Work
2026.03.15 ・ 長編 ・ 137分
九月のループは恋に向かない
九月の木曜日を何度も繰り返すことになった高校二年の水野景太と、同じくループを認識するクラスメイトの雨宮ひより。軽快な青春コメディの中で、少しずつごまかせなくなる本音と恋愛感情を描く長編ラブコメ。

01
第一章 九月十二日は二回あっても困る
高校二年の九月にもなって、俺の恋愛実績はいまだ参考記録のままだった。
ゼロと言うと角が立つので参考記録と言っているだけで、内容はほぼゼロと同じである。女子と話せないわけではない。むしろ話す方だと思う。文化祭実行委員もやっているし、クラスのグループLINEで必要事項を流せばちゃんと返信も来る。ただ、そういうのは全部、恋愛の成績表に載らない。
教室の窓が開いていて、九月の風が黒板のチョークの粉を少しだけ動かしていた。夏ほど厚かましくないのに、まだ秋ほど遠慮もしていない。そういう中途半端な空気の日は、なぜか人の未練まで浮き上がる。
「おまえ今日こそ行けよ」
一限前、隣の席の金森陸が俺の肩を肘で小突いた。こいつは朝からずっと元気だ。野球部を引退してからむしろ騒がしくなった気がする。
「何に」 「何に、じゃないだろ。雨宮さんに」 「朝のホームルーム前から雑すぎる」
陸は笑った。
「だって今がいちばんチャンスっぽいじゃん。別れたらしいし」
言いながら、さりげなく視線を斜め前へ流す。つられて俺も見た。
雨宮ひよりは、自分の机に片足だけかける妙な姿勢で、文化祭の備品リストを見ていた。肩より少し下で切りそろえたボブが、窓から入る風でわずかに揺れている。派手ではないのに目立つやつはいるが、あいつはたぶんその種類だ。顔立ちがどうこうというより、そこにいるだけで周りの空気が少しだけ会話しやすくなる。
ひよりはクラスの中心、というほどではない。いつも騒いでいる女子グループにもいるし、いない日もある。明るいけど、明るさを仕事にしていない感じだ。笑うときはちゃんと笑うが、自分から前へ出るタイプではない。なのに、なぜか人に話しかけられる。
そして二週間前、サッカー部の藤島侑真と別れた。
この情報にはいろいろ補足がある。まず、藤島は嫌なやつではない。むしろだいぶ感じがいい。背が高くて爽やかで県大会でも点を取る。たぶん俺が女子でも普通に好きになる。次に、雨宮ひよりも別に傷心で毎日空を見上げているわけではない。普通に笑っているし、昨日なんか放課後に購買の焼きそばパンを二個買っていた。
つまり今の俺の「チャンスっぽい」という感覚には、かなりの邪念と希望的観測が含まれている。
「行かない」 「うわ、もったいな」 「何が」 「おまえ、メガネ外して前髪ちょっとやれば意外といけるのに」
陸はその手の、褒めているのか馬鹿にしているのか分からないことをよく言う。
「意外と、が余計だろ」 「でも事実じゃん。素材はあるのに使い方がダサい」
俺は反論しかけてやめた。素材、という言い方は気に入らないが、朝の洗面所でたまに思うことと近い。髪をちゃんと整えて、メガネをやめて、姿勢まで気をつければ、もしかするともう少しまともに見えるのかもしれない。だがその「もしかすると」に日々の気力を割けるほど、俺は自分に期待していなかった。
「景太、聞いてる?」
不意に本人に呼ばれて、変な声が出そうになった。
ひよりがこちらを向いていた。リストを片手に持ち、もう片方の手でペンをくるくる回している。
「文化祭実行委員でしょ。看板用の模造紙、今日中に美術準備室から取ってきてって」 「俺?」 「うん、水野景太くん。今ひとの顔見てぼーっとしてた人」
陸が隣で口を押さえて笑っているのがむかつく。
「ぼーっとはしてない」 「じゃあ熱心にリスト見てた?」 「見てない」 「正直でえらい」
ひよりはそう言って、ペン先で自分のリストを叩いた。
「三限のあと、職員室通るついででいいから」 「分かった」 「ありがとう。ついでにガムテも」 「ついでが増えてる」 「人生、ついでの積み重ねだから」
意味がありそうで全然ない台詞を、あいつは平然と言う。
チャイムが鳴ってホームルームが始まった。担任の堀越が健康観察をしながら、文化祭まで一週間しかないこと、二年四組は今年こそ模擬店部門で赤字を出すなという話をした。俺たちのクラスは「昭和喫茶きらめき」という、センスがあるのかないのか分からない企画をやる。考案者はひよりで、責任者はくじ引きの結果なぜか俺になっていた。
昭和喫茶といっても、俺たちは昭和を知らない。知っているのは、クリームソーダとナポリタンと妙にくねっとしたフォントくらいだ。つまり雰囲気で押し切るしかない。文化祭というのはだいたいそういうものである。
二限の数学で当てられて、俺は答えを一つ飛ばした。廊下側の女子が小さく笑い、堀越に「水野、今日は魂が半分しか来てないな」と言われた。違う。魂はちゃんと来ている。少なくとも五割よりはある。ただ、朝からひよりに話しかけられたせいで、余計なところへ配分されているだけだ。
三限は体育だった。残暑の校庭はまだ普通に暑い。男子はサッカー、女子はバレー。藤島がセンターサークルで声を張るたびに、だいたいの女子は一回くらいそっちを見る。俺も人としてその気持ちは分かるので、複雑だが文句はない。
給水のタイミングで、ひよりが女子コートの向こうから手を振ってきた。
「景太ー、模造紙」
「分かってる」 「忘れそうな顔してるから」 「人の顔の評価が雑」 「でも当たってるでしょ」
当たっているのが腹立たしい。
昼休み、俺は職員室前の長椅子に模造紙を立てかけて、ひとりで購買のメロンパンを食べていた。するとひよりが紙パックのいちごオレを持って現れた。なぜか当然のように俺の隣へ座る。
「ありがとう。ガムテも」 「おまえ、人に使い走りさせるの上手いな」 「褒めてる?」 「褒めてない」 「じゃあ今から褒めて」
ひよりはストローをくわえたまま笑った。そういうところがずるい。
いちごオレの甘い匂いが、昼休みの乾いた廊下で妙に近かった。紙パックを持つ指は細いのに爪は短くて、そういう細部だけ妙に生活感がある。高校生男子の視線というのは救いがたくて、会話とは関係のないところまで勝手に拾ってしまう。
「別に上手くないだろ」 「えー、わたしちゃんとお礼言ったのに」 「それとこれとは別」 「細かい男はモテないよ」
俺はメロンパンの袋を丸めた。
「いきなり一般論で殴るな」 「一般論じゃなくて、今の水野くん個人の感想」 「もっとひどい」
ひよりはそこで少しだけ黙った。向こうの廊下では、女子が二人で文化祭の看板について言い合っている。職員室のドアが開くたび、プリントの擦れる音とコピー機の熱っぽい匂いが流れてきた。
「さ」
ひよりが不意に言う。
「男子ってやっぱ、元カレいた女子ってちょっと面倒?」
質問の温度が軽くて、逆に答えに困る。
「誰目線の話」 「一般男子」 「一般男子を俺一人に背負わせるな」 「じゃあ個人男子」
俺は少し考えた。こういうとき、気の利いたことを自然に言える男がたぶんモテるのだろう。俺はその種目を履修していない。
「別に、面倒っていうか」 「うん」 「相手が藤島だと、比較対象が強すぎるなとは思う」
言ってから、我ながら正直すぎたと思った。
ひよりは一瞬目を丸くして、それから吹き出した。
「そこ?」 「そこって何だよ。現実的だろ」 「現実的すぎてちょっと面白い」 「笑うな」 「ごめん。いや、でも水野っぽい」
水野っぽい、という評価に安心していいのか傷ついていいのか分からない。たぶんその両方だ。
「ちなみに藤島は強いけど、疲れるよ」
ひよりは何でもないことみたいに言った。
「いいやつなんだけどね。いいやつだから別に大きく揉めないし、でもなんか、ずっとちゃんとしてなきゃいけない感じがして」
そのとき、ひよりはストローの先を歯で軽くつぶしていた。声は軽いのに、その癖だけ少し子どもっぽくて、俺はなぜかそこだけ記憶に残った。人が本音に近づくとき、目より先に指とか口元とか、そういうところがばれるのかもしれない。
俺はその言葉を、その場では深く考えなかった。昼休みの廊下で、いちごオレを持った女子が元カレの話を少しする。それ以上でも以下でもないように見えたからだ。
今思えば、その時点でもう少し分かるべきだったのかもしれないが、高校二年の男子にそこまで期待するのは酷だと思う。
放課後は文化祭準備で、教室の空気がだんだん雑になっていく。ハサミが足りない、机をどかせ、そのポスターはダサい、ダサくない、でもちょっとダサい、みたいな会話が四方八方から飛ぶ。俺は模造紙を切り、会計表を確認し、業務用みたいな顔でガムテープの芯を拾っていた。
「景太、ちょっとこっち」
またひよりに呼ばれた。今度は教室後ろのロッカー前だ。
「このメニュー表、どっちがいいと思う?」
彼女は二枚の紙を出した。片方は普通に見やすい。もう片方は妙に凝っていて、クリームソーダの字が必要以上にうねっている。
「左」 「即答」 「右は読みにくい」 「そこを何とかするのが文化祭じゃん」 「文化祭を万能調味料みたいに使うな」
ひよりは唇を尖らせた。
「でも左って無難すぎる」 「無難で売れるならそれでよくない?」 「わあ、会計担当っぽい」 「褒めてないだろ」 「半分は」
彼女が紙を胸の前で持ち替えたとき、爪の先に薄い透明のネイルが乗っているのが見えた。目立たないのに、そういうところだけ妙にきれいにしている人はずるい。高校生男子の視線がどこに引っかかるか、本人は知らないだろうし、たぶん知らない方がいい。
「じゃあ折衷でいくか」
俺はペンを借りて、左の見やすいレイアウトに右の妙なフォントを少しだけ混ぜた。ひよりはそれを覗き込み、「あ、意外とセンスあるじゃん」と言った。
「意外と、が余計」 「今日はそれよく言うね」 「陸にも言われたから」 「陸くんと同レベルで会話してごめん」 「悪口に知性があるタイプだな」
ひよりは笑った。近い距離で笑われると、男子はだいたい脳の一部が役に立たなくなる。そういう意味では、俺もわりと普通の男子だ。
結局、片づけが終わったのは六時半を過ぎていた。九月の夕方は、もう夏ほど明るくない。校舎の窓が順番にオレンジ色になって、グラウンドから運動部の声が薄く響く。空気に少しだけ、終わりかけのものの匂いが混ざる時間だ。
校門へ向かう途中、ひよりがひとりで自転車置き場の方へ歩いていくのが見えた。俺は一秒迷って、二秒目で追いかけた。こういうのは勢いが大事だと、恋愛経験のない人間でも知識としては知っている。
「雨宮」
呼ぶと、ひよりが振り返る。
「ん?」
夕方の光で、彼女の髪の毛先が少しだけ茶色く見えた。
「えっと」
ここで詰まるから駄目なのだというのも知っている。知っているが、知っていることとできることは別だ。
「文化祭、さ」 「うん」 「クラスのシフトとは別に、ちょっと回らない?」
言えた。思ったより自然に言えた。俺にしては上出来だ。少なくとも「今度ヒマ?」みたいな、時間軸の弱い聞き方ではない。
ひよりは少しだけ驚いた顔をしたが、すぐに目を細めた。
「それ、実行委員として?」 「そう聞こえる?」 「五割くらい」 「じゃあ残り五割」 「何」
俺はそこで、わずかに見栄を張った。
「普通に」
普通に、というのは便利な言葉だ。便利すぎて意味がない。だがその場では、それ以外に持っている言葉がなかった。
ひよりは自転車のハンドルに指をかけたまま、少しだけ笑った。
「その誘い方、百点満点で三十一点」 「低いな」 「でも赤点ではない」 「微妙な優しさ」
俺は笑ったふりをしたが、内心ではかなり忙しかった。誘った。点数までついた。しかも赤点じゃない。たったそれだけのことで、胸の奥の浅い部分がひどく浮かれている。恋愛経験の少ない男子は、こういう微妙な数字にさえ簡単に左右される。
「考えとく」
そう言って、彼女は自転車を引いた。
「あと水野」 「何」 「メガネ、似合ってるけど、たまには前髪上げたら?」
言い逃げみたいにそれだけ残して、ひよりは校門の向こうへ行ってしまった。
俺はしばらくその場に立っていた。百点中三十一点。低い。だが赤点ではない。つまり完全敗北ではない。文化祭まで一週間。この数字が高いのか低いのかは分からないが、少なくともゼロではなかった。
その夜、家で俺はわりと機嫌よく風呂に入り、わりと機嫌よく鏡の前で前髪を上げてみて、すぐに下ろした。似合うかもしれないが、似合うかもしれない止まりだ。恋愛というのは、そういう「かもしれない」の累積で人を一喜一憂させる。
ベッドに入ったあとも、俺はひよりの「考えとく」を都合よく解釈した。考えとくは断り文句でもある。だが、そうじゃない場合もある。そこを見誤るのが男子の愚かさだとしても、見誤らずに生きていけるほど悟ってはいない。
だから翌朝、目を開けてスマホの画面に表示された日付を見たとき、俺はしばらく意味が分からなかった。
九月十二日、木曜日。
昨日と同じ日付だった。
夢かと思って二度寝しかけたが、母が階下でフライパンを置く音まで同じだった。洗面所へ行くと、歯磨き粉の残り方も昨日の朝と同じで、机の上には昨日提出したはずの数学の小テストがまだ置いてある。点数はもちろん、そこに付いた俺の消しゴムのカスの形まで同じだった。
「は?」
間の抜けた声が出た。
学校へ行くと、陸が一限前にまた同じことを言った。
「おまえ今日こそ行けよ」
俺は椅子から落ちかけた。
「何に」 「何に、じゃないだろ。雨宮さんに」
ここまで完全一致すると、怖いというよりまず気持ち悪い。
ホームルーム、数学、体育、昼休み。全部、昨日と同じように進んだ。堀越の台詞も、女子の笑うタイミングも、購買のメロンパンが一個だけ売れ残っていることも同じだった。
ただし俺だけは違う。
二回目の俺は、数学で当てられる答えを知っていたし、体育で藤島のシュートコースも知っていた。昼休みにひよりが何を聞くかも分かっていた。
最初の二時間は混乱していたが、三時間目くらいから俺はだんだん別のことを考え始めた。
これ、もしかして、めちゃくちゃ都合がいいのでは?
