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2026.03.10長編 ・ 65分

虚ろの巨神

人類存亡の危機に、人形の巨大ロボット――巨神に乗ることを強いられた少年。殺戮と恐怖のなかで、彼は恋に落ち、力に溺れ、自分自身を見失っていく。

虚ろの巨神

01

第一章 起動

目を覚ましたとき、僕は巨人の心臓の中にいた。


 最初の怪獣が現れたのは、僕が十五歳の夏だった。

 東京湾の沖合に、それは浮上した。全長百二十メートル。六本の脚。頭部のない胴体に、無数の眼球がぬめりを帯びて並んでいる。テレビの画面越しでさえ、見た人間の本能が一斉に警鐘を鳴らすような、圧倒的な「異物」だった。

 自衛隊が出動した。戦車が並び、戦闘機が飛んだ。ミサイルが着弾するたびに黒い肉片が飛び散ったが、怪獣は止まらなかった。都心に上陸し、ビルを薙ぎ倒し、三日間で東京の東半分を瓦礫に変えた。

 あの日、僕は母と一緒に避難所にいた。体育館の硬い床の上で、毛布にくるまりながら、スマートフォンの画面で見た。自分が通っていた中学校が、怪獣の脚に踏み潰される映像を。

 母の手が震えていた。僕は自分が震えていないことに気づいて、それが怖かった。

 怪獣は「蝕獣」と呼ばれるようになった。

 一体目が海に帰ったあと、世界中で次々と現れた。サンフランシスコ。シドニー。ロンドン。ムンバイ。どれも形が違い、大きさも違ったが、共通点がひとつだけあった。

 通常兵器では、殺せない。

 人類が追い詰められていく二年間を、僕は何もせずに眺めていた。避難先の神奈川で転校し、仮設住宅で母と暮らし、学校に通い、教室の窓から空を見ていた。

 いつか、あの空から何かが降ってくるのだろうか。それとも海から。地底から。

 十七歳になった四月のことだった。

 教室に、黒い制服の大人たちが入ってきた。

「桐生蒼くん」

 呼ばれて顔を上げると、短い髪の女性が立っていた。鋭い目。整った顔立ち。軍服の襟元に、銀色の徽章が光っている。

「国連蝕獣対策機構――UNEXの神崎冴子です。少しお話があります」

 教室中の視線が僕に集まった。隣の席の椎名彩音が、不安そうな目でこちらを見ているのが、視界の端に映った。

 僕は、立ち上がった。


02

第二章 選定

連れていかれたのは、神奈川の郊外に建設された巨大な地下施設だった。

 リニアモーターのカートに乗せられ、何層もの隔壁を抜け、最深部に降りたとき、僕は言葉を失った。

 格納庫だった。

 天井が見えないほど高い空間の中央に、それが立っていた。

 全高六十メートル。人間の形をしている。頭があり、胴体があり、腕が二本、脚が二本。だが、金属の表面は有機的な曲線を描いていて、関節の隙間からは赤黒い光が脈動するように明滅していた。

 人形。巨大な、人形。

「これが巨神――"ゴッドフレーム"です」

 神崎が隣で言った。

「蝕獣の死骸から採取した組織を元に、七年がかりで建造しました。装甲は蝕獣の外殻と同じ物質で構成されており、通常兵器が効かない蝕獣に対して、唯一物理的に対抗できる兵器です」 「……なんで、僕に見せるんですか」

 声が震えていた。格納庫の空気は冷たく、消毒液に似た匂いがした。

「巨神は通常のコンピュータでは制御できません。操縦者の神経系に直接接続し、脳波で駆動します。そのためには、特定の脳波パターンを持つ人間が必要です」

 神崎は僕を見た。切れ長の目が、光の加減で冷たく光る。

「世界中の十代の脳波をスクリーニングした結果、適合者は四人だけでした。桐生くん、あなたはそのうちの一人です」

 僕は巨神を見上げた。

 六十メートルの巨体が、格納庫の照明を浴びて影を落としている。その影の中に立つ自分が、ひどく小さく感じられた。

「乗れと言っているんですか」 「お願いしています」 「断ったら」 「他の適合者に打診します。ただし、時間はありません」

 神崎の声は穏やかだったが、その穏やかさの裏に、断る余地を与えない圧力があった。

「次の蝕獣は、三週間以内に出現すると予測されています。出現地点は、太平洋側の沿岸都市。仮設住宅の多くが、被害範囲に入る可能性があります」

 母の顔が浮かんだ。仮設住宅の狭いキッチンで、僕のために味噌汁を作っている背中。

「僕が乗れば、止められるんですか」 「分かりません」

 神崎は正直だった。

「ただ、乗らなければ、確実に止められません」

 僕は巨神を見上げた。その顔面部は平坦で、のっぺらぼうのように何もなかった。目も口もない。人間の形をしているのに、人間ではないもの。

 虚ろな巨神。

「……乗ります」

 僕の声は、格納庫の天井に吸い込まれて消えた。


03

第三章 接続

神経接続の訓練は、地獄だった。

 操縦席――「揺籃」と呼ばれるコクピットは、巨神の胸部にあった。パイロットは半裸で専用のスーツに身を包み、粘液状の伝導体で満たされたカプセルに沈む。脊髄から後頭部にかけて、極細のワイヤーが接続され、巨神の人工神経系と操縦者の中枢神経がリンクされる。

 最初の接続テストで、僕は三十秒で意識を失った。

 目覚めたのは医務室のベッドの上だった。頭が割れるように痛い。鼻血が乾いた跡がシーツについていた。

「脳波の同期率は十七パーセント。最低稼働ラインは四十パーセントです」

 技術主任の遠野が、データパッドを見ながら言った。白衣の小柄な男で、目の下に濃い隈がある。

「いきなり四十は無理ですか」 「無理です。巨神の感覚情報が一度に流れ込むため、脳が処理しきれないのです。人間の脳は、身長百七十センチの身体を動かすようにできている。六十メートルの身体の情報は、文字通り桁が違う」

