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2026.03.14 ・ Episode 021章 ・ 20

第二話 神楽坂朗読館の代役

探偵にとって、声は案外あてにならない。  顔は作れる。文字は真似できる。では声だけが真実かと言えば、そんなことはないのだと、わたしは神楽坂の坂を上がる途中で九条玻璃から教えられた。

第二話 神楽坂朗読館の代役 のカバー

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九条玻璃事件帖

いまは 第二話 神楽坂朗読館の代役 を読んでいます。続きや別の話もここから辿れます。

探偵にとって、声は案外あてにならない。

 顔は作れる。文字は真似できる。では声だけが真実かと言えば、そんなことはないのだと、わたしは神楽坂の坂を上がる途中で九条玻璃から教えられた。

「人は、見たいものを見ますし、聞きたいものを聞きます」

 彼女は夕方の薄い霧のなか、黒いコートの襟を指で正した。その仕草が妙に絵になる人で、坂を下りていく会社員が二人続けて振り返ったが、九条は見向きもしなかった。三十二歳の女が無自覚に人の鼓動を乱すのは、たぶん一種の才能だ。

「声はその最たるものです。姿が見えなければ、なおさら」

 そのときのわたしは、彼女がいつものように含みのある言い方をしているだけだと思っていた。まさか、その一時間後に、まさに声のせいで殺人の時刻そのものが捻じ曲がるとは思わなかった。

 神楽坂の朗読館・水琴亭は、戦前の料亭を改装した小さな私設ホールだった。格子戸の奥に石畳の中庭があり、二階に書庫兼書斎、階下に二十人ほど入る朗読室がある。わたしが招かれたのは、失われたとされていた探偵劇『夜鶴館』終幕の私的な披露会のためだった。

 招待主の白崎周造は、演劇史と翻案文学で名の通った老学者で、白楊社でも何度か仕事をしたことがある。昔気質で尊大なところはあったが、紙を前にすると人が変わる類の学者だった。その白崎先生が三日前、「絶対に編集者の目が要る」とわたしへ連絡を寄こし、そこへ九条まで同席させたのは、単純に彼女の方が面白がったからである。

「失われた終幕が、失われたままでいなかったら面白いでしょう」

 そう言って、彼女は招待状を勝手に自分の分まで受け取った。

 水琴亭の朗読室には、すでに数人が集まっていた。白崎周造。白い髪を丁寧に撫でつけた、小柄で骨ばった老人。姪の白崎あやめ。三十前後、切れ長の目をした静かな女で、この朗読館の運営を一人で切り盛りしているらしい。俳優の由比清登。舞台では評判のいい朗読者で、今夜『夜鶴館』の語りを務める。そして、明新大学准教授の高見修司。白崎先生の元弟子で、いまは師弟というより公然たる論敵だと聞いていた。

 由比は最初の挨拶だけ妙に丁寧で、高見は眼鏡の位置を二度直した。九条の前では、男はたいてい二種類に分かれる。気取るか、ぎこちなくなるかだ。本人は相変わらず、名刺の肩書きと紙の厚みしか見ていない。

 九条は挨拶もそこそこに、室内を一周眺めた。壁の吸音布、古い真鍮の照明、舞台脇の譜面台、その脇から二階へ伸びる細い真鍮管。わたしが気づく前に、彼女はその管を見ていた。

「伝声管ですか」

 あやめが頷く。

「ええ。二階の書斎とつながっています。伯父がまだ現役の頃、原稿を読みながら下へ指示を出すのに使っていました」

「いまでも?」

「たまに。携帯電話より、あの人にはその方が性に合うみたいで」

 九条は何でもない顔をしていたが、その答えをきっちり頭のどこかへしまったのが分かった。

 ほどなくして、白崎先生が披露するという終幕の複写を前に、ささやかな朗読会が始まった。『夜鶴館』は昭和初期に流行した探偵劇で、第三幕の途中までは現存しているが、結末だけが長らく不明だった。その欠落があることで伝説化していた作品でもある。白崎先生は、近年見つかった旧蔵資料のなかから終幕にあたる部分を突き止めたのだと言い、得意げに鼻を鳴らした。

