Work
2026.03.10 ・ 長編 ・ 70分
終電のあとで
渋谷のIT企業で働く26歳の凛が、フリーランスのデザイナーとの曖昧な夜を重ねるうちに、欲望と臆病さのあいだで揺れていく。

01
第一章 終電のあとの渋谷
終電が行ってしまったあとの渋谷は、昼間とは別の顔をしている。凛はいつも、その顔のほうが好きだった。
金曜の夜、残業を終えてオフィスを出たのは二十三時を過ぎていた。
宮瀬凛はマークシティの連絡通路を早足で抜けながら、ショートカットの襟足に貼りついた汗を指で拭った。九月の東京はまだ蒸し暑く、空調の効いたオフィスから出るたびに、世界の本当の温度を思い出す。
スマートフォンの画面に、Slackの通知が三件。デザインチームからのレビュー依頼、プロジェクトマネージャーからの進捗確認、そしてエンジニアの同期・片桐からの「お疲れ、飲みいかん?」。
最後のメッセージに既読だけつけて、凛は改札を通った。
IT企業に入って四年目。フロントエンドエンジニアとして、それなりに仕事はできるようになった。コードを書いている時間は好きだ。ロジックには嘘がない。バグには必ず原因がある。人間関係より、よほど信頼できる。
終電の車内は、金曜の夜特有の匂いがした。アルコールと香水と、少しだけ疲労。凛は吊り革につかまりながら、窓に映る自分の顔をぼんやり見た。
短く切り揃えた黒髪。耳たぶが見える長さ。化粧はとっくに崩れて、目元にかすかにアイラインの残骸がある。ワイヤレスイヤホンの片方だけ耳に入れて、プレイリストは止まったまま。
二十六歳。
恋人はいない。最後に誰かの肌に触れたのがいつだったか、正確に思い出せなくなっている。一年半前に別れた元彼の顔はもう薄れていて、残っているのは一緒に観た映画の内容くらいだった。
淋しくないかと訊かれたら、少し考え込む。淋しいのとは違う。ただ、夜中にふと目が覚めたとき、隣に誰もいないベッドの広さに、身体が慣れすぎていることが怖かった。
最寄り駅で降りて、コンビニで缶チューハイを一本買った。レモン味。帰って風呂に入って、これを飲んで寝る。それが金曜の夜のルーティンだった。
ワンルームのマンションの鍵を開け、靴を脱ぎ、電気もつけずにベッドに倒れ込む。天井が暗い。スマートフォンの画面だけが白く光って、SNSのタイムラインを無意味にスクロールした。
誰かが婚約報告をしている。誰かが旅行の写真を上げている。誰かの人生が、きちんと次のステージに進んでいる。
凛はスマートフォンを伏せて、缶チューハイのプルタブを開けた。
金属の乾いた音が、静かな部屋に響いた。
02
第二章 三嶋拓海
翌週の水曜日、凛は外部のデザイナーとの打ち合わせに出た。
新規サービスのUI設計のためにフリーランスのデザイナーを一人入れることになり、そのキックオフミーティングだった。ディレクターの本間が「業界でもかなり評判のいい人」と前日に言っていたが、凛はあまり期待していなかった。デザイナーとエンジニアの相性は、ポートフォリオでは分からない。
会議室に入ると、先に座っていた男が軽く会釈した。
三嶋拓海。三十一歳。
ポートフォリオは事前に見ていた。洗練されているが冷たくない、計算された余白のあるデザイン。けれどそれ以上に凛の目を引いたのは、彼自身の佇まいだった。
黒いTシャツに、手首だけ見える銀色の時計。鎖骨のあたりが少し覗いていて、首筋から顎にかけての線がきれいだった。目のあたりに少しだけ疲れの影があるのが、逆に清潔な印象を作っている。三十代に入ったばかりの男が持つ、若さでも老練さでもない、ちょうどいい落ち着き。
「宮瀬です。フロントの実装を担当します」 「三嶋です。よろしくお願いします」
低めの声。話すときに少しだけ首を傾ける癖がある。凛はそんなことに気づいている自分に、かすかに苛立った。
打ち合わせ自体は一時間で終わった。要件を整理し、デザインの方向性を三つほど出し、来週までにワイヤーフレームを共有するという話になった。特に波風のない、仕事としては理想的なスタートだった。
会議室を出るとき、三嶋が言った。
「宮瀬さん、Figmaのコメント、すごく的確でしたね」 「え」 「さっきの画面遷移のところ。実装側からあの指摘が来るの、珍しいなと思って」 「……ありがとうございます」
お世辞ではなさそうだった。彼の目は、相手を値踏みするのではなく、純粋に面白がっているように見えた。目尻の小さな皺が、笑うと少しだけ深くなる。
凛は自分のデスクに戻り、モニターに向かった。コードエディタの黒い画面にカーソルが点滅している。いつもならすぐに集中できるのに、今日はその点滅が、妙に意味ありげに見えた。
首の後ろが熱い。空調の風が当たっているはずなのに。
凛はペットボトルの水を一口飲んで、強引にキーボードを叩き始めた。
03
第三章 東京タワーの赤
三嶋との仕事は、驚くほどスムーズだった。
彼はデザインをFigmaに上げると、実装上の制約をいちいち訊いてきた。アニメーションの負荷はどうか、レスポンシブの折り返しはどこが自然か、フォントのレンダリング差異はどの程度許容するか。
デザイナーでここまで実装を意識する人は少ない。凛は自然と、Slackでのやり取りが増えた。
やがて、業務連絡の隙間に、ほんの少しだけ私的な会話が混ざり始めた。
「この色、夜の東京タワーの赤に近いですね」と凛が書くと、「見たことあります? 近くで見ると意外とオレンジなんですよ」と返ってくる。
凛は一拍置いてから、「ないです。いつも遠くから見てるだけ」と打った。
既読がついて、十秒ほど間があった。
「今度、近くで見に行きません?」
画面の文字を、三回読み返した。
仕事の延長なのか、それ以外なのか。三嶋の文面はいつも丁寧で、どちらとも取れる温度だった。その「どちらとも取れる」距離感が、凛をいちばん揺らした。明確に誘われたほうが、断りやすい。曖昧なものは、断る理由も曖昧にしか持てない。
凛は「機会があれば」と返した。肯定でも否定でもない、自分でも苛立つくらい曖昧な返事だった。
送信したあと、凛はしばらくモニターの前で動けなかった。
心臓が、少しだけ速い。
これは仕事だ、と自分に言い聞かせた。仕事の相手に不必要な感情を持つのは、合理的ではない。
