渚は考えた。加藤に興味がないから? それは正確ではない。嫌な人ではなかった。感じがよくて、ちゃんと話を聞いてくれて、会話が楽しかった人。でも渚は知っている。自分がこの人に連絡を取るとしたら、それは加藤に興味があるからではなく、宮下からの連絡が途絶えたときの保険として。あるいは、自分がまだ誰かに求められる存在であることを確認するための道具として。

 そういう自分が、渚は嫌だった。嫌なのに止められない。止められないから、とりあえず今夜は返信しない。

 天井を見た。天井の、微妙に盛り上がった壁紙の継ぎ目を見た。毎晩見ている継ぎ目。

 パーティーのことを思い出した。七海の白いブラウス。翔太の細い目。テーブルに並んだワイングラス。加藤の丸い眼鏡に反射するキャンドルの光。

 そして、加藤が渚の鎖骨を見ていた視線。

 好きでもない人に見られていることで落ち着く、という感情に、ちゃんと名前をつけるべきだと思いながら、つけなかった。

 スマホをサイドテーブルに置いた。画面が暗くなった。部屋が暗くなった。

 渚は目を閉じた。明日の朝になれば、加藤への返信を考えなければならない。宮下との距離を測り直さなければならない。七海への祝福を続けなければならない。

 でも今は、何もしない。

 何もしないことだけが、今の渚にできる唯一の誠実さだった。

06

第六章 あの人が結婚する

田中誠司が結婚する、ということを渚が知ったのは、日曜日の昼下がりだった。

 布団の中でスマホを見ていた。特に目的はなかった。インスタグラムのストーリーを流し見していて、大学時代のゼミの同期である松浦の投稿が目に入った。レストランで撮った集合写真。「誠司おめでとう!!」というテキストが載っていた。

 渚の指が止まった。

 写真には六人の男女が写っていた。松浦と、見覚えのある何人かと、誠司と、誠司の隣に立っている女性。女性は髪が長くて、ベージュのニットを着ていて、笑っていた。誠司も笑っていた。誠司の笑い方は変わっていなかった。口の右側だけ少し上がる、あの笑い方。

 ストーリーは二十四時間で消える。でも渚の目はもうその写真を記憶していた。

 誠司のインスタグラムは二年前にフォローを外していた。外したのは渚の方だった。別れてから半年後、誠司の投稿を見るたびに胸が詰まることに耐えられなくなって、フォローを外した。ミュートではなく、フォローを外した。ミュートでは足りなかった。自分のフォローリストに誠司の名前があること自体が、終わっていないことの証拠のような気がして。

 でも今、渚は誠司のアカウントを検索していた。指が勝手に動いていた。止めようと思ったのに、止められなかった。

 誠司のアカウントは鍵がかかっていなかった。最近の投稿は少なかった。三ヶ月前にコーヒーの写真。二ヶ月前に出張先の駅のホーム。一ヶ月前に、夜景の写真。どれにも人は写っていなかった。でもその夜景の写真のコメント欄に、女性のアカウントからハートの絵文字が一つだけついていた。

 渚はそのアカウントをタップした。

 プロフィール画像は花の写真だった。名前は「Mio」とだけ書いてあった。投稿は非公開だった。プロフィール欄には何も書かれていなかった。フォロワー数は三百人くらい。渚にわかったのはそれだけだった。

 松浦のストーリーに戻った。集合写真をもう一度見た。誠司の隣に立っている女性。ベージュのニット。長い髪。笑顔。「Mio」。澪、だろうか。美緒。未央。名前の漢字はわからない。わからないのに、渚はその名前の響きを何度も頭の中で繰り返していた。

 ベッドから起き上がった。日曜の午後一時。洗濯物を干さなければいけない。昨夜の食器も洗っていない。渚は洗面所に行って顔を洗い、リビングに移動し、テレビをつけた。日曜日の情報番組が流れた。誰かが桜の開花予想について話していた。

 渚はソファに座ったまま、テレビを見ていなかった。

 誠司と別れたのは二年前の十一月だった。三年付き合った。二十三歳から二十六歳まで。大学四年の冬に出会って、渚が社会人二年目のときに付き合い始めて、四年目の秋に渚から別れを切り出した。

 「好きじゃなくなったから」

 渚は七海にそう説明した。七海は「それってさ、要するに、気持ちが冷めたってこと?」と聞いた。渚は「うん、そうだと思う」と答えた。

 嘘だった。

 嘘だった、ということに、渚は今まで気づいていなかった。あるいは、気づいていたが認めていなかった。「好きじゃなくなったから別れた」という物語の方が、本当の理由より扱いやすかったから。

 本当の理由。

 渚は台所に立ち、コーヒーを淹れた。ドリッパーにペーパーフィルターをセットし、粉を入れ、湯を注いだ。誠司はいつもハンドドリップでコーヒーを淹れる人だった。渚の部屋にもドリッパーを持ち込んで、朝になると自分のコーヒーを静かに淹れていた。渚のぶんも淹れてくれた。ミルクを少しだけ入れて。渚がミルクを入れることを、誠司は覚えていた。

 三年目の秋、誠司が渚の部屋で晩ごはんを作ってくれた夜のことを思い出す。肉じゃがだった。誠司は料理がうまかった。食べ終わって、二人でソファに座って、テレビを見ていた。何の番組だったか覚えていない。ただ、誠司が「来年の今頃、どうしてるかな」と言った。

 その言葉の裏にあるものを、渚は感じ取った。来年の今頃。それは「一緒にいるかな」という問いかけだった。もっと言えば、「一緒にいたい」という意思表示だった。もっと踏み込めば、「結婚」という言葉の気配だった。

 渚の体が固まったのを覚えている。ソファの上で、膝の上に置いた手が冷たくなった。

 怖かった。

 何が怖かったのか。誠司と結婚すること自体が怖かったわけではない。誠司は優しくて、誠実で、コーヒーを淹れてくれて、渚のことを大切にしてくれた。三年間、一度も声を荒らげなかった。渚の友人にも丁寧だった。渚の母にも好かれていた。何一つ不満はなかった。

 不満がなかったことが、怖かったのかもしれない。

 不満がないということは、これ以上望むものがないということで、これ以上望むものがないということは、ここが終点だということで、ここが終点だということは、自分の人生の形がここで決まるということだった。渚は二十六歳で、まだ何者でもなくて、何者にもなれる可能性があると思いたかった。誠司と結婚したら、自分は「誠司の妻」になる。「花田渚」の可能性が一つに収束する。

 そう思ったのだと、当時は分析していた。

 でも今、日曜の午後にコーヒーを飲みながら、渚は別のことを考えていた。

 本当に怖かったのは、選ばれることだったのではないか。

 誠司に選ばれること。誠司が渚を選んで、渚もそれを受け入れて、二人がお互いを選び合う。その関係に完全に入ること。そうしたら、渚は逃げられなくなる。選ばれた以上、選ばれた自分でいなければならない。期待に応えなければならない。失望させてはいけない。本当の自分を見せたときに、「こんなはずじゃなかった」と思われるかもしれない。

 だから先に逃げた。

 自分から別れを切り出した。「好きじゃなくなったから」。簡潔で、清潔で、反論の余地がない理由。渚はそれを冷静に言った。誠司は少し黙って、それから「わかった」と言った。引き留めなかった。引き留めてほしかったのかと聞かれたら、それもわからない。でも引き留められなかったことで、渚は「やっぱり自分はその程度の存在だったのだ」と思った。自分から去っておいて、追ってこなかったことを恨むのは矛盾している。矛盾しているとわかっていても、その感情は渚の中に沈殿した。

 コーヒーが冷めていた。渚は電子レンジで温め直して、ソファに戻った。

 スマホを手に取った。松浦のストーリーをもう一度見ようとしたが、もう消えていた。二十四時間は経っていないが、松浦が削除したのかもしれない。あるいは、渚の時間の感覚がおかしくなっているのかもしれない。

 誠司のアカウントをもう一度見た。三ヶ月前のコーヒーの写真を拡大した。白いカップ。ソーサーの上にスプーンが置いてある。テーブルは木製で、少し傷がある。渚の知らないカフェだった。渚の知らない場所で、渚の知らない日常を、誠司は送っている。当たり前のことだった。別れて二年経つのだから。でもその当たり前が、今日は少し重かった。

 誠司は結婚する。

 渚が手放した人が、別の誰かに選ばれた。

 その事実が渚に与える衝撃は、渚自身が予想していたよりも大きかった。嫉妬とは違う。後悔とも違う。もっと奇妙な感情。自分が捨てたものに別の人が価値を見出した、というときの感覚。自分には不要だと思ったものが、実はそうではなかったかもしれないと、他人の評価によって気づかされるときの感覚。

 違う、と渚は思った。誠司は「もの」ではない。人間だ。三年間一緒にいた人間だ。朝にコーヒーを淹れてくれた人間だ。それなのに今、渚は誠司のことを「自分が手放したもの」として考えている。手放したのは渚の方なのに、まるで自分が被害者のような気持ちになっている。

 自分が嫌だった。

 洗濯機を回した。洗剤を入れて、スタートボタンを押した。四十五分後にブザーが鳴る。その四十五分間に何をするか。食器を洗った。昨夜の夕食の皿と、今朝のコーヒーカップ。スポンジで洗って、すすいで、水切りカゴに伏せた。

 テーブルを拭いた。床にコロコロをかけた。トイレの掃除をした。体を動かしていれば考えなくて済む、というのは嘘だった。手は動いていても頭は止まらなかった。

 誠司と最後に会ったのは、別れてから三ヶ月後だった。渚が置いていた荷物を返してもらうために、誠司の部屋に行った。段ボール一箱分。本が数冊と、マグカップと、パジャマ代わりにしていたTシャツと、ヘアゴムが何本か。三年間の痕跡がたった一箱に収まった。

 そのとき誠司は「元気?」と聞いた。渚は「うん、元気」と答えた。誠司は「よかった」と言った。それだけだった。二人の間にあったはずの三年分の蓄積は、「元気?」「うん、元気」「よかった」の三往復で処理された。

 あのとき、誠司の目にはまだ何かが残っていたような気がする。それを渚は見ないふりをした。見てしまったら、自分の決断が揺らぐから。

 洗濯機のブザーが鳴った。渚はベランダに出て洗濯物を干した。三月の風はまだ冷たかったが、日差しは温かかった。ピンチハンガーにタオルを一枚ずつ留めながら、渚は泣きそうになっている自分に気づいた。

 泣く理由がわからなかった。自分から別れた相手が結婚する。それは喜ばしいことのはずだ。少なくとも、悲しむことではないはずだ。誠司が幸せになるなら、それはいいことだ。渚にとっても。

 でも涙は理屈では止まらない。

 必要なかったんだ、と思った。渚は誠司にとって必要ではなかったのだ。渚がいなくても、誠司は別の誰かと出会い、別の誰かを愛し、別の誰かと結婚する。渚の三年間は、誠司の人生の中の一つの区間に過ぎなかった。通過点。渚が通過点だったのか、それとも誠司が渚の通過点だったのか。

 いや、違う。「必要なかった」のではない。自分から離れたのだ。自分が「必要ない」と宣言して去ったのだ。それなのに、相手が自分なしで幸せになることに動揺している。身勝手だった。身勝手だとわかっていた。わかっていることと、感情が追いつくことは、別の話だった。

 洗濯物を干し終えて、部屋に戻った。ソファに座った。テレビはまだついていた。天気予報になっていた。明日は晴れ。気温は十五度。春が近づいている。

 渚はスマホを手に取り、「Mio」のアカウントをもう一度見た。プロフィール画像の花。何の花だろう。マーガレットかもしれない。白い花びらの、素朴な花。この人が誠司の隣に立つ人になる。誠司の朝のコーヒーを飲む人になる。誠司が「来年の今頃、どうしてるかな」と言ったとき、笑って「一緒にいるよ」と言える人。

 渚はそれができなかった。

 渚はそれが怖かった。

 スマホの画面をスクロールする指が止まらなかった。Mioのフォロワーリストを見た。共通の知り合いはいなかった。フォローしているアカウントに誠司のアカウントがあった。誠司もMioをフォローしていた。そこには渚が入れない関係があった。当然だった。渚はもう二年前に、その輪の外に出ることを自分で選んだのだから。

 画面を閉じた。スマホを裏返してテーブルに置いた。

 七海に連絡しようかと思った。でも、七海は今、婚約の幸せの中にいる。そこに元彼の結婚で動揺している友人の話を持ち込むのは気が引けた。母に電話しようかとも思った。でも母は「それで渚は?」と聞くだろう。今、その質問には答えられない。

 夕方になった。陽が傾いて、部屋の中がオレンジ色になった。渚は何もしていなかった。ソファに座って、テレビを見ているふりをして、何も見ていなかった。

 誠司との記憶が断片的に戻ってきていた。映画館で手をつないだこと。渚が風邪をひいたときにお粥を作りに来てくれたこと。二人で行った鎌倉の、曇った海。誠司の指が長かったこと。爪をいつも短く切っていたこと。渚のマフラーを巻いてあげるときの、真剣な顔。

 それらの記憶は美しかった。美しかったから厄介だった。美しい記憶は、自分が壊したものの価値を際立たせる。

 夜になった。渚は夕食を作る気力がなくて、冷凍のうどんを解凍して食べた。つゆを温めて、ネギを刻んで入れた。卵を落とそうとして、冷蔵庫に卵がないことに気づいた。そのまま食べた。味はほとんどわからなかった。

 食器を洗って、歯を磨いて、パジャマに着替えた。ベッドに入った。時計は十時を過ぎていた。

 眠れなかった。

 午前零時を過ぎた頃、渚はスマホを取った。宮下に電話をかけた。

 三コール目で宮下が出た。

 「どうした」

 宮下の声は起きていた。テレビか何かの音が遠くに聞こえた。

 「寝てなかった?」

 「起きてた。写真の整理してた」

 「……そっか」

 沈黙があった。渚は何を言えばいいかわからなかった。電話をかけた理由を、渚は自分でもわかっていなかった。いや、わかっていた。わかっていたが、言語化できなかった。

 「何かあった?」と宮下が聞いた。

 「ううん、別に。……ちょっと声が聞きたかっただけ」

 「そう」

 宮下はそれ以上聞かなかった。「声が聞きたかった」という渚の言葉を、そのまま受け取った。追求しない。理由を詮索しない。それが宮下の優しさなのか、関心のなさなのか。たぶんどちらでもあるのだろう。

 「今日さ」と渚は言いかけて、やめた。元彼が結婚する。それを宮下に言って、どうなる。宮下は何と言うだろう。「へえ」と言うだろう。そして話題を変えるだろう。宮下に誠司の話をしたことはない。名前すら出したことがない。三年付き合った人がいたということは一度だけ言ったが、それ以上は聞かれなかったし、渚も話さなかった。

 「今日、何」

 「ううん。なんでもない」

 「……そう」

 また沈黙。電話越しの沈黙は、隣にいるときの沈黙とは違う。隣にいれば、相手の呼吸や、体温や、存在の気配がある。電話越しには、声しかない。声がなくなれば、何もなくなる。

 「陸」

 「ん?」

 「……今度さ、いつ会える?」

 言ってしまった。一年半の間、渚から言ったことのない言葉。いつも宮下が連絡をしてきて、渚がそれに応じる、という形を取ってきた。渚から求めたことはなかった。求めたら、力関係が変わる。求めた方が弱くなる。渚はずっとそれを避けてきた。

 でも今夜は言ってしまった。誠司が結婚するという事実が、渚の均衡を崩していた。

 宮下は少し黙ってから、「来週の金曜とか?」と言った。

 その答え方は、いつもの宮下だった。曖昧ではないが、確定的でもない。「とか?」の疑問符が、渚に選択の余地を与えている。あるいは、自分にも逃げ道を残している。

 「うん。金曜、いいよ」

 「じゃあまた連絡する」

 「うん」

 電話を切った。渚はスマホを胸の上に置いた。画面の明かりが消えて、部屋が暗くなった。

 渚は天井を見ていた。

 誠司のことを考えていた。あの秋の夜の「来年の今頃、どうしてるかな」を。あのとき逃げなければ、今頃どうなっていただろう。結婚していただろうか。子どもがいただろうか。日曜の午後に二人でスーパーに行って、夕飯の材料を買っていただろうか。