「ただし」

 彼は机の上の茶封筒を指先で叩いた。

「本当に面白いのは、今日届いたこちらだ。匿名で送られてきた六十三頁目。わたしの持っていた複写と、微妙に違う」

 その場の空気が変わった。由比は台本から顔を上げ、高見は露骨に眉をしかめた。

「またその話ですか、先生」

 高見の声には、弟子時代の名残ではなく、大学の講義室で相手をねじ伏せる習慣だけが残っていた。

「そんな都合のいい頁が、披露会当日に匿名で届く。出来すぎている。少なくとも学問としては扱えません」

「学問として扱えぬからこそ、文学は面白いんだよ」

「文学の名で雑な資料を通されては困ると言っているんです。もしそれが偽造なら、あなたの版元も、わたしの研究も巻き添えになる」

 白崎先生は冷えた目で笑った。

「心配するのは研究の方か。正直で結構だ」

 高見の頬が引きつった。どうやら二人のあいだには、単なる見解の対立以上のものがあるらしかった。

 そのやり取りの途中、九条がわたしへ小さく囁いた。

 彼女が肩のすぐそばまで寄ると、雨上がりの空気に混じって石鹸と煙草の残り香がした。わたしは男として平均以上に落ち着いているつもりだが、九条に距離を詰められるたび、その自負はあまり信用できない。

「有坂さん。さっき白崎先生が、六十三頁と言いましたね」

「ええ」

「『終幕』ではなく、頁数で呼んだ。つまり先生にとって大事なのは結末そのものではなく、その頁にしかない何かです」

「余白の書き込み、とか」

「たぶん」

 彼女は、それ以上言わなかった。

 朗読は第一場の途中まで進んだが、部屋の空気は終始きしんでいた。白崎先生は高見の訂正にいちいち棘のある言い返しをし、高見は学者の顔でそれを受けながら、たまにあからさまな憎悪を隠しきれなかった。あやめは湯呑を替え、由比は朗読者としての笑顔を崩さなかったが、誰も文字どおり作品に集中してはいなかった。

 七時五十分、休憩が入った。

「終幕の差異を、上で見てきます」

 白崎先生は茶封筒を掴み、二階へ上がっていった。高見も立ち上がったが、あやめがすぐに進路を塞いだ。

「伯父は一人で見たい人なんです」

「そうやって都合の悪い相手を締め出す」

「高見先生」

 あやめの声は静かだったが、逆らいにくい種類の静けさだった。高見は舌打ちをのみ込み、代わりに窓際で煙草の吸えない苛立ちを持て余した。

 その五分後、わたしは高見と同じ卓にいた。彼は白楊社が復刻版を出すのかどうかを執拗に尋ね、もし出すなら学術的な監修は自分がやるべきだと遠回しに言い続けた。由比は台本の表紙を撫でていたが、ときどき九条の横顔へ視線が流れ、そのたびにめくる頁を一枚飛ばした。あやめは茶の支度をしている。九条は部屋の隅に立ち、誰の相手もせず、伝声管の口の位置だけを何度か見ていた。

 八時十二分。

 不意に、真鍮管の奥で微かな振動音がした。続いて、白崎先生の声が朗読室へ落ちてきた。

『まだ第三幕の決着がつかん。十分、誰も上がってくるな』

 よく通る、年季の入った男の声だった。少し癇に障る断定の調子まで、まちがいなく白崎周造本人だった。

 高見が苦い顔をした。

「いつまでも芝居が好きな人だ」

 あやめは安堵したように息を吐いた。わたしも、ひとまず場が荒れずに済んだと思った。だが九条だけは、返事もせずに伝声管へ近づき、金属の口金を覗き込んだ。

「どうかしましたか」と由比が聞く。

 声が少し上ずっていた。九条がそちらを向くと、由比は自分でも気づかないほど背筋を伸ばした。

「いいえ」

 彼女は一歩退いた。

「少しだけ、音が乾いていたので」

 その言葉の意味を、その時のわたしは理解しなかった。

 八時二十五分になっても、白崎先生は下りてこなかった。あやめが二階へ声をかけたが返事はない。もう一度伝声管へ呼びかけても沈黙したままだった。高見が苛立ちを隠さず立ち上がる。