けれど合理的でないことが、こんなにも甘い痛みを伴うとは、凛は知らなかった。
04
第四章 バーの片隅
十月に入った金曜の夜、プロジェクトの中間レビューが終わったあと、チーム全体で飲みに行くことになった。
渋谷の雑居ビルの三階、カウンターとテーブルが五つだけの小さなバー。本間が常連だというその店は、照明が暗く、壁一面がレコードジャケットで埋まっていた。スピーカーからマイルス・デイヴィスが低く流れている。
凛はハイボールを頼み、端の席に座った。仕事の飲みは嫌いではないが、集団の中心にいるのは得意ではない。端から全体を見ているほうが落ち着く。
三嶋は反対側のテーブルで本間やディレクター陣と話していたが、二杯目を取りに来たとき、自然と凛の隣に立った。
「飲んでます?」 「ぼちぼち」 「宮瀬さん、いつも端にいますね」 「観察してるんですか」 「まあ、デザイナーなので。人の配置は気になります」
冗談なのかどうか分からなくて、凛は少しだけ笑った。
三嶋はウイスキーのロックを受け取り、隣のスツールに腰を下ろした。距離は近くない。けれどバーの狭さのせいで、彼の膝が凛の太ももに近かった。触れてはいない。でも、体温の気配がある。
「三嶋さんって、ずっとフリーランスなんですか」 「二十七で独立しました。その前は広告代理店」 「辞めた理由、訊いていいですか」 「自分のペースで作りたかった。あと、組織の中にいると、いつのまにか自分の輪郭がぼやけていく感じがして」
凛はグラスの氷を指で回した。輪郭がぼやける。その感覚は、痛いほど分かった。
「宮瀬さんは? ずっと今の会社?」 「はい。新卒から」 「居心地いい?」 「……悪くはない。でも、ずっとかって言われると」 「ずっとって言葉、重いですよね。仕事にも、人にも」
その言い方が妙に近く感じられて、凛は顔を上げた。三嶋は前を向いたまま、ウイスキーを一口含んだ。喉仏がかすかに動くのが、暗がりの中で見えた。
凛は自分の視線を、慌ててグラスに戻した。
気づくと、他のメンバーは帰り支度を始めていた。終電の時間が迫っている。本間が「じゃ、お先」と手を振り、一人、二人と席を立っていく。
凛は時計を見た。二十三時四十二分。
「終電」 「うん」 「行かないと」 「そうですね」
三嶋もグラスを置いたが、立ち上がる気配はなかった。
バーのマスターがグラスを磨きながら、小さくジャズのボリュームを上げた。甘くて、少しだけ苦い旋律が、空になったテーブルのあいだを漂った。
「もう一杯、飲みません?」
三嶋が言った。
凛の指先が、空になったグラスの縁をなぞった。氷の溶けた水滴が、指の腹に冷たい。
行かなきゃ、と思う自分と、行かなくていい、と囁く自分が、一瞬だけ重なった。
「……一杯だけ」
終電は行ってしまった。
05
第五章 一杯だけの夜
三嶋はジントニックを頼んだ。凛はもう一杯ハイボールを。
バーにはもう二人しかいなかった。マスターは奥でグラスを洗っていて、スピーカーからはチェット・ベイカーの歌声が低く流れている。
「終電逃すの、久しぶりです」
凛が言うと、三嶋は少し驚いた顔をした。
「意外。もっと夜遊びするタイプかと」 「どこがですか」 「なんとなく。夜が似合う」 「……褒めてます?」 「褒めてます」
三嶋の声は、酔いのせいか少しだけ柔らかくなっていた。普段の丁寧な距離感がわずかに緩んでいて、それが凛の胸の奥をくすぐった。
「三嶋さんは、よく逃すんですか」 「フリーランスなんで、終電って概念があんまりなくて」 「いいなあ。自由で」 「自由は自由ですけど、不自由でもありますよ。誰にも怒られないってことは、誰にも待たれてないってことだから」
その言葉が、凛の中のどこか柔らかい場所に触れた。
「分かります、それ」 「分かる?」 「わたしも、誰にも待たれてないので」
言ってから、自分の声が思ったより正直だったことに気づいた。酒のせいだ。たぶん。
三嶋は何も言わず、グラスを傾けた。ジンの香りが、かすかに凛のほうまで届いた。
「宮瀬さん」 「はい」 「恋人は」 「いません。一年半くらい」 「……俺もです。二年」
沈黙が落ちた。けれど気まずくなかった。バーの薄暗い空気が、二人の告白を柔らかく包んでいた。
「前の人とは、どうして」
凛が訊くと、三嶋は少し考えてから答えた。
「仕事を優先しすぎた。それと、たぶん……近づきすぎるのが怖かった」 「近づきすぎる?」 「誰かと深く関わると、自分の中の整理できない部分が見える。それが嫌だった」
凛は息を止めた。三嶋の言葉が、自分自身の輪郭とぴったり重なったからだ。
「わたしも」 「うん」 「同じです。元彼と別れたのも、たぶんそれ。仕事に逃げてたって思ってたけど、本当は、相手に自分のことを知られるのが怖かった」
こんなことを、なぜこの人に話しているのか分からなかった。バーの暗さが告解室みたいに感じられて、つい口が軽くなったのかもしれない。
三嶋はグラスを置いた。
「宮瀬さん」 「はい」 「知られるのが怖い人って、本当は、知ってほしい人なんだと思いますよ」
心臓が、一拍だけ大きく打った。
凛は何も返せなかった。代わりに、ハイボールの最後の一口を飲み干した。炭酸の抜けかけた液体が、喉をぬるく通り過ぎた。
06
第六章 午前一時の渋谷
午前一時の渋谷は、金曜の残り火でまだ明るかった。
バーを出た二人は、あてもなくセンター街の裏手を歩いた。酔いは浅い。身体はほんのり温かいが、頭は冴えている。むしろ、いつもより感覚が鋭くなっている気がした。
「タクシーで帰ります?」と三嶋が訊いた。
「もう少し歩きたい」と凛は答えた。
自分でも意外だった。普段なら、さっさとタクシーに乗って帰る。シャワーを浴びて、一人のベッドに潜り込むのが、凛の夜の儀式だった。
けれどこの夜は、一人になりたくなかった。一人になったら、今の自分がどんな顔をしているか、鏡で確認してしまいそうだった。
道玄坂を上り、円山町の裏通りに入ると、急に静かになった。ラブホテルのネオンがビルの隙間から漏れていて、紫や青の光が濡れたアスファルトに反射している。酔った男女の笑い声が、どこか遠くから聞こえた。
凛はそのネオンを横目に見ながら、自分の鼓動を聞いていた。