 それは幸せだったかもしれない。あるいは、渚には耐えられなかったかもしれない。選ばれ続けることの重さに、いつか潰れていたかもしれない。「こんなはずじゃなかった」と思われることへの恐怖に、先に自分から壊していたかもしれない。

 わからない。わからないが、その可能性を試す権利を、渚は自分で手放した。

 そして今、宮下との保留された関係の中にいる。名前のない関係。定義のない関係。いつでも終われる関係。終われるから安全だと思っている関係。でもその安全は、何かを得ることの代わりに支払っている対価だった。

 渚は目を閉じた。

 誠司と付き合っていた三年間、渚は「必要とされている」と感じていた。朝のコーヒー。風邪のお粥。マフラーを巻く手。誠司は渚を必要としていた。でも渚はその必要とされることの重さに耐えられなかった。必要とされればされるほど、期待が大きくなる。期待が大きくなれば、それに応えられなかったときの失望も大きくなる。だから逃げた。

 宮下は渚を必要としていない。少なくとも、そう見える。渚がいなくても宮下の日常は変わらない。ビールと柑橘の冷蔵庫は変わらない。朝の四時に多摩川の橋脚を撮りに行くことも変わらない。渚はその軽さに救われている。必要とされないことは、期待されないことで、期待されないことは、失望させないことだった。

 でも、必要とされなければ、渚は自分を確かめる方法を失う。

 必要とされたい。でも必要とされるのが怖い。欲しいと思われたい。でも欲しいと思われ続ける自信がない。

 その矛盾の中で、渚はぐるぐると同じ場所を回っている。誠司から宮下へ。宮下から加藤へ。相手が変わっても、渚のパターンは変わらない。近づいて、怖くなって、逃げる。あるいは、逃げられない距離にいてくれる人を選ぶ。最初から近づいてこない人を選ぶ。

 そのパターンを、渚は初めて正面から見ていた。

 見たくなかった。見たら、もう知らないふりはできない。知らないふりができなくなったら、変わらなければいけない。変わることは、今の自分を否定することだ。今の自分を否定したら、今まで積み上げてきたものは何だったのか。

 でも、今まで積み上げてきたものって、何だろう。

 西荻窪の1LDK。IT企業のマーケティング担当。周囲から落ち着いていると言われる自分。感じがいいと言われる自分。それは積み上げたものなのか、それとも、本当の自分を隠すために築いた壁なのか。

 渚の目から涙が流れた。枕が濡れた。

 泣いている理由は一つではなかった。誠司が結婚すること。自分が逃げた過去。宮下との保留された関係。加藤の視線に安堵した自分。母の「渚は?」という問い。七海の白いブラウス。全部が混ざっていた。全部が絡まって、一つの塊になって、渚の胸の中にあった。

 泣きながら、渚は考えていた。

 もしかしたら、好きじゃなくなったんじゃなくて、好きになりすぎるのが怖かっただけかもしれない。そう気づくのが遅すぎるのか、それとも今気づいても何かが変わるのか、わからなかった。

 わからなかったが、気づいてしまった以上、もう元には戻れないような気もしていた。

 渚は枕に顔を埋めた。涙が止まるまで、しばらくそうしていた。

 洗面所で顔を洗ったのは午前二時過ぎだった。鏡に映る自分の顔は目が赤くて、鼻の頭も赤くて、化粧を落とした素の顔で、何の防備もなかった。この顔を、今、誰にも見せたくなかった。でも同時に、誰かに見てほしいとも思った。この顔を見ても離れない人がいたら、と思った。

 そんな人がいたかもしれない、ということに、渚はもう気づいていた。

 水を一杯飲んで、ベッドに戻った。目を閉じた。金曜日に宮下と会う。そのとき渚は何を話すだろう。何も話さないかもしれない。いつもと同じように飲んで、いつもと同じように過ごして、いつもと同じように別れるかもしれない。

 でも、何かが変わっている気がした。渚の中の何かが、ほんの少しだけ動いている気がした。それは希望ではなかった。覚悟でもなかった。ただ、気づいてしまった、という事実。気づいてしまったことの、その重さだけが、暗い部屋の中に渚と一緒に横たわっていた。

07

第七章 帰省

実家の最寄り駅に着いたとき、改札を出る足が少しだけ重くなった。

 八月十三日。中央線から乗り換えた各停は空いていて、渚は窓際の席でずっとスマートフォンを握っていたが、結局何も開かなかった。宮下からの最後のLINEは三日前の「おやすみ」で、それ以降、どちらからも何も送っていない。深夜に電話したことについて、翌朝謝った。宮下は「全然」とだけ返した。その二文字の後に何かが続くのを待ったが、何も来なかった。

 改札の向こうに母の姿が見えた。白いブラウスにベージュのリネンパンツ。髪を短く切っていた。渚が最後に帰ったのは正月だったから、七ヶ月ぶりになる。

「暑かったでしょう、電車。冷房効いてた?」

 母の第一声はいつもこういう形をしている。心配が挨拶の代わりをする。

「大丈夫だったよ。空いてたし」

「お昼、何か食べた? 何も食べてないんじゃない?」

「駅でおにぎり買って食べた」

「おにぎりだけ?」

 渚は笑った。七ヶ月会わなくても、この会話は変わらない。母の車に乗り込むと、芳香剤の甘い匂いがした。以前はラベンダーだったのが、今はフリージアに変わっている。ダッシュボードの上に真由の子ども——湊斗の写真が貼ってあった。一歳の誕生日に撮ったもので、ケーキの前で口を開けて笑っている。

「真由はもう来てるの?」

「昨日の夜着いたわよ。湊斗がね、最近すごくおしゃべりになって。『ばあば』って言うのよ」

 母の声が柔らかくなる。渚はそれを聞きながら、シートベルトの金具を何度かカチカチと鳴らした。

「お父さんは?」

「お父さんは——書斎にいるんじゃない。朝からずっと」

 それ以上の説明はなかった。それ以上の説明が要らないことを、渚は知っていた。

 実家は駅から車で十分ほどの住宅街にある。築二十五年の二階建て。渚が高校生のときに外壁を塗り直したが、それからもう十年以上経っていて、クリーム色だったはずの壁はくすんだ灰色に近くなっていた。玄関の横に母が育てている紫陽花があって、もう花の時期は終わっていたが、枯れた花がそのまま残っている。切ればいいのに、と渚は思ったが、言わなかった。

 玄関を開けると、台所から出汁の匂いがした。

「真由ー、渚来たよー」

 母が奥に向かって声をかける。二階から「はーい」と返事があって、しばらくして真由が降りてきた。グレーのTシャツにジーンズ。髪をひとつに結んでいて、化粧はしていなかった。腕に湊斗を抱えている。

「おつかれ、渚」

「おつかれ。湊斗、大きくなったね」

 湊斗は渚の顔を見て、しばらく固まってから、真由の胸に顔を埋めた。

「人見知りの時期なの。お正月は平気だったのにね」

 真由がそう言って、湊斗の背中をとんとんと叩く。その手つきが自然で、渚はそれを見ていた。自分の姉がいつの間にか母親の手つきを持っている。当たり前のことなのに、少し不思議な感じがした。

「荷物、二階の渚の部屋に置いてきなさい。シーツは替えてあるから」

 母がそう言った。渚はキャリーケースを持って階段を上がった。

 自分の部屋はほとんど変わっていなかった。学習机はそのまま残っていて、本棚には高校時代に読んだ文庫本が並んでいる。村上春樹、江國香織、吉本ばなな。大学に入ったとき、持っていくか迷ってそのままにしたものたちだ。壁に貼っていたポストカードは剥がされていて、画鋲の穴だけが残っていた。母が剥がしたのだろう。

 窓を開けると、隣の家の庭から蝉の声が入ってきた。カーテンは渚が高校二年のときに自分で選んだ薄い水色のままで、裾が少し色褪せている。

 ベッドに腰を下ろして、スマートフォンを確認した。宮下からの連絡はない。七海から「実家楽しんでー!」とスタンプ付きのメッセージが来ていた。渚は「ありがとう」と返して、画面を閉じた。

 階下から母の声がした。「渚ー、麦茶飲むでしょー」

 渚は立ち上がった。

 居間に降りると、真由が湊斗をプレイマットの上に座らせて、テレビをつけていた。Eテレの子ども向け番組が流れている。父はいなかった。

「お父さんは?」

「さっき顔出したわよ。『渚、来たか』って言って、また書斎に戻った」

 真由がそう言って、少し苦笑した。渚も笑った。父はそういう人だった。嫌いなわけではない。ただ、居間に長くいることができない人なのだ。テレビの音も、子どもの声も、妻と娘たちの会話も、父にとっては少しずつ音量が大きすぎるのだと、渚はいつからか理解していた。

 母が麦茶を三つと、湊斗用の赤ちゃんせんべいを持ってきた。

「渚、痩せたんじゃない? ちゃんと食べてる?」

「食べてるよ」

「自炊してる?」

「……まあまあ」

「まあまあって何よ。お母さん心配なのよ。一人暮らしだと食べなくなるでしょう」

「食べてるって」

 真由が湊斗にせんべいを渡しながら、渚のほうをちらっと見た。「お母さん、渚もう二十八だよ。大丈夫でしょ」

「二十八だから心配なの。——ごめんね、うるさくて。ごめん、今大丈夫? 疲れてない?」

 あの言い方だ、と渚は思った。電話でも対面でも変わらない。「ごめん、今大丈夫?」。心配していると言いながら、その心配を受け止めてほしいのは母のほうだった。大丈夫だと言ってほしい。あなたの心配は正しい、でも私は元気です、と答えてほしいのだ。

「大丈夫だよ、お母さん。ありがとう」

 渚はいつもの答えを返した。母は安心したように頷いて、台所に戻っていった。

「相変わらずだね」と真由が小さく言った。

「うん」

 渚は麦茶を飲んだ。氷が多すぎて薄くなっている。母はいつも氷を入れすぎる。

 夕方、台所で母が夕食の準備をしていた。渚は手伝おうとして居間から立ち上がったが、母は「いいのいいの、座ってて」と言った。「渚は疲れてるでしょう」

「疲れてないよ。何か手伝う」

「じゃあ……トマト切ってくれる? サラダに入れるから」

 渚はまな板の前に立った。トマトを洗って、ヘタを取って、くし形に切る。母の横に並ぶと、母がほんの少し身体をずらして場所を空けた。その動作に覚えがあった。中学生のとき、家庭科の課題で味噌汁を作ったとき、母はこうやって横に立って、渚の包丁の持ち方を直した。「もう少し奥を持って。そう、それでいいの」

 今は何も言わない。渚の包丁の持ち方が正しいかどうか、もう確認しない。ただ横に立っている。

 コンロではカレイの煮付けが作られていた。渚が好きだったものだ。醤油と砂糖と生姜の匂いが台所に充満している。

「渚が来ると思って、カレイ買ってきたの。あと、ほうれん草のおひたしと、茄子の味噌汁」

「ありがとう」

「真由には昨日、肉じゃが作ったのよ。湊斗も少し食べたの。柔らかく煮たやつ」

 母は料理の話をしているとき、一番自然に見える。何を作るか、誰が何を好きか、どう調理するか。それが母のいちばん得意な愛情の形だった。言葉にすると少し歪んでしまうものが、煮魚の甘辛い匂いの中ではまっすぐに届く。渚はそれを知っていた。知っていて、それでも時々息苦しくなるのだった。

「お母さん、量多くない?」

「多い? そうかしら。お父さんも食べるし」

「お父さん、夕飯は一緒に食べるの?」

「食べるわよ。さすがにお盆だし」

 その「さすがに」が少し引っかかったが、渚は何も言わなかった。

 夕食は六時半に始まった。父が書斎から降りてきて、食卓についた。白い半袖のポロシャツにチノパン。定年退職してからもう二年になるが、服装だけはまだ会社に行っていた頃と変わらない。

「渚、仕事はどうだ」

 父はそれだけ聞いた。

「うん、まあ順調だよ」

「そうか」

 会話が終わった。父は煮魚に箸をつけた。

 真由が湊斗を膝に乗せて、自分の皿から柔らかい煮魚をほぐして食べさせている。湊斗はしばらくもぐもぐしてから、急に手を振って皿を叩いた。味噌汁が少しこぼれて、真由が「あー」と声を上げて、ティッシュで拭いた。

「もう、湊斗」

「元気でいいじゃない」と母が笑った。

 渚はほうれん草のおひたしを口に運びながら、この食卓を見ていた。母、姉、甥。そして向かいに父。自分はどこに座っているのだろう、と思った。物理的にはここにいる。母の隣で、真由の向かいで、きちんと座っている。でも、この食卓の中で自分がどういう役割なのか、よくわからなかった。

 母は湊斗を見て目を細める。真由は湊斗の世話をする。父は黙って食べる。渚は——渚は、ここでは「下の娘」だ。まだ結婚していない、一人暮らしの、二十八歳の下の娘。

「渚、おかわりは?」

「うん、もう少しもらう」

 母が嬉しそうにご飯をよそった。渚がおかわりをすると母は嬉しそうにする。それを渚は知っているから、本当はもう十分だったが、茶碗を差し出した。

 夕食のあと、父は早々に書斎へ戻り、母は台所で洗い物を始めた。渚が手伝おうとすると「食洗機に入れるだけだから」と断られた。真由は湊斗を風呂に入れるために二階に上がり、渚は居間のソファに一人で座った。

 テレビではお盆特番のバラエティが流れている。芸人たちが大声で笑っている。渚はリモコンで音量を少し下げた。

 スマートフォンを開いた。インスタグラムのストーリーが並んでいる。同僚の旅行写真、大学時代の友人の子どもの動画、誰かの花火大会。七海は婚約者と軽井沢に行っているらしく、木漏れ日の中で二人で撮った写真を上げていた。渚はそれにハートの絵文字を送って、すぐに閉じた。

 宮下のアカウントを開いた。最後の投稿は五日前で、どこかのカフェのテーブルの上にあるアイスコーヒーの写真だった。影が長く伸びている、静かな写真。キャプションはなし。渚はその写真をしばらく見つめてから、画面を消した。

 母が居間に戻ってきて、渚の隣に座った。

「真由、お風呂入れてるの?」

「うん」

「大変よね、一人で。旦那さん、今回来られなかったでしょう」

 真由の夫——拓也さんは仕事で来られなかった、と真由が昨日電話で母に伝えたらしい。

「仕事ならしかたないわよね」

 母はそう言ったが、声の温度が少しだけ低かった。渚にはわかった。母は拓也さんが来ないことに思うところがあるのだ。でもそれを直接は言わない。「しかたない」と言いながら、納得していないことを匂わせる。

「渚は——今、誰かいるの?」

 来た、と思った。

「いないよ」

「そう。いないの」

「うん」

「……別にね、急かしてるわけじゃないのよ。ただ、お母さんは渚が幸せかどうかが気になるだけで」

「幸せだよ」

「本当に?」

「本当に」

 渚は笑って見せた。母はじっと渚の顔を見て、それから「ならいいけど」と言った。その「ならいいけど」には、「でも本当はもっと話してほしい」が含まれていた。渚にはそれがわかったが、そこに踏み込むと長くなる。長くなって、最後には「お母さんはただ心配してるだけなのに」という言葉に着地することも、わかっていた。

「お風呂、先に入ってきていい?」

「いいわよ。タオルは洗面所に出してあるから」

 渚は立ち上がった。

 風呂から上がると、二階の廊下で真由とすれ違った。真由は湊斗を寝かしつけた後らしく、髪をほどいて、パジャマ姿だった。

「湊斗、寝た?」

「寝た。今日はわりとすんなり」

「そっか」

 渚が自分の部屋に入ろうとすると、真由が「ねえ」と呼び止めた。

「ちょっと話さない? 下行くとお母さんいるから、ここで」

 渚は少し驚いた。真由から「話さない?」と言われることはあまりない。姉は基本的に自分から渚に何かを求めるタイプではなかった。

 渚の部屋に入って、渚はベッドに、真由は学習机の椅子に座った。真由が椅子をくるっと回してこちらを向いた。その動作が中学生みたいで、渚は少し笑った。

「なに、どうしたの」

「別に。なんとなく」

 真由はしばらく黙っていた。渚はドライヤーで乾かしきれなかった髪の先を、指でいじっていた。

「拓也さん、仕事って言ってたけど」と渚が聞いた。

「うん」

「忙しいんだね」

「——まあね」

 真由の声が少し変わった。渚はそれに気づいたが、追わなかった。追うべきかどうか、迷った。

「渚はさ」と真由が言った。「最近どうなの。仕事とか、それ以外とか」

「普通だよ。仕事は忙しいけど、まあ楽しいし」

「彼氏は」

「いない」

「お母さんにも聞かれたでしょ」

「聞かれた」

 真由が少し笑った。「毎回だよね、あのパターン」

「ね」

 二人で同じことを笑っている。でもそれは共感というより、共犯のようなものだった。母を少し離れたところから眺めて、あの人はああいう人だよね、と確認し合うこと。渚はそれが姉とのいちばん自然な距離だと思っていた。