「くだらない真似だ。わたしが見てきます」

 今度はあやめも止めなかった。わたしたちは連れ立って二階へ上がり、突き当たりの書斎の扉を叩いた。返事はない。鍵はかかっていなかった。

 扉を開けた瞬間、あやめが小さく悲鳴を上げた。

 白崎周造は机の脇に倒れていた。頭の横に血が薄く広がり、傍らには青銅の兎の文鎮が転がっている。眼鏡は外れ、片方の蔓が折れていた。机の上には開いた複写、朱の鉛筆、そして破られた茶封筒だけがある。六十三頁は消えていた。

 槙野刑事が駆けつけるまでのあいだ、誰もまともに口を利かなかった。高見だけは「まさか」と「そんなはずがない」を何度か繰り返したが、その驚きは本物とも演技ともつかなかった。

 やがて到着した槙野刑事は、まず状況を聞き、白崎先生が八時十二分には確かに生きていたと理解すると、高見へ厳しい視線を向けた。

「あんた、さっきまで言い争っていたな」

「言い争いはした。しかしその時刻には下にいた。ここにいた全員が見ている」

 それは事実だった。少なくとも、八時十二分の声を聞いた時、高見はわたしの斜め向かいに腰掛けていた。白崎先生があの時点で生きていたのなら、高見には犯行が難しい。

 だが九条は、遺体より先に机の上の原稿を見ていた。

「有坂さん」

 彼女は朱の鉛筆で書き込まれた欄外を指した。

「これ、白崎先生の手ですか」

「ええ」

 わたしはノートの綴じに近寄った。書き込みは癖の強い老学者らしい字で、台詞の整理と見出しの修正がされている。

「どうしてです」

「ここ」

 九条の爪先が、欄外の一行を軽く叩いた。

 終幕、朗読用に整理

 その三文字を見た瞬間、背中が冷えた。

「さっきの声」

「ええ」

 九条は頷いた。

「白崎先生は『第三幕』と言った。でも、この人は少なくとも今夜、この稿に対しては『終幕』という呼び方に直している。しかも、朗読用に整理、と自分で書いている。さっきの声は、今夜のこの机の前にいた白崎周造の言葉ではありません」

「録音……」

「その可能性が高いです」

 彼女は、机の引き出しの半開きになった隙間を見た。中に小型のICレコーダーが入っている。古い学者に似合わず、現代的な機械だった。

「白崎先生は研究の口述メモを残す人だったんでしょう」

 あやめが答える。

「ええ。手で書くより先に、まず声で残すことが多くて」

「なるほど」

 九条はレコーダーを手袋越しに持ち上げた。

「なら、代役を立てるのも簡単だった」

 槙野刑事が眉を寄せる。

「待て。録音だとして、誰が仕込んだ」

「いまからそれを考えます」

 九条は落ち着いていた。いつものことだが、彼女は答えに近づくほど声が低くなる。

 警察が現場を押さえるあいだ、わたしたちは朗読室へ戻された。湯気の消えた湯呑が卓に残り、八時十二分の声だけがまだ天井のあたりに引っかかっているようだった。

「先生が録音なんて使うはずがない」

 高見が言った。

「あの人は、声の熱まで含めて資料だと考える人だ。そんな偽物を自分で流すものか」

「自分では、でしょうね」

 九条は椅子に座らず、立ったまま彼を見た。

「でも、今日のあなた方は全員、その声を証拠にしようとした。先生がその時刻に生きていた、と」

「当然だろう」

「いいえ。少なくとも、編集者は一人ひっかかりませんでした」

 突然話を振られ、わたしは一瞬遅れた。

「あ、ええ。いま言われてみれば、たしかにおかしい。白崎先生は夕方、わたしに『第三幕では安っぽい、終幕にしよう』と言って、全部の柱を直していたんです」

 由比が顔をしかめる。

「じゃあ、あの声は前に録ったものだった?」

「たぶん休憩前よりも前です」

 九条は言った。

「もっと正確に言えば、みなさんの前で白崎先生が『匿名で届いた六十三頁』を話題にするより前。なぜなら、録音された声は『第三幕の決着』と言っただけで、匿名の頁そのものには触れていないから」