昼休みに購買へ走る前にメロンパンを取れる。数学で正解して「今日の水野はちゃんと来てるな」と言われる。体育で藤島のパスを一回だけ奪えて、陸に「おまえ急に覚醒した?」と引かれる。やろうと思えば、昨日より少しましな俺を簡単に作れる。
放課後、自転車置き場でひよりを呼び止めるタイミングも、今日は完璧だった。昨日より自然に話しかけ、昨日より少しだけ余裕のある顔ができたと思う。
「文化祭、ちょっと回らない?」
俺がそう言うと、ひよりは昨日と同じくらい驚いた顔をして、それから昨日と同じように目を細めた。
「その誘い方、百点満点で」
そこまで聞いて、俺は先に口を挟んだ。
「三十一点」
ひよりが黙った。
自転車置き場に、妙な静けさが落ちる。グラウンドの方で吹奏楽部の音が外れて、すぐに戻った。
「……何で知ってるの」
声の調子が、昼休みまでのひよりと少し違っていた。軽さを置く位置が、ほんのわずかにずれる。
俺は心臓が変な跳ね方をするのを感じながら、とりあえず一番雑な結論を口にした。
「いや、実は今日、二回目で」
「だよね」
ひよりはあっさり言った。
「わたしも」
その返答だけで、九月の夕方の空気が昨日までと別物になった。
02
第二章 ループには校則がない
三回目の九月十二日、俺は目覚ましが鳴る一秒前に目を開けた。
人間、二回も同じ朝をやると妙に手際がよくなる。洗面所の床の冷たさも、台所で母親がトースターを開ける音も、テレビの天気予報で女性アナウンサーが言う「西から下り坂です」も、もう知っていた。知っていることばかりの朝というのは楽なようで、意外と気味が悪い。
俺は顔を洗いながら、昨日の最後を思い出していた。
校門前。夕方。文化祭の誘いが三十一点だったこと。そして、俺が何かを言うより先に、雨宮ひよりが「わたしも」と言ったこと。
あれが夢だった可能性については、起きて三十秒で捨てた。夢にしては都合が悪すぎるし、何より俺の夢ならもう少し格好よく作る。
食卓で母親が「今日、お弁当いらないんだっけ」と聞いた。
「いる」
昨日と同じ返事をして、昨日と同じ卵焼きを詰めてもらう。家の中の時間は少しもゆがんでいない。俺だけが勝手に二日ぶんを抱えている。
駅までの道も、ホームに並ぶ位置も、電車の遅れが一分二十秒であることも、全部知っていた。そのくせ、胸の奥だけが落ち着かなかった。校門をくぐって、昇降口で上履きに履き替えて、二年四組の教室の前まで来たところで、ようやく見つけた。
ひよりは教室に入らず、廊下の窓際に立っていた。
朝の光が白く差していて、ガラスに彼女の横顔が薄く映っている。いつもより早い時間だからか、廊下にはまだ誰もいなかった。彼女は俺を見ると、手を小さく上げた。昨日の続きみたいな顔で。
「おはよう、水野景太くん」 「おはよう」 「ちゃんと三回目?」 「たぶん。そっちは?」 「わたしも三回目」
俺たちは一瞬、互いの顔を見た。
普通なら、もっと騒ぐ場面だと思う。二人だけが同じ日を繰り返しているなんて、冷静でいられる話ではない。けれど実際にその立場になると、驚きより先に確認しなければならないことが多すぎる。
「夢じゃないよな」 「たぶんね。わたし、昨日あんたの誘い方に三十一点ってつけたし」 「そこを証拠に使うな」 「じゃあ他に何。昼休みに水野がメロンパン食べてたこととか?」 「細かいな」 「観察力があるって言って」 「なんで採点者が褒めを要求するんだよ」
ひよりは笑った。昨日と同じ笑い方なのに、昨日より少しだけ遠慮がなかった。
「とりあえず、場所変えよっか」
彼女はそう言って、階段の踊り場へ俺を連れていった。非常口の近くの、朝はほとんど誰も来ない場所だ。窓の外では野球部の朝練が始まっていて、金属バットの乾いた音が一定の間隔で響いていた。
「確認事項」
ひよりが指を一本立てた。
「一、ループしてるのは九月十二日だけ」 「たぶん」 「二、覚えてるのはわたしたちだけっぽい」 「たぶん」 「三、物は持ち越せない」 「まだ試してない」 「試した。昨日」
俺は思わず目を瞬かせた。
「試したって何を」 「プリクラ」 「行動が早いな」 「一回目の放課後、ひとりで駅前行ったの。二回目の朝、財布の中見たら入ってなかった」 「……ひとりでプリクラ?」 「そこ引っかかる?」
引っかかるだろ、とは思ったが言わなかった。ひよりは平然としていた。そういうところがある。明るい顔をしているのに、ときどき発想が微妙に一人遊び寄りなのだ。
「ちなみに四」
彼女は指をもう一本立てた。
「悪用は一応、節度ありで」 「一応って何だよ」 「授業の答え先読みとか、購買で人気パンを取るとか、そのくらいまで」 「犯罪基準がふわっとしてる」 「じゃあ言い直す。人として後で思い出してしんどくなることはしない」
それは妙にちゃんとしたルールだった。
「分かった」 「あと」
ひよりは俺の顔を見た。
「変な期待した顔しない」 「してない」 「してる」 「してないって」 「この状況を男子高校生が完全に健全に受け止めるわけないじゃん」
図星を言われると、人はだいたい声が一段低くなる。
「別に、何も」 「うんうん」 「その、ちょっとだけ」 「ちょっとだけ何」
ひよりはわざとらしく身を乗り出した。顔が近い。シャンプーの匂いが、朝の乾いた空気に混ざって一瞬だけ届く。
こういうとき、男子高校生の頭の中がどれだけ忙しいかを、女子はたぶん正確には知らない。手が触れるかもしれないとか、名前を呼ばれた声が近いとか、そういう本当にしょうもないことで体温は簡単に上がる。もっと露骨な想像をしているわけではない。していない、と言い切るほど清くもない。ただ、今この距離に慣れていないだけだ。
俺は視線をずらした。
「やり直しがきくなら、もうちょっと格好よくできるかもとは思った」
言うと、ひよりは数秒黙った。それから、吹き出すのではなく、ちゃんと笑った。
「ああ、そういう方か」 「そういう方って何だよ」 「もっと最低なこと考えてるかと思った」 「俺を何だと思ってる」 「健全寄りのばか」 「褒めてないだろ」 「けっこう褒めてる」
本当は、それだけではなかった。元カレがいた女子と二人きりで、同じ日を何度も共有している。そうなると男子の頭の悪い部分は、経験差みたいなものまで勝手に意識する。藤島とはどこまで近かったんだろう、とか、そういう最低で情けない想像が一瞬よぎる。その一瞬ごと、自分の小ささが嫌になる。
ホームルームのチャイムが鳴った。俺たちは教室へ戻った。戻りながら、ひよりが小さな声で言う。
「でもまあ、分かるよ。わたしも一回目、これ明日消えるなら好き放題できるじゃんって思ったし」 「何したんだよ」 「ひとりでプリクラ」 「好き放題の規模が小さい」 「うるさいな」
教室に入ると、陸がいつもの調子で「おまえ今日なんか早くね」と言ってきた。昨日と同じ台詞だ。違うのは、俺がその次に来る言葉まで知っていることだった。
「雨宮さんに話しかけるチャンスだぞ、って言うんだろ」
陸は眉を上げた。
「こわ。エスパー?」 「ただの経験者」 「何のだよ」 「いろいろ」
言ってみたかっただけの台詞を、俺は少し低めの声で言った。陸は「朝から痛いな」と笑った。ひよりが前の席で肩を震わせている。たぶん笑っている。格好つけはだいたい一秒で見抜かれる。
午前中は、検証のために細かく動いた。
二限の数学で当てられる問題を先にノートへ書いておく。体育前に自販機のスポドリが一本売り切れることを確認する。昼休み、購買へ向かう角で一年生がトレーを落とすのを、半歩早く手を出して防ぐ。
未来を知っていると、たいしたことのない場面でばかり微妙に役に立つ。世界を変えるほどではないが、自分の見え方くらいは少し変えられる。
「水野、今日なんか調子いいな」
数学のあと、陸が感心したように言った。
「昨日まで魂五割だったのに」 「今日は六割」 「上がり幅が地味」
ひよりがそこへ割って入る。
「七割くらいあるよ」 「お、雨宮さん評価甘い」 「いや、見栄を張ってるぶん加点」
俺は抗議しかけてやめた。否定すると余計に図星になる。
昼休み、俺たちはまた職員室前の長椅子に座った。昨日と同じ場所なのに、今日は共犯者同士の打ち合わせみたいな空気がある。
「で、どうする」
俺は紙パックのカフェオレにストローを刺した。
「何を」 「この一日」 「まだ三回目だし、まずは普通に確認でしょ」
ひよりはツナマヨおにぎりの袋を開けた。あいつは購買でもわりと普通のものを選ぶ。クリームたっぷりの菓子パンを選びそうな顔で、意外と選ばない。
「いつ戻るかとか」 「朝六時四十二分」 「そこまで正確に?」 「二回目の夜、寝ないで頑張ったから」 「何してるんだよ」 「怖くて」
その一言だけ、少しだけ温度が違った。
俺はカフェオレを持ったまま黙る。
「零時過ぎても普通だったの」
ひよりはおにぎりを半分にして言った。
「一時も二時も三時も来て、四時にはちょっと笑えてきて、五時半くらいから逆に嫌になって、六時四十二分で戻った。だから時間はたぶん固定」 「……ちゃんと怖いな」 「でしょ」
彼女はそこで、わずかに肩をすくめた。
「まあでも、今朝水野がちゃんといたからちょっと安心した」
そんなふうに言われると、男子は簡単に調子に乗る。
俺は危うく「俺も」とか、もう少し気の利いたことを言いかけて、結局ストローを噛んだだけだった。
「じゃあ放課後、ちょっと出る?」
ひよりが言った。
「学校の外も確認したいし」 「確認っていう名目、便利だな」 「便利なものは使う主義」
放課後まで、俺はだいぶそわそわしていた。
ループしているからといって、女子と放課後に外へ出る事実の重さが軽くなるわけではない。むしろ失敗がなかったことになるぶん、変な方向に勇気が出る。人間は成功より失敗の不在で調子に乗る。
文化祭準備をいつもより手際よく片づけて、俺たちは駅前へ向かった。制服のまま学校帰りにどこかへ行くのは、それだけで少し悪いことをしている気分になる。実際にはコンビニやファストフード店に寄る高校生なんていくらでもいるのに、自分がその側へ回ると途端に落ち着かない。
「どこ行く」
俺が聞くと、ひよりは即答した。
「喫茶店」 「渋いな」 「大人っぽいじゃん」 「思考が雑」 「水野、たまに親みたいなこと言うよね」
駅前の細い通りを一本入った場所に、昭和っぽさを売りにしている古い喫茶店がある。店の前にクリームソーダの写真が出ていて、文化祭の参考のために一度行こうという話は前からクラスで出ていた。ただ実際に行くのは、なんとなく照れくさかった。
店内は冷房が少し強く、ガラスの灰皿がテーブルに置いてあった。今はもう使っていないらしいが、置いてあるだけで急に大人の場所っぽく見える。向かい合って座った瞬間、俺は意味もなく背筋を伸ばした。
制服のまま、学校帰りに女子と向かい合って座る。たったそれだけのことなのに、膝の距離やグラスを持つ手元まで気になる。大学生や社会人なら、これくらい何でもないのかもしれない。けれど高校二年には十分すぎる。ひよりはたぶん、その落ち着かなさを半分くらい面白がっていた。
「水野、なんで急に姿勢よくしたの」 「別に」 「分かりやす」
ひよりはメニューを開きながら笑った。
「そういうとこ、けっこう好き」
俺は危うく水をこぼしかけた。
「今の雑に言うなよ」 「何が」 「好きとか」 「語弊が育つ前に補足すると、人間の癖として」 「補足が早い」 「必要だからね」
注文は、俺がアイスコーヒー、ひよりがクリームソーダだった。俺は本当はクリームソーダも頼みたかったが、向かいに女子が座っている状況で同じものを頼むと、なんとなく負けた感じがした。そういう勝負は誰もしていない。
「ブラック飲めるの」
ひよりがストローを回しながら聞いた。
「飲める」 「好きなの?」 「……飲める」 「無理してるじゃん」
図星だった。
「大人っぽいかなと思って」 「出た、背伸び」
クリームソーダの緑色が照明に透けていた。ひよりはアイスを少しずつ崩しながら、楽しそうにこちらを見る。
ストローをくわえる口元がやけにゆっくりで、それだけでこっちは落ち着かなくなる。高校生の色気というのは、たぶん本人が意識して出すものじゃない。何でもない動作の速度だけで十分足りてしまう。
「水野さ、恋愛経験ないのに、あるっぽく見せたいタイプでしょ」 「言い方」 「違う?」 「否定はしない」 「潔い」
俺は苦いだけのアイスコーヒーを一口飲んだ。たぶん顔に出たのだろう。ひよりが笑う。
「でも分かるよ。わたしもあるもん、そういうの」 「何が」 「ちゃんとして見えたい欲」
彼女はそこで、ストローを持つ手を止めた。
「元カレといるとき、ずっとちょっとだけそれがあった」
店内のスピーカーから、古い洋楽のピアノだけが低く流れていた。夕方の喫茶店は、妙に人の本音が机に出やすい。
「藤島って、悪いやつじゃないんだよ」 「うん」 「ほんとにいい人。気が利くし、怒鳴らないし、荷物も持つし、記念日も覚えるし」 「すごいな。採用面接みたいだ」 「でしょ。でも、いい人すぎて疲れた」
ひよりは視線をテーブルに落としたまま言った。
「わたしもちゃんとして返さなきゃって、ずっと思ってたから」
昼休みに聞いたのと似た言葉だった。けれど今度は、笑ってごまかすための薄い膜が少し剥がれている。
「別れたあと、最初に思ったのが寂しいじゃなくて、あ、ちょっと楽ってことだったの。最低じゃない?」 「別に」 「即答だ」 「だって、疲れてたならそうだろ」
自分でも驚くくらい素直に言えた。
ひよりは顔を上げた。からかう顔ではなく、ちゃんと聞いた顔で。
「水野って、たまに急にまともだよね」 「たまに、が余計」 「でも普段は妙な見栄が多い」 「知ってる」
ひよりは少しだけ笑った。
「わたし、自分がわりと何でもできる方だと思われるの、嫌いじゃないの」 「うん」 「頼られるのも嫌いじゃない。明るい方が楽だし」 「分かる気はする」 「でも、それをずっとやってると、何もしてないときの顔が分かんなくなる」
喫茶店のガラス越しに、駅へ向かう人の流れが見えた。みんな明日のある歩き方をしている。俺たちだけが同じ今日を握りしめたまま、少しだけ浮いていた。
「だから」
ひよりはクリームソーダのさくらんぼをスプーンで端へ寄せた。
「明日が来ないの、ちょっと楽」
俺は返事をすぐにはしなかった。
楽だ、という言葉が悪い意味だけではないと分かる。宿題を先延ばしできるとか、テストが来ないとか、そういう話ではなかった。明日になったら続きをやらなければならない何かが、彼女にはあるのだ。
「そっちは」
ひよりが聞いた。
「水野は何がしたいの。このループで」
質問を向けられると、人は思っていたより自分の中身が浅いことに気づく。
「最初は、まあ」
俺は空になりかけたグラスを見た。
「ちょっとくらい格好よくなれるかなって」 「うん」 「女子との会話とか、ミスったところやり直せるし」 「小さい」 「うるさい」 「でも正直でよろしい」
ひよりはストローをくわえたまま、目だけで笑った。
「あと」 「あと?」 「一回くらい、彼女いたことあるやつみたいな放課後をやってみたいとは思った」
言ってから、顔が熱くなるのが分かった。これを夕方の喫茶店で向かいの女子に言うのは、だいぶどうかしている。
けれどひよりは笑わなかった。少し考えてから言う。
「それ、分かる」 「おまえも?」 「わたしも一回くらい、ちゃんと余裕ある女みたいに恋愛してみたかった」
そして彼女は、俺の顔をまっすぐ見た。
「でも多分、そういうのって練習してもうまくならないんだろうね」
帰り道、駅前の歩道橋の上で風が強かった。
九月の夕方は、夏の熱が完全には引いていないのに、風だけが先に秋の顔をしている。ひよりのボブが頬にかかって、彼女は片手で押さえた。白い首筋が少し見えて、俺は慌てて目をそらした。
「そういうの、分かりやすいからね」
横を歩きながら、ひよりが言った。
「何が」 「目線」
死にたい、と思う瞬間には種類があるが、今のはわりと上位だった。
「いや、別に変な意味じゃなくて」 「うん」 「髪が」 「言い訳が不器用」
ひよりは笑って、でもそれ以上は追及しなかった。助かったような、助からなかったような気分になる。