 訓練は毎日行われた。接続時間を少しずつ延ばし、同期率を上げていく。

 同期率が三十パーセントを超えた日、僕は初めて巨神の「感覚」を知った。

 格納庫の床を踏む足の裏の圧力。天井に当たる頭頂部の近さ。腕を動かしたとき、装甲の下で筋繊維に似た人工筋肉が収縮する感触。

 そして、胸の中に何かがいる感覚。

 小さな、温かいもの。

 それが自分自身だと気づくまでに、数秒かかった。巨神の感覚器からすれば、操縦者は胸の中の小さな塊にすぎない。心臓のように拍動する、ちっぽけな存在。

 僕は巨神の中から、自分自身を「見下ろして」いた。

 その感覚が、ひどく怖くて、同時に――甘美だった。


04

第四章 彩音

訓練の合間に、週に三日だけ学校に通うことを許された。

 カバーストーリーは「家庭の事情による短期転居」。クラスメイトは誰も疑わなかった。世の中が混乱しているせいで、転校や欠席は珍しくない。

 椎名彩音は、僕の隣の席だった。

 黒髪のセミロング。色の白い肌。制服のリボンをいつもきっちり結んでいる、真面目な女の子。僕が転校してきた最初の日に、学校の案内をしてくれたのが彼女だった。

「桐生くん、最近休みがち?」

 久しぶりに登校した日、彩音が声をかけてきた。昼休み、教室の窓際で弁当を開いていたときだった。

「ちょっと色々あって」 「大丈夫? 体調悪いなら、ノート貸すよ」 「ありがとう。大丈夫」

 大丈夫ではなかった。昨日の訓練で同期率が三十五パーセントに達したとき、巨神の視界が一瞬だけ開いた。格納庫の壁が透けて見えた。地上の景色が見えた。空が見えた。

 六十メートルの高さから見る空は、手が届きそうなほど近かった。

 その感覚がまだ残っていて、教室の天井が異様に低く感じられた。圧迫感。閉塞感。自分の身体が、この教室に収まりきらないような錯覚。

「ねえ、桐生くん」

 彩音の声で、僕は意識を引き戻された。

「なに」 「なんか、目が変わった」 「え」 「前はもっと、ぼんやりしてたのに。今は、なんだろう……遠くを見てる感じ」

 僕は彩音を見た。彼女の目は、どこまでも近い距離にあった。巨神の感覚に慣れた僕の目には、彼女の瞳の中の虹彩まではっきり見える気がした。

「気のせいだよ」

 嘘をついた。

 彩音は少し首を傾げたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、自分の弁当から卵焼きをひとつ取り、僕の弁当箱に入れた。

「食べて。痩せたでしょ」

 その仕草があまりに自然で、僕は礼を言うタイミングを逃した。卵焼きは、ほんのり甘くて、少しだけしょっぱかった。

 訓練と戦争の匂いの中で、その甘さだけが、人間の世界に繋がっているような気がした。


05

第五章 漣

もう一人の適合者が、施設に来た。

 氷室漣。十八歳。長身で、前髪の長い銀髪。切り揃えた短い後ろ髪の上に、前髪だけが目を隠すように垂れている。

 僕よりも先に、別の施設で訓練を積んでいたらしい。同期率はすでに五十パーセントを超えていると聞いた。

「桐生蒼。十七歳」

 自己紹介をすると、氷室は僕を一瞥しただけで、何も返さなかった。

「氷室くんは、二号機のパイロットです」

 神崎が説明した。格納庫には、いつの間にかもう一体の巨神が並んでいた。零号機よりも細身で、四肢が長く、頭部に角のような突起がある。

「二人で連携して蝕獣に当たります。桐生くんが前衛、氷室くんが後衛。基本フォーメーションはこれで」 「なんで僕が前衛なんですか」

 当然の疑問だった。氷室のほうが同期率も経験も上だ。

「零号機の装甲が厚いからです。物理的な理由」

 神崎はそう言ったが、氷室が鼻で笑ったのが聞こえた。

「要するに、盾ってことだろ」

 氷室の声は低く、平坦だった。

「おい、新人。死ぬなよ。盾が壊れると後衛が困る」

 僕は何も言えなかった。拳を握りしめただけだった。

 夕食のカフェテリアで、氷室と二人きりになった。

 彼は窓際の席に座り、トレイの食事にほとんど手をつけていなかった。窓の外は地下施設の壁だが、人工的な空のホログラムが映し出されていて、オレンジ色の夕焼けが偽物の光を落としている。

「氷室さん」 「さん付けはいい。漣でいい」 「……漣は、なんで乗ったの」

 氷室は偽物の夕焼けを見たまま答えた。

「家族が死んだ。蝕獣に。だから殺す。それだけだ」

 シンプルな動機だった。復讐。僕にはそれがなかった。母は生きている。家族を失ったわけではない。僕が乗ったのは、「乗らなければ他の誰かが死ぬ」と言われたからで、自分自身の怒りではなかった。

「お前は、なんで乗った」

 氷室が訊いた。

「……分からない」

 正直に答えた。

「断れなかった、が正しいかもしれない」

 氷室は一瞬だけ僕を見た。その目に、軽蔑ではなく、どこか痛みに似たものが浮かんでいた。

「それでいい。理由がないやつのほうが、長く乗れる。理由があるやつは、理由を果たした瞬間に壊れるから」

 その言葉の意味が分かるのは、もう少し先のことだった。


06

第六章 初陣

五月の第二週。蝕獣警報が鳴った。

 施設が赤い警告灯で満たされ、通路を走る軍靴の音が響く。僕はロッカールームでスーツに着替えながら、自分の手が震えているのを見た。

「同期率は三十八パーセント。最低稼働ラインには届いていないが、実戦投入する」

 神崎の声がインカムから聞こえた。

「なんでですか。まだ」 「蝕獣の出現予測地点が、横須賀です。避難は間に合わない。三十八パーセントでも、出てもらうしかない」

 揺籃に沈んだ。伝導液が肌を包み、ワイヤーが脊椎に接続される痛みに歯を食いしばった。

 視界が切り替わった。

 格納庫の天井。射出口のハッチが開いていく。空が見えた。灰色の曇り空。五月の湿った風が、巨神の表面センサーを通じて肌に感じられた。

「零号機、カタパルト射出。横須賀港へ向かえ」

 背中を巨大な力が押した。カタパルトが巨神を空中に放り出し、僕は六十メートルの巨体で空を飛んだ。落下する。海面が迫る。着水の衝撃で視界が白くなり、腰まで海に沈んだ状態で体勢を立て直した。