「なんか、変な道に来ちゃいましたね」 「気にしないでください」
三嶋は笑わなかった。茶化しもしなかった。その自然さが、かえって凛の胸を突いた。もし彼がここで冗談を言っていたら、凛は安心して距離を取れただろう。けれど三嶋は、凛に逃げ道を与えなかった。与えないことで、選ぶ自由を残していた。
神泉の駅近くまで来たとき、凛は思い出したように言った。
「東京タワー」 「え?」 「近くで見たことない、って言ったの。まだ行ってないなと思って」 「今から行きます?」 「さすがに閉まってるでしょ」 「外から見るだけなら」
三嶋はスマートフォンを取り出し、タクシーを呼んだ。
馬鹿げている。深夜一時に、仕事相手と東京タワーを見に行くなんて。けれど馬鹿げていることを、今夜は誰かとやりたかった。合理的でないことを。説明のつかないことを。
タクシーの後部座席で、二人は並んで座った。
膝が触れそうで触れない距離。窓の外を六本木の明かりが流れていく。タクシーの中は暗くて、三嶋の横顔がヘッドライトのたびに明滅した。
「三嶋さん」 「はい」 「なんで誘ったんですか。さっき、もう一杯って」
三嶋は窓の外を見たまま、少し考えるように間を置いた。
「たぶん、宮瀬さんが端の席にいたから」 「意味分かんない」 「俺も端にいたいタイプなんです。でも今日は、端じゃないほうがいいと思った。端にいるのが上手い人が隣にいたから」
凛は返事をしなかった。窓に映る自分の目を見た。少しだけ潤んでいる。
酒のせいだと思うことにした。
07
第七章 近くで見るオレンジ
東京タワーは、間近で見ると思ったよりもずっと巨大だった。
鉄骨のひとつひとつが闇の中に赤く浮き上がり、見上げると首が痛くなるほど高い。ライトアップは終わっていたが、航空障害灯の赤い点滅だけが、深夜の空に脈拍のように瞬いていた。
「本当だ、オレンジっぽい」
凛は塔の足元から見上げながら言った。
「でしょう」 「写真だと赤く見えるのに」 「人の目って、案外あてにならないですよね。見たいように見てしまう」
公園のベンチに並んで座った。十月の夜風は、九月よりは涼しくなったが、まだ上着なしでも過ごせる。虫の声がして、遠くで救急車のサイレンが聞こえる。東京の深夜は、静かなようでいて、いつもどこかで誰かが起きている。
三嶋が自動販売機でホットのブラックコーヒーを二つ買ってきた。凛は缶を受け取り、手のひらでその温度を感じた。
「わたしたち、何してるんですかね」
凛はぽつりと言った。
「東京タワーを見てる」 「そうじゃなくて」 「……分かってます」
三嶋は缶コーヒーを一口飲んだ。
「何してるんだろうね、ほんとに」 「仕事の相手ですよね、わたしたち」 「そうですね」 「それなのに深夜に二人で東京タワー見てる」 「異常ですね」 「異常です」
二人で少しだけ笑った。けれど笑い終わったあと、沈黙が落ちた。その沈黙の中に、さっきまでなかった重力があった。
風が吹いて、凛のショートカットが揺れた。襟足が首筋にかかる感触に、自分の肌を意識する。三嶋の視線がそこに留まったのが、見なくても分かった。
「三嶋さん」 「はい」 「やさしいですよね、三嶋さんって」 「よく言われます」 「でも、やさしいだけじゃないですよね」 「……どういう意味ですか」 「やさしい人は、相手に踏み込まない。でも三嶋さんは、踏み込まないふりをして、ちゃんと見てる」
三嶋は黙った。
「バーでの話もそう。わたしが知られるのが怖いって言ったとき、三嶋さん、怖がってる理由まで見えてたでしょ」 「……買いかぶりすぎですよ」 「そうかな」 「見えてたんじゃなくて、同じだっただけです」
その答えに、凛の胸の奥で何かが軋んだ。
三嶋はベンチの背もたれに身体を預けた。肩が、凛のすぐ隣にある。触れてはいない。けれど、腕一本分の距離の中に、体温がある。
「宮瀬さん」 「はい」 「また、こうやって会えますか」
仕事の話ではなかった。明確に。
凛は缶コーヒーを両手で握った。もう冷めかけている。
「……仕事の相手ですよ」 「うん」 「面倒なことになる」 「なるかもしれない」 「三嶋さん、全然止めてくれないですね」 「止めてほしい?」
ずるい訊き方だった。
「……ほしくない」
凛の声は小さかった。東京タワーの赤い点滅が、瞬きのように二人の上で明滅していた。
08
第八章 余韻の実装
あの夜のあと、二人の距離は変わったようで、変わらなかった。
仕事のやり取りはこれまで通り丁寧で、SlackもFigmaのコメントも、線を越えるようなことはなかった。ただ、凛のほうが三嶋のメッセージを読む時間が、ほんの少しだけ長くなった。
文面の裏にある温度を探してしまう。「お疲れさまです」の一言に、昨夜の余韻が混じっていないかと。そんな自分が馬鹿みたいだった。
仕事中、三嶋のデザインを実装するたびに、彼の思考の跡をなぞっている気持ちになった。余白の取り方。色の選び方。ボタンの角丸の半径。そこに三嶋という人間が透けて見える。画面の向こうにいる誰かの指先を、コードを通じて触れているような錯覚。
片桐がランチの席で、からかうように言った。
「最近、画面見てるときの顔が違うぞ」 「どう違うの」 「なんか、にやけてる」 「にやけてない」 「にやけてるって。モニターに恋でもしてんの?」
凛は片桐の頭を軽く叩いた。けれど、否定しきれない自分がいた。
夜、自宅のベッドに入ると、三嶋の横顔が瞼の裏に浮かんだ。バーで話しているときの、少しだけ崩れた笑い方。タクシーの中で窓の外を見ていた横顔。東京タワーの下で、こちらを見たときの目。
凛は布団の中で寝返りを打った。身体の奥がかすかに疼いている。それが恋なのか、欲なのか、淋しさなのか、区別がつかなかった。
区別がつかないまま、眠れない夜が増えていった。
09
第九章 また終電を逃して
十月の半ば、凛は残業で終電を逃した。
本当に残業だった。リファクタリングに没頭していたら、気づけば時計は零時を回っていた。オフィスの照明を半分落とし、デスクに突っ伏したとき、スマートフォンが鳴った。
三嶋からのメッセージだった。
「今日、遅くまでやってました?」 「なんで分かるんですか」 「Figmaの編集履歴。さっきまで宮瀬さんのアイコンが動いてた」