「拓也は——」と真由が言った。「仕事って言ったけど、わかんないんだよね、本当のとこ」

 渚は黙った。

「別に浮気とかじゃないと思う。多分。でもなんか、お盆に妻の実家に来るのが面倒なんだろうなっていうのは、わかる。去年も一日だけ来て帰ったし」

「そっか」

「まあ、うちのお父さんもそうじゃん。自分の家なのに書斎にこもってるし。男の人ってそういうもんなのかな」

 真由は窓の外を見ながら言った。蝉がまだ鳴いている。八月の夜は暗くなるのが遅い。

「真由は——大丈夫なの?」

「大丈夫って?」

「拓也さんと」

「大丈夫だよ。大丈夫。仲が悪いわけじゃないし。ただ、なんていうのかな——」

 真由は言葉を探すように、少し上を向いた。

「結婚してからのほうが孤独なときがあるなって。変でしょ。一人暮らしのときは孤独って感じなかったのに。すぐ横に人がいるのに、全然違う方向見てるときがあって、そういうときにふっと思うの。あ、一人だなって」

 渚は何も言えなかった。姉がこういう話をするのは初めてだった。真由はいつも「こっち側」の人間だった。正しい時期に就職して、正しい時期に結婚して、正しい時期に子どもを産んだ。母が安心するレールの上を、文句を言わずに歩いている人。渚はずっとそう思っていた。

「渚はさ——いいな、自由で」

 真由がそう言った。

 電話で母が言っていた。「真由が言ってたのよ、渚はいいなって」。あのとき渚は、姉がそんなことを言うはずがないと思った。社交辞令か、母の脚色だと思った。でも今、真由は確かにそう言った。渚の目を見て。

「自由って——」

「一人で決められるじゃん、全部。今日何食べるかも、週末何するかも、誰と会うかも。私はさ、湊斗のご飯の時間と昼寝の時間と、拓也の帰りの時間と、全部そこに合わせて動いてるから。自分の時間なんてないよ。湊斗が寝た後の一時間くらい。それもいつ起きるかわかんないし」

「でも、それは——」

「幸せだよ。湊斗はかわいいし。でも、幸せと自由は別なんだなってことは、産んでからわかった」

 渚は返す言葉が見つからなかった。

 羨ましい、と姉は言った。渚にとって真由は、ずっと「持っている側」の人だった。夫がいる。子どもがいる。母を安心させる人生がある。渚はそれを持っていない側で、だから姉を見るときにいつも少しだけ劣等感があった。それなのに真由は「羨ましい」と言う。

 お互いに、相手が持っているものを見ている。自分が持っていないものを。

「でもさ、渚」と真由は続けた。「自由っていうのも、ずっとは続かないよ。三十過ぎるとまた違うから」

 その一言で、真由はまた「姉」に戻った。少しだけ見下ろす角度。アドバイスという形をした優位。渚はそれを感じたが、怒りにはならなかった。真由は自分の不安をそうやって処理しているのだ。渚に「あなたもいずれ」と言うことで、自分の選択が間違っていなかったと確認している。

「そうだね」と渚は言った。

 真由は椅子から立ち上がった。「お母さんには言わないでね、さっきの話」

「言わないよ」

「おやすみ」

「おやすみ」

 真由が出ていって、渚は一人になった。ベッドに横になって、天井を見た。この天井の染みの形を覚えている。高校三年の夏、受験勉強をしているふりをして、ずっとこの天井を見ていた。あのときも、自分がどこに行きたいのかわからなかった。

 スマートフォンを持ち上げた。宮下にLINEを送ろうとして、やめた。何を送るのだろう。「実家にいるよ」? それで何が始まるのだろう。何も始まらない。宮下は「そっか」とか「ゆっくり」とか返すだけだ。

 階下で母が洗い物をする水の音がした。食洗機で済むと言っていたのに、結局手で洗っている。母はいつもそうだ。「大丈夫、やらなくていい」と言いながら、結局全部自分でやる。そしてその分だけ、少しずつ貸しを作る。意識的にではなく。ただそういうふうにしか愛せないのだ。

 渚は目を閉じた。

 翌朝、渚は七時に目が覚めた。台所に降りると、母がすでに朝食を作っていた。鮭の切り身を焼いて、卵焼きを切り分けて、昨日の残りの味噌汁を温めている。

「早いね、お母さん」

「湊斗が五時に起きたのよ。真由が連れ出して散歩行ってる」

 渚はコーヒーを淹れた。母は紅茶派で、渚が買ってきたドリップコーヒーを使うとき少し不思議そうな顔をする。

「渚、いつ帰るの?」

「今日の夕方には出ようかなって」

「もう一泊していけばいいのに」

「明日、ちょっと用事あるから」

 嘘だった。用事はない。でも、もう一泊する余裕が自分にないことは、わかっていた。

「そう……」

 母は残念そうに言ったが、引き留めなかった。引き留めないことにも、技術がいるのだと渚は思った。母は長い年月をかけて、娘を引き留めないことを学んだのだ。引き留めると逆効果だということを。

「お母さん」

「なに?」

「——ううん、なんでもない。ごはん、ありがとう」

 母はにこっと笑った。その笑い方が、渚は嫌いではなかった。

 午後三時に渚は実家を出た。玄関で母が紙袋を渡した。中には煮物のタッパーと、みかんゼリーと、レトルトのスープが入っていた。

「重くない? 大丈夫?」

「大丈夫。ありがとう」

「ちゃんと食べるのよ」

「食べるよ」

 真由は湊斗を抱いたまま、玄関の奥に立っていた。「渚、またね」

「うん、またね」

 父は書斎から降りてきて、玄関に立った。「気をつけて帰れ」と言った。それだけだった。渚は「うん」と頷いた。父の白いポロシャツの胸ポケットにボールペンが刺さっているのが見えた。定年してからも、ポケットにペンを入れる癖が抜けないのだ。

 母の車で駅まで送ってもらった。車の中で母は天気の話をして、真由の幼稚園選びの話をして、近所のスーパーが改装した話をした。渚は相槌を打ちながら、窓の外を見ていた。

 駅のロータリーで車を降りた。

「ごめんね、送るだけで」

「いいよ。ありがとう、お母さん」

 母が少し泣きそうな顔をした。いつもそうだ。渚が帰るたびに、母は見送りのとき少しだけ泣きそうな顔をする。そして渚はいつも、その顔を見て罪悪感を感じる。もう少しいればよかったのだろうか。もう少し話せばよかったのだろうか。でも——。

「またくるよ」

「うん、いつでもいいからね。お正月じゃなくても」

 渚は手を振って、改札に向かった。振り返らなかった。振り返ると、母がまだ車の横に立っているのが見えてしまう。それを見ると戻りたくなるか、逃げたくなるか、どちらかわからなかったから。

 各停の電車は空いていた。ボックスシートの窓際に座って、紙袋を膝の上に置いた。電車が動き出すと、駅のホームが後ろに流れていった。

 渚は服の袖口を鼻に近づけた。実家の匂いがした。出汁と、母の柔軟剤と、畳の匂い。それは安心する匂いで、同時に、少し苦しい匂いだった。

 渚はカーディガンを脱いで、丁寧に畳んで、膝の上に置いた。紙袋の隣に。

 電車の窓から夕焼けが見えた。空がオレンジと紫のあいだの色をしていて、住宅街のシルエットが黒く切り取られている。渚はそれを見ながら、誰にも連絡しなかった。宮下にも、七海にも、母にも。ただ窓の外を見ていた。

 帰りの電車の中で、実家の匂いがまだ服についている気がして、脱いで畳んで膝に置いた。

08

第八章 臨界点

九月に入っても暑さは残っていて、渚の部屋のエアコンは夜通し回り続けた。

 帰省から二週間が経っていた。仕事は通常通りに動いていて、渚は新しいキャンペーンの数字を追い、会議に出て、デスクでサンドイッチを食べた。同僚の川島に「花田さん、日焼けした?」と聞かれて、「実家で少し」と答えた。嘘だった。実家では外に出ていない。ただ少しファンデーションの色が合わなくなっていただけだ。

 宮下とは帰省の前後から距離ができていた。LINEは途切れていないが、頻度が落ちている。以前は二日に一度は何かしら送り合っていたのが、四日、五日と空くようになった。渚のほうから送ることもあったが、返信は短く、会話が続かなかった。

「来週、ちょっと撮影で箱根行くんだ」

 九月の第一週、宮下からそんなメッセージが来た。

「いいね。仕事?」

「うん、旅館のサイトリニューアル。二泊くらい」

「そっか。いい写真撮れるといいね」

「ありがとう」

 それで終わった。以前なら「帰ってきたらご飯行こう」くらいの流れになったはずだった。渚はそれを待ったが、来なかった。渚のほうから言えばよかったのかもしれない。でも、自分から提案して、それに対して宮下が曖昧な返事をすることが、怖かった。

 金曜日の夜だった。残業を終えて帰宅して、コンビニで買った冷やし中華を食べて、シャワーを浴びた。ソファに座ってテレビをつけたが、何も見ていなかった。

 インスタグラムを開いた。

 宮下が写真を上げていた。箱根の旅館の写真ではなかった。どこかの飲食店——暗い照明の、カウンターだけの店。テーブルの上に日本酒のグラスが二つ並んでいる。二つ。

 キャプションはなし。タグもなし。ただその写真の構図が、渚にはわかった。宮下が撮る写真には癖がある。向かい側に誰かがいるとき、その人の存在を暗示するような切り取り方をする。グラスの位置、箸の角度、テーブルの上に置かれた手の影——直接映さないけれど、そこに誰かがいたことが写真の空気で伝わる。

 渚は画面を拡大した。グラスの向こう側に、わずかに指先が映っていた。細い指。爪にうっすらとネイルが塗られている。ベージュかピンクか、暗い照明ではわからなかったが、女性の手だった。

 渚はスマートフォンを裏返しにしてテーブルに置いた。

 テレビではバラエティ番組が流れている。芸人が何かのランキングを発表していて、スタジオが笑っていた。渚はリモコンを手に取って、テレビを消した。

 静かになった部屋で、エアコンの音だけが続いている。

 もう一度スマートフォンを取り上げた。写真をもう一度見た。投稿時間は二時間前。箱根に行くと言っていた週だが、この店の雰囲気は箱根ではない。東京だ。恵比寿か中目黒か、その辺りの店に見える。

 仕事で行っていたんだろう。打ち合わせか何かで、クライアントと飲んでいただけかもしれない。そう思おうとした。でも、日本酒のグラスが二つだけ並んでいる写真を、わざわざ撮ってインスタグラムに上げるということの意味を、渚は知っていた。宮下にとって写真は記録であり、同時に表現だ。彼が何を撮って何を撮らないかには、常に選択がある。「写真はいつも引き算だよ」と彼は言った。引き算をした結果、あの写真が残った。つまり、あの夜の時間を、彼は残したかったのだ。

 感情の名前がわからなかった。怒り、ではない。嫉妬と呼ぶには、その権利があるのかわからなかった。宮下と渚は恋人ではない。付き合っていない。告白もしていないし、されてもいない。何度か泊まった。体を重ねた。朝になると宮下は「次いつ会う」を言わなかった。渚も聞かなかった。

 その構造を選んだのは、渚自身だった。

 関係に名前をつけないことで、傷つかないでいられると思った。名前がなければ期待も生まれないし、期待がなければ裏切られることもない。そういう計算をしていた。自分がそういう計算をする人間だということは、わかっていた。

 でも計算は間違っていた。名前がなくても感情は育つ。期待しないと決めても期待する。そして裏切られたと感じるのだ、何も約束していないのに。

 渚はLINEを開いた。宮下とのトーク画面。最後のやり取りは「ありがとう」で止まっている。渚は入力欄をタップした。

「今日、何してた?」

 送った。

 既読がつくまで七分かかった。その七分間、渚はスマートフォンを持ったままソファに座っていた。ほかのことは何もしなかった。

「撮影の仕事終わりで、ちょっと飲んでた」

 「誰と?」と聞きたかった。指が動きかけた。でもその質問を送ったら、自分がどういう立場でそれを聞いているのかを示すことになる。恋人でもない人間が「誰と飲んでたの」と聞く——それは権利の主張だ。持っていない権利の。

「そっか、おつかれさま」

 送った。それだけにしておくべきだった。わかっていた。

「宮下って箱根じゃなかったっけ」

 送ってしまった。

 既読がついた。返信が来るまで、今度は十二分かかった。

「箱根は昨日までだった。今日は東京で別の打ち合わせあって」

「そうなんだ」

「うん」

 渚は画面を見つめた。宮下の返信にはいつもの穏やかさがあった。何も隠していないように見える。でもそれは、隠す必要がないからだ。彼にとっては隠すようなことではない。誰かと飲みに行って、楽しい時間を過ごして、写真を撮る。それだけのこと。渚が勝手にそこに意味を見出して、勝手に苦しんでいるだけだ。

 でも、やめられなかった。

「最近、全然会ってないね」

 送った。

「そうだね。俺もちょっとバタバタしてて」

「会いたいな」

 送ってから、後悔した。渚は自分から「会いたい」と言う人間ではなかった。少なくとも、宮下に対しては。いつも相手のほうから誘わせるように仕向けていた。自分から求めると、拒まれたときに傷つくから。

「来週とか、どう?」

 宮下の返信は早かった。渚はそれに少し安心して、同時に虚しくなった。安心する、ということ自体が、自分がどれだけこの人に寄りかかっているかを証明していた。

「うん、来週。いつがいい?」

「水曜か木曜かな。また連絡するよ」

「わかった」

 渚はスマートフォンを置いた。

 「また連絡するよ」。その言葉を信じていいのかどうかわからなかった。宮下は嘘をつく人ではない。でも、約束しない人ではある。「また連絡する」は「連絡するかもしれない」であり、しないかもしれない。

 しばらくソファに座っていた。時計は午後十一時を過ぎていた。

 ふいに、あの写真のことを思い出した。グラスの向こうの指先。ネイルの塗られた、細い指。それは誰だろう。仕事の相手かもしれない。友人かもしれない。恋人かもしれない。渚にはわからないし、聞く権利もない。

 でも——聞けない、というその構造自体が、苦しいのだった。

 知っていた。宮下がこういう人だということは、最初から知っていた。出会ったときから彼は感情的なコミットメントを避ける人だった。優しいが、踏み込まない。近くに来るが、留まらない。渚はそれを魅力的だと思っていた。自分も同じだと思っていた。お互いに深入りしない、大人の関係。そう名付けることで、自分を守っていた。

 でも守れていなかった。渚は深入りしていた。ただ、それを認めなかっただけだ。

 もう一度スマートフォンを手に取った。宮下のインスタグラムをもう一度開いた。あの写真の下にいいねの数が表示されている。二十三件。誰がいいねしているか、名前を一つずつ確認した。知らないアカウントがほとんどだった。その中に一つ、女性の名前があって、アイコンをタップした。プロフィールは非公開だった。

 何をしているんだろう、と思った。知らない女性のアカウントを覗いて、何を確認しようとしているのだろう。この人が宮下と飲んでいた相手だという証拠を見つけて、それでどうするのだろう。

 渚はアプリを閉じた。

 深呼吸をした。一度、二度。

 閉じたはずのアプリを、また開いた。

 今度はLINEだった。宮下のトーク画面ではなく、トークリストの一番上。さっきのやり取りが並んでいる。渚はそれを上にスクロールした。過去のやり取りをさかのぼった。

 七月。「今日のごはん、何作った?」「パスタ。トマトとバジルのやつ」「おいしそう」——そこにスタンプ。八月初旬。「暑いね」「溶ける」「明日から実家」「いってらっしゃい」。