 そこに、いた。

 蝕獣。

 全長九十メートル。蛇のような胴体に、腕が六本生えている。頭部に当たる部分には、巨大な口だけがあった。歯ではなく、無数の管状の突起が口腔内に蠢いている。

 気持ちが悪い、と思うより先に、身体が反応した。恐怖ではなかった。嫌悪でもなかった。

 巨神の神経系が、僕の感情を増幅している。六十メートルの巨体が感じる原始的な本能。目の前の生物は敵だ。排除しなければならない。

 それは僕自身の感情なのか、巨神の回路が生み出したものなのか、区別がつかなかった。

「漣は」 「二号機は三分後に到着する。それまで持ちこたえろ」

 神崎の指示が聞こえた瞬間、蝕獣が突進してきた。

 六本の腕が巨神の胴体を掴んだ。装甲が軋む。警告音が鳴り響く。管状の突起が、巨神の首の関節に潜り込もうとしている。

 僕は叫んだ。

 巨神の右腕を振り上げ、蝕獣の胴体に叩きつけた。拳が肉を抉り、黒い体液が飛び散った。衝撃が右腕から肩を通って脳に跳ね返り、視界が明滅した。

 二発、三発。殴るたびに、蝕獣の身体が千切れ、黒い血が海面を染めていく。

 気づいたら、僕は笑っていた。

 怖いのに。気持ち悪いのに。吐きそうなのに。身体の奥底から、暗い興奮が湧き上がっていた。

 巨大な力で、生き物を壊している。その手応えが、快感に似ていた。

 蝕獣が動きを止めた。

 二号機が到着したとき、すべては終わっていた。氷室は巨神の中から、零号機の姿を見ていたはずだ。黒い血にまみれ、海の中に立つ、虚ろな巨神を。

「……ひとりでやったのか」

 氷室の声が通信に乗った。驚きが混じっている。

「やった」

 僕の声は、自分のものとは思えないくらい、平坦だった。

 揺籃の中で、僕は自分の手を見た。震えていない。初陣で、手が震えていない。

 それが、怖かった。


07

第七章 残響

初陣から三日後、僕は学校に行った。

 教室の中は、以前と同じだった。黒板の日付。窓から差す光。休み時間の雑談。何も変わっていない。変わったのは、僕のほうだった。

 クラスメイトの声が、やけに小さく聞こえた。教室の壁が近い。天井が低い。自分の身体が、この空間にうまく収まっていない感覚が、いつまでも抜けない。

 三日前、僕はこの手で生き物を殺した。

 正確には、巨神の手で。けれど神経接続された僕の脳は、あの感触を「自分の手」として記憶していた。肉を潰す感触。骨が砕ける振動。黒い血が手のひらを伝う温度。

 昼休み、トイレの個室で吐いた。胃液しか出なかった。壁に額を押し当てて、しばらく動けなかった。

「桐生くん?」

 教室に戻ると、彩音が心配そうな顔で立っていた。

「顔色悪いよ。保健室行く?」 「大丈夫。ちょっと寝不足で」 「……嘘。ここのところ、ずっと嘘ばっかり」

 彩音の声に、初めて鋭さが混じった。僕は言葉に詰まった。

「言えないこともあるよ」 「分かってる。でも、嘘つくのと言わないのは違うでしょ」

 その通りだった。僕は彩音に、ずっと嘘をついていた。家庭の事情、体調不良、そんな嘘で自分の不在を取り繕っていた。

「ごめん」 「謝らなくていい。ただ……」

 彩音は僕の顔を見た。近い距離。教室の蛍光灯の下で、彼女の瞳が透けるように明るい。

「無理しないでね」

 その言葉が、巨神の揺籃の中では絶対に聞けない種類の温かさで、僕の胸を刺した。

 彩音の手が、僕の袖に触れた。指先が、手首のあたりをそっと掴む。

 巨神の感覚器は、蝕獣の体温を零コンマ一度の精度で感知できた。けれど今、彩音の指先から伝わる温度のほうが、ずっと鮮明だった。

「……ありがとう」

 僕は彩音の手を、そっと握り返した。小さくて、柔らかくて、温かい手だった。


08

第八章 誘い

戦闘が増えた。

 五月から六月にかけて、四体の蝕獣が出現した。そのたびに僕と漣は巨神に乗り、海で、陸で、蝕獣と戦った。

 同期率は上がり続けた。四十、四十五、五十。数値が上がるたびに、巨神の感覚はより鮮明になり、動きはより滑らかになった。

 同時に、人間の身体に戻ったときの違和感も強くなった。

 自分の手が小さすぎる。歩幅が短すぎる。視点が低すぎる。十七歳の身体が、窮屈な衣服のように感じられる。巨神の六十メートルの身体を知ってしまった脳が、人間のスケールに戻ることを拒んでいる。

 遠野がデータを見ながら言った。

「神経の可塑性による適応です。巨神の感覚を脳が『本来の身体』として認識し始めている。危険な兆候です」 「危険?」 「最悪の場合、人間の身体に戻れなくなる。巨神の外では生きられなくなるということです」

 僕は自分の手を見た。十七歳の、普通の手。この手で蝕獣を殴ったことはない。巨神の手で殴った。でも脳は、この手で殴ったと記憶している。

 ある夜、訓練が終わって格納庫を出ようとしたとき、神崎に呼び止められた。

「桐生くん、少し話せますか」

 神崎の執務室は、地下施設にしては広かった。壁に世界地図が投影されていて、蝕獣の出現記録が赤い点で示されている。点は増え続けていた。

「コーヒー、飲みます?」

 神崎はマグカップを差し出した。初めて見る、彼女の柔らかい表情だった。

「あの、神崎さん」 「冴子でいいですよ。ここでは」

 僕はコーヒーを受け取った。苦い。

「桐生くん――蒼くんは、よくやっています。正直、予想以上です」 「そうですか」 「初陣で単独撃破。同期率の上昇速度も、氷室くんを上回っています」

 神崎は――冴子は、デスクの前に腰を下ろした。制服のボタンがひとつ外れていて、鎖骨の線が見えた。

「だからこそ、心配しています」 「何を」 「あなたの精神状態を。戦闘中の脳波パターンに、攻撃性の異常な高まりが見られます」

 僕は黙った。

「蒼くん。あなたは戦闘を楽しんでいませんか?」

 楽しんでいる。

 その言葉を否定できなかった。蝕獣を殴るとき、身体の奥から湧き上がる暗い歓び。巨大な力で、すべてを破壊できるという全能感。それは恐怖と表裏一体で、僕の中で溶け合っている。

「……少し」

 正直に答えた。

 冴子は立ち上がり、僕のそばに来た。コーヒーの湯気が、二人のあいだで揺れた。

「それは自然な反応です。巨神の神経回路には、操縦者の闘争本能を増幅する機能がある。蝕獣と戦うために必要な設計です。でも、それに飲まれてはいけない」

 彼女の手が、僕の肩に置かれた。

「あなたはまだ十七歳です。大人が、あなたの代わりに背負うべき荷物を、押し付けています。それは分かっています」

 冴子の目が、近くにあった。軍人の鋭さの奥に、違う色がある。同情ではない。もっと複雑なもの。

「辛くなったら、いつでも来てください。ここに」

 僕は頷いた。

 執務室を出て、薄暗い通路を歩きながら、肩に残る彼女の手の温度を感じていた。

 彩音の温かさとは違う。大人の手。命令する手。けれど今夜は、包み込むような柔らかさがあった。

 僕は十七歳で、この施設には同年代がほとんどいなくて、戦いの恐怖と興奮を誰にも話せなかった。そこに差し出された温もりは、どんな形をしていても、甘く感じられた。

 それが危険だと、頭の片隅では分かっていた。


09

第九章 日常の裂け目

六月の終わり。梅雨の東京は蒸し暑く、仮設住宅のエアコンは旧式で、夜になっても部屋が冷えなかった。

 母が僕の部屋に麦茶を持ってきた。

「蒼、ちゃんと食べてる? また痩せたでしょ」 「食べてるよ」 「嘘ばっかり」

 彩音と同じことを言う。僕の嘘は、誰にでも見抜かれるらしい。

 母は僕の隣に座った。畳の上。小さな扇風機が首を振っている。

「学校の友達と、うまくやれてる?」 「うん」 「……蒼。あのね。母さん、何も知らないわけじゃないの」

 心臓が跳ねた。

「え」 「あの人たち……UNEXの人が来たこと。蒼が何かに関わっているらしいこと。詳しくは教えてもらえなかったけど」

 母の手が、僕の手を握った。小さな手。働きすぎて荒れた指先。

「母さんは、蒼に生きてほしいだけ。何をしていても、どこにいても。生きて帰ってきてくれれば、それでいい」

 僕は何も言えなかった。

 この手を守るために巨神に乗った。けれど巨神に乗るたびに、この手の温かさを忘れていく。六十メートルの感覚に慣れた脳は、母の小さな手を正しく受け取れなくなっている。

「帰ってくるよ」

 そう言ったとき、自分の声がひどく空洞に聞こえた。


10

第十章 加速

七月。蝕獣の出現頻度が上がった。

 週に一度だったものが、三日に一度になった。僕と漣は交代で出撃し、休む間もなく戦い続けた。

 同期率は六十パーセントを超えた。巨神の動きは、もはや自分の身体そのものだった。拳を握れば装甲の指が閉じ、走れば大地が震え、叫べば外部スピーカーが咆哮を大気に叩きつける。

