Work
2026.03.21 ・ 短編 ・ 5分
やわらかい別れ
失言を穏当な言い回しに変える翻訳機が普及した社会で、男は人間関係が円滑になったと思っていた。

翻訳機をつけてから、わたしはほとんど誰とも揉めなくなった。
親指の先ほどの白い機械を喉元に貼るだけで、失言が自動で穏当な表現に置き換わる。発売当初は冗談みたいな製品だと思っていたが、いまでは会議室でも居酒屋でも、みんな小さな白粒を喉に貼っている。
たとえば部長に、
「その日程、無茶でしょう」
と言ったつもりでも、相手には
「少し再調整できると助かります」
と届く。
母に
「その話、前も聞いた」
と返したつもりでも、
「前にも聞けてうれしかったよ」
になる。
多少、意味は変わる。だが、場は荒れない。
同僚の須田は「文明だよ、これ」と言っていた。たしかに文明だった。おかげでわたしは営業成績が上がり、母との通話時間が伸び、恋人の真由とも喧嘩をしなくなった。
「最近、やさしくなったよね」
真由はうれしそうに言った。
わたしは少し考えてから、
「機械がね」
と言った。
たぶん相手には、
「君のおかげかな」
くらいに聞こえたのだと思う。真由は照れたように笑った。
便利すぎるものは、少し気味が悪い。
そう感じたのは、須田の企画が飛んだ日だった。
提出前に資料を見せられて、わたしは思わず
「数字、穴だらけじゃないか」
と言った。須田は真顔でうなずいた。
「やばい?」
「かなり」
そう返したつもりだったが、翻訳機は勝手に、
「追加で詰める余地はありそうだね」
と整えていたらしい。
須田は安堵した顔で客先へ向かい、その日の夕方、青い顔で戻ってきた。企画はその場で切られた。
「止めてくれたと思ったんだけどな」
給湯室で紙コップを握りつぶしながら、須田は笑った。
「あれじゃ、いけるって意味だよ」
わたしは何も言えなかった。
ほんとうは言ったのだ。
ただ、届かなかっただけで。
その夜、真由と食事をした。駅前の小さなイタリアンで、真由はパスタを巻きながら、
「ねえ、いっしょに住まない?」
と軽く言った。
冗談めいた声だったが、目は冗談ではなかった。
わたしは水を飲み、時間を稼いだ。最近、真由といると息が詰まる瞬間がある。嫌いになったわけではない。ただ、どこまでが好意で、どこからが惰性なのか、自分でも分からなくなっていた。
「それは」
口を開いた瞬間、頭に浮かんだのはひどく正直な文だった。
逃げ場がなくなる感じがして、いやだ。
だが真由に届いたのは、
「生活が変わるのは、少し不安かも」
だった。
「そっか」
真由はやさしく笑った。
「でも、そういう不安もいっしょに慣れていけたらいいね」
わたしは、違う、と言いたかった。
違う。そういうきれいな話ではない。
でも、その場で喉元の白粒を剥がす勇気は出なかった。機械なしの会話は、いまでは裸で街を歩くようなものだ。なにを言い出すか、自分でも分からない。
真由はグラスの水滴を指でなぞりながら言った。
「あなたといると安心する」
その一言に、妙な寒気がした。
安心。
それは愛情より、翻訳の性能を褒める言葉に近かった。
数日後、わたしは真由を自宅に呼んだ。話を終わらせるためだった。
テーブルの向こうで、真由はケーキの箱を置いた。
「どうしたの、改まって」
わたしは喉元の機械に触れた。
「今日は、これ外して話したい」
真由の表情が、ほんの少しだけ固くなった。
「なんで?」
「ちゃんと言いたいから」
「ちゃんとって」
「丸くならない言い方で」
真由は黙った。やがて、自分の耳たぶの裏を指先で叩いた。肌色の小さな受信機がついている。
「わたしは外さないよ」
「片方だけじゃ意味がない」
「あるよ」
真由は静かに言った。
「刺さらなくなる」
部屋のエアコンが、そこで一度だけ低く鳴った。
わたしは喉の白粒を剥がした。薄い粘着が皮膚から離れる。ひどく心細かった。
「真由」
「うん」
「わたし、たぶん、もう」
声がかすれた。
「君といるのが、しんどい」
真由の受信機が小さく青く光った。
彼女は一拍置いて、ほっとしたように微笑んだ。
「そっか」
その返事に、わたしは眉をひそめた。
「少し距離を置きたい、ってことだよね」
真由は確認するみたいに、でもやさしく言った。
「大丈夫。待てるよ、それくらい」
わたしは息を止めた。
いまの言葉は、そういう意味ではない。
そう言い直そうとして、できなかった。
受信機の青い点が、真由の耳の後ろで静かに瞬いている。あれがある限り、こちらの角は削られ、温度は落とされ、切っ先だけが丁寧に抜かれて届く。
別れ話まで、失言として処理されるのだ。
「ね」
真由はケーキの箱を開けながら言った。
「こういう機械があって、ほんとによかった」
白いクリームの上で、銀のフィルムが小さく光った。
わたしは、たしかに初めて本音を言ったはずなのに、なぜか前より、ずっと訂正しにくくなっていた。