助かったのは事実だ。けれど追及されなかったことで逆に、俺が本当に見ていたものまで自分で意識してしまう。頬にかかった髪を払う指先とか、首筋に一瞬だけ乗った夕方の光とか、そういう言葉にしづらいものだ。男子の視線はときどき最低だが、同時に、それくらいのことで簡単に好きが深くなるほど単純でもある。
「水野ってさ」
歩道橋を下りながら、彼女が言った。
「ちゃんと見てるのに、見てないふりするよね」 「おまえ、分析好きだな」 「趣味」 「嫌な趣味」 「でも当たってる」
それは否定しづらかった。
学校へ戻る途中、俺たちは次の検証内容を決めた。
持ち物は持ち越せない。怪我もたぶん戻る。スマホのメモも駄目。誰かに事情を話しても、翌朝には消える。だったらループの使い道は二つしかない。知識を貯めるか、自分たちの行動を変えるかだ。
「次は、もっとちゃんと遊ぼう」
ひよりが言った。
「ちゃんと遊ぶって何だよ」 「遠回りしたり、寄り道したり、あえて失敗したり」 「失敗を目標にするな」 「だって、どうせ消えるんだよ」
そこで彼女は少しだけ立ち止まった。
「消えるなら、格好つけないで済む日があってもいいじゃん」
夕方の光が、校舎の窓に細く反射していた。ひよりの横顔はいつもの通りで、明るくて、軽くて、少し意地が悪い。でもその言葉だけは、やけに静かだった。
俺は、昨日までの俺なら返さなかった返事をした。
「じゃあ俺も、次はもうちょい格好つけない」 「ほんとに?」 「努力目標」 「信用度ひく」
笑いながらも、ひよりは少しだけ満足そうだった。
そのあと俺たちは、文化祭のメニュー表を提出して、陸にからかわれて、堀越に「今日は妙に働くな」と言われた。昨日と同じ出来事が並んでいるはずなのに、少しずつ角度が違う。一日の中に、やり直しでしか見えない細い道が増えていく。
夜、自室のベッドに寝転がって、俺は考えた。
このループがいつ終わるのかは分からない。終わらないのかもしれない。普通に考えれば不安になるべきだ。実際、怖さもある。
それなのに、少しだけ、明日のことを待っている自分がいた。
いや、明日じゃない。次の九月十二日を。
朝六時四十二分に戻ったら、また同じ電車に乗って、同じ教室へ行って、同じ顔ぶれの中で違うことをする。その中心に、雨宮ひよりがいる。
それは状況としては異常なのに、高校二年の男子の感情としては、驚くほど普通に近かった。
つまり、楽しみだということだ。
ただしその楽しみが、単に変わったイベントへの興味だけではないことを、俺はまだ見ないふりをしていた。
翌朝。
目覚ましが鳴る一秒前に、また目が開いた。
六時四十二分。
天井の染みの形まで、昨日と同じだ。
学校へ行くと、ひよりは今度は昇降口の下駄箱にもたれて待っていた。俺を見るなり、開口一番で言う。
「おはよう。じゃあ今日はデートの練習しよっか」
朝の昇降口に、その単語は心臓に悪い。
「声でかい」 「安心して。誰も覚えてないから」 「そういう問題じゃない」 「でも、水野が言ったんじゃん。彼女いたことあるやつみたいな放課後」
ひよりはそこで、ほんの少しだけ唇の端を上げた。
「百点満点の誘い方、今日中に覚えさせてあげる」
03
第三章 百点満点の誘い方
デートの練習という言葉は、男子高校生の心拍数に対してあまりに効率がよすぎる。
朝の昇降口でそれを言われた俺は、そのあと一限の現代文で一度も教師の話が頭に入らなかった。ひよりは前の席で、何でもない顔でノートを取っている。たぶん本当に何でもないのだろう。大げさに受け取っているのは俺だけだ。
昼休み、俺が職員室前の長椅子へ行くと、ひよりはすでに待っていた。
「作戦会議します」
紙パックのミルクティーを掲げながら、やけに偉そうに言う。
「何をそんなに真面目な顔で」 「景太を最低限見られる男にする会」 「名称が失礼」 「じゃあ、水野景太くんに彼女いたことありそう感を一ミリだけ付与する会」 「長いし、もっと失礼」
ひよりは鞄からメモ帳を出した。そこに書かれていた見出しを見て、俺は頭を抱えたくなる。
『デートでやると事故ること』
「おまえさ」 「うん」 「こういうのを人前で見せる羞恥心はないの」 「ループに校則ないし」 「便利だな、その理屈」
項目はやけに具体的だった。
歩幅が合わない。沈黙で焦って余計なことを言う。飲み物を奢るタイミングで格好つける。スマホを見すぎる。いい雰囲気だと思って距離を詰める顔がたぶん変。
さらに下の方には、小さい字で補足までついている。視線を合わせすぎて圧になる。褒める場所がずれる。ドアを押さえるか迷って変な姿勢になる。女子が髪を結び直しているときに見ていいか分からず挙動不審になる。そんなものまでリスト化されると、自分が普段どれだけ分かりやすく失敗しているかよく分かる。
「最後」 「主観です」 「誰の」 「わたしの」
そう言って、ひよりはミルクティーのストローを噛んだ。
「水野、たまに自分で『今、いい感じかも』って思った瞬間あるでしょ」 「ない」 「ある顔してる」 「顔で決めるな」 「じゃあ今日の放課後、全部試してみよう」
結局、俺たちはその日の文化祭準備を手際よく片づけて、駅前の商店街へ向かった。昨日までと違って、今日は最初から名目がはっきりしている。名目がはっきりしていると、逆に落ち着かない。
「まず歩き方」
商店街の入口で、ひよりが指導役みたいに言う。
「横に並んで、速すぎず遅すぎず。あと、女子は信号のぎりぎりで走るのを嫌がる人が多い」 「一般女子の代表みたいに言うな」 「代表ではないけど、わりと信頼できるサンプルではある」
俺は歩幅を合わせようとして、最初の十歩で二回ほど失敗した。合わせようと意識すると逆におかしくなる。自分の手足がやけに長くて邪魔なものに思える。
「今の、ロボット」 「うるさい」 「あと肩に力入りすぎ」 「誰のせいだと思ってる」 「たしかに」
ひよりは笑って、自分から歩調を少し緩めた。その自然さが悔しい。
商店街を抜けた先のショッピングモールで、俺たちは本屋、文房具屋、輸入菓子の店を順番に回った。練習といっても、やることはたいしてない。ただ、横を歩いて、ときどき何かを指さして、感想を言う。それだけなのに、普通の放課後とは全然違う。
エスカレーターで一段空けるべきか迷っていたら、ひよりが「そこ、妙に他人行儀」と言って俺の袖をつかんだ。たったそれだけで、周りにいたカップル連れよりこっちの方がよほど挙動不審になる。袖越しの力は軽いのに、脳の方が勝手に重く受け取る。
文房具屋で、ひよりが妙に色気のある万年筆を見つけた。
「これでラブレターとか書かれたらちょっと負ける」 「何にだよ」 「筆圧に」
その返しは正直よく分からなかったが、ひよりが気に入っているらしいことだけは分かった。
本屋では、恋愛小説の棚の前で彼女が足を止めた。
「水野って、恋愛もの読む?」 「そんなに」 「じゃあ何読むの」 「ミステリーとか」 「あー、分かる。好きな子の気持ちは分からないくせに、犯人は当てたいタイプ」 「言い方がひどい」 「でも否定しない」
否定はしなかった。悔しいがその通りだった。
雑貨屋の鏡の前を通ったとき、ひよりが急に立ち止まった。
「ちょっと眼鏡取って」 「は?」 「一回だけ」
言われるままに外すと、店内が全体的に柔らかくぼやけた。ひよりの輪郭も少しだけ曖昧になる。
「あー」
彼女は腕を組んで俺を見た。
「もったいない」 「何が」 「普通に整えたら、わりとずるい顔してる」
こういうことを平然と言うのが、この女の悪いところだ。
「急に何」 「事実確認」 「褒め方が雑」 「褒められ慣れてない人の反応だ」
俺は慌てて眼鏡をかけ直した。視界が戻る。ついでに、たぶん顔の熱さも少し隠れる。
隠れるわけがないのに、男子はとりあえず何かを挟めば誤魔化せると思っている。レンズ一枚で平常心が戻るなら苦労はしない。むしろ見えるようになったぶん、ひよりがまだ面白そうにこちらを見ていることまで分かってしまって余計に困る。
「で、そういうの言われるとどうなるの」
ひよりが聞く。
「どうって」 「調子乗る?」 「今のところ、緊張しかしてない」 「健全」
その一言で済まされると、それはそれで負けた気がする。
夕方近く、俺たちは屋上のベンチに座って、クレープを半分ずつ食べた。ひよりが買ったいちごカスタードを、彼女が飽きたからという理由で俺にも押しつけてきたのだが、男子高校生にとって女子の食べかけがどれだけ心臓に悪いか、たぶんこいつは完全には理解していない。
「そういうの、平気なんだ」
ひよりが面白そうに言った。
「何が」 「間接的なやつ」 「言い方」 「じゃあ、同じストローとか」 「急に踏み込むな」
ひよりはクレープの包み紙を指先でくるくる回しながら、わざとらしく首をかしげた。
「男子って、ああいうの気にするのかと思ってた」 「するやつはする」 「景太は」 「する」
ひよりは満足そうにうなずいた。
「よし、素直」 「何のテストだよ」 「反応の」
どうも今日は、俺の人間としての細かい部分を面白がられる日らしい。
「次」
ひよりが立ち上がる。
「手、貸して」 「は」 「練習だから」
そう言いながら、彼女は自分から右手を差し出した。指先が細くて、爪が短くて、妙にきれいだった。俺は数秒ためらったあと、恐る恐る自分の手を重ねた。
手をつなぐというのは、想像よりずっと情報量が多い。
温度とか、指の長さとか、相手が少し汗ばんでいるかどうかとか、自分の心拍が手のひらにまで届いている気がするとか。そういうくだらないことで、頭の中が簡単にいっぱいになる。
「ぎこちな」
ひよりが言った。
「分かってる」 「あと強い。握手じゃないんだから」
力を抜く。今度は抜きすぎて、逆に頼りなくなった。
「極端」 「うるさい」
ひよりは笑ったまま、指を絡めなおした。
「こう」
その瞬間、背筋に変な電気が走った。たかが手だ。いや、たかがではないのだが、少なくとも人生を左右するような出来事ではないはずなのに、体はそう思っていないらしい。
しかも、つないだまま少し歩けと言われる。屋上から階段を下りて、人気のない廊下を移動するだけなのに、歩幅が合うたび腕の位置が変わり、そのたびに互いの体温が手のひらでずれる。ひよりは平気そうな顔をしているが、よく見ると耳が少し赤い。そこまで見つけてしまうと、今度はこっちが逃げたくなる。
「景太、顔赤い」 「気のせい」 「便利だね、その理屈」
どこかで聞いた台詞だと思った。
屋上の風は少しだけ冷たくなっていて、九月の終わりかけの匂いがしていた。ひよりの手は、想像していたより小さかった。ということを、俺はたぶん一生覚えている気がした。
帰り道、駅前の信号待ちで、ひよりがぽつりと言った。
「水野って、しょうもない見栄いっぱいあるけど」 「悪口の前振りが長い」 「でも、嫌な感じではないよ」
俺はうまく返せなかった。
嫌な感じではない、というのは恋愛の褒め言葉としては弱い。でも、その弱さが今の俺にはちょうどよかった。過剰に期待しなくて済むし、適当に受け流すには少し惜しい。
「あと」
ひよりは信号が青になる前に続けた。
「今日の誘い方、七十二点」 「上がったな」 「努力賞」 「満点は?」
彼女は歩き出しながら、前を向いたまま答えた。
「たぶん、明日がある前提で誘えるようになったら」
その言葉の意味を、その場では半分くらいしか分からなかった。
でも夜になって、また六時四十二分に戻るまでの時間を布団の上でぼんやり過ごしているあいだ、何度も思い返した。
明日がある前提で誘う。
それはたぶん、ループの中で一番難しいことだった。
04
第四章 くだらない願望リスト
人間の願望は、紙に書くと急に品がなくなる。
少なくとも俺たちの場合はそうだった。
四回目か五回目か、もう数えるのが少し面倒になってきた九月十二日の昼休み。ひよりがノートの切れ端を二枚出してきて、「やりたいこと書こう」と言った。ループがいつ終わるか分からない以上、遊べるうちに遊んでおくべきだという理屈らしい。
「しょうもないやつほどよし」
ひよりは真顔で言った。
「壮大な夢とかじゃなくて、今さら人に言えないやつ」 「選考基準が最低」 「でも絶対そっちの方が面白い」
俺はしぶしぶ書いた。
一、コンタクトを入れて学校へ行く。
二、文化祭準備でやたら気の利く男になる。
三、女子と映画館に入る。
四、手をつないでも不自然じゃない雰囲気を一回くらい作る。
五、ブラックコーヒーを平気な顔で飲めるようになる。
書いていて、途中から嫌な気持ちになってきた。人は自分の見栄を箇条書きにすると、だいたい少し恥ずかしい。
しかも書いた瞬間、自分が何を欲しがっているかが思ったより露骨になる。彼女がほしいとか、モテたいとか、そういう大ざっぱな言葉で誤魔化していたものが、実際には「映画館の肘掛けが近い」とか「制服で夜まで一緒にいる」とか、その程度の具体性でできている。高校生の願望はみみっちい。でも、だからこそ切実だ。
「見せて」
ひよりは遠慮なく覗き込んできた。
「うわ、ちゃんと男子」 「何だよ、その感想」 「いい意味で浅い」 「いい意味がどこにもない」
代わりに彼女の紙を奪うと、そっちもたいがいだった。
一、制服で夜まで遊ぶ。
二、彼氏彼女っぽい会話を自然にやる。
三、観覧車に乗る。
四、好きでもない人にいい顔しないで一日過ごす。
五、家に帰るのを遅くする。
最後の二つだけ、急に空気が変わった。
「観覧車って」
ひとまず安全なところから触れる。
「ベタじゃん」 「だからこそ」 「何、ロマンチストなの」 「違う。データを取りたいだけ」 「何の」 「密室に男女二人が入ったときの会話の死に方」
ひよりは言い切ってから、自分で少し笑った。
「でもまあ、ちょっとはあるかも」 「何が」 「ベタなの、一回くらい」
俺はその言葉を聞いて、なぜか安心した。ひよりが飄々として見えても、中身まで全部達観しているわけではないと分かるとほっとする。
放課後、俺たちはまず駅前のドラッグストアでワンデーのコンタクトを買った。店員の女性が「初めてですか」と聞き、俺が「まあ」と答えると、ひよりが横で肩を揺らしていた。完全に面白がっている。
トイレの鏡の前で装着に五分以上かかった。目に指を入れるのは、人間の本能にかなり逆らっている。ようやく両方入ったときには、俺は少し疲れていた。
「おお」
ひよりが腕を組んで言う。
「やっぱずるい」 「何が」 「その顔で普段隠れてるの」 「隠してるつもりはない」 「結果的に隠れてる」
俺は鏡を見た。自分の顔なのに、少しだけ他人みたいだった。輪郭がはっきりして、目つきもいつもより強く見える。これなら、たしかに知らない女子に「意外と」と言われる可能性はある。
「調子乗った?」
ひよりが聞く。
「少し」 「正直」
そのまま学校へ戻ると、反応は分かりやすかった。陸が「誰だおまえ」と大げさに騒ぎ、女子二人が「え、似合うじゃん」と言い、堀越まで「寝坊して眼鏡忘れたのか」と笑った。たったそれだけで、俺の足取りは本当に少し軽くなった。
人間は単純だ。いや、俺が単純なのかもしれない。
文化祭準備の途中、ひよりがクラスの女子三人に囲まれているのが見えた。
「雨宮、元カレの藤島くん見た?」 「見てない」 「さっき一年棟の方にいたよ。なんか相変わらず爽やかだった」 「爽やかさは別れても減らないからね」
いつもの軽い返しなのに、そのあと彼女が一瞬だけ表情を消したのを、俺は見逃さなかった。
その日の検証その二は、駅前のシネコンだった。平日の夕方、学生割で見られる青春映画がちょうど一本ある。別に内容に興味があったわけじゃない。重要なのは、女子と並んで暗い映画館に入るという事実の方だ。
その前に、ひよりがどうしてもと言ってゲームセンター横のプリクラ機に寄った。前に一人で撮って消えたのが悔しかったらしい。
「今日は共同研究」
そう言ってカーテンの中へ俺を引っ張り込む。狭い。近い。画面の中の自分たちの顔が、現実より妙に仲よさそうに映るのが腹立たしい。
「ほら、肩」 「当たってる」 「もっと」 「無理言うな」