 蝕獣を倒す手際は上がった。初陣では必死だった戦闘が、効率的になっていく。弱点の位置、攻撃のタイミング、離脱の角度。すべてが計算できるようになった。

 けれど、戦闘後の反動も増していった。

 揺籃から出たあと、人間の身体に戻る過程で、激しい吐き気と頭痛に襲われる。視界がぐらつき、平衡感覚が狂い、まっすぐ歩けない。自分が何メートルの身長なのか分からなくなる。

 ある夜、格納庫の床で立てなくなった。

 四つん這いのまま、冷たい金属の床に額を押し当てていると、足音が聞こえた。

 漣だった。

「大丈夫か」

 意外にも、声は穏やかだった。

「……大丈夫じゃない」 「だろうな。同期率六十超えたら、離脱が辛くなる。俺もそうだった」

 漣は僕の横に座った。格納庫の照明が落とされた夜間、巨神たちの巨体がシルエットになって並んでいる。

「コツがある。離脱するとき、何か人間のものを思い浮かべろ。匂いとか、味とか。巨神の感覚にはないものを」 「例えば」 「俺は、母さんの煮物の匂いを思い出す。……もう食えないけどな」

 漣が自分の過去を語ったのは、初めてだった。

「家族は」 「両親と妹。三人とも、二年前のサンフランシスコで」

 僕は何も言えなかった。漣は続けた。

「乗った理由は復讐だって言っただろ。でも最近、それだけじゃなくなってきた」 「どういう意味」 「蝕獣を殺すのが、気持ちいいと感じるようになった」

 暗闇の中で、漣の目が光った。

「これは巨神のせいなのか、俺自身なのか。分からなくなってきた」

 僕は漣の横顔を見た。銀色の前髪の隙間から見える目は、怒りではなく、恐怖に満ちていた。

 同じだ、と思った。僕たちは同じ場所に立っている。巨大な力を与えられ、それに呑まれかけている。

「漣」 「なんだ」 「僕も、同じだよ」

 漣は少しだけ笑った。初めて見る笑顔だった。

「じゃあ、お互い気をつけような。人間でいることに」


11

第十一章 接近

学校に戻れる日が減っていた。週三日が二日に、二日が一日になった。

 たまに登校すると、彩音がいつも待っていた。ノートのコピーと、手作りの弁当を持って。

「また痩せた」 「そればっかり」 「だって事実だもん」

 七月の昼休み、屋上で二人きりで弁当を食べた。彩音の弁当は品数が多くて、彩りがきれいだった。卵焼き、ほうれん草のおひたし、鶏の唐揚げ、ミニトマト。

「料理うまいね、椎名さん」 「彩音でいいよ」 「え」 「苗字で呼ばれると距離感ない?」 「……彩音」

 名前を呼ぶと、彩音は少しだけ耳を赤くした。

「なに照れてるの」 「照れてないし。桐生くんのほうが照れてるでしょ」 「……否定しない」

 屋上のフェンス越しに、神奈川の街並みが見える。仮設住宅の白い屋根。その向こうに、東京湾。僕が蝕獣と戦った海だ。

「ねえ、桐生くん……蒼くん」 「うん」 「蒼くんが何してるのか、わたし知らない。でも、知らなくてもいい。ただ、一つだけ約束して」 「なに」 「学校に戻ってきて。ちゃんと」

 彩音は僕を見つめた。風が彼女の髪を揺らして、サイドの髪が頬にかかった。

 僕は手を伸ばして、その髪を耳の後ろに戻した。

 自分で驚いた。こんなことをする自分を知らなかった。

 彩音は目を見開いて、動かなかった。指先が彼女の頬に触れた一瞬、肌の温度を感じた。柔らかくて、少し日に焼けた頬。

「……戻ってくるよ」

 今度は、空洞じゃない声で言えた気がした。

 彩音が笑った。照れと安堵の混じった笑顔。それが眩しくて、僕は巨神のことを忘れた。ほんの数秒だけ。

 でもその数秒が、途方もなく貴重だった。


12

第十二章 夜の翳り

七月の末。大規模な蝕獣が太平洋で発生した。全長二百メートル超。過去最大だった。

 零号機と二号機で出撃した。戦闘は六時間に及んだ。蝕獣は何度叩いても立ち上がり、触手のような器官で零号機の腕を引き千切ろうとした。左腕の装甲が半壊し、人工筋肉が露出したとき、僕の左腕にも灼けるような痛みが走った。

 同期率が高すぎる。巨神のダメージが、直接身体に返ってくる。

 最終的に漣が背後から蝕獣の核を貫き、戦闘は終わった。

 格納庫に戻って揺籃から引き上げられたとき、僕の左腕は痣だらけだった。実際にはどこも打っていないのに。巨神の損傷が、神経を通じて肉体に転写されていた。

 医務室のベッドで点滴を受けながら、天井を見ていた。白い天井。低い天井。人間サイズの天井。

 ドアが開いて、冴子が入ってきた。

「怪我は」 「身体的には問題ないと。神経の転写痕だから、痣は消えるらしいです」

 冴子はベッドの横に椅子を引いて座った。制服ではなく、白いブラウスにスラックス。勤務時間外なのだろう。

「蒼くん」

 名前で呼ばれるのに、まだ慣れていなかった。

「今日の戦闘データを見ました。同期率が戦闘中に七十二パーセントまで上がっている。これは危険水域です」 「分かってます」 「分かっているなら、制御してください。同期率は上げれば上げるほど強くなりますが、人間に戻るのが難しくなる」