 ここ数ヶ月、会話は表面的だった。日常の報告、短い感想、スタンプ。深い話はしていない。でも以前は——もう少し前は——。

 四月のあたりまでさかのぼった。「今日、夕焼けがすごかった」という宮下のメッセージに、窓から撮ったらしい写真が添えられている。渚は「きれい」と返している。「渚の部屋からも見えた?」「見えた。でも宮下のほうがきれいだった。角度がいいんだろうね」「来て見ればいい」。

 来て見ればいい。そういう言い方をしていた。直接的ではない。でもそこには、来てほしいという気持ちが滲んでいたと、渚は思った。思いたかった。

 渚はトーク画面を閉じた。

 そしてまた開いた。

「あのさ」

 入力して、消した。

「今日のインスタの写真」

 入力して、消した。

「グラスが二つあったけど」

 入力して、消した。

 消したのに、指がまた動いた。

「宮下は今、会ってる人いるの」

 送信ボタンに指が触れた。

 触れただけで、押さなかった。文字を全部消した。画面を閉じた。スマートフォンをテーブルに叩きつけるように置いた。

 息が荒くなっている自分に気づいた。

 立ち上がって、キッチンに行った。冷蔵庫を開けた。ビールが二本と、しなびかけた小松菜と、賞味期限が昨日だったヨーグルトが入っていた。宮下の冷蔵庫にはビールと柑橘系の果物しかないと前に思ったが、自分の冷蔵庫もたいして変わらない。

 ビールを一本取り出して、プルタブを開けた。一口飲んだ。冷たくて、少しだけ落ち着いた。

 ソファに戻って、またスマートフォンを手に取った。

 LINEを開いた。

「ねえ、あの写真の人、誰?」

 送った。

 送ってしまった。

 送った瞬間、後悔と安堵が同時に来た。聞いてしまった。もう取り消せない。でも、聞かないまま悶々としているよりは、聞いてしまったほうがましだと思った。思いたかった。

 既読がつくまで二十分以上かかった。渚はその間にビールを飲み終わり、もう一本を開けた。テレビはつけなかった。部屋の中にはエアコンの音だけがあった。

 返信が来た。

「写真? インスタの?」

「うん」

「仕事関係の人だよ。デザイナーの子。サイトのデザインでちょっと相談してて」

「そっか」

「気になった?」

 その質問が、渚の心臓を掴んだ。気になった? と聞かれている。正直に答えれば「気になった」だ。でもそう答えれば、宮下は渚がどれだけ彼を気にしているかを知る。それは渚にとって、裸にされるのと同じだった。

「ちょっとね。グラスが二つだったから」

 軽く。なるべく軽く。

「笑 渚も飲みに行ったりするでしょ」

「まあね」

「そういうのだよ。深い意味はない」

 深い意味はない。

 その言葉が刺さった。深い意味はない——それは、あの夜に深い意味がなかったということだ。誰かと二人で飲みに行って、写真を撮って、「深い意味はない」と言える。宮下にとってはそういうことなのだ。

 では、渚と過ごした夜にも、深い意味はないのだろうか。

 ビールの缶を握りしめた。アルミが少しへこんだ。

「ごめんね、変なこと聞いて」

「全然。気にしないで」

「うん」

「おやすみ、渚」

「おやすみ」

 渚はスマートフォンを置いた。

 何も解決していなかった。宮下は何も悪いことをしていない。誰かと飲みに行った。それだけのことだ。渚が勝手に意味を読み取り、勝手に苦しんでいる。その構造を作ったのは渚自身だ。恋人にならないことを選んだのは渚だ。名前をつけないことで安全でいようとしたのは渚だ。

 それなのに安全ではなかった。

 全然安全ではなかった。

 ビールの二本目を飲み終えた。空き缶をテーブルに置いた。立ち上がって、部屋を見回した。

 散らかっていた。テーブルの上にレシートとペンと飲みかけのペットボトルと、開封済みの郵便物。キッチンのシンクには昨日の夜の食器がそのまま残っている。洗面所のタオルは二日替えていない。

 いつもなら、こういう夜に片付けが始まる。深夜に急に掃除を始める。棚を拭いて、床にクイックルワイパーをかけて、溜まったペットボトルをまとめて、冷蔵庫の中を整理する。それは渚の癖だった。心がざわつくと、部屋を整える。部屋が整うと、自分も整った気がする。

 でも今夜は、その衝動が来なかった。

 散らかった部屋を見ても、片付けようという気持ちが起きない。体が動かないのではなく、動かす理由が見つからなかった。片付けたところで何になるのだろう。部屋がきれいになっても、宮下が誰と飲んでいたかは変わらない。名前のない関係は名前のないままだ。

 渚はソファに座り直した。膝を抱えた。

 深夜一時を過ぎていた。

 もう一度LINEを開いた。今度は宮下ではなく、七海に送ろうとした。「ねえ、聞いてほしいことがあるんだけど」。でも、七海は婚約者と幸せの真ん中にいる。深夜一時に友人の恋愛相談——恋愛ですらない何かの相談——を持ちかけるのは違う、と思った。

 誠司のことを思い出した。SNSで婚約を知った夜のこと。あのときも深夜に宮下に電話をした。宮下は出てくれた。何も聞かずに話を聞いてくれた。でもそれは、宮下が優しいからではなく、宮下が渚に深入りしていないからだ。深入りしていない人間は、相手の痛みを聞くことができる。自分が傷つかないから。

 そのことに、今さら気づいた。

 渚はスマートフォンを床に置いた。ソファの上で横になった。ブランケットも掛けずに、そのまま目を閉じた。

 頭の中で宮下の声がした。「写真はいつも引き算だよ」。あの言葉の意味が、今ならわかる気がした。宮下は常に引き算をしている。感情を、言葉を、関係性を、必要最低限まで削り落とす。そうすることで美しいものを作る。写真もそうだし、人間関係もそうだ。余計なものを入れない。約束しない。期待させない。そうすることで、彼自身は傷つかない。

 でも引き算された側の人間はどうなるのだろう。

 渚は引き算された側だった。宮下のフレームの中に入れてもらえなかった部分。映らなかった部分。必要ではないと判断された部分。

 目を開けた。天井の照明が白く光っている。消すのが面倒で、つけたままだった。

 起き上がって、LINEを開いた。

「ねえ、私たちって何なの」

 入力した。

「友達? それとも——なんなの」

 入力した。

「宮下は私のこと、どう思ってるの」

 入力した。

 全部消した。

 また入力した。

「正直に言ってほしい。あの子と付き合ってるの?」

 消した。

「私は宮下のことが好きだと思う」

 消した。

「嘘。好きかどうかもわからない。ただ、いなくなるのが怖い」

 消した。

 消して、消して、消して、最後に残ったのは空白の入力欄だった。

 渚は画面をスクロールして、過去のやり取りを眺めた。何百通ものメッセージが並んでいる。日常の断片。スタンプ。写真。短い言葉のやりとり。その一つ一つが、何かの証拠のように思えた。何の証拠かはわからない。ただ、ここに何かがあった、ということの証拠。

 渚は入力欄に文字を打った。

「ごめん、さっきは変なこと聞いた。気にしないで。おやすみ」

 送った。

 既読はつかなかった。宮下はもう寝ている。当然だ。深夜一時半だ。まともな人間は寝ている。

 渚は画面を閉じて、スマートフォンを握ったまま、ソファの上で目を閉じた。

 眠れなかった。

 二時を過ぎて、三時を過ぎて、外が少しずつ白み始めた頃に、渚はようやく眠った。

 朝、スマートフォンのアラームで目が覚めた。六時半。ソファの上で、首が痛かった。LINEを確認した。宮下からの返信。

「全然大丈夫。おやすみ」

 渚はそれを読んで、しばらくぼんやりした。「全然大丈夫」。その四文字が、宮下のすべてだった。何があっても「全然大丈夫」。揺れない。動じない。それは強さではなく、渚と彼のあいだに壁があるということだった。その壁を渚は乗り越えられないし、宮下は壁を取り払うつもりがない。

 渚はシャワーを浴びて、服を着替えて、化粧をした。鏡の中の自分の顔は普通だった。少し目の下にクマがあるが、コンシーラーで消える程度のものだ。髪を巻いて、アクセサリーをつけて、パンプスを履いた。

 いつもの自分だ。

 散らかったままの部屋を振り返った。シンクの食器。テーブルの空き缶。脱ぎっぱなしの部屋着。今夜帰ってきたら片付けよう、と思った。でも、本当にそうするかどうかはわからなかった。

 玄関のドアを閉めた。

 わかっていた。最初からわかっていた。それでも、知らなかったふりをしていたのは自分だった。

09

第九章 散らかったままでいい

月曜日が来て、渚は出社した。

 九月の第三週。夏の名残のような蒸し暑さが朝の中央線に充満していて、渚はつり革を持つ手が汗ばむのを感じていた。隣に立つ女性が文庫本を読んでいる。カバーがかかっていて、タイトルは見えなかった。

 宮下とは、あの夜以来連絡を取っていなかった。

 正確には、宮下から水曜日に「今週、やっぱりちょっと厳しいかも。また改めて」というメッセージが来た。「来週とか、どう?」と言っていたのに。渚は「了解」とだけ返した。それから一週間が経っている。

 会社に着いて、デスクに座って、パソコンを開いた。メールが三十二件。Slackの通知が十四件。渚はそれを一つずつ処理した。キャンペーンの進捗を確認し、クリエイティブのフィードバックを返し、午前の会議に出た。会議では新規施策の提案をして、部長から「花田さんのプラン、いいね」と言われた。渚は「ありがとうございます」と笑顔で答えた。

 昼休みに川島とコンビニに行った。サラダとサンドイッチを買って、オフィスの休憩スペースで食べた。

「花田さん、今度の連休どっか行く?」

「まだ決めてない。川島さんは?」

「彼氏と箱根行こうかなって。紅葉にはまだ早いけど」

 箱根という単語が胸に引っかかったが、渚は表情を変えなかった。「いいね、箱根」と言って、サンドイッチを口に運んだ。

 午後も仕事をした。数字を見て、資料を作って、取引先にメールを書いた。五時半に退社して、電車に乗って、西荻窪で降りた。

 駅前のスーパーで牛乳と卵とレタスを買った。帰り道、商店街の居酒屋から煙と笑い声が漏れている。渚はそれを横目に通り過ぎた。

 帰宅して、鍵を開けた。

 部屋は散らかったままだった。あの夜から、まだ片付けていなかった。テーブルの上のビールの空き缶は渚が週末に捨てたが、シンクの食器は洗っておらず、洗面所のタオルも替えていない。リビングの床にパジャマの上が落ちている。本棚の前に積まれた雑誌の山。ソファの上のブランケットはくしゃくしゃのままだ。

 以前の渚なら、帰宅した瞬間に片付けを始めていた。散らかった部屋を見ると落ち着かなかった。整えることで自分を整えていた。でも今は、散らかった部屋を見ても、片付ける気が起きなかった。起きないことに対する焦りも、以前ほどはなかった。

 買ってきた牛乳を冷蔵庫に入れた。冷蔵庫の中もあまり物がない。ビールの残り一本と、使いかけのマヨネーズと、母がくれた煮物のタッパー——これはもうだいぶ前のものだ。開けてみたら、匂いが変わっていた。捨てた。

 シンクの食器を洗おうとして、やめた。代わりに卵を割って、フライパンでスクランブルエッグを作った。レタスをちぎって皿に盛り、その横にスクランブルエッグを載せた。それだけの夕食。

 ソファに座って、テレビをつけないまま食べた。

 火曜日の夜、仕事帰りにスマートフォンを見たら、知らない番号からメッセージが来ていた。

「花田さん、先日はお会いできて嬉しかったです。七海から連絡先を教えてもらいました。もし良ければ今度お食事でもいかがですか。藤原です」

 藤原。渚は一瞬考えて、思い出した。七海の婚約パーティーで話した男性だ。婚約者の友人で、渚の隣に座って、ワインを注いでくれた。顔は——なんとなく覚えている。メガネをかけていて、穏やかな笑い方をする人だった。

 七海が連絡先を渡したのだ。パーティーの後で、七海が「藤原くん、渚のこと気になってたみたいだよ」と言っていたのを思い出した。渚は「ふうん」と流していたが、七海はちゃんと番号を教えたらしい。

 渚はメッセージを読み返した。丁寧な文面だった。「お会いできて嬉しかったです」「もし良ければ」。礼儀正しい人なのだろう。悪い印象はなかった。

 宮下のことが頭をよぎった。一週間以上連絡を取っていない人のことが、まだ頭にいる。

 渚は藤原に返信した。

「ご連絡ありがとうございます。パーティーではお話しできて楽しかったです。ぜひ、お食事行きましょう」

 送信した。

 送信してから、自分の中を確認した。何を感じているか。嬉しいのか。期待しているのか。

 どちらでもなかった。ただ、誰かに「会いたい」と言われることの安堵があった。自分を欲しいと思う人がいるという確認。それだけだった。それだけで十分だった。いや——それだけしかないことが問題なのだと、渚はわかっていた。

 わかっていて、返信した。

 金曜日の夜、渚は藤原と恵比寿で食事をした。

 イタリアンの店だった。藤原が予約してくれた。カウンターではなくテーブル席で、白いクロスがかかっていて、小さなキャンドルが灯っていた。デートの定番のような店だと渚は思った。

 藤原拓哉、三十一歳。商社勤務。七海の婚約者とは大学のサークルの同期。実家は神奈川。趣味はゴルフと映画鑑賞。——そういう情報を、食事の間に渚は集めた。藤原は自分のことをちょうどいい分量で話す人だった。聞かれたことに答え、聞き返すことも忘れない。会話のバランスを取ることに慣れている。

「花田さんはIT企業なんですよね。マーケティングって面白いですか?」

「面白いですよ。数字で結果が見えるのが性に合ってるのかも」

「すごいな。僕は数字苦手で」

 藤原は笑った。歯並びがきれいだった。感じのいい人だ、と渚は思った。清潔感があって、会話が上手で、こちらの話を聞いてくれる。欠点が見えない。欠点が見えないことが、渚を少し不安にさせた。

 ワインを二杯飲んだあたりで、藤原が「二軒目、行きませんか」と言った。渚は「いいですね」と答えた。

 近くのバーに行った。カウンターの端に並んで座って、ジントニックを頼んだ。藤原はハイボールを飲んでいた。

「七海がすごく褒めてたんですよ、花田さんのこと」

「七海が? 何て?」

「すごく素敵な子だから、絶対気が合うと思う、って」

 七海は善意でそう言ったのだろう。渚を心配して、いい人を紹介しようとして。渚はそれを疑わなかった。七海はそういう人だ。

「七海は大げさなんです」

「そんなことないですよ。実際、今日すごく楽しいし」

 藤原が渚のほうを見た。その視線に、好意があった。隠そうとしない好意。渚はそれを受け止めた。受け止めることができた。好意を向けられることには慣れている。

 問題は、渚がその好意に対して何を返せるかだった。

 バーを出たのは十一時過ぎだった。恵比寿駅に向かう道で、藤原が「送りますよ」と言った。

「大丈夫です、西荻窪だから一本で帰れるので」

「そうですか。——また、食事行きましょう。次は僕が好きな和食の店があるんで」

「ぜひ」

 改札で別れた。藤原は手を振って、反対方向のホームに向かった。渚はそれを見送って、自分のホームに向かった。

 電車の中で、スマートフォンを見た。藤原から「今日はありがとうございました。楽しかったです」とメッセージが来ていた。渚は「こちらこそ、ありがとうございました」と返した。

 宮下からの連絡はなかった。

 宮下のインスタグラムを開いた。新しい投稿はなかった。最後の投稿はあの日本酒の写真のままだった。渚はそれを見て、画面を閉じた。

 家に帰って、靴を脱いで、そのまま床に座り込んだ。しばらく動かなかった。

 藤原はいい人だ。清潔で、礼儀正しくて、渚に好意を持ってくれている。普通なら嬉しいはずだ。二度目のデートに誘ってくれた。ちゃんとした大人の男性が、ちゃんとした手順で渚に近づいてくれている。

 でも渚の中にあるのは、充足ではなかった。

 藤原に好意を向けられたことで、一瞬だけ満たされた。「自分は選ばれる側にいる」という確認ができた。でもそれは、砂に水を撒くようなものだった。染み込んで、すぐに乾く。