ひよりは笑いながら、こっちの腕をつかんで自分の肩の後ろへ回した。機械の秒読みより心臓の方がうるさい。撮れた画像には、俺だけあからさまに顔が硬かった。ひよりはそれを見て腹を抱えて笑った。
「景太」
チケットを買ったあと、ひよりが言う。
「今の時点で、ちょっと目的を見失ってる顔してる」 「してない」 「してるよ。『これってもう半分デートでは?』って思ってる」
正答率が高すぎる。
館内は冷房が効きすぎていて、肘掛けが妙に狭かった。映画が始まると、さすがにしゃべれない。スクリーンの光が横顔を照らして、ひよりのまつ毛の影がわずかに頬へ落ちていた。そんなことまで見てしまうあたり、俺もだいぶ末期だと思う。
途中、彼女がポップコーンを取ろうとして俺の手に触れた。ほんの一秒にも満たない接触だったのに、神経はその一秒をやたら丁寧に記録する。
暗い館内では、横顔ばかりが気になる。スクリーンの光が変わるたび、ひよりの頬の輪郭とまつ毛の影だけが見えて、内容の薄い青春映画よりそっちの方がよほど困った。こういうとき、男子は映画の感動で泣くどころではない。
映画のあと、ひよりはわざとらしく真面目な顔で言った。
「検証結果。暗い場所に男女二人でいても、何も起きない」 「分かってた」 「でも景太は三回くらい息止まってた」 「観察が細かい」 「趣味だから」
そこから、なぜか観覧車まで行くことになった。
駅前の小さな遊園地で、夜の観覧車は家族連れよりカップルの方が多い。制服で並ぶにはだいぶ勇気のいる場所だが、どうせ明日には戻ると思うと、羞恥心の輪郭が少し鈍る。
「逃げるなら今だよ」
ひよりが言った。
「そっちが言い出したんだろ」 「でも男子ってこういうの苦手そう」 「苦手だよ」 「知ってる」
ゴンドラが上がり始めると、街の灯りが少しずつ遠くなる。密室だ。座席の距離が近い。膝が当たりそうで当たらない。その全部が、ひどく高校生っぽい悩み方を要求してくる。
「で」
ひよりが窓の外を見ながら言う。
「さっきのリスト、四番」 「何」 「手をつないでも不自然じゃない雰囲気、作れてる?」
俺は返事に詰まった。
「今それ言う?」 「だって一番分かりやすい場面じゃん」
理屈は正しい。正しいが、だからといって心拍数が言うことを聞くわけではない。
「……おまえの方は」 「わたし?」 「彼氏彼女っぽい会話とか」
ひよりは少しだけ考える顔をした。
「今のところ、六十点」 「辛口だな」 「だって景太、さっきからずっと『何か起きたらどうしよう』って顔してる」 「当たり前だろ」 「そこまで分かりやすいと逆にかわいい」
かわいい、という語彙を不用意に使うな。
でもそのあと、ひよりの方から手を出してきた。昨日と同じようで、今日は昨日より意図がはっきりしている。
「検証」
彼女は言った。
「観覧車バージョン」
俺は黙って手を取った。暗いゴンドラの中で、彼女の指の形だけがやけに鮮明だった。前に練習したときより、今日は少しだけ落ち着いていられる。そのことが、逆にまずかった。落ち着いたまま、その温度をちゃんと感じてしまうからだ。
「水野」
「ん」
「たぶんさ、わたしたち」
ひよりは外を見たまま言った。
「ループしてるからって、何しても平気なわけじゃないね」
「……うん」
「ちゃんと恥ずかしい」
その言い方があまりに正確だったので、俺は少し笑ってしまった。ひよりも笑った。
笑っているうちにゴンドラは地上へ戻る。楽しい時間は上るより下る方が早い。そういうのは、たぶんループの中でも変わらない。
駅へ戻る道で、ひよりのスマホが二度続けて震えた。画面を見た彼女は、笑顔をほとんど変えないまま音を切った。
「誰」
つい聞くと、彼女は肩をすくめた。
「母」 「出ないの」 「今はいいかなって」
その答えは軽かったが、軽すぎた。
家に帰るのを遅くする。紙に書かれていた願望の五番目が、急に本当の重さを持つ。
「……帰りたくない日もあるのか」
俺がそう言うと、ひよりは少しだけ驚いたようにこっちを見た。
「そういう日もあるよ」
それだけ言って、また前を向く。
夜風が強くなっていた。制服の袖が少しだけ冷える。楽しいだけの放課後が、そこで初めて少し深くなった。
05
第五章 メガネを外す午後
褒められることと、見つけてもらうことは、似ているようでたぶん違う。
それを知る前に、俺は少し調子に乗った。
コンタクトにも慣れてきたループのある日、陸に髪までいじられたのが始まりだった。朝のトイレでワックスを雑に塗られ、「おまえ素材を無駄にしてる代表だな」と言われる。言い方は毎回腹が立つが、鏡の中の自分はたしかにいつもよりましに見えた。
教室へ入るなり、空気が少し変わる。
「水野くん、それ誰の指示?」
後ろの席の女子が笑いながら聞いた。
「人類の進歩」
陸が勝手に答える。俺は否定するタイミングを失った。
ひよりは前の席から振り返って、数秒だけ俺を見た。
「……あ」
その一文字のあと、なぜか黙る。
「何だよ」 「いや、ほんとに」 「何」 「ずるい」
昨日も聞いた言葉だったが、教室の真ん中で言われると効き方が違う。周りにいた女子二人が「え、何それ」と面白がって寄ってくる。その流れに乗って、俺は柄にもなく少し余裕のある笑い方をしてみせた。
実際には余裕なんて一ミリもない。教室のあちこちから来る視線に浮かれている自分と、それをひよりにも見せたくて余計に肩に力が入る自分が同時にいる。承認欲求というのは、いったんうまく転がり始めると急に音が大きくなる。
それがよくなかった。
人は一回でも「今日はちょっといけるかもしれない」と思うと、普段ならやらない種類の無理をする。
俺は昼休みの購買で、いつもなら選ばない高いサンドイッチを買った。体育で必要以上に前へ出てボールを追った。文化祭準備でも、指示される前に動く有能な男みたいな顔をした。いちいちひよりの反応をうかがっている時点で台無しなのだが、そのときはあまり気づいていなかった。
「今日の景太、二点くらいうるさい」
職員室前の長椅子で、ひよりがそう言った。
「二点」 「いつもより見栄が前に出てる」 「悪いかよ」 「悪くはないけど、ちょっと面白い」
彼女は紙パックのオレンジジュースを振りながら、俺の前髪をじっと見た。
「その髪、陸くん?」 「そう」 「本人は満足してる?」 「まあ」 「ならいいけど」
言葉自体は肯定なのに、どこか薄かった。その薄さが、なぜか気になった。
放課後、準備のために美術室と教室を往復していたら、廊下の角で藤島と鉢合わせた。
サッカー部エースの元彼。俺の中で勝手に比較対象として置いていた男。
「水野」
向こうは向こうで俺が誰かくらいは知っている。クラスが同じ階だし、ひよりの周りにいる男子として認識されているのだろう。
「雰囲気変わったな」
嫌味じゃなく、素直に言う口調だった。それが逆に困る。
「たまには」 「似合ってる」
こういうやつに嫌われていれば、もっと分かりやすく戦えたのにと思う。感じがいいやつは面倒だ。こっちの小さい対抗心が全部、器の小ささみたいに見えるから。
「雨宮ならさっき家庭科室いたぞ」
藤島はそう言って行ってしまった。気が利くのも腹が立つ。
家庭科室の前まで行くと、ひよりがクラスの女子と布の採寸をしていた。スカートの裾をまくってしゃがみ込み、段ボールの長さを測っている。俺に気づくと、「あ、ちょうどよかった」と手を振った。
「この布持って」
言われるままに端を支える。ひよりが反対側を引っ張る。腕が伸び、顔の距離が近くなる。ひよりは真剣な顔でメジャーを当てているが、俺の方はそれどころではない。
「景太、ぼーっとしない」
「してない」 「してる」
周りに女子がいる状態で下の名前で呼ばれると、それだけで少し特別な気がしてしまう。たぶんそんなことはない。ループを共有しているせいで、呼び方の距離が先に縮んでいるだけだ。
「今日さ」
作業が終わったあと、ひよりが小さく言った。
「放課後、ちょっとだけ寄れる?」
その頼み方がいつもより静かだったので、俺はすぐにうなずいた。
連れて行かれたのは、校舎裏の階段だった。夕方は人が少ない。吹き抜ける風の音だけが大きい。
「何」
聞くと、ひよりは手すりに肘をついたまま言った。
「今日の水野、たぶんみんなに褒められてたでしょ」 「まあ」 「うれしかった?」 「……少し」
ひよりはうなずいた。
「それは別にいいと思う」 「うん」 「でも、なんか」
彼女は言葉を探してから続けた。
「今日の水野、わたしに見せたい水野って感じがした」
その指摘は、思ったより深く刺さった。
「それの何が悪いんだよ」
反射で言い返してから、少し後悔した。ひよりは怒っていなかった。ただ静かだった。
「悪くはないよ」
「ただ、わたしは普段の方が好き」
階段の踊り場で、その一言だけがやけに長く響いた。
好き、という単語に反応していい場面ではないのは分かる。文脈が違う。違うのに、心臓は勝手だ。
「普段のって、どのへん」
俺が聞くと、ひよりは少し笑った。
「メガネの奥でいろいろ考えてるくせに、肝心なとこで変なこと言うとこ」 「褒めてる?」 「かなり」
そして彼女は、俺の前髪に軽く触れた。
「これも似合ってるけどね」
ほんの一瞬、指先が額に触れる。たったそれだけで、今日いちばんの衝撃だった。コンタクトもワックスも、女子の視線も、全部その一秒の前では霞む。
額に残った感触はすぐ消えるはずなのに、神経だけが勝手に覚えている。触れられた場所から顔全体が熱くなるみたいで、俺は咳払いをするしかなかった。大人ならもっと平然としていられるのかもしれないが、高校生の自意識はその程度で簡単に壊れる。
「藤島もさ」
ひよりが、ふいに言った。
「ちゃんとしてる格好いい人だったんだよね」
俺は黙った。
「でも、ちゃんとしすぎてた。わたしもちゃんとしなきゃって思うくらい」
風が少し強くなる。ひよりは髪を押さえず、そのまま話した。
「だから、水野までちゃんと格好よくなろうとしすぎると、なんか違う」
その言葉は、俺にとって都合のいい褒め言葉ではない。けれど、たぶんかなり本気の言葉だった。
帰り道、俺は久しぶりに眼鏡へ戻した。コンタクトは便利だし、たしかに少しかっこよく見える。でも、それだけで何かが変わった気になるのは、ちょっと違う気がした。
「景太」
駅前で別れる前に、ひよりが言う。
「今日の誘い方は?」 「してないだろ」 「じゃあ今日の総合点」 「……いくつ」 「五十八」 「下がってる」 「見た目加点が三十くらい入ってるから、実質もっと低いよ」 「厳しすぎる」
ひよりは笑った。けれどその笑い方は、昨日より少し優しかった。
「でも、今の眼鏡の方が好き」
その一言のせいで、俺はその夜、何度も自分の眼鏡を触ることになった。
06
第六章 元カレは敵として弱すぎる
敵が感じのいいやつだと、恋は途端に努力目標みたいになる。
藤島侑真は、そういう種類の面倒くささを持った男だった。
最初のうちは、俺ももっと単純に考えていた。元カレという肩書きは便利だ。現在の自分にないものを全部そいつのせいにできる。背が高いとか、爽やかだとか、サッカーがうまいとか、そういう分かりやすい強さに負けていることにしておけば、自分の中身の問題を見なくて済む。
実際、藤島は絵に描いたみたいにちゃんとしている。肩幅とか声の通り方とか、女子が普通に安心しそうな要素がきちんと揃っている。俺はそういう分かりやすい男らしさを、羨ましいと思うより先に反射的に警戒していた。比較したくないのに、勝手にしてしまう。
しかも元カレという肩書きには、顔や身長より厄介な響きがある。手をつないだことがあるとか、放課後に二人きりで歩いたことがあるとか、その先まで含めて、こっちの知らない時間を勝手に連想させる。本人に聞けるわけもないのに、聞けないから余計に想像だけがふくらむ。高校生の嫉妬なんて、だいたいそういうみっともないところから始まる。
でもループの中で何度も同じ校庭、同じ廊下、同じ放課後を通るうちに、藤島がただの記号ではいられなくなった。
あるループでは体育終わりの水道前で。あるループでは購買の前で。あるループでは放課後の昇降口で。話すたび、あいつはだいたい同じ温度で人に接する。嫌味がなく、押しつけがましくなく、こっちを見下すでもない。こういうやつを嫌いになるには、こっちがだいぶ努力しなければならない。
「おまえ、藤島のこと意識しすぎ」
昼休み、ひよりにそう言われた。
「してない」 「してる。二日に一回は名前出る」 「それはおまえが元カレだから」 「元カレって便利な肩書きだねえ」
便利なのは事実だった。
「だってさ」
俺は紙パックのコーヒー牛乳を持ったまま言った。
「比較対象として強いだろ」 「何の」 「いろいろ」 「いろいろ、で済ます男は伸びないよ」
ひよりは笑っていたが、目だけは少し冷静だった。
「ちなみに、あっちは景太のこと、そこまで気にしてないと思う」 「分かってるよ」 「傷ついた?」 「少し」
その日の放課後、俺はひよりとは別行動にした。たまには一人で考えるのもいいかと思ったのだが、結局やったのは藤島を探すことだった。自分でもだいぶ情けないと思う。
グラウンド脇の倉庫の前で、藤島は一人でスパイクの紐を結び直していた。部活を引退したとはいえ、後輩の練習をたまに見に来るらしい。
「水野?」
呼びかけると、向こうは普通に顔を上げた。
「珍しいな」 「少し聞きたいことがあって」
こういうとき、もっと自然な切り出し方を知っている男がモテるのだろう。俺はそんな技術を持っていない。
「雨宮のこと?」
先に言われて、少しむっとした。
「分かりやすい?」 「まあ」
藤島はスパイクを脇へ置いた。
「何聞きたいの」
「なんで別れたの」
我ながら直球すぎる。けれどループの中にいると、ときどき面倒な前置きを全部飛ばしたくなる。
藤島はしばらく黙って、それから苦笑いした。
「俺、それを雨宮以外に説明する義理ある?」
その通りすぎて、返す言葉がない。
「……ない」 「だよな」
でも、藤島はそこで話を切らなかった。
「俺が何かひどいことしたと思う?」
聞かれて、俺は迷った。
「正直、ちょっとは」
「してないと思う」
自分で言うのも変だけど、と前置きして藤島は続ける。
「俺、あいつのこと普通に好きだったし、機嫌取るとかじゃなくて大事にしてたつもり」
それはたぶん本当だった。だから余計に厄介だ。
好きだった、とあっさり言えるのが少し腹立たしく、少し羨ましかった。俺はいまだに、その手の言葉を口の中で何度も裏返してからでないと外へ出せない。
「でも、途中からずっと、俺といるときの雨宮がちょっと頑張りすぎてる感じがして」
グラウンドから、後輩たちの声が風に乗って聞こえる。
「笑うし、合わせるし、ちゃんと彼女っぽいこともしてくれるんだけど、何考えてるかは分かんないままっていうか」
「近い距離にいても、一枚ある感じ?」
思わず口を挟むと、藤島は少しだけ驚いた顔をしたあと、苦く笑った。
「そう。たぶんそれ」
俺は何も言わずに聞いた。
「俺のこと嫌いになったんじゃなくて、俺といるときの自分がしんどくなったんだと思う」
藤島はそこまで言って、少しだけ目を細めた。
「そういうのって、相手が悪いわけじゃないからきついんだよ」
誰も悪くない別れ。
そんなものがあると、頭では知っていた。けれど目の前の同級生の口から出ると急に具体的になる。
「……まだ好きなのか」
つい聞いてしまう。
藤島は少し笑った。
「今の質問、高校生っぽくていいな」 「うるさい」 「嫌いじゃないよ。でも、それと戻りたいかは別」
その答え方まで感じがいいのが腹立たしい。
話を終えて校舎へ戻る途中、ひよりが昇降口の前で待っていた。
「何話してたの」
声は軽いが、目はそうでもない。
「少し」 「少しで済む顔してない」
俺は少し迷ってから、正直に言った。
「おまえのこと」
ひよりの口元が、すっと平らになった。
「最悪」 「いや、違う」 「何が違うの」
たぶん、ここで下手な言い訳をするともっと悪くなる。俺は深呼吸してから言った。
「俺、勝手に藤島を嫌なやつだと思ってた」 「ふうん」 「でも違った」 「うん」 「で、余計に分かんなくなった」
ひよりは少し黙った。俺の言葉が足りないのを見て取っている顔だった。
「何が」