 冴子は僕の左腕を見た。紫色の痣が、肘の内側から手首にかけて広がっている。

「見せて」

 冴子の指が、痣の上を辿った。指先が軽く触れただけなのに、肌がひりりとした。痛みなのか、それ以外の何かなのか、分からなかった。

「痛い?」 「少し」 「ごめんなさい」

 冴子は手を離さなかった。僕の手首を、そっと持ったまま。

「蒼くん。あなたには、帰る場所が必要です。巨神の外に」 「帰る場所」 「ここでもいい。学校でもいい。誰かのそばでもいい。自分が人間だと思い出せる場所が」

 冴子の目が、暗い。深い。大人の女の目だった。

 僕は十七歳で、この人は三十代で、その距離がとても遠いはずなのに、今夜は近い。

「冴子さん」 「はい」 「冴子さんは、帰る場所あるんですか」

 冴子は少しだけ笑った。寂しい笑い方だった。

「ないかもしれない」 「……」 「だからかもしれません。あなたには、あってほしい」

 その言葉が優しすぎて、僕は目をそらした。

 冴子の手が僕の手首を離したとき、そこだけが冷たくなった。


13

第十三章 均衡

八月。

 蝕獣の出現が一時的に止まった。嵐の前の静けさだと、誰もが分かっていた。

 束の間の休息を使って、僕は学校に通った。夏休みだったが、補習があった。教室はエアコンが効いていて、蝉の声が窓の外から聞こえる。平和な音だった。

 彩音と一緒に補習を受けた。数学の問題を解きながら、たまに彼女の横顔を見た。シャープペンシルを動かす指先。考え込むときに唇を少し尖らせる癖。首筋に浮かぶ汗の粒。

 巨神の感覚器なら、この距離でも彼女の体温を測定できるだろう。心拍数を推定できるだろう。けれど今の僕は十七歳の身体で、ただ隣にいるだけだ。

 それが、たまらなく嬉しかった。

「ねえ」

 補習が終わって、帰り道。蝉の声が降り注ぐ坂道を並んで歩いているとき、彩音が言った。

「花火大会、行かない?」 「花火」 「来週の土曜日。港のやつ」 「……行ける、かな」

 蝕獣がいつ出るか分からない。約束はできない。でも。

「行きたい」

 僕は言った。

 彩音は笑った。太陽の下で、まっすぐに笑った。

「じゃあ約束ね」

 約束。

 僕が今この世界でできる約束なんて、どれだけ脆いものだろう。明日にでも蝕獣警報が鳴れば、僕は巨神に乗って戦場に行かなければならない。花火どころではない。

 でも、脆いと分かっていても、約束したかった。この子との、人間としての約束。

「うん。約束」

 小指を差し出された。僕は自分の小指を絡めた。

 指切り。子どもみたいだ。でも僕は子どもだ。十七歳の、子ども。巨神に乗って怪物を殺す子どもだけれど、それでも、花火の約束をする子どもだ。

 帰り道、彩音の後ろ姿を見送りながら、僕は初めて気づいた。

 この子のことが、好きだ。

 当たり前のように、そこにあった感情。いつからあったのか分からない。たぶん、最初からだ。


14

第十四章 花火

花火大会の日は、奇跡的に蝕獣警報が鳴らなかった。

 彩音は浴衣を着ていた。紺地に白い花柄。髪を少しだけ上げていて、うなじが見えた。僕は制服のシャツにジーンズという格好で、彩音を見た瞬間、自分がもっとちゃんとした服を着てくればよかったと思った。

「似合ってる」 「ほんと? 着慣れてないから変じゃない?」 「変じゃない。すごく、きれい」

 言ってから、自分で照れた。彩音も赤くなって、扇子で顔を隠した。

 港の堤防に並んで座った。人混みの端っこ。足元に波が寄せている。夏の夜の空気は湿っていて、潮の匂いがした。

 花火が上がった。

 腹の底に響く低い音。光の花が夜空に咲いて、散る。赤、青、金。破片が落ちてきて、闇に溶ける。

 僕は花火を見ながら、ある違和感に気づいた。

 音が、小さい。

 巨神の聴覚に慣れた脳が、人間の耳で聞く花火の音を「物足りない」と感じている。巨神なら、花火の火薬が燃焼する化学反応まで感知できるだろう。空気の振動のひとつひとつを、全身で受け止められるだろう。

 違う。今は人間だ。十七歳の、普通の耳で聞け。

「きれいだね」

 彩音がつぶやいた。

「うん」

 彩音を見た。花火の光が、彼女の顔を照らしている。赤く、青く、金色に。目の中に花火の光が映って、まるで彼女自身が光っているみたいだった。

「蒼くん」 「うん」 「手、つないでいい?」

 僕は何も言わずに、彩音の手を取った。

 小さい手だった。汗で少し湿っている。でも温かい。生きている温度。人間の温度。

 花火が特大の一発を打ち上げた。夜空が一瞬昼間のように明るくなり、彩音の顔がくっきりと見えた。

「蒼くん」 「うん」 「好き」

 花火の音で、周りには聞こえなかったと思う。でも僕には聞こえた。はっきりと。

「……僕も」

 花火の光の中で、彩音が微笑んだ。涙が少し浮かんでいた。

 僕はその涙を、巨神の手ではなく、自分の指で拭った。

 巨大なものを壊す手ではなくて、小さなものに触れる手。今夜だけは、そっちの手でいたかった。


15

第十五章 侵蝕

八月の終わり、蝕獣が三体同時に出現した。

 東京湾。相模湾。そして、房総半島沖。三方向からの同時攻撃。史上初の事態だった。

 僕と漣は二手に分かれた。僕が東京湾、漣が相模湾。房総沖の一体には、急遽覚醒させた三号機――まだ調整中の機体に、新たに見つかった適合者が搭乗することになった。

 東京湾の蝕獣は、飛行能力を持っていた。翼のような器官を広げて空中を旋回し、口腔から高熱の液体を噴射してくる。零号機の装甲がみるみる溶けていった。

「同期率を上げる。七十五パーセントまで」 「危険です。限界は」 「上げろ!」

 怒鳴った。遠野が何か言ったが、僕の耳には入らなかった。

 同期率が跳ね上がった。世界が変わった。

 視界が三百六十度に広がった。蝕獣の翼の筋繊維の収縮パターンが見えた。次の動きが読めた。風の流れ。空気の温度差。すべてが情報として脳に流れ込んでくる。

 僕は飛んだ。

 零号機のスラスターが火を吹き、六十メートルの巨体が空に舞い上がった。蝕獣の背後に回り込み、翼の付け根を掴んで引き千切った。蝕獣が絶叫した。大気が震えた。

 落下する蝕獣の頭部を掴み、そのまま海面に叩きつけた。水柱が上がり、衝撃波が港の防波堤を粉砕した。

 蝕獣の頭部が、僕の手の中で潰れた。

 気持ちいい。

 その感情が、自分のものなのか、巨神のものなのか、もう分からなかった。

 分からないことが、もう怖くなかった。

 それが、いちばん怖いことだった。

 戦闘後、揺籃から引き上げられたとき、僕は鼻と耳から血を流していた。左目が一時的に見えなくなっていた。全身に痣が浮き、右手の指が一本、感覚を失っていた。

「同期率八十一パーセント。脳神経への過負荷で……桐生くん、聞こえてますか?」

 遠野の声が遠い。

 僕は天井を見ていた。低い天井。人間の天井。

 あれ、と思った。

 この天井が、自分のものだと思えない。

 巨神の中にいたほうが、しっくりくる。あの広い視界。あの巨大な手。あの、すべてを壊せるという確信。

 人間に戻りたくない、と思った。

 その思考が脳を走った瞬間、僕は初めて、本当に怖くなった。


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第十六章 亀裂

九月。

 僕は人間の感覚を取り戻すのに、以前より時間がかかるようになっていた。

 学校に行っても、教室のすべてが遠い。声が小さい。景色が狭い。自分の身体が、まるで巨神のコクピットの中にある「パーツ」のように感じられる。本体は格納庫に立っている六十メートルの鉄の巨人で、この十七歳の身体は、そこに差し込むための部品にすぎない。