 渚は立ち上がって、シャワーを浴びた。パジャマに着替えて、ベッドに入った。

 天井を見た。西荻窪のこの部屋の天井には染みはない。実家の天井にはあった。中学生の頃から見つめていた染み。ここにはそれがない。まっさらな白い天井。自分で選んだ部屋の、自分で決めた生活の、何もない天井。

 眠れなかった。

 翌週、藤原とまた食事をした。今度は水曜日で、藤原が言っていた和食の店だった。神楽坂の、路地を入ったところにある小さな店。カウンター八席だけの割烹で、おまかせのコースを食べた。料理は美味しかった。日本酒を二合飲んだ。

 藤原は前回と同じように穏やかで、礼儀正しかった。仕事の話、趣味の話、最近見た映画の話。渚はそれに応じながら、自分が何を感じているかを測り続けていた。楽しいか。楽しい。でもその楽しさは、この人自身から来ているのか、それとも「誰かと一緒にいること」から来ているのか。

 区別がつかなかった。

 店を出て、神楽坂の坂を下りながら歩いた。九月の終わりで、夜風が少し涼しくなっていた。

「花田さん」

「はい」

「今日も楽しかったです」

「私もです」

 藤原が立ち止まった。渚も立ち止まった。坂の途中で、街灯の光が藤原の顔を斜めから照らしていた。

「あの——もう少し一緒にいませんか」

 渚は藤原の顔を見た。その目に迷いがなかった。好意と、少しの緊張と、期待。わかりやすい感情が並んでいる。宮下とは違う。宮下の目はいつも何かが引かれていて、奥が見えなかった。藤原の目は、そこにあるものがそのまま見えた。

「いいですよ」

 渚はそう答えた。

 答えながら、自分の中で何かが冷静に動いているのを感じた。またやるのか、と。この人と夜を過ごして、朝になって、それで何かが変わるのか。何も変わらない。わかっている。宮下のときと同じだ。相手が変わっただけで、構造は同じだ。

 それでも、渚は「いいですよ」と言った。

 言った理由を、渚は正確に知っていた。今夜一人で部屋に帰りたくなかったのだ。散らかったままの部屋に帰って、エアコンの音だけの中でスマートフォンを握りしめて、宮下のインスタグラムを開いて——そういう夜を過ごしたくなかった。誰かの体温が欲しかった。それが藤原でなくても、たぶん同じだった。

 そのことが、いちばん苦しかった。

 藤原のマンションは飯田橋にあった。築浅の1LDKで、整理整頓が行き届いている。靴は揃えて脱ぎ、キッチンのカウンターには何も置かれていなかった。冷蔵庫にはミネラルウォーターとビールとチーズが入っていた。きちんとした人の冷蔵庫だ、と渚は思った。

 藤原がグラスに水を入れて渡してくれた。渚はそれを飲みながら、リビングのソファに座った。藤原が隣に座った。

 テレビはついていなかった。窓の外に首都高の光が流れている。

 藤原が渚の肩に手を置いた。渚はそれを拒まなかった。

 その後のことを、渚は天井を見ながら過ごした。

 藤原は丁寧な人だった。声をかけてくれたし、渚の反応を見ていた。悪い人ではない。悪い体験でもない。ただ、渚はその間ずっと、自分を上から見ている自分がいた。天井に貼りついたもう一人の自分が、ベッドの上の自分を見下ろしている。

 ああ、またやっている。

 そう思った。

 誠司と別れた後、宮下と過ごした夜にも、同じ感覚があった。体はここにあるのに、心はどこか少し離れたところにある。求められていることの安堵と、それだけでは足りないことの空虚が、同時にある。

 藤原が渚の髪に触れながら「きれいだね」と言った。渚は「ありがとう」と答えた。その声が自分のものではないような気がした。

 こんなことをする人間ではなかったはずだ——と思おうとして、やめた。こんなことをする人間だった。ずっとそうだった。誠司と付き合っているときですら、誠司の好意だけでは不安で、他の誰かの視線を求めていた。宮下と曖昧な関係を続けたのも、今夜藤原とここにいるのも、すべて同じ根から伸びている。

 欲しいと思われることでしか、自分を確かめられない。

 その言葉が、今まで何度も頭の中で形を取りかけて、そのたびに渚は目を逸らしてきた。でも今夜は逸らせなかった。藤原の整った部屋の、きれいな天井の、白い壁に囲まれた場所で、渚はそれをはっきりと見た。

 これが自分だ。

 自分で作った構造の中で、自分で繰り返している。

 朝、藤原がコーヒーを淹れてくれた。トーストを焼いて、バターを塗って、「ジャムもあるよ」と言った。渚は「ありがとう」と言って、トーストを一枚食べた。

「また会えますか」と藤原が聞いた。真っ直ぐな目だった。

「うん。また連絡する」

 渚はそう答えた。「また連絡する」——宮下がよく使うのと同じ言葉だった。それに気づいて、渚は少し目を伏せた。

 藤原のマンションを出て、飯田橋の駅に向かった。朝九時。平日だが、今日は有休を取っていた。もともと何の予定もなかった有休で、ただ休みたかっただけだ。

 電車に乗った。中央線で西荻窪に戻る。車内は通勤ラッシュを過ぎた時間で、そこそこ空いていた。渚は座席に座って、窓の外を見た。

 スマートフォンを開いた。藤原から「今朝はゆっくりしてね」とメッセージが来ていた。渚は少し間を置いてから「ありがとう」と返した。

 宮下のトーク画面を開いた。最後のメッセージは「全然大丈夫。おやすみ」。十日以上前だ。そこから何も動いていない。

 渚は画面を閉じた。

 西荻窪に着いて、駅から歩いて帰った。商店街のパン屋からバターの匂いがする。花屋の店先にはケイトウの花が並んでいた。赤と黄色とオレンジ。秋の色だ。

 部屋の鍵を開けた。

 散らかったままだった。

 シンクの食器は、先週のどこかで洗ったが、また新しいのが溜まっている。テーブルの上にはペットボトルとレシートと、読みかけの雑誌。ソファのブランケットはぐちゃぐちゃ。洗濯物を取り込んだまま畳んでいない山が、椅子の上に載っている。

 渚は靴を脱いで、部屋に入った。

 昨夜の自分の痕跡がない部屋。ここには藤原は来ていない。宮下もここ一ヶ月は来ていない。渚だけの空間。渚だけが散らかした空間。

 ソファに座った。テレビはつけなかった。

 しばらく何もしなかった。

 時計を見た。十時二十分。有休の一日が長く伸びている。何をしてもいい。何もしなくてもいい。

 渚は立ち上がって、キッチンに行った。冷蔵庫を開けた。昨日買った牛乳と卵がある。卵を取り出して、フライパンを火にかけた。二度目のスクランブルエッグ。さっき藤原の家でトーストを食べたばかりなのに、また作っている。なぜだかわからなかったが、自分の手で何かを作りたかった。

 スクランブルエッグを皿に載せて、テーブルに置いた。フォークで一口食べた。塩が足りなかった。立ち上がって塩を振って、また食べた。

 ぼんやりと卵を食べながら、渚は考えていた。

 何を繰り返しているのだろう。

 誠司と三年付き合って、自分から壊した。宮下と曖昧な関係を続けて、傷つく権利のない場所で傷ついた。藤原と一夜を過ごして、朝には「また連絡する」と言った。

 パターンが見える。自分のパターンが。近づいて、深入りして、でも核心には触れない。触れないように設計している。名前をつけないこと。約束しないこと。期待しないふりをすること。それらはすべて、傷つかないための防御のはずだった。でも、防御しているのに傷ついている。防御そのものが傷になっている。

 わかっている。

 わかっていて、やっている。

 わかっていて、やっていることが、いちばん苦しい。知らなかったときのほうがまだましだった。知らなければ、ただ流されているだけで済んだ。でも今は、流されている自分を見ている自分がいる。止められるかもしれないのに、止めない自分がいる。

 スクランブルエッグを食べ終えた。皿をシンクに置いた。洗わなかった。

 ソファに戻って、横になった。ブランケットを引っ張って体にかけた。天井を見た。

 宮下のことを考えた。もう終わりなのだろうか。終わりも始まりもない関係に「終わり」があるのだろうか。名前のなかったものが消えるとき、何が消えるのだろう。

 藤原のことを考えた。いい人だ。渚が望めば、あの人はちゃんと付き合ってくれるだろう。デートをして、連絡を取り合って、いずれ恋人になって、いずれ——。でもその先を想像すると、同じパターンが見えた。藤原の好意に安心して、その安心が薄れたらまた別の場所に安心を求めて。

 問題は相手ではない。

 問題は自分だ。

 そんなことは、ずっと前からわかっていた。わかっていて、目を逸らしていた。誠司のせいにしたり、宮下の冷たさのせいにしたり、母の過干渉のせいにしたり。誰かのせいにしていれば、自分を見なくて済んだ。

 でも、もうそろそろ限界だった。誰のせいにもできない場所に、渚は来ていた。

 スマートフォンが鳴った。七海からのLINEだった。

「渚ー! 藤原くんとご飯行ったんだって? どうだった??」

 渚は画面を見つめた。しばらく考えてから、返信を打った。

「いい人だった。でも、今はちょっと誰かと付き合う感じじゃないかも」

 送信した。七海から「えー、そうなの? もったいない! でも渚がそう思うなら、そうなんだろうね」と返ってきた。

「ごめんね、せっかく紹介してくれたのに」

「全然! 渚のペースでいいんだよ。また何かあったら言ってね」

「ありがとう」

 渚はスマートフォンを置いた。

 午後の光が窓から入ってきている。九月の光は夏より少しだけ柔らかい。カーテンの隙間から床に細い筋が落ちて、埃が光の中を漂っている。

 渚はその埃を見ていた。

 何も解決していない。何も変わっていない。明日になればまた出社して、「花田さん、おはようございます」と言われて、笑顔で返して、数字を見て、会議に出る。「ちゃんとした自分」は明日も機能する。

 でも、今日この瞬間だけは、ちゃんとしていなかった。有休を取って、散らかった部屋で、洗っていない皿をシンクに残したまま、ソファに横になっている。それは怠惰かもしれないし、敗北かもしれない。

 でも——。

 渚は寝返りを打った。ブランケットの端を握った。

 これが自分なのだ、と思った。散らかった部屋にいる自分。欲しいと思われることで自分を確かめようとする自分。わかっていてやめられない自分。それを直視することが、今までできなかった。直視する代わりに、深夜に部屋を片付けて、きれいに整った空間を見て、「大丈夫」と自分に言い聞かせていた。

 今日は片付けなかった。

 片付けないまま、ここにいる。

 それが何かの前進なのかどうかはわからなかった。たぶん前進ではない。ただ、止まっているだけだ。でも、走り続けるのをやめて立ち止まることにも、何かの意味はあるのかもしれない。

 渚は目を閉じた。眠るつもりはなかったが、体が重かった。昨夜あまり眠れなかったこともある。藤原の部屋でも、結局うまく眠れなかった。

 うとうとしかけたとき、スマートフォンが鳴った。目を開けて画面を見た。

 宮下からだった。

「久しぶり。元気にしてる?」

 渚はそのメッセージを見て、しばらく動かなかった。

 以前の自分なら、すぐに返信していた。嬉しくて、安心して、「元気だよ」と返して、会話を繋ごうとしていた。

 今は——嬉しさはあった。でもその嬉しさの下に、疲れがあった。また同じ場所に戻るのだろうか、という疲れ。「久しぶり」「元気にしてる?」「また今度ご飯行こう」「うん」——そういうやり取りを繰り返して、近づいて、離れて、近づいて。

 渚はスマートフォンを裏返しにして、テーブルに置いた。

 返信しなかった。

 返信しないことが正解かどうかはわからなかった。宮下を罰したいわけではない。距離を取りたいのか、もう終わりにしたいのか、それすらもわからなかった。ただ、今は返信する言葉がなかった。「元気だよ」は嘘だし、「元気じゃない」は重すぎる。何を返しても嘘になる気がした。

 だから、何も返さなかった。

 窓の外で鳥が鳴いた。何の鳥かはわからない。都会の鳥は種類が少ない。鳩かムクドリか、そんなところだろう。

 渚はブランケットに顔を埋めた。柔軟剤の匂いがした。自分が使っている柔軟剤。実家の母のとは違う、自分で選んだ匂い。

 しばらくそうしていた。泣いてはいなかった。泣きたいのかどうかもわからなかった。ただ、顔を埋めていると、世界が少し小さくなる。自分の呼吸だけが聞こえる空間になる。それが今は必要だった。

 時間が過ぎた。

 日が傾いて、窓からの光が橙色に変わっていた。渚は顔を上げた。部屋は相変わらず散らかっていた。シンクの食器。テーブルの空のペットボトル。椅子の上の洗濯物の山。床に落ちたパジャマの上。

 渚はそれを見た。

 部屋が散らかっていた。今夜は片付けなかった。それでいい、と思ったのか、それでいい、と諦めたのかわからなかった。

10

第十章 姉の本当のこと

姉が来ると知ったのは、前日の夜だった。

 LINEに「明日、そっち行っていい?」とだけ入っていた。真由からの連絡は大抵、母の近況報告か、実家に帰ってこないかという遠回しな催促で、こんなふうに突然「行きたい」と言ってくることはなかった。渚はベッドの上でスマホを持ち替えて、数秒考えた。部屋は散らかっている。金曜の夜で、明日は休みだった。断る理由はない。でも、すぐに返事ができなかった。

 それは姉に対する警戒ではなく、自分の部屋に人を入れることへの——正確には、今の自分の部屋の状態を誰かに見られることへの、漠然とした抵抗だった。

 九月の終わりだった。九章の終わりから二週間が経っていた。部屋は片付けた。正確には、片付けないまま数日過ごしたあと、ある朝、急にだめだと思って掃除機をかけ、シンクの食器を洗い、脱ぎ捨てた服を洗濯機に入れた。きれいになったわけではない。ただ、生活の体裁が戻っただけだ。

 「いいよ、何時ごろ?」と返した。既読がすぐについて、「昼過ぎ、一時くらい。悠斗は連れてかない」と来た。

 悠斗を連れてこない。二歳の息子を置いてくるということは、夫の翔太か、母に預けるということだった。真由が一人で東京に来ること自体が珍しい。渚は何かを感じ取ったが、それが何かはわからなかった。「了解」とだけ返して、スマホを枕元に置いた。

 天井を見た。このところ、天井を見ることが多い。宮下のことは考えないようにしていた。考えないようにしている、ということを意識するたびにすでに考えていることになるので、正確には、宮下のことを考えている自分にいちいち反応しないようにしていた。

 朝、起きて、コーヒーを淹れた。砂糖なし、ミルクなし。いつもどおりだった。


 真由は一時十五分に着いた。西荻窪の駅から歩いてきたらしく、少し汗をかいていた。白いリネンのシャツにベージュのワイドパンツ、キャンバス地のトートバッグ。渚が知っている姉の格好だった。でも、よく見ると、シャツの襟元がわずかによれていた。アイロンをかけ忘れたのか、そこまで気が回らなかったのか。渚は気づいたが、何も言わなかった。

「暑かったでしょ」

「うん、ちょっと。九月ってまだこんな暑いんだね」

 渚は冷たいお茶を出した。無印良品のピッチャーで作っておいた麦茶を、ガラスのコップに注いだ。真由は「ありがとう」と言って受け取り、一口飲んで、部屋を見回した。

「きれいにしてるね」

「そうでもないよ」

 実際、そうでもなかった。テーブルの上には開きっぱなしのノートパソコンと、充電コードが二本、絡まったまま置いてあった。キッチンの水切りかごには昨日の食器がまだ残っている。でも真由は「うちなんかもっとすごいよ、悠斗がいるとさ」と笑った。その笑い方が少し薄かったことに、渚は気づいていた。

 真由はソファに座った。渚の部屋にソファはない。正確には、二人掛けのローソファがあるが、普段は渚が一人で横になるために使っていて、そこに誰かが座ると、なんとなく空間の意味が変わる気がした。渚は床にクッションを置いて座った。

「悠斗、元気?」

「元気だよ。最近、何でもイヤって言う。イヤ期」

「大変だね」

「大変。でもまあ、みんなそうだって言うし」

 会話は穏やかだった。穏やかで、少し遠かった。いつもこうだ。渚と真由の会話は、何かを避けながら進む。避けているものが何なのか、二人とも知っているような、知らないような。