「おまえが何で別れたのか」
ひよりは視線を逸らさないまま、細く息をついた。
「それ、本人に聞けばいいじゃん」 「今聞いてる」
数秒の沈黙があった。
その沈黙を破ったのは、ひよりの方だった。
「疲れたから」
あまりにも短い言葉だった。
「藤島くんは悪くないよ。ほんとにいい人だった」 「うん」 「でも、いい人だから、わたしもいい彼女でいなきゃって思った」
彼女は靴先を一度だけ見た。
「返信の速さとか、会ったときの顔とか、手をつなぐタイミングとか、そういうの全部、ちょっとずつ考えてた」
「髪ほどくかとか、距離近すぎないかとか、そういうのまで」
「向こうがそういうの気にしてるの分かると、余計に気を遣うし」
その言い方は、俺にはよく分かった。俺だって今、ひよりの前で似たようなことばかりしているからだ。
「で、気づいたら、好きなのか気を遣ってるのか分かんなくなってた」
ひよりはそこで、少しだけ笑った。
「最低でしょ」 「最低ではない」 「今日、二人目」 「何が」 「それ言った人」
藤島も同じことを言ったのだろうと、すぐに分かった。
「でも、そうやって男同士でわたしのこと分かったみたいに話されるのは、ちょっと腹立つ」
その指摘は正しかった。正しすぎて、反論の余地がない。
「ごめん」
俺がそう言うと、ひよりは少しだけ肩の力を抜いた。
「別に、藤島くんに恨みはないよ」 「うん」 「ただ、あの人といるときのわたしに戻るのが嫌だっただけ」
「付き合ってるなら、こういうときはこうするんだろうな、みたいなのが多すぎた」
「……たとえば」
聞いてから、俺は少し後悔した。だがひよりは怒らなかった。
「手をつなぐとか、近くで写真撮るとか、キスしそうな空気になったときの顔とか」
そこまで言って、ひよりは俺を見た。
「そういうの、別に嫌いじゃないよ」
心臓が変に跳ねた。
「ただ、好きだからしたいのか、付き合ってるからそういう流れになるのか、分かんなくなるのが嫌だった」
風が冷たくなっていた。九月は放課後が短い。
「水野」
ひよりが俺を見る。
「たぶんあんたも、たまにその入り口に立ってる」
「何の」
「わたしの前で、ちゃんと見られたいって頑張りすぎるとこ」
図星だった。
図星すぎて、言い返す言葉より先に、自分がここ数日どれだけ彼女の視線に振り回されてきたかが胸に並んだ。見た目を変えた日も、少し低い声で話した日も、歩幅を合わせようとして逆に不自然になった日も、全部同じ場所へ向いていた。
「気をつける」 「うん。できればそうして」
その言い方は厳しくもあり、優しくもあった。
俺はそこでようやく、自分がほしかったのは藤島に勝つことではなく、ひよりの前で無理をしないでいられる位置なのかもしれないと気づき始めた。
07
第七章 家に帰りたくない理由
人を好きになるというのは、その人の帰る場所が気になり始めることかもしれない。
その自覚を持ったのは、たぶんその日が初めてだった。
ひよりと少し気まずくなった次のループで、俺は最初から無理をしないことにした。コンタクトも入れない。髪もいつも通り。昼休みに会って、最初に「昨日は悪かった」と言う。たったそれだけのことなのに、ループの中で何度も変に工夫してきたせいで、むしろ一番緊張した。
「いいよ別に」
ひよりはツナサンドを食べながら言った。
「ちょっと腹立ったけど」 「それはごめん」 「ちゃんと謝るのはえらい」
その口調がいつも通りだったので、少しだけ救われる。
「で」
彼女はサンドイッチの袋をたたみながら言った。
「今日は何する?」
その質問に、俺は昨日から考えていた返事をした。
「おまえの帰り道、ついてっていい?」
ひよりは目を瞬いた。
「急にどうしたの」 「いや、その」 「ストーカー宣言?」 「違う」
違うが、言い方としてはかなり失敗だった。
「家に帰りたくないって言ってたから」
俺が言い直すと、ひよりは少し黙った。冗談で流すかと思ったが、意外にもそうしなかった。
「……最後までじゃなくていいなら」
放課後、俺たちは学校から駅までの道をいつもよりゆっくり歩いた。ひよりの家は俺の最寄りとは逆方向で、途中までは商店街、その先は古い住宅地になる。夕方の空はまだ明るいのに、風だけが少し冷えていた。
「ここ、昔からある和菓子屋」
ひよりが指さす。
「豆大福がうまい」 「急に地元ガイド始まった」 「せっかく来たから」
商店街を抜けると、人通りが急に少なくなった。自転車置き場の錆びた屋根、クリーニング店の色あせた看板、公園の砂場の猫よけネット。誰かの生活の続きみたいな景色が並ぶ。
「あっち」
ひよりが細い路地を顎で示す。
「うち」
路地の先には、小さな弁当店があった。軒先の看板に『あまみや惣菜』とある。夕方の惣菜がまだ少し残っていて、店先の明かりはもうついていた。
揚げ物の油と煮物の甘い匂いが、路地の空気に混ざっていた。学校で見るひよりは軽くて、風みたいに人の会話へ入ってくるのに、ここでは急に生活の中へ根を下ろした顔をしている。あたりまえのことなのに、それが妙に新鮮だった。
「店?」
「母の」
ひよりは立ち止まらないまま言った。
「高校入ってから、ほぼ毎日手伝ってる」 「知らなかった」 「言ってないもん」
その通りだった。ひよりは学校では自分の話をするようで、肝心なところはほとんどしない。
店の中では、女性の声が「ひより、コロッケ追加」と呼んでいた。たぶん母親だろう。ひよりはその声を聞いた瞬間だけ、反射みたいに背筋を伸ばした。その動きが、家族の前で染みついたものだと分かってしまう。
店の少し手前で、彼女は歩く速度を落とした。
「最近、母が再婚することになって」
あまりに唐突に聞こえて、俺は一拍遅れて理解した。
「そうなんだ」 「うん。相手の人は別に嫌な人じゃない」
藤島のときと同じ言い方だと思った。
「で、十月から向こうの家に移るかもしれなくて」 「移る?」 「母と弟はたぶんそうする」
ひよりはそこで初めてこっちを見た。
「わたしは、父のとこに残って今の学校通うか、一緒に行って転校するか、九月十三日までに決めてって言われてる」
九月十三日。
明日が来ないことが楽だと言った意味が、そこで急に輪郭を持った。
「だから」
ひよりは店の灯りを見たまま続けた。
「今日が終わらないの、ちょっと助かってる」
俺はすぐに何も言えなかった。
高校生の一日が何回も繰り返される、という異常な話の中心にあったのが、案外そういう普通の現実だったことに、少しだけ息が詰まった。転校するかしないか。母の再婚。弟のこと。家の手伝い。そういう、ドラマの大事件ほど派手ではないけれど、当人には十分すぎる重さを持つもの。
「元カレと別れたのも」
俺が聞くと、ひよりは苦く笑った。
「直接それだけじゃないけど、近いかな」
「藤島くん、たぶん待ってくれる人だったから」
「うん」
「待ってもらうのがしんどかった」
店のドアが開いて、中から小学生くらいの男の子が顔を出した。ひよりに似た目をしている。
「姉ちゃん、遅い」
「うるさい、今行く」
弟らしい。ひよりは俺に「これが弟」とだけ言った。弟は俺を見ると少しだけ警戒して、それからすぐ店の中へ戻った。
「ごめん、今日はここまで」
ひよりは言った。
「いや、十分」
「十分って何」 「いろいろ」
ひよりは少し笑ったが、その笑い方は疲れていた。
「水野」
呼ばれて顔を上げる。
「わたし、ループの中でだけ楽してるの、たぶんずるいよね」
そう言われると、簡単に否定していいのか分からなくなる。
ずるい、という言い方も違う気がした。むしろ今までが頑張りすぎていただけで、ループの中のひよりはようやく息をしているように見えた。笑うときの肩の力が、学校や店の前にいるときより少しだけ抜けていることに、俺はもう気づいていた。
でも、俺はたぶんそこで初めて、自分の見栄や好奇心とは別の場所から言葉を出した。
「ずるくてもいいだろ、少しくらい」
ひよりは数秒、黙っていた。
「……そういうとこ」
「何」
「たまに急にずるい」
それだけ言って、彼女は店の方へ駆けた。暖簾が揺れて閉じる。夕方の惣菜の匂いが少しだけ残る。
俺はしばらくその場に立っていた。好きな相手の生活圏を見てしまうと、ただ一緒に遊んでいるだけだった時間が少し変質する。制服のまま笑っているひよりも本物だが、暖簾の向こうへ消えていくひよりも同じくらい本物で、その両方に触れたいと思ってしまうのは、もうだいぶ引き返しにくい。
帰り道、俺は商店街のガラスに映った自分を見た。相変わらずメガネで、特別かっこよくもない。ただ、数日前より少しだけ違う顔をしている気がした。
ループの中で俺たちは遊んでいた。たしかに遊んでいた。だが、ひよりにとってはそれだけではなかった。逃げ場で、先延ばしで、たぶん呼吸だった。
そのことを知ってしまった以上、俺の側ももう、ただのイベントみたいには扱えなかった。
08
第八章 むっつりの定義について
本当に恥ずかしい話は、たいてい冗談みたいな顔をして口に出される。
その日、ひよりは朝から機嫌がよかった。機嫌がよいというより、ふっきれた感じに近い。教室の窓際で俺を見るなり、いつもの調子で言った。
「景太、今日ちょっとえっちな話していい?」
教室で朝一番に使っていい語彙ではない。
「声がでかい」 「安心して。誰も覚えてない」 「おまえ、それ免罪符だと思ってるだろ」 「だいぶ」
結局、昼休みに連れて行かれたのは屋上へ続く非常階段の踊り場だった。人気のない場所ばかり詳しくなるのも、ループ生活の弊害かもしれない。
「で」
俺は手すりにもたれて言う。
「何」 「景太って、どこからが意識するの」
「は?」
「手をつなぐ、肩が触れる、顔近い、そういうの」
ひよりは本当に質問している顔だった。からかいはいつも混ざっているが、完全な嘘ではないと分かる顔。
「何でそんなこと聞くんだよ」 「知りたいから」 「雑」 「じゃあ、研究のため」
こいつは、恥ずかしいことを言うときほど妙にまっすぐだ。
「……人による」
考えた末に、俺はそう答えた。
「うわ、ずるい」 「現実的だろ」 「じゃあ、わたしなら」
その問い方は反則に近かった。
「手をつなぐ時点でだいぶ」
正直に言うと、ひよりは満足そうにうなずいた。
「健全でよろしい」 「そっちは」 「わたし?」
ひよりは少しだけ空を見た。九月の空は青いのに、真夏ほど無責任ではない。
「わたしはね」
「たぶん、意識してることを相手に悟られるのが一番恥ずかしい」
それはよく分かる気がした。高校生の照れは、行為そのものより、自分がそれを望んでいると知られることに発生する。
「だから、平気な顔する」
「それでむっつりってこと?」 「そうかも」
ひよりは笑った。
「別にさ、恋愛したら手をつなぐとか、キスするとか、そういうのに興味ないわけじゃないの。むしろ普通にある」
そこまで言って、彼女は肩をすくめる。
「でも『あります』って顔で生きるの、ダサいじゃん」
「どういう顔だよ」 「たとえば、恋愛映画のキスシーンで平気なふりしてるくせに、内心ちょっと息止まってる顔」 「細かいな」 「だってあるもん、そういう瞬間」
「あと、クラスの女子で誰と誰が夏休みにキスしたらしい、とか聞いたとき」 「聞くのかよ」 「聞こえてくるんだよ。男子だってしてるでしょ、そういう話」
している。しているし、知らないふりをしているだけで、誰がどこまで進んだらしいとか、そういう噂はだいたい耳に入る。入るたびに、自分はまだその外側にいるのだと妙に意識する。高校生の恋愛は、当事者二人の問題である前に、同級生たちの曖昧な噂の中にも半分存在している。
「興味はあるよ」
ひよりはあっさり言った。
「でも、興味あるって顔で聞くのは負けた気がする」
その感覚は、男子にも近いものがある。格好つけたいくせに、欲しがっていると知られたくない。背伸びの本質は、たぶんだいたいそれだ。
「景太も似たようなもんでしょ」
「まあ」 「経験値ほしいみたいな顔してるときあるし」 「言い方」 「でも最近はちょっと変わった」
ひよりは手すりに指を滑らせながら言う。
「前は、女子とどうこうしたいっていう雑な男子っぽさだったけど」 「最低だな」 「今は、もうちょい限定されてる」
俺は言葉に詰まった。
限定。たしかにその通りだった。手をつなぐことも、暗い映画館で肘が触れることも、顔が近いことも、最近は全部ひよりの顔で想像している。そうなると急に、他の誰にも置き換えがきかなくなる。
それは経験値がほしいとか、恋愛イベントを踏みたいとか、そういう雑な願望とは少し違う。ひよりがストローをくわえて笑う顔とか、制服の袖から見える手首とか、風で髪が頬にかかったときの指先とか、その人固有の細部ばかり気になってくる。そうなると、もうかなり終わりが近い。
「図星?」
「……まあ」
ひよりは小さく笑ったあと、急に真面目な顔になった。
「ねえ、景太」
「ん」
「わたし、藤島くんと付き合ってたとき」
少しだけ間が空いた。
「手をつないでも、あんまり嬉しいって思えない日があった」
俺は黙って聞く。
「別に嫌じゃないの。でも、ここでちゃんと嬉しそうな顔しなきゃって思ったら、先にそっちが来ちゃって」
ひよりは自分の手を見た。
「だから今、水野とこういう話できるの、変だけどちょっと楽」
「相手の手がどうとか、息が近いとか、そういうの、本当は分かってるのに」
「うん」
「分かってないふりしなくていいの、楽」
その言葉は、軽く受け取ってはいけない気がした。
「俺も」
俺が言うと、ひよりが顔を上げる。
「何」
「変だけど楽」
彼女はそこで少しだけ頬を緩めた。
放課後、俺たちは学校帰りに河川敷まで歩いた。何度かのループで見つけた、ベンチの少ない静かな場所だ。川の水は夏より少し濁っていて、草むらの匂いに秋の乾きが混ざりはじめている。
「今日の検証」
ひよりがコンビニの袋を揺らしながら言う。
「恋人っぽい距離感」 「まだやるのか」 「重要だから」
袋の中には二本の炭酸飲料とポテトチップス。河川敷に座って食べるにはちょうどいいが、恋人っぽいかと言われるとかなり微妙だ。
草の上に並んで座ると、肩がわずかに触れた。触れたままでいられるかどうかは、ループを何回やっても慣れない。
「景太」
「ん」
「今、逃げたい?」 「少し」 「正直」
ひよりは自分のペットボトルの蓋を開けて、一口飲んだあと、俺へ差し出した。
「飲む?」
それを受け取る意味くらい、俺にも分かる。
「おまえさ」 「うん」 「たまに男子のライフを削る天才だよな」 「大げさ」
言いながらも、俺は受け取って一口飲んだ。炭酸の刺激より、口をつけたこと自体の方が強く意識に残る。
冷えたペットボトルの口に、まだ彼女の体温が少しだけ残っている気がして困る。実際にはそんなはずがないのに、意識してしまうともう駄目だ。高校生の想像力は、こういうときだけ無駄に性能がいい。
「で?」
ひよりが聞く。
「どう」
「どうって」 「今の」
俺は少し考えた。
「……普通にうれしい」
ひよりは目を細めた。
「そういうの、ちゃんと言うとこ好き」
またその単語だ、と思うのに、毎回効く。
夕方の川は、風の音がよく通る。遠くの橋を電車が渡る音もした。ひよりの肩が、今度はわざと少しだけ俺に触れた。
「もし」
彼女が低い声で言う。
「本当に好きな相手だったら、どこまで平気なんだろうね」
その問いに、俺はすぐ答えられなかった。
「平気っていうか」
「うん」
「たぶん、平気じゃないままでもしたいんじゃないか」
自分で言ってから、だいぶ直球だったと思う。ひよりも少しだけ黙った。
俺は続ける。
「恥ずかしいし、失敗したくないし、変な顔になるし」 「なってそう」 「うるさい」
「でも、そういうの込みで、相手がよければ」
ひよりはしばらく何も言わなかった。横顔のまま、風に前髪を揺らしている。
「たぶんね」
ひよりが小さく言う。
「知りたいんだと思う。自分がどこまで平気なのかじゃなくて、好きな相手となら何が違って見えるのか」
「それ」
やがて彼女が言う。
「たぶん正解に近い」
夕陽が川へ斜めに落ちていた。ひよりがこっちを向く。距離は近い。近いのに、どこまで行っていいのか分からない。
彼女の視線が一瞬だけ唇のあたりへ落ちた気がして、俺は息を止めた。