 彩音が気づかないはずがなかった。

「蒼くん、最近、目がおかしい」 「おかしい?」 「焦点が合ってないっていうか……ここにいるのに、ここにいない感じ」

 屋上で二人きりのとき、彩音は僕の顔を両手で挟んだ。

「こっち見て」 「見てるよ」 「見てない。わたしの目を見て」

 彩音の瞳は茶色で、光を受けると琥珀色に見えた。普通の目だ。巨神の光学センサーに比べたら、はるかに低解像度の、普通の目。

 でもその目の中に、僕が映っていた。小さくて、頼りなくて、でもちゃんと人間の形をしている僕が。

「わたし、怖い」

 彩音の声が震えていた。

「蒼くんが、どこかに行っちゃいそうで」 「どこにも行かないよ」 「嘘。蒼くんの嘘、わたし全部分かるって言ったでしょ」

 彩音の手が頬から離れた。代わりに、僕のシャツの前を掴んだ。

「何してるの。何に関わってるの。教えてよ」 「言えないんだ。本当に」 「なんで。わたしのこと信じてないの」 「信じてる。でも、知ったら、彩音が苦しむ」 「知らないほうが苦しいよ!」

 彩音の目から涙がこぼれた。

 僕は彼女を抱きしめた。巨神の腕ではなく、十七歳の細い腕で。この腕は蝕獣を殺す力はないが、一人の女の子を抱きしめることはできる。

「ごめん」

 それしか言えなかった。

 彩音が僕のシャツに顔を埋めて泣いた。泣き声は小さかった。巨神の外部マイクなら拾えないくらい小さな声だった。でも僕には聞こえた。ちゃんと。

 人間の耳で、聞こえた。


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第十七章 決壊

九月の終わり。最大規模の蝕獣群が出現した。

 七体。同時に。

 太平洋全域から、日本列島に向かっていた。

「これは今までの散発的な出現とは異なります」

 作戦会議で、冴子が地図を示した。赤い点が七つ、弧を描いて列島を囲んでいる。

「蝕獣の行動パターンが変わった。初めて、連携している」

 会議室が静まった。

「三機で七体は無理だ」

 漣が言った。

「三号機のパイロットはまだ同期率が二十パーセントです。実戦投入は」 「する。せざるを得ない」

 冴子の声は硬かった。

 作戦は単純だった。列島の防衛線を三つに分け、各機が担当エリアの蝕獣を撃破する。漣が北方、三号機が南方、僕が中央。

 中央の担当区域には、蝕獣が三体いた。

「三対一は」 「桐生くんの同期率なら可能です」

 冴子が僕を見た。

「同期率を最大まで上げてください」

 遠野が反対した。「八十パーセント以上は脳に不可逆的なダメージを」

「選択肢がありません」

 冴子の声が、遠野を断ち切った。

 出撃前、格納庫で僕は零号機を見上げた。

 巨神は黙って立っている。のっぺらぼうの顔面。虚ろな身体。けれどその胸の中には僕が入る場所がある。僕のための場所。僕だけの場所。

 彩音の顔が浮かんだ。泣いていた顔。「ここにいて」と言った声。

 母の顔が浮かんだ。「生きて帰ってきて」と言った手。

 冴子の顔が浮かんだ。「帰る場所が必要です」と言った目。

 漣の顔が浮かんだ。「人間でいることに気をつけよう」と言った笑顔。

 揺籃に沈んだ。伝導液が肌を包む。ワイヤーが脊椎に接続される。

 同期率が上がっていく。

 六十。七十。八十。

 八十を超えた瞬間、視界が裂けた。

 世界が見えた。

 地球の丸みが見えた。大気の層が見えた。蝕獣が海中を移動する振動が、巨神の全身に伝わった。

 僕は、巨神そのものになった。

 人間の桐生蒼は、胸の中のどこかで、小さく脈打っている。それは心臓のようであり、寄生虫のようでもあった。

 出撃した。

 三体の蝕獣が、東京湾の入り口に並んでいた。

 僕は走った。海を踏み、波を蹴り、蝕獣の群れに突っ込んだ。拳が唸り、蹴りが大気を裂き、蝕獣の身体が次々と砕けていく。

 楽しい。

 楽しい。

 楽しい。

 この力が。この速さが。この破壊が。

 三体目の蝕獣の核を素手で引きずり出したとき、同期率の数値は九十二パーセントに達していた。

 そして、巨神が動かなくなった。

 僕の意識が、落ちた。


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第十八章 深淵

夢を見ていた。

 夢の中で、僕は巨神の内部にいた。けれど揺籃の中ではなく、巨神の胸腔の中の、広大な暗闇に浮かんでいた。

 赤い光が脈動している。巨神の「心臓」だった。

 その心臓が、声を発した。

「ようやく来たな」

 声は低くて、深くて、人間のものではなかった。

「お前は誰だ」

 僕は訊いた。自分の声が、暗闇の中でこだまする。

「お前だよ。お前が作った俺だ」

 意味が分からなかった。

「巨神は蝕獣の死骸から作られた。でも、魂は操縦者から注がれる。お前が俺に乗るたびに、お前の一部が俺の中に残る。記憶。感情。欲望。それが積もって、俺は目を覚ました」

 暗闇の中で、巨大な顔が現れた。のっぺらぼうだったはずの顔面に、目があった。口があった。

 僕の顔だった。

 六十メートルに拡大された、僕の顔。

「お前は俺になりたがっている。認めろ」

「違う」

「違わない。人間の身体が窮屈なんだろう。教室が狭いんだろう。あの女の子の手が小さすぎるんだろう」

 彩音の手を思い出した。花火の夜の、汗で湿った小さな手。

「あの手が好きだ」

 僕は言った。

「好きだけど物足りない。だろう?」

 巨神の声が、僕の心の奥底を抉った。

「この身体を知ってしまった以上、人間には戻れない。お前は俺の一部になる。そのほうが楽だ。痛みもない。恐怖もない。あの女の子を失う悲しみもない。何も感じなくていい」

 甘い言葉だった。

 そして、嘘ではなかった。

 巨神の中にいれば、すべてから解放される。人間の弱さ。恐怖。孤独。愛する人を守れないかもしれないという不安。すべてが、巨大な力の中に溶けて消える。

 僕は揺らいだ。

 暗闇の中で、巨神の手が差し出された。六十メートルの巨大な手のひら。

「来い」

 僕は、手を伸ばしかけた。

 そのとき、声が聞こえた。

「蒼くん!」

 彩音の声だった。

 どこから聞こえたのか分からない。夢の中の、暗闇の向こうから。

「蒼くん、戻ってきて!」

 その声が、僕の胸の中で、小さく脈打った。

 心臓だ。僕の心臓。巨神の心臓ではなく、十七歳の、小さな心臓。

「……嫌だ」

 僕は手を引っ込めた。

「僕は、人間に戻る」

 暗闇が割れた。


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第十九章 帰還

目を覚ましたのは、医務室だった。

 意識を失ってから、三日が経っていた。

 遠野が説明した。同期率九十二パーセントの状態で脳がオーバーロードを起こし、緊急切断が作動。巨神はその場に倒れ、回収された。脳には軽度の損傷が見られるが、後遺症なく回復する見込みだと。