 渚は自分の分のお茶も入れた。立ち上がってキッチンに行くとき、真由がスマホを見ているのが視界の端に映った。何かを確認して、すぐに画面を伏せた。

「お母さん、元気?」

「元気。相変わらず。渚にも電話しなさいって言ってた」

「してるよ、たまに」

「たまにね」

 真由は少し笑った。今度の笑い方は、さっきより自然だった。渚はお茶を持って戻り、クッションに座り直した。

 しばらく、近況の話をした。渚の仕事のこと。真由の住む街にできた新しいパン屋のこと。悠斗が最近覚えた言葉のこと。表面を滑っていく会話だった。渚はそれでいいと思っていた。姉妹の会話はいつもこうで、このまま夕方になって、真由が帰って、LINEで「今日はありがとう」と来て、それで終わる。そういうものだと思っていた。

 変わったのは、二杯目のお茶を注いだあとだった。


 真由がコップをテーブルに置いて、少し黙った。渚はそれを、会話の自然な間だと思った。窓の外で、鳥が鳴いていた。九月の終わりの、まだ夏を引きずった午後の光が、カーテン越しに入ってきていた。

「渚」

「ん?」

「あのさ」

 真由は膝の上に置いた手を見ていた。爪はきれいに整えられていたが、マニキュアは塗っていなかった。以前は薄いピンクを塗っていた気がする。

「翔太とね、最近あんまりうまくいってない」

 渚は何も言わなかった。言えなかったのではなく、言う前に、姉の声の質が変わったことに気づいて、その変化を正確に受け取ろうとしていた。

「うまくいってない、っていうか……喧嘩とかじゃないの。喧嘩すらしない、っていうほうが近いかな」

 真由は膝の上の手を組み替えた。

「翔太は悪い人じゃないよ。ちゃんとしてるし、悠斗のことも可愛がってるし。でもさ」

 そこで止まった。渚は待った。

「なんていうのかな。わたし、選んだはずなのに、選ばれた気がしないの」

 その言葉が、渚の中で何かに触れた。選ばれた気がしない。それは渚自身がずっと抱えてきた感覚に近かった。ただし、渚の場合は「選ばれていない」ことが前提で、真由の場合は「選んだはずなのに」がつく。似ているのに違う。違うのに、痛みの形が似ている。

「翔太はさ、結婚して、子どもが生まれて、それで完成したと思ってるんだと思う。達成したっていうか。チェックリストの項目を全部埋めたみたいな。で、あとは維持すればいいって」

「維持」

「そう。維持。現状維持。朝起きて、仕事行って、帰ってきて、ご飯食べて、悠斗をお風呂に入れて——入れてくれるよ、ちゃんと。でもさ、それだけなの。わたしのこと見てないの。わたしがいなくても回る生活の中に、わたしがいるだけっていう感じ」

 渚は何か言おうとした。でも何を言えばいいかわからなかった。「大変だね」は違う。「わかるよ」は嘘になる。渚は結婚していない。夫婦生活を知らない。知らないことについて「わかる」とは言えない。

「前にさ、渚のこと羨ましいって言ったでしょ」

「帰省したとき」

「うん。あれ、本当だったの」

 渚は黙った。

「渚は自由じゃん。一人で暮らして、好きなことして——いや、好きなことしてるかどうかはわかんないけど、少なくとも自分の時間があって、自分で決められる。わたしはさ、朝起きる時間も、食事の内容も、休日の予定も、全部誰かに合わせてる。合わせるのが当たり前で、合わせることが愛情だって思ってたんだけど」

 真由の声が少し震えた。渚はそれを聞き逃さなかった。

「合わせてるのに、合わせてることに気づいてもらえないの。翔太はわたしが合わせてることを知らない。知らないっていうか、それが自然だと思ってるから」

「真由ちゃん」

「あ、ごめん。別に愚痴りに来たわけじゃないんだけど」

「いいよ、別に」

「ほんと?」

「うん」

 渚は自分の声がどんな温度だったかを測ろうとした。優しかっただろうか。冷たくはなかっただろうか。姉に対して渚はいつも、ある種の緊張を持っていた。それは嫌いだからではなく、真由が「正解」を歩いている人だったからだ。結婚して、子どもを産んで、郊外に家を構えて。母が安心する人生を、真由は選んでいた。渚はそれを、少し遠くから見ていた。羨ましいのか、そうでないのか、自分でもわからないまま。

 でも今、目の前の姉は「正解」の中にいながら、正解の中にいない顔をしていた。

「翔太に言ったことある? そういうこと」

「言えないよ。だって、翔太は何も悪くないもん。悪くない人に不満を言うのって、すごく難しくない?」

 渚にはわかった。それは、わかった。宮下に対して——恋人ではない宮下に対して、「もっとちゃんとしてよ」と言えなかったのと同じ構造だった。相手が何も約束していないから、何も求められない。求める権利がないと思い込む。でもその裏側で、求めたい気持ちだけが膨らんでいく。

「ねえ、渚」

「うん」

「わたしね、この前、一人で泣いたの。悠斗が寝て、翔太も寝て、リビングで一人になって。テレビつけて、音量下げて、毛布かぶって泣いた。理由がよくわかんなかったんだけど。でも、止まんなくて」

 真由の目が赤くなっていた。泣いてはいなかった。泣く手前で止まっているように見えた。渚はその顔を見ていた。

「それで、誰かに話したいって思ったんだけど、話せる人がいなくて。お母さんには言えないでしょ、心配するし。友達にも——ちゃんとやってるって思われたいから。で、渚の顔が浮かんだの」

「わたし?」

「渚は、なんか、わかってくれそうだったから」

 渚は何も言えなかった。わかってくれそう。その言葉が意外だった。渚は自分が、姉に対して何かをわかる立場にいるとは思っていなかった。むしろ、わかっていない側にいると思っていた。姉の生活を、姉の選択を、遠くから見て、比較して、自分のほうが足りないと思う側。

「真由ちゃんがさ」

「うん」

「……正解の人生、歩いてると思ってた」

 真由は少し驚いた顔をした。それから、笑った。前の薄い笑いとは違う、苦いけれど本物の笑い方だった。

「正解?」

「うん。結婚して、子ども産んで、翔太さんも優しいし。お母さんも安心してるし。わたしはそれを見て——」

 渚は言葉を選ぼうとして、やめた。選ばなかった。

「羨ましかった。ずっと。でも、羨ましいと思うことで、自分のほうが自由だとか、自分は自分でいいとか、そういうことも思えなくて。ただ、足りない気がしてた」

「渚が?」

「うん」

「何が足りないの?」

「わかんない。でも、真由ちゃんのほうが、ちゃんとしてるなって。いつも」

 真由はコップの中の麦茶を見つめていた。氷が溶けて、薄くなっている。

「ちゃんとしてないよ」

「うん。今日、わかった」

「わかったって言い方、ひどくない?」

「あ、ごめん。そういう意味じゃなくて」

「冗談だよ」

 真由が笑った。渚も笑った。二人で笑ったのは久しぶりだった。子どものころ——風呂場で、二人で同じシャンプーの泡を頭に乗せて笑ったことがあった。あのときの笑い方とは違うけれど、力が抜けているところは似ていた。


 夕方になっていた。窓の外の光が傾いて、部屋の中がオレンジ色に染まった。渚はもう一度お茶を入れようとしたが、麦茶がなくなっていたので、ほうじ茶のティーバッグを二つ、マグカップに入れた。お揃いのマグカップではない。一つは渚がIKEAで買った青いやつで、もう一つは以前七海がくれたスヌーピーの柄のやつだった。真由はスヌーピーのほうを受け取った。

「こういうの持ってるんだ」

「もらいもの」

「かわいいね」

 ほうじ茶の湯気が上がっていた。渚はそれを見ながら、さっきの会話のことを考えていた。真由が泣いたこと。リビングで一人で、毛布をかぶって。その映像が頭の中に浮かんで、消えなかった。

 渚は自分が何を感じているのかを確認しようとした。同情だろうか。安堵だろうか。姉も完璧じゃなかったという、どこか安心するような——。

 いや、違った。安堵ではなかった。もしそうなら、もっと楽な気持ちになるはずだ。でも楽ではなかった。胸の奥に、重くはないが確実にある何かがあった。それは——。

「渚は?」

 真由の声で考えが途切れた。

「え?」

「渚は最近どうなの。誰かいるの?」

 直接的な質問だった。母なら「いい人いないの?」と聞く。七海なら「なんかあった?」と察する形で聞く。真由は「誰かいるの」と聞いた。

「……いない」

「前にいた人は?」

 宮下のことだろうか。渚は真由に宮下の話をしたことがあっただろうか。記憶をたどったが、はっきりしなかった。たぶん、直接は話していない。でも真由は何かを感じ取っていたのかもしれない。帰省のとき、渚のスマホを見る頻度とか、そういうところから。

「終わった。終わったっていうか、始まってなかったのかもしれないけど」

「そう」

 真由はそれ以上聞かなかった。渚はそのことに感謝した。聞かれたら話してしまいそうだったから。宮下のこと。別の女性のこと。LINEを送りすぎた夜のこと。崩壊のこと。話したら楽になるかもしれないが、話すことで形が決まってしまう気がした。まだ、形を決めたくなかった。

「ねえ」と渚は言った。「真由ちゃん、今日泊まる?」

 真由は少し驚いた顔をした。

「え、いいの?」

「布団ないけど、ソファで寝るか、ベッドに二人で寝るか」

「子どもかよ」

「子どものころはそうだったでしょ」

「そうだっけ」

 真由は少し考えて、「じゃあ、翔太に連絡する」と言った。スマホを取り出して、短いメッセージを打っていた。渚はその横顔を見ていた。スマホを打つ姉の指。結婚指輪がはまっている。その指輪が、今日の話を聞いたあとでは、少し違うものに見えた。拘束のようにも、支えのようにも、ただの金属のようにも見えた。

「翔太、なんて?」

「『了解』って。これだけ」

 真由は画面を渚に見せた。「了解」の一文字だけが表示されていた。その前後のやりとりは見えなかったが、渚は見せられたその画面から、真由が何を感じているかを想像した。了解。それだけ。心配するでもなく、理由を聞くでもなく。ただ、了解。

「翔太さん、いい人だね」

「うん、いい人だよ。いい人なの」

 その「いい人」に込められた複雑さを、渚は受け取った。


 夜になって、近くのスーパーに二人で買い物に行った。真由が「何か作ろうか」と言って、渚は「お願い」と答えた。真由は料理が上手い。上手いというか、手際がいい。冷蔵庫の中身を見て、足りないものをすぐに判断できる人だった。渚はそれが昔から少し眩しかった。

 スーパーの蛍光灯の下を、二人で歩いた。真由がトマトを選んでいる間、渚はパスタの棚を見ていた。一・六ミリと一・四ミリで迷って、一・六ミリにした。特に理由はなかった。

「トマトソースでいい?」

「いいよ」

「にんにくある?」

「チューブのならある」

「チューブか……まあ、いいか」

 その「まあ、いいか」に、かつてなら渚は小さな劣等感を覚えたかもしれない。ちゃんとしたにんにくを常備していない自分。料理に手を抜く自分。でも今日は、そう思わなかった。思わなかったことに、少し驚いた。

 帰宅して、真由がキッチンに立った。渚は隣に立って、言われたものを渡す係になった。まな板、ピーラー、オリーブオイル。渚のキッチンは狭くて、二人で立つと肩がぶつかった。

「狭いね」

「一人用だから」

「一人用の人生」

「やめてよ」

 真由は笑った。トマトを湯むきしながら、鼻歌を歌っていた。知らない曲だった。

 パスタを茹でている間、真由のスマホが鳴った。画面を見て、「悠斗だ」と言った。翔太からのビデオ通話だった。真由は出て、画面に向かって「ゆうと、ママだよ」と言った。画面の向こうで、小さな声が何か言っていた。渚にはよく聞き取れなかった。真由は笑いながら「ちゃんとご飯食べた? えらいね」と言っていた。

 その声は、さっきまでの真由とは違っていた。母親の声だった。柔らかくて、少し高くて、迷いがない声。渚はその声を聞きながら、パスタの鍋の湯気を見ていた。

 通話が終わると、真由は少し黙った。

「かわいいでしょ」

「うん」

「かわいいんだよ。だから余計にさ、ちゃんとしなきゃって思っちゃうの。この子のために、ちゃんとした家庭でいなきゃって。ちゃんとした夫婦でいなきゃって。でも、ちゃんとしてるふりをしてると、ちゃんとしてない部分がどんどん見えなくなって」

「見えなくなる?」

「ううん。見えなくなるんじゃなくて、見ないようにしてるの。見ないようにしてるうちに、それが見えなくなるのか、それとも、見ないようにしてることが普通になるのか。わかんなくなってきた」

 渚はパスタの湯切りをしながら、聞いていた。ザルに湯を注ぐ音が、言葉の重さを少しだけ和らげた。


 二人でパスタを食べた。テーブルの上に、渚の仕事のノートパソコンがまだ開きっぱなしだったので、それを端に寄せて、皿を置いた。真由が作ったトマトソースのパスタは、チューブのにんにくだったにもかかわらず美味しかった。

「美味しい」

「でしょ。チューブでも全然いける」

「真由ちゃんが作るとなんでも美味しいよ」

「それは言いすぎ」

 食べながら、話は自然と昔のことになった。子どものころ、二人で台所に立ったこと。母が仕事で遅いとき、真由がカレーを作って、渚が米を研いだこと。渚が米の水加減を間違えて、べちゃべちゃのご飯ができたこと。

「あのとき、真由ちゃん怒らなかったよね」

「怒んないよ。べちゃべちゃでもカレーかければ食べられるし」

「わたし、泣いたんだよ、あれ」

「え、泣いてた? 覚えてない」

「泣いた。台所で。真由ちゃんに怒られると思って」

「全然怒んないよ」

「うん。だから余計に泣いたの。怒ってくれたほうが楽だったかも」

 真由はフォークを止めて、渚を見た。

「それ、なんかわかるかも」

「怒ってほしいってこと?」

「翔太にさ、怒ってほしいのかも。わたしに。『何が不満なんだ』って。でも翔太は怒らないの。怒る理由がないから。怒る理由がない人に、怒ってほしいって思うの、おかしいよね」

「おかしくはないと思う」

「おかしいよ。でもありがとう」

 食べ終わって、二人で皿を洗った。渚が洗って、真由が拭いた。その分業は自然に決まった。水の音がしていた。窓の外は暗くなっていて、遠くでサイレンが一瞬鳴って、消えた。


 風呂は渚が先に入った。出てきたとき、真由はソファに座って、スマホを見ていた。画面の光が顔を照らしていた。渚はバスタオルで髪を拭きながら「入っていいよ」と言った。

 真由が風呂に入っている間、渚はベッドに座って、天井を見た。またか、と思った。天井ばかり見ている。

 真由の話を聞いて、渚が思ったことは、いくつかあった。一つは、姉も苦しかったんだということ。もう一つは、姉の苦しみと自分の苦しみは違うということ。そして三つ目は——それが一番大きかったのだが——自分が真由を「正解の人」として見ていたことで、何かを保っていたということだった。

 比較対象としての姉。正解の道を歩いている姉。その姉がいることで、渚は「自分は正解じゃない」という物語を維持できた。そしてその物語は、苦しいけれど、ある意味では安全だった。「正解じゃない」側にいれば、正解を目指す必要がない。失敗しても「だってもともと正解じゃないから」と言える。

 でも今日、姉が「選んだはずなのに、選ばれた気がしない」と言ったとき、その構図が揺らいだ。正解の道など最初からなかった。あったのは、それぞれの道で、それぞれが何かを抱えているという、当たり前すぎて見えなかった事実だった。

 当たり前のことだ。大人ならわかっているはずのことだ。でも、わかっていることと、実感することは違う。渚は二十八年間、頭ではわかっていたはずのことを、今日初めて体で理解した気がした。

 風呂場からシャワーの音が聞こえていた。渚は髪を乾かすためにドライヤーを手に取ったが、すぐには電源を入れなかった。


 真由が風呂から出てきたのは二十分後だった。渚が貸したTシャツとスウェットを着ていた。Tシャツはユニクロの黒い無地で、少し大きかった。真由は背が渚より三センチ低い。