思わず笑った。デザイナーらしい観察だった。
「終電、逃しました」 「また?」
また、という言い方に、あの夜がさりげなく含まれていた。
「近くにいます。迎えに行きましょうか」
凛は画面を見つめた。指がキーボードの上で止まる。
迎えに来てもらう理由はない。タクシーを呼べばいい。それが一番合理的で、境界線を守れる選択だ。
けれど「境界線」という言葉を頭に浮かべた瞬間、その線がどこにあるのか、もう分からなくなっていることに気づいた。
「……お願いします」
送信してから、洗面所に行って鏡を見た。崩れた化粧。疲れた目。それでもどこか、目の奥が光っている。
ポーチからリップだけ取り出して、唇に薄く塗った。
何をしているんだろう、と思った。思いながら、手は止まらなかった。
10
第十章 ほうじ茶の夜道
三嶋は二十分後にオフィスの前に来た。
ジーンズにグレーのパーカー。仕事のときより少しだけ砕けた格好で、フードの紐が胸の前に垂れている。夜風で髪が少し乱れていて、それが妙に色っぽかった。
「近くで作業してたんですか」 「家がこの辺なんです。代々木」 「近いですね」 「だから来られた。遠かったら、来てないですよ」
その正直さに、凛は少しだけ安心した。同時に、どこか物足りなさも感じた。遠くても来てほしい、なんて思っている自分が、恥ずかしかった。
二人は深夜の明治通りを歩いた。十月の夜風は肌に心地よく、渋谷の喧騒はもう遠い。道沿いのコンビニだけが白く光っている。
「コーヒー、買いません?」 「さすがにもうカフェインは」 「じゃあ、ほうじ茶」 「おばあちゃんみたい」 「失礼な」
結局、コンビニでほうじ茶とブラックコーヒーを一本ずつ買った。三嶋はコーヒー、凛がほうじ茶。
原宿の方へ向かって歩くうちに、表参道の裏手に出た。深夜のブランドショップは静まり返り、ガラスのショーウインドウだけが煌々と光っている。マネキンたちが、凍りついたパーティーの中に立っているみたいだった。
「きれいですね」
凛はショーウインドウに映る二人の姿を見て言った。並んで歩く男と女のシルエット。
「何が」 「誰もいない街って、箱庭みたいで」 「分かる。昼間は人のものだけど、夜は街自身のものって感じがする」
歩きながら、凛はふと気づいた。この人と歩いているとき、自分は沈黙を埋めようとしない。それが楽だった。
けれど「楽」という言葉の裏に、もう一つの感情が隠れていることも、凛は分かっていた。楽なのではなく、この沈黙の中にいたいのだ。この人の隣の空気を、もう少しだけ吸っていたいのだ。
代々木公園の手前で、三嶋が立ち止まった。
「宮瀬さん」 「はい」 「このあと、どうします」
その声は穏やかだったが、問いかけの意味は明確だった。家が近い、と彼は言った。代々木。ここから歩いて数分。
凛は数秒だけ、夜空を見上げた。星は見えない。東京の空は、いつも少しだけ明るすぎる。
身体の奥で、何かが疼いた。このまま彼の部屋に行ったら、何が起きるか分かっている。分かっていて、それが怖いのか、怖くないのか、自分でも判断がつかなかった。
「帰ります」
声は、思ったよりはっきり出た。
三嶋は頷いた。
「タクシー呼びますね」
それだけだった。追い縋りもしないし、残念そうな顔もしない。その距離の取り方が正しいと思ったのに、タクシーのドアが閉まった瞬間、凛の胸の中で何かが軋んだ。
車内で、ほうじ茶のペットボトルを握りしめていることに気づいた。まだ温かい。人肌に似た温度だった。
自宅に着いて、シャワーを浴びた。お湯が肌を伝うのを感じながら、凛は自分の身体を見下ろした。
誰にも触れられていない肌。鎖骨。腕。お腹。太もも。二十六年間、自分だけのものだった身体が、今夜は少しだけ他人のものになりたがっている気がした。
凛はシャワーの温度を少し上げて、目を閉じた。
11
第十一章 見抜かれる癖
十一月。プロジェクトは佳境に入り、三嶋とのやり取りはさらに密になった。
デザインレビュー、実装の確認、細かなアニメーションの調整。画面共有で二人きりになる時間が増えた。仕事の話だけをしているはずなのに、ミーティングが終わったあと、凛はいつも少しだけ息を整える必要があった。
ある日、三嶋がFigmaのコメントに書いた。
「この影の落とし方、宮瀬さんっぽい」
どういう意味ですか、と返そうとして、やめた。なんとなく、分かってしまったから。自分の癖を見抜かれている。コードの書き方ひとつで、自分という人間が透けている。それは怖いことであり、同時に、深いところで求めていたことだった。
十一月の二度目の木曜日。オフィスで三嶋と並んで作業する時間があった。
彼はMacBookを広げ、凛のすぐ隣で画面設計の修正をしていた。肩越しに彼の画面が見える。彼が水を飲む音が聞こえる。キーボードを叩くリズムが、凛のそれと少しだけ似ている。
ふいに、三嶋の腕が凛の腕に触れた。デスクが狭いせいだった。ほんの一瞬の接触。肘の内側と、上腕のあたり。
「あ、すみません」
三嶋が腕を引いた。何気ない仕草だった。
けれど凛の肌は、触れた箇所だけ温度が変わったみたいにひりひりした。服の上からなのに。わずか数秒の接触なのに。
凛は画面に目を戻したが、コードの文字がしばらく読めなかった。
「宮瀬さん、大丈夫ですか?」 「大丈夫です」
笑ってみせたが、うまくできた自信はなかった。
その夜、凛は自宅のベッドで天井を見つめた。
腕が触れただけだ。それだけのことで、こんなに動揺している自分が情けなかった。二十六歳にもなって、腕が触れただけで眠れなくなるなんて。
でも本当は、触れたかったのだと思う。もっと。もっと確かに。腕じゃなくて、手のひらで。指で。
凛は掛け布団を顔まで引き上げて、目を閉じた。暗闇の中で、三嶋の腕の温度だけが残っていた。
12
第十二章 わざと逃した終電
十一月の三度目の金曜日、また終電を逃した。
今度はわざとだった。
そのことに、凛は気づいていた。残業はあったが、終電に間に合う時間に終わっていた。なのに、デスクに座ったまま、時計の針が終電の時間を過ぎるのを見ていた。
自分がどうしたいのか、分かっている。分かっていて、それを自分から言い出す勇気がないから、状況のせいにしようとしている。終電を逃した、という言い訳があれば、彼に連絡できる。
