Work
2026.03.21 ・ 短編 ・ 6分
運の付け替え
その日の運を前借りできるアプリを軽い気持ちで使い始めた男は、返済の本当の意味をあとになって知る。

運を前借りできるアプリは、最初はただの小技に見えた。
名前は〈LUCK NOW〉。朝のニュースアプリにも、動画の合間にも、しつこく広告が出ていた。
「今日の運、寝かせていませんか?」
胡散臭い文句だったが、レビューは妙によかった。
わたしが入れたのは、金曜の朝だった。寝坊して、財布を忘れかけて、プレゼンの資料はまだ甘い。そういう日に限って、会議の相手は面倒な部長と決まっている。
アプリを開くと、真ん中に大きなボタンがひとつあった。
前借りする。
その下に、小さく
「返済予定は利用状況に応じて後日自動調整されます」
とだけ書いてある。
冗談みたいな気持ちで押した。
その日、駅の改札はちょうど目の前で開いた。満員電車で目の前の席が空いた。コンビニのレジはわたしの列だけ異様に早く進んだ。会議では部長の機嫌が珍しくよく、雑に作ったはずの提案がなぜか通った。帰り道、自販機の下に百円玉を見つけた。
「すご」
思わず声が出た。
その夜、友人に話すと笑われた。
「ただの偶然だろ」
でも偶然にしては出来すぎていた。
翌週、わたしはまた押した。商談の日だった。すると先方が予算を上乗せしてきた。昼に入った店では売り切れだった限定ランチがなぜか残っていた。帰宅すると、応募したのも忘れていた映画の試写会に当選していた。
画面の右上に、小さな数字が増えていく。
借入運気 2.4
単位はよく分からない。ポイントみたいで、たいして気にならなかった。
そのうち、押す理由を探すようになった。
打ち合わせの日。 デートの日。 ガチャを回す日。 なんでもない月曜。
押すとだいたいうまくいく。信号は青になり、面倒な電話はかかってこず、微妙な抽選には受かり、欲しかったスニーカーはなぜかわたしのサイズだけ残る。
運は、思っていたより細かく生活に効いた。
手放せなくなるのに時間はかからなかった。
返済が始まったのは、二か月ほど経ってからだった。
最初は軽かった。イヤホンをなくす。シャツにコーヒーをこぼす。乗り換えのタイミングだけ妙に悪い。スーパーでレジに並ぶ列を毎回外す。そういう、話せば笑い話になる程度の不運だった。
「来てるな」
わたしは少し面白がっていた。返済といっても、その程度なら安い。前借りした日のツキのよさを思えば、十分に得だ。
だが、じわじわ嫌な感じになっていった。
同僚のミスに巻き込まれて残業が増える。 予約したはずのホテルで手違いが出る。 久しぶりに会うはずだった友人が、当日に熱を出す。
どれも致命的ではない。だが、何か大きな幸運が来る寸前で、少しだけ横にずれる感じが続いた。
ある日、元同僚の結婚式の二次会で、くじ引き大会があった。一等は旅行券。わたしは、これくらい今の自分には来るかもしれないと思った。ところが番号を呼ばれたのは、わたしの一つ前の席の男だった。
そのとき、妙に引っかかった。
惜しかった、ではない。
もともと自分に来るはずだったものを、誰かが横から持っていったような感覚だった。
帰ってアプリを開く。
借入運気 11.8 返済進行率 63%
下に、これまで見たことのない説明が出ていた。
「返済期間中は、将来分配予定だった僥倖の受領機会が調整される場合があります」
わたしはしばらく、その文の意味を読めなかった。
僥倖。 受領機会。
ようするに、あとから不運になるのではない。
先に受け取った分、未来で本来もらえたはずの運を、受け取れなくなるのだ。
ぞっとした。
なくし物や遅延は、おまけだったのかもしれない。本体は別にある。あのとき当たったかもしれない旅行券。会えたかもしれない友人。間に合ったかもしれない電車。採用されたかもしれない企画。付き合えたかもしれない誰か。
失ったことにすら気づかないまま、受け取り損ねていく幸運。
そのほうが、ずっと大きい。
わたしは慌ててアプリを消した。だが、再インストール不可の表示が出るだけだった。契約終了は返済完了後に限る、とある。
そこからは、押していないのに気になった。
この面接は、本来なら通っていたのではないか。 あの人の返事は、もう少し違ったのではないか。 雨で中止になった約束も、前借りの返済なのか。
考えはじめると際限がない。
運を前借りしたせいで、いま起きていることだけでなく、起きなかったことまで気になるようになった。
それがいちばん厄介だった。
数週間後、返済進行率は九八パーセントまで来た。もうほとんど終わる。そう思った日に、母から電話があった。
「おまえ、今日ひま?」
珍しいことだった。出ると、母は少し照れた声で言った。
「近くまで来ててね。たまには飯でもどうかと思ったんだけど」
わたしは会社の出口にいた。今日は取引先との会食がある。正直、面倒だった。母とはいつでも会えると思った。
「ごめん、今日ちょっと無理」
「そう」
母はすぐに引いた。
「じゃあまた今度ね」
切ったあと、なぜか嫌な感じが残った。だが会食はうまくいき、先方の感触も悪くなかった。帰宅してからアプリを見ると、返済進行率が一〇〇になっていた。
完了通知は拍子抜けするほど簡単だった。
「ご利用ありがとうございました。本日をもって運気返済が終了しました」
それだけ。
翌朝、妹から連絡が来た。
「昨日、母さん倒れた」
文字を読んだ瞬間、頭のなかが妙に静かになった。重症ではない、処置は早かった、命に別状はない。そう続けて書いてある。
病院へ向かう電車の窓に、自分の顔がぼんやり映っていた。
昨日、母と食事に行けた世界があったのかどうかは、もう分からない。
ただ一つ分かったのは、前借りした運の返済は、不運になることではないということだ。
あとから来るはずだった「その日」を、先に売ってしまうのだ。