Work
2026.03.21 ・ 短編 ・ 6分
夢申請窓口
毎朝、夢を役所へ提出することが義務づけられた社会で、男は提出済みの記録に小さな異常を見つける。

朝いちばんにすることは、顔を洗う前に夢を提出することだった。
枕元の端末に指を置くと、昨夜の睡眠記録が自動で開く。映像化された夢の断片を確認して、内容に誤りがなければ送信する。三十秒もかからない。未提出が三回続くと訪問指導、虚偽申告は罰金。だからみんな、寝ぼけたままでも最初にそれを済ませる。
わたしもそうしていた。
今朝の夢は、知らない駅のホームに立っているだけのものだった。白い線路、行き先表示のない電車、向かいのベンチで眠る男。とくに問題はない。分類候補も「移動」「待機」「匿名人物接触」で、自動的に薄い青の枠がついていた。
送信。
完了音。
それで終わりのはずだった。
通勤電車で、隣に立った女性の端末画面がちらりと見えた。提出遅延の通知だった。珍しくはないが、彼女は通知欄を見て、少し首を傾げた。
「提出済みなのに」
小さくそう言ったのが聞こえた。
わたしは何も言わなかった。夢の提出に関して、他人に話しかける人は少ない。体温に近い個人情報だと、みんな一応は思っている。
会社に着くと、同僚の牧野がコーヒーを入れながら言った。
「昨日、うちの妻が再提出になってさ」
「珍しいね」
「ブランコの数が記録と違うって」
牧野は笑ったが、笑いきれていなかった。
「七つって出したら、解析では六つだったらしい」
「数え違いじゃないの」
「夢でそんな厳密に言われてもな」
わたしもそう思った。だが、そういう制度なのだった。曖昧だからこそ、曖昧なまま提出させない。昔、提出制度が始まったころ、ニュースで似た説明を聞いた気がする。
午前の会議中、端末に照会通知が来た。
夢管理局から。
内容確認のお願い。
珍しいことではない。月に一度くらいは、記憶の揺れや分類ミスで照会が来る。昼休みに開けばいいと思って、そのまま閉じた。
だが昼に確認して、少し手が止まった。
「本日提出された夢について、既存記録との重複が確認されました」
重複。
下に添付された映像を開く。知らない駅のホーム。白い線路。行き先表示のない電車。向かいのベンチで眠る男。
今朝の夢そのままだった。
提出時刻は、午前五時四十二分。
わたしの提出は六時十一分だ。
つまり、同じ夢がわたしより先に、誰かによって提出されている。
誤配だろうと思った。端末の紐づけミス。睡眠記録の混線。そういう不具合が、たまにはある。
照会先の番号へ発信すると、すぐに担当者が出た。
「確認ですが、こちらの夢はご本人のものに相違ありませんか」
女の声だった。若すぎず、老けてもいない、役所らしい平らな声。
「ええ。たぶん」
「たぶん、ですか」
「夢ですから」
一拍あった。
「先行提出者も同じ回答でした」
わたしは聞き返した。
「誰が出したんです」
「個人情報のためお答えできません」
「では、わたしはどうすれば」
「現時点では保留です。今夜の睡眠後、再度提出をお願いします」
電話はそれで終わった。
午後の仕事は手につかなかった。端末を開いて、自分の過去の夢記録を見直す。断片的な映像が日付順に並んでいる。雨の中の歩道橋。歯の抜ける感覚。小学校の音楽室。どれも見覚えがあるような、ないような夢だった。
ただ、去年の十一月あたりから、急に似た風景が増えていることに気づいた。知らない廊下。白い机。番号札。待合室。
役所に似ていた。
その夜、眠りは浅かった。変な夢を見る予感があった。
けれど翌朝、端末に表示されたのは、また同じ駅のホームだった。
ただ一つだけ違っていた。
向かいのベンチで眠っていた男が、今朝は起きてこちらを見ていた。
わたし自身の顔で。
提出をためらったのは初めてだった。未提出の罰則が頭をよぎる。結局、わたしは送信した。
五分後、すぐに電話が鳴った。
「夢管理局です」
昨日と同じ声だった。
「本日分については提出を受理しました」
「昨日の重複は」
「解消しています」
「どういうことですか」
短い沈黙があった。
「ご本人の記録として整合が確認されました」
その言い方が気になった。
「本人、というのは」
「継続個体識別番号に基づくものです」
わたしは台所の椅子に座った。
「ちょっと待ってください。夢は、わたしが見たものですよね」
「提出制度上はそうです」
「制度上は?」
担当者は、そこで初めて少しだけ声をやわらげた。
「夢は個人の内面ではなく、睡眠中に発生する予兆情報として収集されています」
「知っています」
「そのため、提出主体は内容の発生源より、管理上の連続性が優先されます」
意味が分からなかった。
「発生源って、誰ですか」
受話口の向こうで、紙をめくる気配がした。
「現在のあなたではない可能性があります」
それきり、しばらく何も聞こえなかった。
気づけば、端末の画面が暗くなっていた。黒い画面に、自分の顔が映る。寝癖のついた、見慣れた顔だ。
その顔を見ながら、ふとおかしなことに気づいた。
わたしは、夢を提出する前の生活を思い出せない。
制度が始まる前のことではない。
昨日より前の、自分の夢の手触りを思い出せないのだ。起きた瞬間、消えていくものを慌てて掴もうとした感じ。細部が崩れる速さ。そういう、提出以前の夢の曖昧さそのものを。
もしかすると管理されているのは、夢ではないのかもしれなかった。
その朝、会社へ向かう前に、役所の前を通った。まだ窓口の開く時間ではないのに、数人が静かに並んでいた。みんな手に端末を持ち、昨夜の夢を見返している。
誰一人、眠そうな顔をしていなかった。