 高見の肩が、ほんのわずかに強張った。

「……それで?」

「それで、録音を仕込めた人間は限られます。今日、休憩前に二階の書斎へ自由に出入りできて、白崎先生がレコーダーを使う習慣を知っていて、しかも先生の言葉遣いがいまの原稿と食い違っても不思議に思わないほど、先生と長く仕事をしていた人」

 九条はそこで言葉を切り、高見修司をまっすぐ見た。

「あなたです」

 あやめが息を呑み、由比が思わず椅子の背へ手をかけた。

 高見は、すぐには怒らなかった。代わりに、学者が自説へ反論された時の顔をした。感情より先に、反論の骨組みを組み立てる顔だった。だが、組み上げたはずの骨組みは、九条に正面から見返された瞬間に少しずつ軋み始めていた。理屈で立っている男ほど、美しい女に一分の隙もなく断言されると脆い。

「証明になっていません」

「ええ。だから続けます」

 九条は淡々とした調子のまま、卓の上に一枚のメモを置いた。二階で警察から借りた、白崎先生の走り書きだった。

「白崎先生は今夜、由比さんの朗読に合わせて台詞の切れ目を書き換えていた。ところが、さっきの録音は『十分、誰も上がってくるな』と言った。命令の切り方が、今夜の先生の書き言葉と違う。これは録音が少なくとも夕方の推敲より前だという補強になります」

「そんなもの、先生の気分次第だ」

「ええ。そこだけなら」

 九条は次に、ビニール袋へ入った小さな黒い樹脂片を槙野刑事へ向けて示した。

「これは書斎の床に落ちていたイヤホンジャックの変換アダプタです。白崎先生の持ち物ではない。あやめさん」

「伯父は無線も有線も使いません。機械音が嫌いで」

「そうでしょうね。けれど高見先生、あなたは先月の学会でも、講演録を全部ご自分で録っていた。ICレコーダーを胸ポケットへ差して」

 高見の表情が初めて崩れた。

「それを知ってるからって」

「まだあります」

 九条は言った。

「警察が書斎の絨毯から採った足跡は、雨で湿った革靴の跡でした。今夜、靴底が濡れていたのは、途中で外の中庭へ出て電話していたあなたと、さっき到着した槙野さんだけです。でも槙野さんはまだ来ていない時間帯の跡です」

 高見が何か言い返そうと口を開き、閉じた。

「先生は休憩前、匿名の六十三頁が来たと皆の前で口にした。あなたはそれを聞いて、自分が隠していたものが戻ってきたと悟ったんでしょう」

 九条の声が、わずかに冷えた。

「十年前、あなたは地方の旧家の資料整理で『夜鶴館』終幕の一部に先に触れている。けれど、その存在を公表しなかった。なぜなら、その頁があなた自身の論文をひっくり返す内容だったからです。『夜鶴館』は未完ではなく、作者が最初から真犯人を別人として設計していた。あなたの代表的な論考は、その前提で全部崩れる」

「推測だ」

「いいえ。白崎先生の封筒には、頁だけでなく添え状が入っていたはずです。だから先生は上で照合すると言った。そこに、あなたが昔その頁を見ていたことを示す言葉があったんじゃありませんか」

 高見の唇が、紙みたいに乾いて見えた。

「先生は上であなたを問い詰めた。あなたは手近にあった青銅の文鎮で殴り、封筒を奪った。そのあと、ご自分のレコーダーか先生のレコーダーで用意していた音声を、伝声管の口に仕込み、時間をずらして再生した。全員に“先生はまだ生きている”と思わせるために」

「そんなこと」

「できます」

 九条は遮った。

「たとえば、再生予約くらいなら」

 高見は、そこで完全に黙った。否定の言葉より先に、計算が崩れた顔だった。

 沈黙を破ったのは、あやめだった。

「伯父が持っていた添え状、なんて書いてあったんですか」

 高見は彼女を見なかった。

「……『拾ったものを、拾わなかったことにはできない』」

 しぼり出すような声だった。

「それだけだ。だが、文面の下に、わたしの昔の校訂記号が写っていた。六十三頁へ、若い頃のわたしがつけた鉛筆の癖まで」

 由比が椅子から立ち上がる。

「じゃあ本当に、先生は知っていたんですね」

「知っていた」

 高見は初めて、自分の声の温度を失った。

「あの人はいつもそうだ。最後の最後まで黙っておいて、人前でだけ相手を裁く。わたしがどれだけ『夜鶴館』に時間を使ったと思う。あの頁が出れば、全部が白崎周造の手柄になる。わたしは、最初に見つけたのに」