その卑怯さに少し吐き気がした。でも、凛はスマートフォンを取り出した。
「また逃しました」
返信は三十秒で来た。
「散歩、します?」
凛は少しだけ目を閉じた。この人は、いつも正しい距離で誘う。散歩。それ以上でも以下でもない言葉。でも、その言葉の裏にある意味を、二人とも知っている。
「はい」と打った。
13
第十三章 いちょう並木の体温
二人は神宮外苑のいちょう並木を歩いた。
紅葉にはまだ早かったが、街灯に照らされた葉が、夜の中でぼんやり金色に光っていた。風が吹くと、まだ青さの残る葉が一枚、二枚と落ちてくる。
三嶋は黒いコートを羽織っていた。十一月の夜は、もう上着なしでは少し寒い。凛は薄手のカーディガンだけで来てしまったことを後悔した。
「寒くないですか」 「……ちょっと」 「言ってくれたら、もう一枚持ってきたのに」
その言い方が自然すぎて、凛は一瞬、息が止まった。まるで、彼女の上着を持ってくることが当たり前みたいに。
「大丈夫です。歩いてれば温まるし」
強がりだった。でも、ここで彼のコートを借りたりしたら、自分が保っている最後の一線が崩れてしまう気がした。
並木道の途中で、凛は立ち止まった。
「三嶋さん」 「はい」 「わたしたち、何してるんですかね」
二回目の、同じ問いかけだった。東京タワーの下でも同じことを訊いた。あのときは笑って誤魔化せた。でも今夜は、誤魔化したくなかった。
三嶋は歩みを緩めたが、止まりはしなかった。
「散歩」 「そうじゃなくて」 「分かってます」
彼は少し笑った。
「宮瀬さんは、名前をつけたいタイプ?」 「名前?」 「こういう関係に。友達とか、それ以上とか」 「……つけたほうがいいでしょ、普通は」 「普通は、ね」
三嶋は並木道の奥を見つめた。
「俺は、名前のない時間も嫌いじゃないです。でもそれは、ずるい言い方だって分かってる」 「分かってるなら、なんで言うんですか」 「正直でいたいから。宮瀬さんの前では」
凛は立ち止まった。
「わたし、ずるいのは嫌なんです」 「うん」 「でも今、自分がずるいことしてる気がする」 「何が」 「好きかどうかも分からないまま、この時間を楽しんでること。三嶋さんの隣にいることを、仕事とか、終電とか、散歩とか、そういう言い訳で正当化してること」
三嶋は振り返った。街灯の光が、彼の目の中にひとつだけ映っている。
「好きかどうか分からないのは、俺もです」 「……」 「でも、会いたいとは思ってる。仕事がなくても。終電を逃さなくても。それじゃ駄目ですか」
凛の心臓が跳ねた。
「駄目じゃない」
声が震えた。
二人はまた歩き始めた。今度は少しだけ、距離が近い。
いちょうの葉が一枚、凛の肩に落ちた。三嶋がそっとそれを取った。
その指先が、凛の首筋に触れた。
ほんの一瞬。けれど、凛の全身に電流が走った。首の付け根から背骨を伝って、腰の奥まで。
三嶋も気づいたはずだった。凛の肩が小さく震えたのを。
でも何も言わなかった。
言ったら、この名前のない時間が終わってしまう。終わるのが怖いのか、始まるのが怖いのか、もう分からなかった。
14
第十四章 隣の席の距離
十二月に入った。
東京の空気が乾いて、肌が少しだけ敏感になる季節だった。
プロジェクトのリリースが近づき、追い込みの日々が続いた。三嶋もオフィスに来る頻度が増え、凛のすぐ隣の席で作業することが多くなった。
近い。
物理的に近い。
三嶋がコーヒーを飲む音。キーボードを叩くリズム。考え込んだときに首の後ろを触る癖。ため息のような、かすかな吐息。
そのすべてが、凛の神経を撫でた。
木曜日の午後、会議室で二人きりになった。
画面遷移のアニメーションについて話しているとき、三嶋がモニターを指差しながら身を乗り出した。凛のすぐ横に来る形になって、彼のパーカーの袖から、石鹸に似た匂いがした。柔軟剤だろうか。清潔で、少しだけ甘い。
「ここのフェードイン、もう少しゆっくりでもいいかもしれないですね」 「何ミリ秒くらい?」 「三百……いや、四百。ここは余韻が欲しい」
余韻。
三嶋の声が、いつもより低い気がした。会議室は暗めの照明で、窓の外はもう暗い。モニターの光だけが二人の顔を照らしている。
「試してみます」
凛がマウスを動かそうとしたとき、三嶋の手が同じマウスに伸びた。指が重なった。
今度は一瞬ではなかった。
三嶋の指が、凛の指の上にある。温かくて、少しだけ硬い。爪の形がきれいだと、凛はぼんやり思った。
「……すみません」
三嶋が手を引こうとした。凛は、引かせなかった。
自分でも驚いた。でも、指が動かなかった。動かしたくなかった。
数秒間、二人はモニターの前で固まっていた。指が重なったまま。画面のアニメーションがループしていて、ゆっくりしたフェードインが繰り返されている。
「宮瀬さん」 「……はい」 「手」 「……分かってます」
凛はゆっくりと指を離した。心臓がうるさい。顔が熱い。
「すみません」と凛は言った。
「謝らないでください」
三嶋の声は穏やかだったが、少しだけ掠れていた。
その掠れ方が、凛の胸の奥を抉った。この人も、揺れている。自分と同じように。
15
第十五章 リリース前夜のキス
リリース前夜。
バグの最終修正を終えたのは午前零時を過ぎていた。チームのほとんどは帰り、オフィスに残っていたのは凛と三嶋だけだった。
フロア全体の照明が落ちて、デスクランプとモニターの光だけが残っている。夜のオフィスは、昼間とはまったく違う空間になる。天井が高く感じられ、空調の低いうなりが海の底みたいに響く。
「お疲れさまでした」
三嶋がコンビニのコーヒーを差し出した。無糖。凛はそれを受け取り、デスクに肘をついた。
「やっと終わりましたね」 「ああ、いいプロダクトになったと思います」 「三嶋さんのおかげです」 「宮瀬さんのおかげですよ」
また、お互いを立てる会話。凛はふと笑ってしまった。
「わたしたち、いつもこうですよね。お互いに、相手のほうがすごいって言い合って」 「褒め合い地獄」 「そう。で、肝心なことは言わない」
三嶋はコーヒーカップを置いた。
ずらりと並んだモニターの待機ランプが、暗闘の中で小さな星座のように瞬いている。遠くのエレベーターの音が、時々かすかに聞こえる。