川沿いの風の音が、一瞬だけ遠くなる。ひよりの前髪が揺れて、呼吸の浅さまで分かりそうな距離だった。もう少し顔を寄せたら、たぶん何かが起きる。その想像が、嬉しいより先に怖かった。失敗したくないからじゃない。ここで起きたことまで、明日にはなかったことになるかもしれないと思ったからだ。
でも次の瞬間、ひよりはふっと笑って立ち上がった。
「今日はここまで」
「……今の、絶対わざとだろ」 「何のこと?」
分かっていてとぼける。そのずるさが、最近はもう腹立たしいより愛しいに近い。
「百点満点で?」
俺が聞くと、ひよりは少し考えてから言った。
「八十二」
「高いな」 「景太が思ったことちゃんと言ったから」
そして歩き出す前に、彼女は小さく付け足した。
「次、たぶんもっと上がるよ」
09
第九章 同じ日だけ歳をとる
同じ日を繰り返しても、同じ気持ちではいられない。
たぶん十回を過ぎたあたりから、俺たちは細かい回数を数えなくなった。
朝、昇降口で会う。昼休みに職員室前の長椅子か非常階段へ行く。放課後に少し遠回りして、ループのなかでしかできない寄り道をする。そこまでが大枠で、その中身だけが毎回少しずつ違った。
ある日は、文化祭のポスターを一番うまく仕上げるルートを試した。ある日は、陸が告白しようとして玉砕する瞬間を未然に防いだ。ある日は、ひよりの弟が店番中にレジを打ち間違えるのを、俺が客のふりをしてごまかした。ある日は、二人で電車に乗って終点まで行き、見知らぬ住宅街を歩くだけで夕方を使い切った。
ある日は、カラオケで恋愛ソングばかり入れて先に照れた方が負けという意味の分からない勝負をした。ある日は、プリクラ機の落書き欄に互いの名前を書きかけて、明日には消えるのに妙にためらった。ある日は、制服のままゲームセンターのメダルコーナーで無駄に時間を溶かし、肩が触れたまま離れないことだけを意識していた。
ループは、退屈になるより先に人を器用にする。
陸の次の台詞が分かる。堀越が小テストの前に言う冗談も分かる。購買で最後の焼きそばパンを取る生徒の顔も分かる。ひよりがどこで笑って、どこで一瞬だけ黙るかも、前よりずっと分かるようになった。
「もう夫婦じゃん」
ひよりがそう言ったのは、商店街の古本屋で、俺が彼女の手が伸びる前に棚の上の文庫本を取ったときだった。
「言い方」 「だって阿吽だった」
ひよりは笑いながら、その本を受け取る。
俺たちはまだ付き合ってもいない。そもそもループの中での関係に、外の世界で使う名前があるのかも分からない。ただ、他の誰より先に相手の癖を知っているという事実は、たしかに少しだけ恋愛に似ていた。
ひよりが眠いときに右目からよくこすること。緊張するとストローやシャーペンの先を噛むこと。照れているときほど先に冗談を言うこと。俺の方もたぶん、前髪を触る頻度とか、眼鏡を上げるタイミングとか、だいぶ読まれている。こういう種類の親密さは、たしかに甘い。だが、甘いぶんだけ外へ持ち出せない感じも強い。
似ていて、危うかった。
学校の景色がたまに舞台装置みたいに見えることがあった。同じタイミングで開く窓、同じ場所で笑う女子、同じ言い回しで叱る教師。もちろんみんな本物なのに、俺たちだけが台本を何度も読んでしまったせいで、現実の方が薄く見える。
「ねえ」
夕方のファミレスで、ひよりがドリンクバーのメロンソーダを混ぜながら言った。
「もしこのままずっと終わらなかったらどうする?」
「どうするって」 「困る?」
俺は少し考えた。最初の頃なら、そんなの面白いじゃんと即答していたかもしれない。今はそうでもない。
「……たぶん、困る」
ひよりはストローを止めた。
「何で」
「分かんないけど」
俺は窓の外を見る。外では制服の高校生たちが、明日のある歩き方で交差点を渡っている。
「同じ日だけで、おまえと仲よくなっていくの、ちょっと変な感じする」
ひよりは黙った。
「変って?」 「うまく言えない」
「本当なら、失敗したり、気まずくなったり、明日になってから後悔したりするはずのものを、全部飛ばしてる感じ」
言葉にしながら、ようやく自分でも整理がついた。
ループは便利だ。便利すぎる。喧嘩したって朝には戻る。言い損ねたこともやり直せる。手をつなぐのも、近い距離で見つめ合うのも、全部「どうせ明日にはなかったことになる」という薄い膜の中でやっていられる。
それは楽だ。けれど、楽なまま深くなる感情は少し怖い。
しかも、体の方が先に慣れてしまう。隣に座る距離とか、手をつなぐ温度とか、肩が触れたときに息を止める癖とか。最初は全部大事件だったのに、回数を重ねるうちに自然になり、その自然さがかえって危うく見えた。やり直せる場所で慣れた触れ方を、やり直せない場所へ持ち出せるのか、俺には自信がなかった。
「わたしは」
ひよりが静かに言った。
「終わらなくても、今のところ困らない」
言い方があまりにも自然で、冗談に聞こえなかった。
「家に帰れば母は再婚の話をするし、弟はこっち見てるし、学校来ればみんな普通に明日の話してるし」
彼女はメロンソーダの氷をストローで押した。
「でもここでは、とりあえず今日だけで済むから」
その本音の重さに、俺はすぐ言葉を返せなかった。
家のこと。転校するかどうか。藤島との別れの続き。たぶんそれだけじゃない、ひよりがひよりでいるために常にやってきた小さな無理。その全部が、明日という単語にくっついている。
「景太は、やっぱり終わってほしいんだ」
「……たぶん」
「そっか」
ひよりは責めるでもなく、ただそう言った。
その反応が余計にきつい。俺が未来を選ぶと言うことは、ひよりから逃げ場を奪うことにもなるのだと、そのとき初めてはっきりした。
帰り道、ひよりはいつもより少し静かだった。駅前の歩道橋の上で風に髪が揺れても、自分から手すりへ寄りかかったりしない。俺の方も、何を言えばいいか分からない。
「水野」
別れ際に、彼女が言う。
「今日の点数」
「いくつ」
「七十」
「下がってる」 「景太が余計なこと考えてるから」
それだけ言って、ひよりは少しだけ笑った。
「でも、考えてる方が水野っぽいよ」
家へ帰る電車の中で、俺はその言葉をずっと反芻していた。
水野っぽい。ひよりにそう言われるのは、最近たぶん一番うれしい。でも同時に、それは何も解決していない。俺が俺らしくいたところで、明日が来る問題は消えない。
同じ日だけ歳をとる。
ループの中にいる俺たちは、クラスメイトたちより少しだけ先へ進みながら、現実の暦には一日も追いつかない。そんな妙な場所に立っている。
それがいつまで許されるのか、俺にはもう分からなかった。
10
第十章 明日が来ると困る人
優しい言葉より先に、正しいことを言ってしまう日はだいたい失敗する。
その日の俺は、たぶん最初から少し焦っていた。
理由は単純だ。ループの心地よさに慣れれば慣れるほど、終わったときに失うものが増えると分かってしまったからだ。ひよりと話すこと、歩くこと、近い距離で笑われること。そういう全部が、明日になれば保証されない。だったらなおさら、明日のある場所でほしいと思うようになる。
それは欲張りなのだと思う。ループの中で十分すぎるほどもらっておきながら、さらにその先までほしがっている。けれど一度そう思ってしまうと、手をつなぐたびに、このまま消えるかもしれない温度だと意識してしまう。意識してしまった以上、もう前みたいに無邪気には遊べなかった。
それは恋愛としてはまっとうかもしれない。だが、ひよりに対してはたぶん順番が悪かった。
放課後、俺たちは河川敷へ行った。風が強く、空は高かった。ひよりはコンビニの袋を持っているのに、中身を出そうとしない。
「ねえ」
俺は先に言った。
「そろそろ、終わらせる方法考えないか」
ひよりの指が、袋の持ち手のところで止まった。
「終わらせるって」 「分かんないけど」 「原因探すとか?」 「そう。あるいは、何か条件があるなら」
ひよりはすぐには答えなかった。しばらく川を見てから、小さく息をつく。
「景太って、ほんとたまに急だよね」 「急っていうか、ずっと思ってた」 「うん」
「でも言わなかった」
「今は言うんだ」
その口調がやけに静かで、逆に怖かった。
「だって、このままだと」
俺はそこで言葉を選び損ねた。
「何」
「……何しても、本当にならない気がする」
言った瞬間、失敗したと分かった。
ひよりの顔から、感情が一度すっと抜けた。
「本当にならない?」
「いや、そうじゃなくて」
「今までのこと、全部?」
俺は慌てて言い足そうとしたが、うまくつながらない。言いたかったのはそういうことではない。なかったことになるんじゃなくて、続きがないのが嫌だと言いたかった。でも言葉は、出た順番のまま相手に刺さる。
「景太さ」
ひよりは笑っていなかった。
「結局、次がほしいだけなんだね」
「違う」 「違わないよ」
彼女は袋を膝の上に置いて、まっすぐ俺を見た。
「わたしにとっては、ここがやっと楽な場所だったの」
声は大きくないのに、逃げ場がなかった。
「何回目かの九月十二日で、ようやく家のこと考えないで済んで、ちゃんとした娘とか、ちゃんとした元カノとか、そういうの全部ちょっと置いとけて」
ひよりは自分の指を強く握った。
「その中で水野といるの、わたし、楽しかった」
ひよりが「楽しかった」と過去形で言った瞬間、胸の奥が嫌な形で冷えた。まだ何も終わっていないはずなのに、その言い方だけで少し終わりに近づく。
俺もだ、と言いたかった。けれど次の言葉で喉が詰まる。
「なのに景太は、ずっとこれじゃ意味がないみたいに言う」
「意味がないなんて言ってない」
「ほとんど同じじゃん」
風が吹いて、ひよりの前髪が目にかかった。彼女はそれを払わない。
「景太にとっては、やり直しの利く恋愛ごっこだったかもしれない」
「違う」
「じゃあ何」
答えは喉まで来ていた。
好きだ、と言えばよかったのかもしれない。でも、それを今ここで言うのは、ひよりを説得の材料に使うみたいで嫌だった。嫌だと思った一瞬で、もう遅い。
「……おまえと、本当に付き合いたい」
結局、俺はそう言った。
ひよりは目を閉じて、少しだけ笑った。泣きそうでも怒っているでもない、いちばん困る笑い方だった。
「今それ言うの、ずるいよ」
「ずるくない」 「ずるい」
彼女は立ち上がった。
「だって水野、わたしが明日を怖がってるって知ってるのに」
「だからこそだろ」
「だからこそ、今じゃないでしょ」
その正しさに、俺は一歩も進めなくなった。好きだから言った、では足りない。相手が逃げ場として使っている場所で、本音を出口みたいに差し出すのは、たしかに少し卑怯だった。
その言葉で、俺は何も言えなくなった。
正しかった。たぶんひよりの方が。
相手が決められずにいる未来の前で、自分の感情をぶつけるのは、誠実に見えてだいぶ自分勝手だ。俺はようやく未来がほしくなったくせに、そのほしがり方までまだ子どもだった。
「今日は帰る」
ひよりはそれだけ言って、河川敷の階段を上がっていった。追いかけるべきか迷って、一歩も動けなかった。
その夜、六時四十二分に戻った朝も、その次の朝も、俺たちはまともに話さなかった。
教室では話す。必要なことも言う。だが昼休みに待ち合わせはしない。放課後も、それぞれ別に帰る。ループは続いているのに、中身だけが急に空いた。
陸が「最近おまえら微妙じゃね」と言った。俺は「別に」と答えた。ひよりは前の席で振り向きもせず、「そう見えるなら演技力ないかも」と笑った。
笑えているぶん、余計に遠い。
同じ日を何度もやり直しているのに、一回の失敗だけがきれいに残ることがある。
それがたぶん、この時期の俺たちだった。
11
第十一章 恋愛ごっこの終わり
勇気があるふりをすることと、実際に引き受けることは別だった。
ひよりと距離を置くようになってから、俺は何度か一人で九月十二日を過ごした。
朝はいつも通り来る。教室の窓は同じ角度で開く。堀越は同じところでチョークを折る。陸は同じ時間に同じ冗談を言う。ひよりもそこにいる。だが昼休みになっても職員室前の長椅子へ行かない。放課後も追わない。ループの中では何でもできるはずなのに、何もしないことを選ぶのは案外きつかった。
駅前の喫茶店の前を通っても入らない。河川敷へ行っても、ひよりがいないだけで風の音がやけに薄い。観覧車の見える歩道橋を渡ると、暗いゴンドラの中で手をつないだときの温度まで思い出す。思い出すくせに、今の自分にはその続きを受け取る資格がまだない気がした。
その代わり、今まで見ないふりをしてきたものが目に入る。
陸は明るく見えて、文化祭実行委員の仕事を細かく気にしていた。俺が少し手を貸すと、びっくりするほど素直に「助かった」と言う。
藤島は、ひよりと別れたあとも部活の後輩の世話を焼いていた。かっこいいやつは、見ていないところでもだいたい感じがいい。
クラスの工藤早苗は看板の字がうまいのに、自分のセンスに自信がなくて毎回誰かに確認を取る。堀越は雑そうに見えて、生徒の進路希望だけはやたら丁寧に見ている。
俺は今まで、ひよりといる時間ばかりを特別扱いしすぎていたのかもしれない。もちろん実際に特別ではある。けれど、それだけに夢中になって、自分の足元の人間関係を全部背景にしていた。
「最近、落ち着いた?」
陸が放課後に言った。
「何が」 「雨宮さんのこと」
俺はテープの芯を拾いながら肩をすくめた。
「そんな分かりやすかったか」 「だいぶ」
陸は笑わなかった。
「でもさ、おまえ、たまに好きなやつ相手ほど『ちゃんとしなきゃ』が強すぎるよな」
その言い方が意外と的確で、俺は少し黙った。
「何だよ、急にまとも」 「たまにはな」
陸は脚立を押さえながら続ける。
「モテたいとか、経験ほしいとか、そういうの別に普通じゃん。でも最後までそれだと、たぶん相手に失礼」
それは、友達に言われると妙に響く種類の正論だった。
別のループで、俺は放課後にひよりの店の前まで行った。中へは入らない。ただ、ガラス越しに、ひよりが弟と並んでレジを打っているのを見る。客へはちゃんと笑うが、笑ったあとに肩が少しだけ落ちる。そういう小さな疲れは、好きな相手を見ていると目につく。
俺はその姿を見てようやく、自分が欲しかったものを少し言い換えられるようになった。
ひよりと付き合いたい。たしかにそうだ。でも、それは「彼女がほしい」という雑な願望の延長ではなくて、あいつが無理をしていない顔を、明日のある場所でも見たいということなのだと思う。
それに気づいたら、謝るべきことも少しはっきりした。
次のループの放課後、俺は屋上の非常階段へ行った。ひよりがそこにいる確率は高い。高いが、会える保証はない。ループでも保証できないことはある。
ひよりはいた。膝を抱えて座って、校庭を見ていた。
「やっと来た」
こちらを見ないまま言う。
「待ってた?」 「半分くらい」
俺は少し離れた場所に腰を下ろした。近づきすぎない。逃げ道がある距離。
「この前、ごめん」
先に言う。ひよりは何も返さない。だから続けるしかない。
「俺、未来がほしいって言ったけど」 「うん」 「たぶんあれ、自分のための言い方だった」
風が階段の隙間を抜ける。
「おまえとちゃんと先へ行きたいって気持ちは本当だった。でもその中に、勝ちたいとか、選ばれたいとか、そういうダサいのも混ざってた」
ひよりが少しだけ顔を上げた。
「ダサい自覚あったんだ」 「最近できた」 「進歩」
その返しに少しだけ救われる。
「だから、今すぐ答えろって意味で言ったんじゃない」
俺は手すりの錆びた部分を見る。
「おまえが何を選んでも、それがループの外で決めたことなら、ちゃんと受け取りたいって話」
ひよりは長く黙っていた。
「わたしさ」
やがて彼女が言う。
「ずっと、自分で決めたら誰かががっかりするって思ってる」
その言葉は、たぶん家族の話だけではない。
「母はわたしに一緒に来てほしい。でも、父はたぶん残ってもいいって言う。弟は何も言わないけど、ほんとはどう思ってるか分かんない。クラスの子には、もし転校したらいろいろ言われる。藤島くんにだって、別れたあとの感じでちょっと罪悪感ある」
ひよりは苦笑した。