「ただし、これ以上の高同期率での運用は、お勧めしません。次は戻ってこられないかもしれない」

 遠野は真剣だった。

 僕は自分の手を見た。右手の薬指の感覚は戻っていた。痣はほぼ消えていた。十七歳の、普通の手。

 その手を握りしめた。

 この手で十分だ。この手がいい。

 ドアが開いて、彩音が入ってきた。

「え」

 なぜ彼女がここに。ここは軍事施設のはずだ。

「神崎さんが呼んでくれたの」

 彩音の顔は、泣いたあとだった。目が赤い。

「三日間、ここにいたの?」 「学校サボった。初めて」

 彩音が泣いた。ベッドの横に座り、僕の手を握って、声を上げて泣いた。

「馬鹿。馬鹿。帰ってこなかったらどうしようかと思った」 「ごめん」 「ごめんじゃない。約束したでしょ。戻ってくるって」 「戻ってきたよ」 「遅い」

 僕は彩音の手を握り返した。小さくて、温かくて、少しだけ震えている手。

 この手が、僕を引き戻した。

 巨神の暗闇の中で聞こえた声。それが本当に彩音の声だったのか、僕の記憶が作り出した幻だったのか、分からない。

 でも、彩音がここにいる。それだけが事実だ。

「彩音」 「なに」 「僕、実は」 「……」 「ロボットに乗ってる。巨大な、ロボットに」

 彩音は泣きながら、鼻をすすりながら、僕の顔を見た。

「知ってた」 「え」 「ニュースで見たの。巨大な人型の兵器が蝕獣と戦ってるって。それで、蒼くんが休むタイミングと、出撃のタイミングが一致してて……それで」

 僕は目を見開いた。

「知ってて、黙ってたの」 「言ったら、蒼くん困るでしょ。だから」

 彩音はまた泣いた。

 こんなにも強い子だったのか、と僕は思った。知っていて、黙っていて、それでも隣にいてくれた。

「ありがとう」

 彩音の額に、唇を寄せた。柔らかい肌。少しだけしょっぱい涙の味。

 巨神の感覚器では測定できない味だった。これは、人間にしか分からない。


20

第二十章 選択

退院後、僕は神崎の執務室に呼ばれた。

「蒼くん。あなたを零号機から降ろすことを検討しています」

 冴子の声は、いつもの穏やかさだった。けれど、その奥にある緊張を感じ取った。

「なぜですか」 「前回の戦闘で、同期率が制御不能になった。次に同じことが起きれば、あなたは巨神に取り込まれる。そうなったら、もう二度と」

「降りません」

 僕は遮った。

 冴子が目を見開いた。

「蝕獣は増えてます。三号機のパイロットはまだ実戦レベルじゃない。漣一人じゃ無理です。僕が降りたら、誰が乗るんですか」 「別の適合者を」 「間に合わないでしょう。冴子さんが僕に言ったんです。乗らなければ、確実に止められないって」

 冴子は黙った。

「ただし、条件があります」

 僕は言った。

「同期率を七十パーセントで固定してください。それ以上は上げない。制御が効く範囲で戦います」 「七十パーセントでは、前回のような三体同時は」 「工夫します。漣と連携を密にする。戦術で補う」

 冴子は長い間、僕を見つめた。

「変わりましたね、蒼くん」 「何が」 「前は、言われるままに乗っていた。今は、自分で選んでいる」

 冴子が笑った。あの夜の寂しい笑いではなく、少しだけ嬉しそうな笑い。

「分かりました。七十パーセント固定。ただし、身体に異常が出たら即座に離脱すること」 「約束します」

 冴子は椅子から立ち上がり、僕の前に来た。

「蒼くん」 「はい」 「帰る場所、見つかりましたか」

 僕は頷いた。

「見つかりました」

 冴子は微笑んだ。

「よかった」

 その声に、かすかな寂しさが混じっていたのを、僕は聞き逃さなかった。

 冴子は僕に帰る場所を持てと言った。けれど彼女自身は、帰る場所を持っていない。この施設の中で、人類の命運を背負い、子どもたちを戦場に送り出し続けている。

「冴子さん」 「はい」 「僕たちが蝕獣を止めたら、冴子さんも帰ってください。どこかに」

 冴子は何も言わなかった。ただ、目が少しだけ潤んでいた。


21

第二十一章 共闘

十月。蝕獣の出現は続いていたが、僕と漣の連携は格段に良くなっていた。

 同期率を七十パーセントに制限した分、巨神の性能は落ちた。けれどその分、頭が冴えた。巨神の本能に流されず、自分の判断で動ける。

 漣とは、言葉少なくても通じるようになっていた。

 出撃前の格納庫で、漣が言った。

「お前、変わったな」 「みんなにそう言われる」 「前は、巨神に乗ることでしか自分を確かめられない顔をしてた。今は違う」 「何が違う?」 「降りたあとの顔が、まともになった」

 漣は零号機を見上げた。

「俺は、まだだな」 「漣も、帰る場所を作れよ」 「生意気言うな、後輩」

 漣が笑った。二回目の笑顔だった。

 作戦行動中、漣は相変わらず寡黙だったが、背中を預けられる相手だと、僕は信頼するようになっていた。

 ある戦闘で、蝕獣の不意打ちを受けて零号機が倒れたとき、二号機が身を挺して庇ってくれた。二号機の右脚が大破し、漣は右足の感覚を一時的に失った。

「馬鹿。なんで庇うんだよ」

 戦闘後、医務室で僕は漣に怒鳴った。

「盾はお前の役目だろ」

 漣は包帯の巻かれた右足を見ながら、静かに言った。

「もう盾じゃない。相棒だ」

 僕は何も言い返せなかった。目頭が熱くなった。


22

第二十二章 告白

十一月。

 彩音に、すべてを話した。

 巨神のこと。蝕獣との戦闘のこと。同期率のこと。巨神に取り込まれかけたこと。

 彩音は、僕の部屋の小さなテーブルに向かい合って座り、一言も挟まずに最後まで聞いた。

 話し終わったとき、彼女は静かに言った。

「全部知ってても、わたしの気持ちは変わらない」 「……」 「怖いよ。蒼くんが死ぬかもしれないって思うと、息ができなくなる。でも、知らないふりをして待ってるほうがもっと怖い」

 彩音は僕の手を取った。

「わたしは、蒼くんが帰ってくる場所になる。それが、わたしにできる唯一のことだから」

 僕は彩音を抱きしめた。

 強く。でも、壊さないように。巨神の力ではなく、人間の力で。

「彩音」 「うん」 「好きだ。ちゃんと、好きだ」

 彩音が僕の胸に顔を埋めた。

「知ってるよ。ずっと」

 その夜、僕たちは初めてキスをした。

 唇が触れた瞬間、巨神の感覚が遠ざかった。同期率もデータも蝕獣も関係ない。ただ、目の前のこの子の唇の温度だけが、世界のすべてだった。

 キスは短かった。でも、その短さの中に、永遠のように長い約束が詰まっていた。


23

第二十三章 最終戦

十二月。

 観測史上最大の蝕獣群が出現した。

 十二体。太平洋の底から、一斉に浮上した。その中心に、全長三百メートルを超える超大型蝕獣がいた。コアとなる蝕獣。これを倒せば、他の蝕獣も活動を停止する可能性があると、分析チームが報告した。