「宮瀬さん」 「はい」 「プロジェクトが終わったら、俺たち、会う理由がなくなりますね」
凛の指が、コーヒーカップの取っ手を握りしめた。
「そうですね」 「それが嫌だなと思ってる」 「……」 「仕事だから会えてた。仕事がなくなったら、わざわざ会いに行く理由を、自分で作らなきゃいけない」
三嶋は凛のほうを向いた。暗い中で、彼の目だけがモニターの光を反射して光っている。
「作りたいと思ってます。理由」
凛は口を開きかけて、何も言えなかった。
怖かった。この関係に名前をつけることが。名前をつけた瞬間、失う可能性が生まれる。名前のない関係は、失う痛みも曖昧なままでいられる。
でも、曖昧なまま生きるのは、結局のところ、何も選ばないのと同じだ。
「わたしも」
凛は自分の声を、少し遠くで聞いた。
「作りたいと思ってます」
三嶋が立ち上がった。
二人の間にあったテーブル一つ分の距離を、半歩だけ縮めた。凛は座ったまま、彼を見上げた。暗いオフィスの中で、三嶋のシルエットだけがくっきりと見えた。
「凛さん」
名前で呼ばれたのは、初めてだった。
凛は立ち上がった。椅子が小さな音を立てて後ろに下がった。
三嶋との距離は、腕を伸ばせば届くくらいだった。モニターの光が彼の顔を半分だけ照らしていて、目元の影が深い。
「三嶋さん」 「はい」 「わたし、怖いです」 「何が」 「こうやって、あなたの近くにいることが。でも、離れるのはもっと怖い」
三嶋の手が、ゆっくりと凛の左手に触れた。
今度は偶然じゃなかった。意図をもって。確かめるように。
凛は、その手を握り返した。指が絡んだ。手のひらが合わさった。温かかった。人の体温だった。
三嶋がもう半歩、近づいた。彼の胸が、凛のすぐ前にある。コートの繊維の匂いと、微かに石鹸の残り香。
「キスしていいですか」
三嶋の声は低くて、静かだった。訊ねているのに、命令みたいだった。凛の膝が、かすかに震えた。
「……はい」
三嶋の手が、凛の顎に触れた。指先が頬に添えられ、ゆっくりと顔を上げさせられる。
唇が、重なった。
柔らかかった。温かかった。コーヒーの苦みが、ほんの少しだけ残っている。
凛は目を閉じた。自分の唇が震えているのが分かった。情けないと思った。二十六歳にもなって、キスで震えるなんて。
でも、こんなキスは初めてだった。触れるか触れないかの、ぎりぎりの圧力。急がない。貪らない。ただ、ここにいる、ということを確かめるような接触。
三嶋が少しだけ離れた。額が触れ合う距離。彼の息が、凛の唇にかかっている。
「もう一回、いいですか」
凛は答える代わりに、自分から唇を寄せた。
今度は、さっきより少しだけ深かった。三嶋の手が凛の後頭部に回り、ショートカットの短い髪に指が沈む。凛は彼のコートの前を掴んだ。引き寄せるように。離さないように。
オフィスの闇の中で、モニターの待機ランプだけが瞬いていた。
16
第十六章 昼の公園で
リリース翌日の土曜日。
凛は自宅のベッドで目を覚まし、しばらく天井を見つめた。
昨夜のことを思い返す。キスのあと、二人はしばらくオフィスの暗闇の中で立ち尽くしていた。三嶋の手が背中にあって、凛は彼の胸に額を預けていた。心臓の音が聞こえた。自分のか、彼のか、分からなかった。
結局、タクシーを二台呼んで、別々に帰った。
車中で三嶋からメッセージが来た。「明日、会えますか」。凛は「はい」とだけ返した。
昼過ぎに代々木公園で待ち合わせた。十二月の空は高くて、乾いた冬の光が芝生の上に落ちていた。
三嶋はベンチに座って本を読んでいた。凛が近づくと、顔を上げて、少し照れたように笑った。昨夜とは違う顔だった。夜の三嶋は影があって鋭かったが、昼間の三嶋は、角が取れて柔らかい。
「早いですね」 「三嶋さんが早い」
買ってきたホットコーヒーを渡すと、三嶋は受け取って匂いを嗅いだ。
「無糖」 「当然」
並んでベンチに座った。昨夜キスした唇が、同じ空気を吸っている。凛は自分の唇に指を当てそうになって、やめた。
「昨日のこと」
三嶋が切り出した。
「はい」
「後悔してる?」
「してないです」
凛は前を向いたまま言った。
「してないけど、怖いです」 「何が」 「ここから先に進むことが。三嶋さんとの関係が変わることが。……変わった先で、うまくいかなかったらどうしようって」 「うまくいかないかもしれない」 「身も蓋もないですね」 「でも、うまくいくかもしれない。どっちか分からないなら、知りたいほうを選びたい」
凛は三嶋の横顔を見た。冬の陽光が彼の目に反射していて、瞳が琥珀色に見えた。
「三嶋さんって、こういうとき迷わないんですね」 「迷ってますよ。ずっと。ただ、迷ったまま動くことにしてる」
犬を散歩させる人が前を通り過ぎた。小さな子どもが父親の手を引いて走っていく。土曜の公園は、生活の色で満ちていた。
「凛さん」 「……まだ慣れないです、その呼び方」 「慣れてください」 「強引」 「こういうところは、強引でいたいので」
凛は少しだけ笑った。笑ったら、怖さが少しだけ薄まった。
「今日、このあと、特に予定ないです」 「わたしも」 「散歩しませんか。昼間の東京」 「終電のあとじゃなくて?」 「終電のあとじゃなくて」
凛は立ち上がった。
二人は公園を出て、冬の陽射しの中を歩き始めた。
歩きながら、凛は自分から三嶋の手に指を絡めた。昨夜はオフィスの暗闇の中だった。今は、十二月の太陽の下だ。誰でも見える場所で、この人の手を握っている。
三嶋は何も言わず、その手を握り返した。
静かで、当たり前のような仕草だった。
17
第十七章 手を繋ぐ一週間
付き合い始めて、最初の一週間は、手を繋ぐだけだった。
夜の散歩が、昼間のデートになった。代々木公園。新宿御苑。下北沢の古着屋。神楽坂のフレンチ。
三嶋は凛の好みを訊かずに選ぶ店が、いつも正解だった。気取りすぎず、手を抜きすぎず、ちょうどいい余白のある場所。デザイナーだから当然かもしれないが、凛はその選択の精度に、いちいちときめいた。
デートの帰り際、三嶋は凛の頬にキスをして、タクシーに乗せてくれた。
それ以上のことは、しなかった。
凛はそのことに安心していた。同時に、焦れてもいた。
二週目の水曜日。三嶋の家に初めて行った。