「誰も悪くないのに、わたしが選ぶと誰かの期待は外れる」
それはたしかに、逃げたくもなる。
「でも」
俺はそこで一度息を吸った。
「それ、おまえが全部引き受ける必要あるのか」
ひよりが俺を見る。
「だって選ぶのわたしだし」 「そうだけど、他人のがっかりまで全部おまえの責任にしたら、何も選べないだろ」
俺はたぶん、初めて自分の言葉でちゃんと話していた。格好つけるための台詞じゃなく、正しく見せるための言い回しでもなく、ただ思ったことだけで。
「おまえが楽な方選んでもいいし、わがままでもいいし、後からやっぱ違ったってなってもいい」
ひよりは目を伏せた。
「それ、簡単に言うね」 「簡単じゃない。でも俺が言えるのはそれくらい」
沈黙があった。長くはない。でも逃げずに待つには十分な長さだった。
「景太」
「ん」
「今の、だいぶ百点に近い」
俺は少し笑った。
「採点基準ぶれてない?」 「今日は甘め」
ひよりはそう言って、膝を抱えた姿勢をほどいた。
「ねえ」
「何」
「一回だけ」
彼女は躊躇ったあと、少しだけ身を寄せてきた。
「ぎゅってしていい?」
抱きしめる、という単語を使わないのがひよりらしいと思った。
俺は黙ってうなずいた。次の瞬間、制服越しに彼女の体温が伝わってくる。ほんの数秒だったのに、時間の感覚が変わる。肩口に触れた髪がくすぐったくて、でも動けなかった。
抱きしめ返す力加減まで迷う。強すぎると違うし、弱すぎても逃げ腰みたいだ。結局、背中に手を回して少しだけ引き寄せることしかできなかった。それでもひよりの肩の力が、一瞬だけ抜けたのが分かった。その小さな変化だけで十分だった。
「ありがとう」
離れたあと、ひよりは小さく言った。
「たぶん、もうちょっと考えられる」
その「考える」は、たぶん前より少し未来の方を向いていた。
12
第十二章 最後の九月十二日
終わるかもしれない日だけが、なぜかいちばん丁寧に触れられる。
その朝、ひよりは昇降口で俺を見るなり言った。
「今日はちゃんと使おう」
「何を」 「九月十二日を」
言い方が妙にきれいで、少し笑ってしまう。
「いつもちゃんと使ってただろ」 「いや、だいぶ雑に使ってた日もあった」
それは否定できなかった。コンタクトで調子に乗った日とか、観覧車で息が止まりそうだった日とか、くだらない願望を雑に叶えようとしていた日とか。どれも大事ではあったが、たしかにどこか消費的だった。
その日は、最初から少し違った。
ホームルーム前に工藤のポスター案を先に褒める。数学で当てられる問題をあえて先回りしすぎない。体育で藤島にパスを出し、「ナイス」と言われて普通に返す。陸の雑な冗談にも雑に返す。何度も見てきた流れの中で、二人だけが別の台本を持つのではなく、周りと同じ時間をちゃんと踏む感じがあった。
「景太」
昼休み、ひよりが言う。
「今日、ちゃんと今を生きてる感ある」 「昨日まで死者扱いかよ」 「どっちかというとループの亡霊」
ひどいが、少し分かる。
昼休みのあと、ひよりは珍しく自分から母に電話した。校舎裏の日陰で、短く「今日はちゃんと帰る」とだけ言う。内容はそれだけなのに、切ったあとの彼女は少しだけ緊張した顔をしていた。
「大丈夫?」
「分かんない」
ひよりは苦笑した。
「でも、分かんないままでもいいかなって少し思った」
放課後、俺たちは最後にやり残したことを一つずつ拾っていった。
駅前の喫茶店で、今度は俺もブラックではなくカフェオレを頼んだ。
「逃げた」
ひよりが言う。
「違う。ようやく身の丈を知った」 「えらい」
映画館には入らず、代わりに古本屋でひよりが好きそうな文庫を選んだ。観覧車には乗らず、河川敷まで歩いた。手は、どちらからともなくつないだ。もう練習でも検証でもないのに、その方がずっと自然だった。
ゲームセンターの横を通ったとき、ひよりがプリクラ機の方を見て少しだけ立ち止まった。けれど今日は入らない。
「撮らないの」
「今日はいい」
「何で」
「だって、今ほしいのは消えない方だし」
そう言って、ひよりは照れたみたいに前を向いた。その一言だけで、前に撮った何枚もの消える写真より、今日の横顔の方がずっと残る気がした。
「景太」
途中でひよりが言う。
「最初の頃の景太って、たぶん『恋愛イベント』がほしかったんだよね」 「否定はしない」 「今は?」
俺は少し考えた。答えは思ったより簡単だった。
「おまえがほしい」
自分で言って、だいぶまっすぐだと思う。
ひよりは足を止めた。夕方の光が、彼女のボブの毛先を少しだけ茶色くする。
「それ、だいぶ危ない」 「何が」 「心臓に」
その返しで、俺はようやく息ができた。ひよりは照れているときほど、ひねったことを言う。
「おまえは」
俺が聞くと、ひよりは少しだけ視線を逸らした。
「……わたしも、たぶん似たような感じ」
それ以上は言わない。言わないくせに、指だけは俺の手を少し強く握る。その不器用さごと、最近は好きだった。
河川敷に着くと、空はだいぶ低い色になっていた。夏の終わりの名残みたいな赤が、川の上に薄く伸びている。
「今日の点数」
俺が先に聞いた。
ひよりはすぐには答えず、少しだけ考える顔をした。
「九十九」
「あと一点は」
ひよりは俺を見た。
「最初の日の誘い、覚えてる?」
「三十一点」 「そう」
彼女は笑う。
「あのとき景太、『文化祭ちょっと回らない?』って言ったでしょ」
「うん」
「今日、ちゃんと言い直して」
俺は息を吸った。ループを何度もやってきたくせに、こういう一言だけが一番難しい。
「雨宮」
「うん」
「文化祭だけじゃなくて、そのあとも」
ひよりの目がまっすぐこちらを見る。
「明日が来ても、その次が来ても、ちゃんとおまえといたい」
言い終わったあと、変に格好よく聞こえていないか不安になった。けれどひよりは笑わなかった。
「百点」
それだけ言って、彼女は少しだけ近づいた。
額が、こつんと軽くぶつかる。
「それ以上は」
ひよりは近い距離のまま、小さく言う。
「明日が来てから」
吐く息が触れそうな距離で言われると、その一言自体がかなり危ない。俺は笑うしかなかったが、本当はたぶん、もう少しで何かを勘違いするところだった。そうならないぎりぎりで止めるところまで含めて、ひよりは最後までひよりだった。
でも、その言い方で分かったこともある。俺たちはたぶん、ただ触れたいわけじゃない。初めての何かを、消える今日の中で雑に済ませたくないのだ。キスだって、その先にあるかもしれないものだって、もし本当にあるなら、ちゃんと明日のある場所で困りながら受け取りたい。高校生の好奇心なんていくらでも浅い方へ転ぶのに、好きな相手ができると急に臆病で真面目になる。
その言い方があまりにもひよりらしくて、俺は笑ってしまった。笑いながら、心臓だけはめちゃくちゃだった。
その夜、俺は久しぶりに目覚ましを信用して眠った。ひよりもたぶん、同じようにしたと思う。
もう六時四十二分を待つしかない。
待ちながら、少しだけ思った。
もし明日が来なくても、ここまで来たこと自体は消えないのかもしれない、と。
13
第十三章 九月十三日は一回で足りる
何百回も繰り返した昨日より、一回しかない今日の方が、たぶんちゃんと怖い。
目が覚めたとき、最初に見た時計は六時四十二分を過ぎていた。
六時四十八分。
その六分の差だけで、心臓が痛いくらい鳴った。天井の染みは同じだ。カーテンの隙間の光も似ている。なのに空気が違う。今日には続きがある。
学校へ向かう途中、電車が二分遅れた。今まで一度もなかった遅れ方だった。たったそれだけで、世界はもう戻らないのだと分かる。
昇降口でひよりを見つけたとき、俺たちはしばらく何も言えなかった。
お互い、ちゃんと覚えている顔だった。
「来たね、明日」
ひよりが先に言う。
「来たな」
それだけで、少し笑う。笑えることに安心する。
教室の空気はいつも通りだった。陸は寝癖のままだし、堀越はホームルームで文化祭の準備が遅れているクラスを名指しで叱った。だが俺とひよりだけは、普通の金曜日の朝を少し過剰に見ていた。黒板の文字も、床に落ちた消しゴムも、誰かの笑い声も、全部が一回しかない。
昼休み、職員室前の長椅子に二人で座る。もう待ち合わせしなくても、そこへ行けばいいと分かっている。
「変な感じ」
ひよりが言った。
「昨日まで、ここ来ればまた最初からやり直せる気がしてた」
「分かる」
「でもちゃんと、今日なんだね」
彼女はそう言って、自分の手を膝の上で組んだ。見慣れた癖なのに、今日は少しだけ固い。
「母と今日、ちゃんと話す」
「うん」
「で、残るって言うつもり」
俺は数秒遅れて、その言葉の意味を飲み込んだ。
「決めたのか」
「昨日……じゃないけど、昨日」
ひよりは笑った。
「あんだけ九月十二日やって、まだ決めきれないのもださいなと思って」
「そんなことない」
「あと、景太に言われたのがちょっと効いた」
「どれ」
「全部自分の責任にしなくていいってやつ」
その言葉をちゃんと残してもらえたことが、思ったよりうれしかった。
放課後、ひよりは真っすぐ家へ帰った。俺は追わない。追わなくていい関係になりたいと思った。
代わりに駅前のベンチで待っていると、日が落ちるころにメッセージが来た。
『終わった。まだ生きてる』
その一文だけで、俺はだいぶ救われた。
少ししてから、もう一通。
『残ることにした。母はちょっと泣いた。弟はポテチ食べてた』
ひよりらしい報告で、笑ってしまう。
俺は返した。
『百点満点で?』
返事はすぐ来た。
『八十七。泣かなかったから加点』
その週の終わり、文化祭当日。
一週間前には存在しなかった今日を、俺たちはちゃんと迎えた。
昭和喫茶きらめきは案外繁盛した。工藤の看板は見やすくて、陸は客引きで無駄に声が出て、俺は会計ミスを三回防いだ。ひよりはエプロン姿で注文を取りながら、何度かこっちを見て笑った。あの笑い方が、ループの中で見ていたものと同じで、少し違う。続きを持った笑い方だった。
文化祭の途中、クラスの女子が記念にとチェキを持ってきた。何人かで撮ったあと、流れで俺とひよりも並ばされる。肩が触れる。白いフレームの中に、今度は本当に残る自分たちの顔が出てくる。
「うわ、景太ちょっと固い」 「うるさい」 「でも前よりまし」
ひよりはそう言って、そのチェキを自分のエプロンのポケットへしまった。何度も消えたプリクラのことを思うと、それだけで少し胸が詰まる。
しかも今日は消えない。もしこれをクラスの誰かに見られたら、たぶん一日で噂になる。俺たちはまだそこまで派手な関係じゃないのに、高校では肩の寄せ方ひとつで勝手に話が育つ。そういう面倒くささまで含めて、今日が本物なのだと思った。
午後、交代の時間に俺はひよりを教室の外へ連れ出した。廊下の窓から、秋になりきらない九月の光が入っている。
「何」
「誘い直し」
ひよりはすぐに意味を分かった顔をした。
俺は最初の日みたいに変に詰まらないよう、でも格好つけすぎないようにして言った。
「文化祭、回ろう」
「それだけ?」
「いや」
俺は一歩だけ近づいた。
「今日だけじゃなくて、来週も、その次も、ちゃんと誘うから」
ひよりは少しだけ目を丸くしたあと、笑った。
「百点満点で九十九」
「あと一点」
「前より余裕ある顔してるのがちょっと悔しい」
そう言ってから、彼女は自分の方から俺の手に触れた。制服の袖口どうしが少し擦れる。廊下の向こうでは誰かが笑っている。文化祭のざわめきが遠く近く聞こえる。全部、やり直しのない音だ。
「でも」
ひよりは指を絡めるまではしないまま、手のひらだけを重ねた。
「今日の景太、かなり好き」
その言い方があまりにもずるくて、俺は一瞬何も言えなくなった。
「おまえさ」
「うん」
「そういうの、前置きなしで言うな」
「景太だって最近そうじゃん」
たしかにそうだった。
俺たちはそのあと、クラスの喫茶店に戻る前に少しだけ中庭を歩いた。手は途中からちゃんとつないだ。ループの中なら何十回もやったことなのに、人目のある文化祭の日にやるそれは、全然別の行為だった。恥ずかしいし、逃げたくもなる。でも、その全部ごと嬉しかった。
手のひらの温度が、もう明日のない練習ではないと分かる。離したあとも残るだろうし、次にまたつなぐときには、前回の続きとして思い出せる。やり直しのきかない恋愛は面倒だ。面倒で、こわくて、それでもたぶんその方がいい。
たぶんこの先、俺たちはまたしょうもないことで意識する。下校中に肩が触れたとか、誰もいない教室で二人きりになったとか、帰り際にどこまで近づいていいのかとか、そういう他人から見れば小さい境界線だ。けれど高校生にとっては、その一つひとつが妙に大きい。何も知らない子どもではいたくないくせに、知りすぎた大人にもなりたくない。その半端さの中で、相手とどこまで行けるかを少しずつ覚えていくのだと思う。
九月十二日は何度もあった。
くだらない願望も、やり直した会話も、観覧車の中の沈黙も、河川敷の風も、六時四十二分も、全部二人だけのものとして残っている。誰にも説明できないし、証拠もない。たぶんこの先、少しずつ細部は薄れていく。
それでもいいと思えた。
何百回もあった昨日より、たった一回しかない今日の方が、ちゃんと欲しかったからだ。
ひよりが隣で言う。
「ねえ、景太」
「ん」
「ループ、恋に向いてなかったね」
俺は笑った。
「でも、おまえには向いてた」
「何それ」
「だって、今ここにいるし」
ひよりは少しだけ照れた顔をして、それから俺の手を握り直した。
その強さは、最初に練習したときよりずっと自然だった。
14
エピローグ それでも明日のある夜
二十歳を過ぎても、好きな相手の前では案外たいして大人になれない。
そう思い知ったのは、大学二年の十月、雨の夜だった。
ひよりは都内の私大で教育を学んでいて、俺は少し離れた大学で社会学をやっていた。路線が違うから毎日は会わない。高校のころみたいに、教室へ行けば前の席にいるわけでもないし、昼休みになれば職員室前の長椅子で落ち合えるわけでもない。
だから、会う日はちゃんと約束をする。
今から行く。駅着いた。改札出た。コンビニ寄る。そういう連絡を重ねるたび、俺たちはループの終わった世界で付き合っているのだと、少しだけ実感する。何でもないことだ。でも高校時代には、その何でもないことがほしかった。
その夜、ひよりの一人暮らしの部屋へ行くのは三度目だった。
最初は引っ越しの手伝い。二度目は試験前のレポートを一緒にやるため。そして三度目の今日は、理由をそこまで細かく言い立てない日だった。
雨で少し湿った空気の中、駅から十分ほど歩いてアパートへ着く。オートロックの古い音がして、ひよりがエントランスで手を振った。肩につくくらいのボブは少し伸びて、でも印象はほとんど変わらない。変わったのは、こっちを見て笑うときのためらいの少なさくらいだ。
「遅い」
「電車が」
「言い訳が大学生」
部屋へ入ると、洗いたてのタオルの匂いと、晩ごはんの残りのクリームシチューの匂いがした。六畳半のワンルームに、小さな丸テーブルと、本棚と、床へ無造作に置かれたトートバッグ。生活の形が、ちゃんとひよりのものになっている。
「先に言っとくけど」
コートを脱ぎながら、ひよりが言う。
「今日ちょっと緊張してる」
「先に言うんだ」
「言わないと、余裕あるふりしてるみたいでむかつくから」
その理屈がひよりらしくて、俺は少し笑った。
付き合い始めて二年半になる。キスだって、大学に入ってからもう何度もした。手をつなぐことや、抱きしめることが、もういちいち一大事だった時期は過ぎている。泊まることも、同じベッドで眠ることも一度や二度ではない。
それでも、その先へ進むとなると話は別だった。
別に今日と決めていたわけではない。だが決めていないからこそ、ここ数か月ずっと、互いに同じ場所で少しずつ立ち止まっていた。大学生なのだから、もっと自然に、流れで、みたいなことを言う同級生もいる。実際、周りではそういう話も普通に聞く。
けれど俺たちはたぶん、初めての何かを「なんとなく」で済ませるには、高校の九月十二日を長く抱えすぎていた。
あのころ、ひよりは「それ以上は明日が来てから」と言った。