「いい匂いのシャンプーだね」

「安いやつだよ」

「うちは悠斗と同じの使ってるから、いつもベビーシャンプー」

「それはそれでいい匂いじゃない?」

「慣れちゃって、わかんない」

 二人はベッドに横になった。シングルベッドに二人は狭かったが、不可能ではなかった。渚が壁側、真由が外側。天井を見た。二人で天井を見ていた。

「ねえ」と真由が言った。

「うん」

「わたし、離婚とか考えてるわけじゃないからね」

「うん」

「ただ、苦しかっただけ。誰かに言いたかっただけ」

「うん。わかってるよ」

「渚に話してよかった」

 渚は何と返せばいいかわからなかった。「わたしも」と言うのは変だ。「いつでも言って」は軽すぎる。だから、何も言わなかった。

 少し経って、真由が寝息を立て始めた。渚よりも先に眠るのは昔からそうだった。子どものころ、二段ベッドの上が真由で、下が渚で、真由が先に寝て、渚はその寝息を聞きながら眠った。あの頃と同じだった。同じだけど、間に十五年以上の時間があった。

 暗い部屋の中で、渚は隣に寝ている姉の横顔を見た。うすい街灯の光がカーテンの隙間から入ってきて、真由の輪郭をぼんやりと照らしていた。

 姉の横顔は、知らない人の顔に少し似ていた。目を凝らすとやはり姉の顔だったが、今日初めて見えたものがそこにあった。苦しんでいること。それを隠していること。隠していることを誰かに話したいと思っていること。それを、妹に話しに来たこと。

 渚は目を閉じた。眠れるかどうかわからなかったが、姉の寝息を聞いていると、少しずつ体の力が抜けていった。

 明日の朝、何を話すだろう。たぶん、今日の続きは話さない。朝になれば、また姉妹のいつもの距離に戻る。でも、その距離の中身が、少しだけ変わっている。それでいい、と渚は思った。思ったことにしたかっただけかもしれないが、それでもよかった。

11

第十一章 それでもわたしは

真由が帰ったあとの部屋は、一人分の広さに戻っていた。

 日曜日の昼前だった。真由は朝の九時に起きて、渚が淹れたコーヒーを飲み、トーストを食べ、「そろそろ行くね」と言った。玄関で靴を履くとき、「ありがとね」と言った。渚は「うん」と言った。それだけだった。特別な抱擁もなければ、涙もなかった。でも、靴を履いた真由がドアを開ける前に一瞬振り返ったとき、その目が渚と合って、二人の間に言葉にならない何かが通った。通ったような気がした。

 ドアが閉まって、足音が遠ざかって、渚は一人になった。

 使ったマグカップを洗った。スヌーピーの柄のほうを手に取ったとき、昨日の真由の手を思い出した。爪はきれいだったけれど、マニキュアは塗っていなかった。そういう細部が、あとから浮かんでくる。リアルタイムでは気づいているのに受け取りきれなかったものが、時間差で届く。

 洗い終わったマグカップを水切りかごに伏せて、渚はソファに座った。ソファには真由の体温がまだ残っているような気がしたが、気のせいだろう。九月末の気温で、一晩経てば体温は消える。

 スマホを見た。通知はなかった。宮下からの連絡は、八月の末を最後に途絶えていた。渚のほうからも送っていない。LINEのトーク画面を開けば最後のやりとりが見えるが、開かなかった。開かないことに、以前ほどの意志力は要らなくなっていた。


 月曜日、仕事に行った。オフィスの自分のデスクに座って、パソコンを立ち上げて、メールを確認した。週明けのメールは多い。広告代理店からのレポート、部長からの指示、同僚の田中さんからの「先週のMTGの議事録、確認お願いします」。一つずつ処理していく。渚はこの作業が嫌いではなかった。メールを処理しているとき、自分がきちんと機能していると感じられる。社会の歯車であること。それは空虚でもあるが、安定でもあった。

 昼休み、コンビニでサラダとおにぎりを買って、オフィスの休憩スペースで食べた。同じチームの加藤さんが向かいに座って、週末の話をした。加藤さんは彼氏と鎌倉に行ったらしい。「江ノ電乗ったんだけどさ、混んでてさあ」。渚は「へえ、いいなあ」と言いながらおにぎりを食べた。海苔の味がした。

 午後、企画書を作っていると、スマホが振動した。伏せていた画面を見ると、宮下からだった。

 心臓が一瞬、止まったように感じた。比喩ではなく、物理的に胸の中で何かが詰まる感覚があった。

 画面には「久しぶり。元気にしてる?」とだけ表示されていた。

 渚はスマホを伏せ直した。企画書に戻ろうとした。数字を入力しようとして、指が震えているのに気づいた。震えてはいない。でもキーを打つ指先に力が入らなかった。

 「久しぶり。元気にしてる?」

 この言葉の裏に何があるか、渚にはわかった。何もない。何もないのだ。宮下はただ、ふと思い出して、送っただけだ。深い意味も、反省も、未練もなく。あるいはあるのかもしれないが、仮にあっても宮下はそれを言葉にする人ではなかった。感情を写真のように切り取る人だ。切り取ったあとの感情がどこに行くかには、興味がないのか、興味がないふりをしているのか。

 渚は午後の残りの時間を、その一通のLINEのことを考えながら過ごした。返すか、返さないか。返すとして、何と返すか。「元気だよ」と返せばいい。それだけでいい。でも「元気だよ」と返したら、その先に何がある。会話が続く。会話が続けば、会おうという話になるかもしれない。会えば——。

 この道は知っている。何度も通った道だ。知っていて、それでも通りたくなる道だ。


 退社後、渚は西荻窪の駅を出て、いつもの道を歩いた。スーパーに寄って、牛乳と卵と食パンを買った。帰宅して、冷蔵庫に入れて、手を洗った。

 スマホを手に取った。宮下のLINEを開いた。「久しぶり。元気にしてる?」。既読はつけていない。オフィスで見たときは通知で読んだだけだ。このまま開かなければ、既読はつかない。既読をつけないことは、返事をしないこととは違う。ただ、見ていないふりをしているだけだ。

 渚はLINEを開いた。既読がついた。

 そしてスマホを置いた。

 返事は打たなかった。打たないことを決めたのではない。何と打てばいいかわからなかったのだ。「元気だよ」は嘘ではないが本当でもない。「元気じゃない」は大げさだ。「久しぶり」と返すだけでは、会話を続ける意志があるように見える。

 既読だけつけて、返事をしない。それは宮下に対する意思表示になるだろうか。ならないだろう。宮下は既読スルーを気にする人ではない。渚が返事をしなくても、宮下は「まあ、忙しいのかな」と思うだけだ。渚の沈黙に意味を読み取ろうとはしない。

 それが、苦しかった。自分の行動に意味を与えてくれない相手。自分の選択を受け止めてくれない相手。でも、それを求めること自体が、渚のパターンだった。

 夕食を作る気がしなかったので、食パンにバターを塗って食べた。テレビをつけた。ニュースが流れていた。どこかの国で何かが起きている。渚はそれを見ながらパンを食べた。


 火曜日の夜、七海から連絡が来た。「今度の土曜、空いてる? ごはん行かない?」。渚は「行く」と即答した。宮下のLINEには、まだ返事をしていなかった。

 土曜日、渚は吉祥寺で七海と会った。七海が選んだイタリアンの店だった。路地を一本入ったところにある、十二席くらいの小さな店。七海はもう着いていて、白ワインを飲んでいた。

「早いね」

「ちょっと早く出ちゃった。暇だったから」

 七海は笑ったが、その「暇だったから」が本当かどうか、渚にはわからなかった。七海は婚約してから忙しいはずだった。結婚式の準備、新居探し、両家の顔合わせ。でも「暇だったから」と言った。

 渚も白ワインを頼んだ。前菜の盛り合わせが来て、二人でつまみながら話し始めた。

「仕事どう?」

「まあまあ。年末に向けてちょっと忙しくなってきた。七海は?」

「わたしも、まあまあ」

 七海は生ハムをフォークで取りながら、「それってさ、要するに、お互いまあまあってことだよね」と言った。口癖の「それってさ、要するに」が出た。渚は少し笑った。

「何、笑ってんの」

「いや、その口癖、好きだなって」

「口癖? わたし、口癖ある?」

「あるよ。『それってさ、要するに』」

「え、そんなこと言ってる?」

「言ってる」

 七海は少し恥ずかしそうにワインを飲んだ。渚はその顔を見ながら、七海が変わっていないことに安心した。婚約しても、指輪をしていても、七海は七海だった。

 メインの料理が来て、しばらく食べることに集中した。渚はボンゴレを頼んでいた。あさりの殻を外しながら食べるのは少し面倒だったが、美味しかった。七海はカルボナーラを食べていた。

「ねえ、渚」

「ん?」

「わたしさ、最近ちょっと——」

 七海はフォークを置いた。置く動作が少し慎重だった。渚はそれを見て、何かが来ると思った。

「ちょっとしんどくてさ」

「しんどい?」

「うん。結婚式の準備とか、新居のこととかじゃなくて。なんていうか——」

 七海は自分のワイングラスを見つめていた。白ワインの水面が、店の照明を反射していた。

「幸せなはずじゃん。婚約して、好きな人と結婚するんだから。でもさ、幸せって、ずっと幸せでいなきゃいけないみたいなプレッシャーがあって」

「プレッシャー」

「そう。周りがさ、おめでとうおめでとうって言ってくれるじゃん。それは嬉しいんだよ。嬉しいんだけど、おめでとうって言われるたびに、わたしは今幸せですって顔しなきゃいけない気がして。幸せじゃないときも」

 渚は箸を——フォークを止めた。

「幸せじゃないとき、ある?」

「あるよ。普通にある。だって、結婚って、するまでに決めなきゃいけないことが山ほどあって、そのたびに意見が違ったりして、喧嘩まではいかないけど、うーんって思うことがあって。でもそれを誰かに言うと、『マリッジブルーだよ、大丈夫大丈夫』って言われるの」

「言われるのが嫌?」

「嫌っていうか、それで片付けないでほしいの。マリッジブルーって名前をつけたら、全部そのカテゴリに入っちゃうじゃん。でもわたしが感じてることは、カテゴリに入れられるようなものじゃなくて——」

 七海は言葉を探していた。渚は待った。最近、人の言葉を待つことが多い。真由のときもそうだった。

「怖いの、渚。結婚するのが怖い。好きなのに怖い。好きだから余計に怖いのかもしれない。この人を失ったらどうしようって思うのと、この人とずっと一緒にいて大丈夫かなって思うのが、同時にあるの。矛盾してるんだけど」

「矛盾してないと思う」

「してるよ」

「してないよ。好きだから怖いんでしょ。それ、普通じゃない?」

「普通かな」

「少なくとも、おかしくはない」

 七海は少し黙って、それからワインを飲んだ。一口飲んで、もう一口飲んだ。

「渚に言われると、なんか、安心する」

「なんで」

「渚は嘘つかないから。……いや、嘘つくか。嘘つくけど、こういうときは嘘つかないから」

 渚は苦笑した。嘘つくか。確かに嘘はつく。職場では「元気です」と言い、母には「大丈夫だよ」と言い、宮下には——。

「ねえ、七海」

「うん」

「わたしも、ちょっとしんどかった。最近」

 言ってから、驚いた。自分がそれを口にしたことに。七海に対して「しんどい」と言ったのは初めてだった。七海とはなんでも話せる関係だと思っていたが、実際にはそうでもなかった。七海の前でも渚は「大丈夫な渚」を演じていた。少なくとも、「しんどい」を直接言うことは避けていた。

「何かあった?」

「あったっていうか……前に会ってた人と、うまくいかなくて。っていうか、最初からうまくいってなかったんだけど、それに気づいたのが最近っていうか」

「写真の人?」

 七海は覚えていた。渚が宮下のことを「写真撮る人」と紹介したのは、いつだっただろう。去年の冬か、今年の春か。詳しくは話していなかった。付き合ってるのかと聞かれて、「よくわかんない」と答えた気がする。

「うん。あの人」

「別れたの?」

「別れたっていうか、付き合ってなかったから」

「あー……」

 七海の「あー」には、いくつかの意味が込められているように聞こえた。理解と、心配と、もしかしたら少しの「やっぱりね」と。

「それってさ、要するに——」

 七海はそこで自分の口癖に気づいたのか、少し笑った。

「——要するに、好きだったんでしょ」

「わかんない。好きだったのかな。必要だったんだと思う。あの人にとってわたしが」

「渚にとってじゃなくて?」

「わたしにとっても。でも、わたしにとって必要だったのは、あの人自身じゃなくて、あの人に必要とされてるって感覚だったのかもしれない」

 言葉にすると、それは残酷なほど正確だった。渚は自分の言葉に少し傷ついた。自分で自分の傷を言語化することの痛み。でも、それは嘘ではなかった。

「それ、自分で気づいたの?」

「うん。気づいたっていうか、気づかされたっていうか。色々あって」

「色々」

「うん。色々」

 渚はそれ以上は話さなかった。LINEを送りすぎた夜のことや、別の男性と寝たことは、七海にも言えなかった。言う必要もなかった。

 七海はフォークでカルボナーラの最後の一口を食べて、「わたしたち、お互いしんどいんだね」と言った。

「そうだね」

「でもさ、こうやって話せてるから、まだましだよね」

「ましかな」

「ましだよ。一人で抱えてるよりは」

 渚は頷いた。一人で抱えるより、まし。それはたぶん本当だった。真由にもそう思った。話しても何かが解決するわけではない。真由の夫婦関係が良くなるわけでも、七海の不安がなくなるわけでも、渚の空虚さが埋まるわけでもない。でも、話すことで、自分の抱えているものの輪郭が少しだけ見える。見えたからといって消えはしないが、名前のわからない恐怖よりは、形の見える恐怖のほうが、まだ耐えられる。


 食事を終えて、店を出た。吉祥寺の夜の通りを二人で歩いた。土曜の夜だから、人が多かった。若いカップルが手をつないで歩いていた。居酒屋から笑い声が漏れていた。渚と七海は並んで歩きながら、しばらく黙っていた。

「ねえ」と七海が言った。

「うん」

「写真の人から連絡来たりしてない?」

 渚は少し間を置いた。

「来た。月曜に」

「返した?」

「返してない」

「返さないの?」

「わかんない」

 七海は何も言わなかった。渚はそのことに感謝した。「返さないほうがいいよ」とも「返してみたら?」とも言わない七海。それが、今の渚には一番ありがたかった。

「渚の人生だもんね」

「うん」

「何するにしても、渚が決めたことなら、わたしは味方だよ」

「ありがとう」

 吉祥寺の駅で別れた。七海は中央線で新宿方面に、渚は逆方向に。改札の前で「じゃあね」と手を振って、渚は一人になった。

 電車に乗った。土曜の夜の中央線は混んでいた。座れなかったので、ドアの横に立った。窓に自分の顔が映っていた。白ワインを二杯飲んだ頬が少し赤かった。

 スマホを出した。宮下のLINEを開いた。「久しぶり。元気にしてる?」。月曜日に既読をつけて、五日が経っていた。

 渚は返事を打った。

「久しぶり。元気だよ」

 送信した。

 送信してから、ああ、また、と思った。また同じことをしている。また返事をしている。また繋がりを断てないでいる。わかっているのに。わかっていて、やっている。

 でも——。

 以前と少し違ったのは、その「ああ、また」の中に、自分を責める声が以前ほど大きくなかったことだった。責めてはいた。でも、責めながら同時に、これが自分だと思っていた。返事をしてしまう自分。繋がりを手放せない自分。それを愚かだと思う自分。愚かだと思いながらも、完全には否定できない自分。

 電車が西荻窪に着いた。降りて、改札を出て、夜の道を歩いた。空気がぬるかった。もう少しで十月になる。

 スマホが振動した。宮下からだった。

「よかった。元気そうで」

 渚はそれを読んで、返事を打たなかった。今度は意識的に打たなかった。「元気そうで」の「そうで」が引っかかった。そう見えている、ということだ。元気かどうかは問題ではなく、元気そうに見えること。宮下はいつもそうだった。表面を切り取る。その下に何があるかには踏み込まない。

 家に着いた。鍵を開けて、靴を脱いで、電気をつけた。一人の部屋。一人分の広さ。真由が来たときは二人分に感じた空間が、また一人分に戻っている。

 渚は手を洗って、着替えて、ベッドに座った。スマホをもう一度見た。宮下の「よかった。元気そうで」。それだけ。その先はない。渚が返事をしなければ、宮下もそれ以上は送ってこない。そういう距離感。