代々木のマンションの五階。ワンルームだが広めで、壁に大きなモニターと、棚いっぱいのデザイン書がある。部屋は整頓されていたが、生活感がないわけではなくて、キッチンにマグカップが二つ伏せてあったり、窓際に枯れかけた植物があったり。
「散らかっててすみません」 「全然散らかってないですけど」 「心理的に散らかってる」 「何それ」
三嶋はコーヒーを淹れてくれた。ハンドドリップ。丁寧に湯を注ぐ彼の手元を、凛はソファに座って見ていた。
長い指。きれいな手首。袖をまくった前腕に、うっすら血管が浮いている。
凛は自分の視線が、仕事の相手を見るそれではないことを自覚していた。この人の腕に触りたいと思っている。この人の鎖骨のあたりに、顔を埋めたいと思っている。
コーヒーを受け取って、一口飲んだ。深くて苦い。
「おいしい」 「よかった」
三嶋はソファの反対側に座った。距離がある。凛は、その距離の意味を考えた。
「三嶋さん」 「はい」 「なんで遠くに座るんですか」
三嶋は一瞬だけ目を見開いた。それから、小さく笑った。
「近づくと、止まれなくなりそうだから」
凛の心臓が跳ねた。
「止まらなくていいです」
自分の声が、こんなに低く出ることを、凛は知らなかった。
三嶋はコーヒーカップを置いた。静かに立ち上がり、凛のそばに来た。ソファが沈む。彼の体温が、すぐ隣にある。
三嶋の手が、凛の頬に触れた。親指が頬骨の下をなぞる。
「凛さん」 「はい」 「きれいだ」
凛は目を伏せた。耳が熱い。
「お世辞」 「本気で言ってる」
三嶋の指が、凛のショートカットの襟足をなぞった。耳の後ろ。首筋。鎖骨のくぼみ。
凛は息を詰めた。
「ここ、好きです」
三嶋が凛の耳元でささやいた。吐息が耳たぶにかかって、背骨に沿って甘い痺れが走った。
「ショートカットだから見える。ここが」
指先が、鎖骨のくぼみの上を往復した。
凛は三嶋のシャツの前を掴んだ。引き寄せるように。
「……三嶋さん」 「拓海、でいいですよ」 「拓海さん」 「さんもいらない」 「……拓海」
名前を呼んだ瞬間、三嶋の目の色が変わった。
唇が重なった。今度は、オフィスの暗闘の中の、確かめるようなキスではなかった。深くて、熱くて、息が足りなくなるようなキスだった。
三嶋の手が凛の腰に回った。引き寄せられて、身体が密着する。彼の心臓の音が、凛の胸に直接伝わってくる。速い。自分と同じくらい。
凛は三嶋の首に腕を回した。彼の髪の毛先が指に触れた。柔らかい。
キスが途切れて、三嶋が凛の目を見た。近い。睫毛の一本一本まで見える距離。
「このまま、いい?」
声が低い。かすれている。
凛は頷いた。
声が出なかった。出さなくても、伝わっていた。
18
第十八章 冬の朝、隣で
三嶋の部屋で目を覚ましたのは、翌朝の七時だった。
カーテンの隙間から、十二月の朝の光が細く差し込んでいる。白い光。冬の東京の、乾いた光。
隣で三嶋が眠っている。仰向けで、片腕を顔の横に投げ出して。寝息が規則正しい。起きているときのあの落ち着いた顔が、眠っているとずいぶん無防備で若く見えた。
凛は身体を少しだけ起こして、自分の状態を確認した。裸だった。掛け布団が胸のあたりにかかっていて、肩が冷たい。
昨夜のことを思い返す。
三嶋の手つきは丁寧だった。焦らず、乱暴でなく、でも確かだった。凛の身体の反応をひとつひとつ確かめるように触れてくる。ここは? と声に出さずに訊くような、あの指先の動き。
凛は恥ずかしさより先に、安堵を感じた。この人の前で裸になることが、怖くなかったことに。
身体を重ねるとき、凛は泣きそうになった。快感とは違う涙だった。長いあいだ誰にも触れられなかった肌が、誰かの体温を受け入れる。その感覚は、淋しさが溶けていくのに似ていた。
三嶋の首筋に顔を埋めたとき、彼が凛の髪を撫でた。短い髪を、指の間に通すように。
「凛」
名前を呼ばれた。声が、体の中に直接響いた。
――そこまで思い出して、凛は布団に顔を沈めた。耳が熱い。
隣で、三嶋が身じろぎした。
「……おはよう」
寝起きの声。低くて、少しだけしゃがれている。
「おはよう」
凛は顔を上げた。三嶋は半分目を開けて、こちらを見ている。
「何時?」 「七時」 「早いな……」 「歳ですかね」 「俺のこと?」 「自分のことです」
三嶋は小さく笑って、手を伸ばした。凛の頬に触れる。指先が、こめかみから耳の後ろをたどった。
「昨日」 「はい」 「大丈夫だった?」 「……大丈夫じゃないです」 「え」 「大丈夫じゃないくらい、よかった」
三嶋は目を見開いてから、照れたように視線をそらした。
「そういうの、朝から言うの反則」 「自分の気持ちには正直でいたいので」
凛は三嶋の真似をして言った。三嶋が吹き出した。
凛は彼の胸に顔を戻した。心臓の音が聞こえる。穏やかで、規則正しい。
この音を聞いていたい、と思った。今日も、明日も、その先も。
でもその「先」を口にするのは、まだ早い気がした。
19
第十九章 身体の地図
付き合い始めて、三週間が過ぎた。
凛の生活は、劇的に変わったわけではなかった。朝起きて、電車に乗って、オフィスでコードを書いて、帰る。ルーティンは同じだ。
ただ、夜が変わった。
三嶋の家に泊まる夜が増えた。週に二回、三回。彼の部屋には凛の歯ブラシが一本増え、枕元に凛が読みかけの文庫本が置かれるようになった。
三嶋は凛の身体を、知るほどに丁寧に扱った。どこに触れると凛が声を上げるか、どこに唇を寄せると凛が目を閉じるか。それを覚えていく過程が、凛にとっては怖くもあり、甘くもあった。
知られている、という感覚。自分の身体の地図を、他人が持っている。そのことに慣れるまで、少し時間がかかった。
ある夜、三嶋の腕の中で、凛はぽつりと言った。
「わたし、こういうの苦手だったんです」 「こういうの?」 「誰かに身体を預けること。元彼のときも、最後のほうは避けてた」 「……」 「でも拓海とは、怖くない。なんでかな」
三嶋は凛の髪を撫でた。
「たぶん、俺が急がないからじゃないですか」 「そうかも」 「急がないのは、怖いからなんですけどね。壊したくなくて」 「何を」 「凛が、俺の前にいてくれるということを」
凛は三嶋の胸に顔を押し当てた。泣きそうだった。泣くような場面じゃないのに。