あの一言は、今でも俺の中に残っている。大げさではなく、たぶんずっと基準になっていた。消える夜ではなく、明日のある場所で。勢いではなく、お互いがちゃんと困りながら選べるときに。
ひよりはマグカップを二つ出して、紅茶をいれた。湯気の向こうで、白いTシャツの袖を少したくし上げる。そういう仕草の一つひとつに、今でもふと見惚れてしまう自分がいる。
「景太」
「ん」
「変に紳士ぶるの禁止ね」
「何だよそれ」
「こっちが緊張してるときに、必要以上に落ち着いて見えると腹立つ」
「無理だろ。俺も緊張してるし」
「ほんと?」
「ほんと」
ひよりはしばらく俺の顔を見て、それから小さく笑った。
「じゃあ安心」
紅茶を飲みながら、どうでもいい話をした。大学の授業の話。サークルの先輩がまた面倒だという話。ひよりの弟が身長を抜きそうだという話。高校のクラスLINEがまだ細々動いていて、陸が相変わらずうるさいという話。
そうやって少しずつ、いつもの調子へ戻していく。
でも、沈黙が来るたびに、お互いが同じことを意識しているのも分かった。
ベッドの端に並んで座る。窓の外では雨が細く降っている。エアコンの音が静かで、そのせいで呼吸の間合いまでよく分かった。
「ねえ」
ひよりが言う。
「高校のときよりは、だいぶましになったと思う?」
「何が」
「その、こういうの」
こういうの、で通じるところまで来ているのが、少しおかしい。
「ましにはなった」
「ほんとに?」
「少なくとも、手をつなぐだけで死にそうにはならない」
ひよりは吹き出した。
「比較対象が低い」
「そっちは」
「わたしは」
ひよりは少しだけ考えたあと、肩をすくめる。
「知りたいことと、怖いことが、前よりちゃんと同じくらい」
その言い方が妙に正確で、俺はうなずいた。
知りたい。触れてみたい。好きな相手とならどこまで違って見えるのか知りたい。
でも怖い。終わったあとに何が変わるのか、自分がどんな顔をするのか、相手をがっかりさせないか、そういう全部が怖い。
大学生になっても、その本質は案外変わらない。少しだけ言葉にできるようになっただけだ。
「景太」
ひよりが、今度はもう少し低い声で呼ぶ。
「今日」
「うん」
「もし、途中でやっぱやめたいってなったら、やめるからね」
「うん」
「そっちも」
「分かってる」
「あと、変に格好つけないで」
「善処する」
「信用ならない」
そこまで言って、ひよりは少し笑った。けれど目はそらさなかった。
俺たちはゆっくりキスをした。
大学に入ってから何度もしたキスと、形そのものは大きく違わない。違うのは、そのあとで離れないことだった。頬に触れる手の位置とか、呼吸をはさむ間合いとか、服越しに伝わる体温とか、そういうものを一つずつ確かめるみたいに時間が進む。
ひよりの唇は少し乾いていて、二度目に触れたときにはもう少し柔らかかった。息を止める癖は昔のままで、近づくたび胸元がほんのわずかに固くなるのが分かる。俺の方もたぶん似たようなもので、落ち着いて見せたい気持ちと、今すぐ変な顔をしているに違いないという自覚が、ずっと同じ場所でせめぎ合っていた。
肩へ置いた手の下で、Tシャツの薄い生地が少しずつ温まっていく。その変化だけで、今までのキスとは確かに続き方が違うと分かった。ひよりも分かっているのだろう。ときどき目を開けて、ほんの一瞬だけ俺の顔を確かめる。その視線に合わせて、こっちも同じだけためらう。
ひよりの指が、俺のシャツの裾に触れて止まった。止まったまま、視線だけでこっちを見る。
「……大丈夫?」
俺が聞くと、ひよりは少しだけ眉を寄せて笑った。
「それ、今聞くの、えらいけどちょっとずるい」
「どっちだよ」
「大丈夫」
答えてから、彼女は自分で少し照れたみたいに目を伏せた。 その伏せ方が、昔みたいにただ逃げている感じではないのが分かった。恥ずかしいまま、ちゃんとここにいる。そういう顔だった。
そこから先は、ひどく静かだった。
窓ガラスに当たる雨の音が、細い線のまま続いていた。カーテンの隙間から向かいのマンションの外灯が淡く差して、ベッドの端と床に脱いだ服の影をぼんやり分けている。エアコンの風は弱く、部屋は涼しいはずなのに、近づくほど肌の表面だけが落ち着かなかった。
慣れていないことを、慣れていない二人でやるのだから、当然うまくない。途中で笑ってしまう瞬間もあるし、思ったより緊張して手が止まることもある。それでも、その不器用さを隠さなくていいのは救いだった。
ボタンを外すだけで、妙に時間がかかった。指先が思うように動かないというより、動かしてしまっていいのかを毎回どこかで確認しているのだと思う。ひよりも同じで、こちらの肩にかけた手が少し進んでは止まる。その止まり方が嫌だったわけではない。むしろ、そのためらいごと預けてもらえている感じがして、気持ちは勝手に静かになっていった。
途中で、ひよりが自分から額を俺の肩に寄せた。たぶん照れていたのだと思う。顔を見られたくないのに、離れたいわけではない、という逃げ方だった。髪が首筋に触れて、シャンプーの匂いが近くなる。その近さに慣れたつもりでいたのに、実際にはまったく慣れていなかったらしい。喉が小さく鳴って、自分でそれに気づいて、余計に恥ずかしくなる。
それでもひよりは、ときどきこちらを見た。目が合うとすぐ逸らすくせに、数秒後にはまた確認するみたいに戻ってくる。そのたび、強がりと不安と、たぶん少しの期待が同じ顔の中に並んでいた。高校のころ、冗談で全部を押し流していたときには見えなかった顔だった。
露わになる素肌を見てすぐ、色気より先に現実感が来た。白いとか細いとか、そういう雑な感想ではない。呼吸に合わせて胸元が上下するとか、鎖骨のくぼみに部屋の明かりが薄く溜まるとか、肩へ触れたときにこちらより少しだけ体温が高いとか、今まで服越しにしか知らなかった相手の輪郭が、ようやく手の中で繋がる感じだ。
見ていることが伝わりすぎたのか、ひよりは少しだけ耳まで赤くして、「あんまり真面目に見ないで」と言った。俺は謝りかけてやめた。たぶん謝る場面ではないと分かったからだ。代わりにもう一度触れると、ひよりは小さく息を吐いて、今度は逃げずに受け取った。その反応の一つひとつに、自分の方まで静かに熱くなっていくのが分かった。
ひよりは照れると冗談を言う癖がある。その夜も一度、「今のわたし、ちゃんと余裕ある女に見える?」と小さく聞いた。俺が「全然」と答えると、彼女は笑いながら「でしょうね」と返した。その一言で、張りつめていた空気が少しだけやわらいだ。初めてのことを前にしても、最後までひよりはひよりだった。
けれど、冗談を言い終えたあとに残る表情は、少しだけ無防備だった。笑っているのに、口元だけで支えている感じがある。目の方はちゃんと緊張していて、でも隠すのをやめていた。ああ、この人も今、同じくらい怖いのだと、そのときようやく実感した。
ひよりはときどき息を止める癖があって、俺はそれに気づくたび「平気?」と聞いた。聞かれるたびに彼女は「今のは平気じゃなくて、びっくりしただけ」とか「それはちょっと恥ずかしいやつ」とか、細かく言い直した。そういうやりとりが、思っていたよりずっと大事だった。
触れるたび、ひよりの肩や背中がほんの少しずつ力を抜いていくのが分かった。俺の方も、最初の緊張が消えたわけではない。ただ、相手の反応を怖がることと、相手に触れたいことが、少しずつ喧嘩しなくなっていく。知りたいことと怖いことが同じくらいだと言っていたひよりの言葉を、その夜の俺は手のひらで理解していた気がする。
ときどき、どちらからともなく止まった。止まって、少し笑う。笑ってから、またキスをする。その繰り返しが、焦らすためのものではなく、ちゃんと追いつくための時間だった。ひよりの指が俺の手首を軽くつかんで、そのまま離さない瞬間が何度かあった。進みたいのか、待ってほしいのか、最初は分からなかったけれど、どちらでもあったのだと思う。そういう曖昧さを曖昧なまま受け取れる夜だった。
そのうち、ひよりの笑い方が少し変わった。照れ隠しのための軽い笑いではなく、肩の力が抜けたあとの、小さく息が混じるような笑い方だった。そうなるまでにかかった時間ごと、今夜のことなのだと思った。
服のあいだから触れる素肌は、何か劇的なものというより、思っていたより静かな現実だった。温度があること、近いこと、もう友達でも高校生でもない距離まで来ていること。その全部を、互いにちゃんと驚きながら受け取っていく。勢いで奪うような熱ではなく、確かめるたびに深くなる熱だった。
どちらかが主導権を握るという感じでもなかった。ひよりは高校のころからそうだったように、ときどきこっちより一歩先に進む顔をする。けれど本当に大事なところでは、同じくらい迷っていた。その迷い方が、むしろきれいだった。
夜が深くなるにつれて、会話は減った。必要なことだけを短く言う。「平気」「うん」「待って」「もう少し」みたいな、普段なら何でもない言葉ばかりなのに、その夜だけはどれも重さが違った。たぶん、あんなふうに短い言葉を大事に受け取ったことは、今までなかったと思う。
だから、終わったあとに残ったのは達成感のようなものではなかった。やっとここまで来たという安堵はある。けれどそれ以上に、相手の知らなかった表情を一つ受け取ってしまったことへの静かな震えが残る。ひよりは普段、照れても笑ってごまかすのに、その夜の途中で一度だけ、笑わずにこっちを見た。その顔を、俺はたぶんずっと忘れない。
あのときのひよりの顔には、特別な言葉にできるものは何もなかった。ただ、かわいいとかきれいとか、そういう単純な語では足りない感じだけがあった。信じようとしている顔だった。自分の不安ごと預けても大丈夫か、目の前の相手をちゃんと好きでいていいか、そういうことを一度に確かめようとしている顔だった気がする。
夜がどこで途切れて、どこから朝に近づいたのか、あとから思い返してもはっきりしない。ただ、最後に並んで横になったとき、シーツの少し冷えた感触と、そこへ残っている互いの熱だけがやけに鮮明だった。ひよりは俺の肩へ額を押しつけて、何度か浅く息を整えてから、小さく笑った。その笑い方には、照れと安心と、たぶん少しの達成感が同じくらい混ざっていた。
「どうした」
「いや」
「うん」
「明日、ちゃんと来るなって思って」
その一言で、何年も前の九月が急に胸の奥でほどけた。
高校二年の俺たちは、明日のない場所で手をつなぐことしかできなかった。そこから何年もかけて、大学生になって、電車に乗って、レポートを書いて、喧嘩して仲直りして、そういう普通の時間を重ねた先で、ようやくここに来た。
明日が来る。
朝になれば講義もあるし、ひよりは一限があると言っていた。たぶん少し眠いし、気まずさも少しあるだろう。もしかすると、起きて最初に変な空気になるかもしれない。
でもそれでよかった。
消えないからだ。気まずさも、体温も、言い直した言葉も、ちゃんと明日へ持っていける。
「景太」
「ん」
「高校のときのわたしたちに言ったら、信じるかな」
「無理だろ」
「だよね」
ひよりは笑って、それから少しだけ真面目な声で続けた。
「でも、あのとき急がなくてよかった」
俺は、少し考えてからうなずいた。
「うん」
「たぶん、ほんとに」
窓の外ではまだ雨が降っていた。
俺たちはそれ以上しゃべらずに、しばらく同じ沈黙の中にいた。昔みたいに、何かを先延ばしにするための沈黙ではない。もう起きてしまったものを、静かに抱えているための沈黙だった。
それはたぶん、少し大人になったということなのだと思う。
朝、先に目が覚めたのは俺だった。
カーテンの隙間から、雨上がりの薄い光が入っていた。昨夜より少し冷えた空気の中で、ひよりは隣で眠っている。髪が頬にかかって、呼吸は深く、まつ毛の影が静かに落ちていた。夜のあいだ何度も触れた肩や指先が、朝になると急によそゆきのものみたいに見える。
変な感じだった。
抱きしめたことも、キスしたことも、その先まで進んだことも、全部ちゃんと覚えているのに、朝の光の下では一度ぜんぶ見直さなければならない気がする。高校のころ、手をつないだだけで翌朝どういう顔をすればいいのか分からなくなっていた自分を思い出した。大人になっても、根本はあまり変わらない。
起こさないようにベッドを抜け出そうとしたら、背中のあたりで布団が小さく動いた。
「……どこいくの」
眠い声で、ひよりが言う。
「起こした?」
「途中から起きてた」
彼女はそう言って、目だけ開けた。寝起きの顔は昔から少しだけ無防備で、そのくせ本人はそれをたぶん知らない。
「水」
「了解」
キッチンでコップに水を入れて戻ると、ひよりは布団を胸元まで引き上げたまま、壁に背をもたせて座っていた。白いシーツの上に落ちた髪が少し乱れていて、昨夜の続きがまだ部屋に残っている。
「ありがとう」
コップを受け取る指先が、朝のせいか少し冷たい。
ひよりは半分ほど飲んでから、コップを膝の上に置いた。そこでようやく、互いに少し気まずくなる。
「……おはよう」
俺が言うと、ひよりは吹き出した。
「いま?」
「今しかないだろ」
「たしかに」
ひよりは笑いながら、少しだけ耳を赤くした。
「おはよう」
そのたった一往復が、思っていたより救いだった。昨夜のことを、なかったことにも、過剰に特別なことにもせず、朝の会話へ繋げられる。それだけで十分だった。
「気まずい?」
ひよりが聞く。
「少し」
「正直」
「そっちは」
ひよりはコップの縁を指でなぞってから言う。
「少し恥ずかしい」
「うん」
「でも、思ってたより平気」
そこで彼女は、わずかに目を細めた。
「景太がいるからかも」
朝からそういうことを言うな、と思うのに、声にはできなかった。
「昨日」
ひよりが続ける。
「変だったらどうしようって、途中までずっと思ってた」
「俺も」
「だよね」
「でも、変ではあっただろ。かなり」
そう言うと、ひよりは肩を震わせた。
「たしかに。途中で二人とも真面目すぎたし」
「おまえが急に笑うから」
「景太の顔が真剣すぎたんだもん」
そうやって笑えることに、また少し安堵する。
ひよりはコップをテーブルに置いて、布団の端を整えた。
「ねえ」
「ん」
「わたし、昨日のこと、あとで思い出して勝手に恥ずかしくなると思う」
「俺もなる」
「でも」
ひよりは少しだけ間を置いた。
「恥ずかしいままでいいかも」
その言い方が、ひどくよかった。
気まずくないわけじゃない。余裕があるわけでもない。完璧だったわけでももちろんない。けれど、うまくいかなかった部分まで含めて、相手としか持てない記憶になっている。たぶん親密さというのは、そういうものなのだろう。
「講義、行けそう?」
俺が聞くと、ひよりは布団へ顔を半分だけ埋めた。
「一限はだいぶ無理」
「昨日あるって言ってたじゃん」
「あれは昨日のわたし」
「都合がいい」
「でも二限からは行く。たぶん」
そう言いながら、ひよりは片手を伸ばして俺の袖を軽くつかんだ。昨夜ほど強くない、起きたばかりの小さな力だった。
「あと五分」
「五分で済む?」
「保証はしない」
結局、俺はまたベッドの端に座り直した。ひよりが額をこちらの腕に軽く寄せる。夜の熱がすっかり落ちたあとの、朝のやわらかい体温だった。
外では、昨夜の雨が上がって、ベランダの手すりからぽたりぽたりと雫が落ちている。
明日が来る、と思った昨夜はもう終わっていて、今はその次の時間の中にいる。
九月十二日を何度も繰り返した高校生の俺たちが、いちばん欲しがっていたのは、たぶんこういう朝だったのかもしれない。劇的ではなく、少し眠くて、少し気まずくて、でも逃げなくていい朝。
「景太」
「ん」
「今日の点数」
寝起きの声で、ひよりが言う。
「まだ採点するのか」
「するよ」
「いくつ」
彼女は少し考えるふりをしたあと、くぐもった声で言った。
「百点満点で、九十七」
「微妙に減点されてる」
「朝の顔がちょっと情けないから」
「おまえもだろ」
「知ってる」
そしてひよりは顔を上げて、まだ少し眠そうな目で笑った。
「でも、明日も会うなら満点じゃなくていいや」
その一言で、何年も前の三十一点がようやくきれいに遠くなった気がした。