 以前なら、ここで渚は次のメッセージを考えた。会話を繋げる言葉を。「そっちは?」とか「最近何してる?」とか。そして会話が続いて、「今度会おうよ」になって、会って、体を重ねて、朝になって、「次いつ会う?」を言えないまま別れる。その繰り返し。

 今日、渚は返事を打たなかった。打たないことを選んだ。でもそれは、宮下を断ち切る決意ではなかった。明日になれば返事を送るかもしれない。来週になれば会おうと言うかもしれない。そうなるかもしれないし、ならないかもしれない。渚にはわからなかった。

 わかっていたのは、今この瞬間、返事を打たないことを選んだということだけだった。それは小さなことだった。何の意味もないかもしれない。でも、以前はその選択肢すらなかった。返事をしないという選択ができること。それがどれだけ小さいことかを知りながら、それでもそこに何かがあるような気がした。


 日曜日、渚は部屋の掃除をした。掃除機をかけて、床を拭いて、トイレを磨いた。冷蔵庫の中を整理した。賞味期限が切れたドレッシングを捨てた。いつ買ったのか覚えていないシーザードレッシング。半分くらい残っていたが、もう使わないと思った。

 掃除をしている間、頭の中は空っぽだった。空っぽであることが心地よかった。何かを考えなくてもいい時間。ただ手を動かして、部屋を整えていく時間。

 午後、母から電話が来た。「ごめん、今大丈夫?」。いつもの枕詞だった。

「大丈夫だよ」

「真由が先週そっち行ったんだって?」

「うん、泊まっていった」

「そうなんだ。何か言ってた?」

 渚は一瞬、考えた。母が聞いているのは、真由が何か言っていたかどうかだ。真由の夫婦関係のことを、母は知っているのだろうか。知らないのだろう。真由は「お母さんには言えない」と言っていた。

「別に。久しぶりに会いたかったんだって」

「そう。仲良くしてね、姉妹なんだから」

「してるよ」

「渚は元気? ちゃんと食べてる?」

「食べてるよ」

「お母さんね、最近膝が痛くてね——」

 母の話は十五分続いた。膝のこと、近所の田中さん(渚の同僚とは別人)が入院したこと、父が定年後に始めた家庭菜園のトマトがようやく赤くなったこと。渚は「うん」「そうなんだ」「大変だね」と相槌を打ちながら聞いていた。

 以前は、この電話が苦痛だった。母の心配は管理だと感じていた。「ちゃんと食べてる?」は「あなたはちゃんとできていないでしょう」という前提に聞こえた。でも今日は、少しだけ違う聞こえ方をした。母は母なりに、できることをしているだけなのかもしれない。心配することが、母にとっての愛情の形なのかもしれない。それが渚にとって重かったとしても。

 愛情の形が合わないことは、愛情がないことではない。それはわかっている。わかっているのに受け取れない。でも、わかっていることをわかっていると認識できるようになったのは、少しだけ進んでいるのかもしれなかった。

 電話を切ったあと、渚は窓を開けた。十月の空気が入ってきた。九月が終わっていた。季節が変わることに、渚は少し驚いた。時間は勝手に進む。自分が立ち止まっていても。


 その夜、渚はベッドの中でスマホを見ていた。SNSを開いた。意味のない行為だった。誰かの食事、誰かの旅行、誰かの子ども、誰かの記念日。スクロールしていく指が止まったのは、元彼の誠司の投稿だった。婚約者との写真。二人で笑っている。レストランらしき場所で、テーブルの上にケーキがあった。誕生日だろうか。婚約者の女性は、穏やかな顔をしていた。

 以前なら、これを見て動揺しただろう。胸が締めつけられて、スマホを投げたくなって、自分の人生と比較して、足りないものを数え上げただろう。

 今は——動揺がなかったわけではない。胸のどこかが、小さく反応した。でもそれは以前のような激しい痛みではなく、古い傷が天気の変わり目に疼くような、鈍い感覚だった。

 渚はその投稿を見て、「よかったね」と思った。皮肉ではなく。嘘でもなく。誠司が幸せそうで、よかった。それは本心だった。ただ、本心であることと、何も感じないことは違う。よかったね、と思いながら、自分はここにいる。一人のベッドで、一人のスマホで、一人の夜を過ごしている。それは事実で、その事実が寂しくないとは言えなかった。

 でも、寂しいことを寂しいと思えること自体が、以前とは違っていた。以前の渚は寂しさを認めなかった。寂しいのではなく、足りないのだと思っていた。何かが足りないから、それを埋めなければいけないと。埋める手段が、宮下だったり、別の男性だったり、仕事での評価だったり、母からの「ちゃんとしてるね」だったり。

 今は、寂しいな、と思っていた。それだけだった。寂しくて、それを埋めようとしなかった。埋めようとしないことが正しいのかどうかはわからなかったが、少なくとも、埋めようとして失敗するよりは、寂しさをそのまま持っているほうが、体が楽だった。

 スマホを充電器に繋いで、枕元に置いた。電気を消した。暗い部屋の中で、目が慣れるまでの数秒間、何も見えなかった。それから少しずつ、天井の輪郭が見えてきた。

 変わっていない、と渚は思った。宮下に返事をしたし、SNSも見たし、寂しいし、一人だし。何も変わっていない。でも、同じでもない。その差が何なのか、うまく言葉にならなかったが、悪いものじゃないと思った。

 目を閉じた。眠れるまでに少し時間がかかったが、以前ほどは長くなかった。

12

第十二章 朝の光、窓の形

アラームが鳴る少し前に、渚は目を覚ました。

 まだ暗いと思っていた部屋の中に、薄い灰色の光があった。カーテンの端がわずかに明るくなっていて、その向こうに朝が来ているのがわかる。枕元のiPhoneが六時四十分を表示したところで、すぐに電子音が鳴り始めた。渚は手を伸ばして止めた。赤い通知バッジは二つ。以前のように、その数字を見た瞬間に胸の底がざわつく感じは、もう全くないわけではないが、前ほど素早く体の中心まで届かなくなっていた。

 布団をめくって起き上がる。十二月の朝は床が冷たい。スリッパを探し、足を入れ、カーテンを開けた。向かいのマンションの窓ガラスが白く曇っていた。ベランダに干された洗濯物はなく、代わりに物干し竿だけが細く光っていた。

 キッチンへ行き、ケトルに水を入れる。豆は残り少なかった。袋の口を開けると、深煎りの匂いがまだちゃんとした濃さで立ち上がる。ミルで挽き、フィルターに落とし、湯を注ぐ。最初の蒸らしで粉がふくらむ。その膨らみを見る三十秒は、相変わらず何も決めなくていい時間だった。

 冷蔵庫を開けると、昨日買った牛乳があった。賞味期限はあと二日。渚はマグカップに落ちる黒い液体を見ながら少し迷い、それから牛乳パックを手に取った。ほんの少しだけ注ぐ。色が変わる。濃い茶色がやわらかくほどけ、表面に薄い輪が広がる。砂糖は入れなかった。

 それだけのことなのに、自分が何かをやり直しているみたいに感じるのは大げさだと、渚は思った。別にそんなことではない。ただ、今日はブラックの気分ではなかった。たぶんそれだけだった。理由がそれだけで足りる朝があることを、最近は少し信じられるようになっていた。

 カップの縁へ口をつける。いつもより少しだけ温度がやわらかく、舌に残る苦みの角も丸かった。おいしい、と思った。その感想に続けて、だから今日は少しましなのかもしれない、などと意味を足したくなる癖が、まだ自分の中に残っているのを渚は知っていた。けれど今朝は、その先まで考えなかった。おいしいなら、おいしいでよかった。

 マグカップを持って洗面所へ行く。鏡の前に立つ。頬のあたりに乾燥が見える。目の下にうっすらと影がある。寝癖が片側だけはねている。ひどくはない。良くもない。渚はしばらく自分の顔を見て、それから化粧水のボトルに手を伸ばした。以前なら、今日は大丈夫そうかどうかを判断していた。隠せるか、疲れて見えすぎないか、会社で何か言われないか。今朝は、それより先に、ただ少し眠そうだと思った。

 スキンケアを終えて、髪をまとめる。クローゼットからグレーのニットを出して着た。袖口に毛玉ができ始めている。帰ったら毛玉取りをしようと思い、でも忘れるかもしれないとも思った。忘れても、たぶんそれで困らない。

 ダイニングテーブルの上にスマホを置いたまま、コーヒーを飲む。通知の一つは母からのLINEだった。

「ごめん、今日の夜、少し電話できる?」

 もう一つは七海からで、「この前の店、また行きたい」とだけ入っていた。渚は七海に「わたしも」と返し、少し考えてから母にも返事を打った。

「今日はたぶん九時過ぎる。帰ったらこっちからかけるね」

 送信して、スマホを伏せた。返しながら、すぐに電話をかけないことに小さな引っかかりがないわけではなかった。母の「ごめん、今大丈夫?」に対して、いつもならこちらの時間をあけるようにしていた。大丈夫だよ、と先に言う側でいることに慣れていた。

 でも今日は、出る前のこの静かな時間をそのままにしておきたかった。母を拒絶したいわけではない。ただ、母の声より先に、自分の朝を自分のものとして持っていたかった。

 そのことを、渚は説明しなかった。説明すれば角が立つ気がしたし、何より、説明できるほどきれいな言葉をまだ持っていなかった。

 昔から、母に対しては「大丈夫」と言うのが早すぎた。体調を訊かれても、仕事を訊かれても、恋愛を訊かれても、考える前に大丈夫だよと返していた。本当に大丈夫かどうかを確認するより先に、相手が安心する側の返事を選ぶ癖がついていた。母だけではない。たぶん多くの相手に対してそうだった。そうやって会話を終わらせることで、自分の中を見なくて済むことも知っていた。

 シンクには昨夜の皿が一枚だけ残っていた。食パンをのせた小さい皿。流しの隅に寄せ、軽く水をかけておく。洗ってから出たほうがいい気もしたが、今日はそのままにした。帰ってからで間に合う。間に合うことを、全部朝のうちに片づけなくてもいい。

 玄関でブーツを履き、コートを羽織る。マフラーを首に巻く。ドアノブに手をかけたところで、一度だけ振り返った。部屋はきれいでも汚くもなかった。クッションがソファに一つ転がっていて、読みかけの本がテーブルの端に伏せられている。観葉植物の葉の先が少し茶色くなっている。完璧ではない部屋だった。でも、今の渚が暮らしている部屋としては、十分に見えた。

 以前は、こういう朝に部屋の欠点ばかり探していた。洗い残し、埃、たるんだカーテン、少し傾いた本の列。整っていない場所を見つけると、自分の輪郭もそこから崩れていく気がした。今朝は、気になるところがないわけではなかったが、それらがただの物の位置として見えていた。意味を持ちすぎないで置かれているもの。自分も、その中の一つみたいに、少しだけ軽くそこにいた。

 鍵を閉め、階段を下りる。アパートの踊り場の窓から朝日が差し込んでいた。古い網入りガラスにひびのような模様が入っていて、その向こうの空が細かく割れて見える。光が手すりの影を床に落としていた。窓の形が、そのまま床に置かれているみたいだった。

 外へ出ると、空気が冷たかった。吐いた息が白くなるほどではないが、首元の隙間へ入ってくる風が皮膚を薄く切る。道の端には昨夜の雨が少しだけ残っていて、マンホールの周りだけ黒く濡れていた。

 西荻窪の駅へ向かって歩く。コンビニの前を通る。自転車を押しながら急ぐ人、保育園児の手を引く母親、耳まで隠れるニット帽をかぶった高校生。見慣れた朝の風景だった。見慣れているのに、たまに初めて見るみたいに遠く感じることがある。今日は遠くなかった。ちゃんとこの街の中に自分がいると思えた。

 商店街の角のパン屋から、焼いたバターの匂いがしていた。シャッターを半分上げた八百屋の前には、まだ値札のついていない段ボールが積まれている。信号待ちのあいだ、渚はマフラーを少し引き上げた。こういう細かい動作だけで朝が進んでいく。誰にも見られていないところで、自分の体温を自分で保っている感じがした。

 ホームで電車を待つ間、渚はスマホを取り出した。ロック画面の通知は増えていなかった。宮下とのトークは、LINEを開けばまだ上のほうにあるだろう。開こうと思えば開ける。昨日の夜の自分なら、ホームに立ちながら開いていたかもしれない。返さなかった「よかった。元気そうで」を見返し、その短い言葉の中に何か別の意味がないか探したかもしれない。

 今日は、開かなかった。

 それで宮下のことを忘れたわけではない。忘れる日が来るのかどうかも、渚にはわからなかった。もしまた連絡が来たら返すかもしれないし、会えば会ってしまうかもしれない。その可能性はまだ自分の中に残っていた。残っていることが嫌でもあり、少しだけ安心でもあった。完全に断ち切る強さを、自分が持っていないことを知っている。その代わり、いま見なくていいものを、今すぐ見に行かないくらいのことはできるようになった。

 それは立派な決意ではなかった。自分でも笑ってしまうくらい小さい抵抗だった。けれど、渚にとってはたぶん、そういう小さいことでしか変われないのだとも思った。大きく傷ついた夜の翌朝に人生が変わるわけではない。返事をしないまま歯を磨くこととか、通知を開かずに電車を待つこととか、そういう細かい選び方が少しずつ積もっていくのかもしれなかった。

 電車が来た。乗り込み、ドアの横に立つ。窓ガラスに自分の顔が映る。朝の光で輪郭が少しぼやけていた。役を終えたあとの顔、というほど大げさなものではなかった。眠そうで、少しだけましな顔だった。

 渚は窓の外を見た。住宅街の屋根が後ろへ流れていく。白い息を吐きながら信号待ちをしている人が見えた。ビルのガラスに朝日が反射して、一瞬だけ視界が明るくなる。

 誠司のことを思い出した。七海のことも、真由のことも、母のことも、宮下のことも。思い出したが、それぞれが前のように一つの塊になって押し寄せてくる感じはなかった。誠司は誠司で、もう自分の外側にある人生を生きている。七海は七海で、不安を抱えたまま婚約者と生きていくのだろう。真由には真由の泣く夜があり、母には母の心配のしかたしかない。宮下には宮下の薄い生活がある。

 その全部が、自分とは別のものとしてある。そして渚には渚の朝がある。

 そう考えたところで、何かが劇的に救われるわけではなかった。仕事は今日もあるし、昼には会議があるし、帰ればまた一人の部屋だ。夜になれば母に電話を返す。宮下から連絡が来るかもしれないし、来ないかもしれない。寂しい夜は、たぶんこれからもある。

 でも、寂しいということと、すぐに何かで埋めなければならないということは、同じではないのかもしれなかった。

 寂しさは、なくなってはいなかった。コートの内側に薄い布を一枚はさんだみたいに、ずっと体へ沿っていた。ただ、その布を無理に剥がそうとしないでいると、痛みにはならない時間もあるのだと、最近ようやく知り始めたところだった。

 電車が阿佐ケ谷を過ぎる。渚はコートのポケットに手を入れた。昨日のレシートが指先に触れた。スーパーで買った牛乳と卵と、トイレットペーパー。そういうものを買って、使って、なくなればまた買う。生活は、思っているより具体的なものでできている。

 新宿が近づくにつれて車内が混んできた。誰かのバッグが腕に当たる。車内アナウンスが流れる。渚は吊り革を握り直した。

 欲しいものは、まだわからなかった。

 欲しいと言われたいのか、愛されたいのか、放っておいてほしいのか、そのどれでもないのか。わからないままだった。わからないまま、会社に向かい、電車に揺られ、ミルクを少し入れたコーヒーを飲んだ。

 でも、欲しいとわかっているものだけが、自分の全部ではないことは、少しだけわかってきた。

 会社へ着けば、いつもどおりメールを返し、会議でうなずき、昼にはコンビニのおにぎりを食べるのだろう。夜になれば母に電話を返し、たぶん膝の話やスーパーの特売の話を聞く。宮下から新しい連絡が来るかもしれないし、来なくても一日は終わる。そういう当たり前の並びの中でしか、自分のことを確かめられないのだとしても、今はそれで十分な気がした。

 中央線の窓に朝の光が広がっていた。渚はそれを見ていた。見ているあいだ、スマホには触れなかった。