「全機出撃。三機による集中攻撃で、コア蝕獣を撃破します」

 冴子の声が、施設全体に響いた。

 格納庫で、僕は零号機を見上げた。

 何度見上げても、巨大だった。でもそれは、僕を飲み込む怪物ではなかった。僕が動かす身体だ。僕が選んで乗る、もう一つの身体。

 揺籃に沈む前に、スマートフォンを見た。彩音からメッセージが来ていた。

「待ってる。ずっと」

 僕は「行ってくる」とだけ返して、スマートフォンを置いた。

 伝導液。ワイヤー。接続。

 同期率が上がる。五十、六十、七十。ぴたりと止まるリミッター。七十パーセント。

 「蒼」

 通信が入った。漣の声。

「今日で終わらせるぞ」 「ああ」 「死ぬなよ」 「お前もな」

 射出口が開いた。空が見えた。十二月の、冬の空。高くて、冷たくて、澄んでいた。

 カタパルトが火を吹いた。

 僕は空に飛んだ。


24

第二十四章 決着

戦場は地獄だった。

 十二体の蝕獣が、海と空を埋め尽くしていた。大小さまざまな形の怪物が、三機の巨神に群がる。

 三号機が南方の蝕獣群を引きつけ、漣の二号機が北方を抑え、僕がコア蝕獣への突破口を開く。作戦はシンプルだった。シンプルだが、無謀だった。

 小型の蝕獣を三体、拳で薙ぎ払った。装甲に酸液がかかり、左肩の装甲が溶ける。痛い。でも同期率七十パーセントの痛みは、以前のような灼熱ではなく、鈍い圧迫感だった。

 コア蝕獣が見えた。全長三百メートル。海の中から上半身だけを出している。人間に似た形をしていた。腕が二本、頭がひとつ。巨大な蝕獣は、巨神を模しているかのようだった。

 いや。

 巨神が蝕獣を模しているのだ。巨神は蝕獣の死骸から作られた。つまり、巨神とは蝕獣の人形であり、僕はその人形を操る人形遣いだ。

 人形が人形を使って、本物と戦う。

 その構図の滑稽さに、僕は笑った。

「蒼、笑ってる場合か!」

 漣の声が通信に割り込んだ。二号機が蝕獣の群れに押し込まれている。

「漣!」 「俺のことはいい! コアを叩け! 今しかない!」

 二号機が、自ら蝕獣の群れに突っ込んだ。囮になっている。身を挺して、僕に道を作っている。

「馬鹿!」

 叫びながら、走った。海を蹴り、波を割り、コア蝕獣に向かって一直線に。

 コア蝕獣が腕を振り上げた。その一撃が零号機を捉える前に、僕は飛び上がった。蝕獣の胸部に取り付き、装甲の拳でその表面を突き破った。

 内部に手を突っ込む。蝕獣の体液が沸騰するように腕を焼いた。痛い。痛い。でも止まらない。

 核を探す。蝕獣の心臓。

 あった。

 脈打つ、赤黒い球体。人間の心臓に似ていた。

 僕は掴んだ。そして、引きずり出した。

 核が蝕獣の体外に出た瞬間、コア蝕獣が絶叫した。大気が震え、海が割れ、空が鳴った。

 核を握り潰した。

 手の中で砕ける感触は、今までの蝕獣とは違った。硬くて、脆くて、何かの終わりの音がした。

 コア蝕獣が崩れた。巨大な身体が海に沈んでいく。それに連動するように、周囲の蝕獣が次々と活動を停止し、海面に浮かび上がった。

 静寂が、戦場を包んだ。

「……終わったのか」

 漣の声が聞こえた。生きている。

「終わった」

 僕の声は、震えていた。

 同期率七十パーセント。巨神の感覚は鮮明だったが、巨神に飲まれてはいなかった。僕は巨神であると同時に、桐生蒼だった。

 両立できた。

 人間のまま、巨神を使えた。

 零号機の胸の中で、僕の心臓が脈打っていた。

 小さく、確かに。


25

第二十五章 帰還

基地に戻ったのは、日没後だった。

 格納庫に巨神が並んで収容され、ハッチが閉じ、射出口の向こうに見えていた空が消えた。

 揺籃から引き上げられ、伝導液を洗い流し、普通の服に着替えた。

 施設のゲートを出ると、外は冬の夜だった。

 星が見えた。東京の空は明るすぎて星が見えないはずなのに、今夜は見えた。たぶん施設が郊外にあるせいだ。でも僕には、世界が少しだけ変わったように見えた。

 ゲートの前に、彩音が立っていた。

 コートの襟を立てて、白い息を吐いて。ずっと待っていたのだと、赤くなった鼻の頭で分かった。

「おかえり」

 彩音が言った。

「ただいま」

 僕は走った。

 十七歳の足で、人間の速度で、アスファルトを蹴って走った。巨神のスラスターもカタパルトもない。ただ自分の脚だけで。

 彩音を抱きしめた。

 小さな身体が、僕の腕の中にすっぽり収まった。コートの上から感じる彼女の温度。心臓の音。呼吸。涙の匂い。

「終わった?」 「たぶん」 「たぶんって何」 「また来るかもしれない。でも今は、終わった」

 彩音が僕のコートの前を掴んだ。花火の夜と同じ仕草。

「蒼くん」 「うん」 「おかえり」 「……もう一回言って」 「おかえり」

 僕は笑った。泣きながら笑った。

 巨神の中では、泣くことができなかった。伝導液に包まれた揺籃の中では、涙の意味がない。涙は人間のためのものだ。

 今、僕は人間として泣いている。

 十七歳の男子高校生として。

 蝕獣を殺した兵器ではなく、一人の女の子の「おかえり」で泣く、ただの少年として。


 施設の屋上で、冴子が空を見ていた。

 隣に漣が立っている。松葉杖をついて、足を引きずりながら。

「終わりましたね」

 冴子が言った。

「本当に終わったのか。また来るんじゃないのか」

 漣は疑り深かった。

「来るかもしれません。でも今は」

 冴子は眼下を見た。ゲートの前で抱き合っている二つのシルエット。小さくて、人間サイズで、巨神に比べたらほとんど見えない。

 でも確かに、そこにいる。

「帰る場所がある人間は、強いですね」

 冴子が言った。

 漣は黙っていた。しばらくして、ぽつりと呟いた。

「俺も、探すかな。帰る場所」

 冬の空に、星が瞬いていた。

 格納庫の中で、巨神たちは黙って立っている。虚ろな顔面。空洞の胸。操縦者のいない揺籃。

 彼らは待っている。

 また呼ばれるその日を。

 けれど今夜は、パイロットたちは人間に戻っている。

 人間でいることを、選んでいる。


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あとがき

本作は、巨大ロボットと怪獣をモチーフにしたオリジナル創作の長編小説です。