「見つけたのに、隠した」

 九条が言った。

「そこで、あなたの負けです」

 高見は笑いもしなかった。敗者の顔というより、自分がずっと守ってきた理屈が、理屈の形をしたまま首を絞めた人間の顔だった。

 槙野刑事が身柄を確保し、彼の上着の内ポケットから破れた茶封筒が出てきた。だが、そこで事件はきれいに終わらなかった。

「中身が違う」

 封筒を確認した九条が、低く言った。

 入っていたのは六十三頁ではなかった。薄い写真複写が一枚と、小さな灰色のカードだけだった。複写にはたしかに『夜鶴館』終幕の一部が写っている。だが、白崎先生が上へ持っていったはずの、古い紙の厚みも、余白の鉛筆痕の圧痕もない。原物ではなく、精巧な複写だった。

 そしてカードには、たった四文字だけ、整いすぎた活字で印刷されていた。

 久世宗理

 槙野刑事が舌打ちする。

「またそいつか」

「ええ」

 九条はカードを指先で挟み、しばらく見ていた。

「高見先生は、殺した相手から頁を奪ったつもりでいた。でも本当に欲しかった人間は、最初から別にいた。久世教授は、白崎先生へ複写を送り、高見先生には過去の罪を思い出させ、どちらがどう動くかを待っていたんでしょう」

「原物は」

 わたしが聞くと、九条は窓の外の暗い中庭を見た。

「たぶん、もうこの家にはありません」

「じゃあ、また」

「ええ。また、わたしたちより一頁先にいる」

 神楽坂の夜は、雨こそ降っていなかったが、妙に湿っていた。警察が帰ったあと、水琴亭の中庭で、あやめがしばらく一人で立っていた。叔父の死を悼んでいるというより、長いあいだ叔父と弟子のあいだに横たわっていた醜いものを、ようやく全部見てしまった人の顔だった。

 帰り道、わたしは九条に言った。

「あなた、最初から声を疑っていたでしょう」

「ええ」

「伝声管を見た時に?」

「半分は」

 彼女は歩きながら答えた。

「もう半分は、有坂さんが白崎先生の原稿へ触れた顔を見た時です。編集者は、言葉の癖が変わると嫌でも気づく。だから今夜は、あなたがいれば足りると思っていました」

「褒めてます?」

「事実を言っています」

 そう言って、彼女はほんの少しだけ笑った。真正面でそれをやられると、男はだいたい間の抜けた顔になる。わたしも例外ではない。

「あなた、自分が男を緊張させるの、少しは自覚した方がいいですよ」

「推理のためなら、緊張は必要です」

「そういう意味じゃなくて」

「では、どういう意味ですか」

 彼女は本気で分からない顔をした。そこに芝居はなかった。九条玻璃は自分が人気のある女だと頭では知っていても、それがいまこの瞬間、誰の鼓動を速めているかまでは考えない。考える必要を感じていない。

 そう言って、彼女は灰色のカードをコートの内側へしまった。

「久世教授は、人を直接脅すより、自分で自分を壊す瞬間を用意する方が好きなんです。人間の虚栄心や後ろめたさを、機械の予約再生みたいに仕掛けておく。そして頃合いが来たら、勝手に鳴る」

「趣味が悪い」

「最悪です」

 九条は珍しく、即答した。

「でも、最悪な相手ほど、読む価値がある」

 その言い方を聞いて、わたしは少しだけ嫌な予感がした。

 九条玻璃は、事件を解くたびに相手を読み、相手もまたこちらを読む。久世教授のような人間が、いずれ九条玻璃そのものへ興味を持たないはずがなかった。

 坂の下では、遅い時間の書店にまだ灯りが残っていた。

 物語が続く時、最初に現れるのは、たいてい次の死体ではない。

 次の読者だ。

前の話

第一話 神保町古書楼の密室

次の話

第三話 風哭高原の黒い犬