こういう言葉を、凛はずっと欲しかったのだと思う。愛しているとか、好きだとか、そういう大きな言葉ではなく。「ここにいてくれる」という、ただそれだけの肯定。
20
第二十章 胸の奥の小さな棘
年末が近づくにつれて、凛は少しずつ不安を感じ始めた。
理由は分からなかった。三嶋との関係は順調だった。仕事は終わったが、次のプロジェクトでまた一緒に組む話も出ていた。週末は一緒に過ごし、平日の夜はメッセージをやり取りした。
なのに、胸の奥に小さな棘がある。
きっかけは些細なことだった。
金曜の夜、三嶋の部屋で食事をしたあと、凛がシャワーを浴びている間に、彼のスマートフォンが鳴った。浴室から出ると、三嶋は電話を終えていた。
「誰から?」
何気なく訊いた。
「前の職場の人。忘年会の誘い」 「行くの?」 「たぶん行かない」 「行けばいいのに」 「凛と過ごしたい」
正しい答えだ。凛が聞きたい答えだ。
なのに、凛は引っかかった。「前の職場の人」が誰なのか。男か女か。三嶋の過去に、どれだけの人がいたのか。
自分でも嫌になるほど、醜い感情だった。
「凛?」 「ごめん、なんでもない」 「嘘。何かあるでしょ」 「……ない」
三嶋は凛の顔を覗き込んだ。
「嘘つくの、下手だよね」 「うるさい」
凛はソファに座って、膝を抱えた。濡れた髪から、シャンプーの匂いがする。三嶋が使っているのと同じシャンプー。いつのまにか、凛もこの匂いを纏うようになっていた。
「嫉妬、してる?」
三嶋が静かに訊いた。
「してない」 「してるでしょ」 「……してるかも」
認めた瞬間、目の奥が熱くなった。
「馬鹿みたいでしょ。たかが電話一本で」 「馬鹿みたいじゃない」 「大人の女が嫉妬なんて」 「大人だから嫉妬するんだと思う。失うものが見えてるから」
三嶋は凛の隣に座り、濡れた髪を指で梳いた。
「前の恋人は、三年付き合って別れました。名前は千晶。今はもう連絡取ってない」
凛は目を見開いた。訊いてもいないのに。
「なんで言うの」 「凛が知りたそうだったから」 「……ずるい」 「隠してるほうがずるいでしょ」
凛は三嶋の肩に頭を預けた。
「わたし、重い女になってる」 「重くていい」 「よくない。こういうの、嫌われる」 「嫌われると思ってるなら、俺のことまだ信用してない」
その言い方に、凛は黙った。
信用。信頼。
コードには信用できるが、人間にはできない。ずっとそう思って生きてきた。でも、この人の前では、そのロジックが通じない。
「信用したい」
凛は小さく言った。
「してる、じゃなくて、したい、なのが凛らしい」 「……ごめん」 「いいよ。したいって思ってるだけで、十分だから」
三嶋が凛の額にキスをした。軽くて、温かい。
凛は目を閉じた。涙は、流れなかった。
21
第二十一章 こたつで越す年
年末の最後の日。
凛は三嶋の部屋で年を越すことにした。
スーパーで買った蕎麦を茹でて、小さなテレビで歌番組を流して、こたつに入って向かい合って食べた。こたつは三嶋が凛のために買ったもので、それだけのことが、凛をひどく動揺させた。
「わたしのためにこたつ買ったの」 「寒がりだから」 「普通は毛布とかじゃない?」 「毛布じゃ一緒に入れないでしょ」
そういう論理だった。デザイナーの論理は、時々エンジニアには分からない。
午前零時が近づいて、テレビの中でカウントダウンが始まった。三嶋は蕎麦つゆの入った碗を洗いに立ち、凛はこたつの中で膝を抱えていた。
いつもと同じ三嶋の部屋。いつもと同じ照明。いつもと同じ空気。なのに、年が変わるというだけで、すべてが少し特別に見えた。
三嶋がこたつに戻ってきた。
「あと三分」 「うん」
凛は三嶋の顔を見た。テレビの光が彼の顔に反射している。
「拓海」 「ん」 「来年も、こうしていたい」
言ってから、恥ずかしさで顔が燃えた。
三嶋は一瞬驚いた顔をして、それからゆっくり笑った。
「俺もそう思ってた。言えなかっただけで」 「なんで言えなかったの」 「重いって思われたら嫌だったから」 「お互い馬鹿みたい」 「馬鹿だね」
テレビの中で、カウントダウンが始まった。十、九、八。
三嶋の手が、こたつの下で凛の手を取った。
七、六、五。
「来年もよろしく」
三嶋が言った。
四、三、二、一。
「よろしく」
凛は笑った。
年が変わった瞬間、三嶋が凛にキスをした。蕎麦つゆの味が少しだけ残っていて、それがおかしくて、キスの途中で二人とも笑ってしまった。
笑いながらキスをするのは、初めてだった。
こういうのがいい、と凛は思った。ドラマチックじゃなくて。きれいじゃなくて。蕎麦の味がして、少し笑って、こたつの中で手を繋いでいる。
こういうのが、ずっと続けばいい。
22
第二十二章 窓を開けたあと
年が明けて、凛は少しずつ変わり始めた。
自分でも分かる変化だった。ミーティングで発言が増えた。同僚と飲みに行く回数が増えた。片桐に冗談を返せるようになった。
「やっぱ変わったな、宮瀬」
片桐がまた言った。
「前は鉄壁っていうか、バリアみたいなのがあったけど、最近はなんか、風通しがいい」 「風通し」 「うん。窓開けた感じ」
窓を開けたのは三嶋だ、と凛は思った。いや、窓を開けたのは自分だ。三嶋が来たから、開けようと思えただけで。
一月の半ば、新しいプロジェクトが始まった。三嶋もまたデザイナーとして参加することになった。
付き合い始めてからの仕事は、少しだけ緊張した。隣で作業しているとき、彼の指先を目で追ってしまう。声に反応してしまう。プライベートの三嶋と、仕事の三嶋を切り分けなければいけないのに、その境界が曖昧になる。
「宮瀬さん、ここの実装、確認お願いできますか」
仕事中の三嶋は「宮瀬さん」に戻る。その切り替えの正確さが、凛には少し切なかった。でも、正しいことだと分かっていた。
けれど会議室で二人きりになったとき、三嶋がふいに凛の手首を掴んだ。
「え」 「ごめん、触りたかった」 「仕事中でしょ」 「分かってる」
手首を掴む力が少しだけ強くて、凛の息が止まった。三嶋の親指が、手首の内側の脈の上に乗っている。鼓動が伝わっているのが分かる。
「速い」 「当たり前でしょ、急に掴むから」 「ごめん」 「ごめんの顔してない」 「してないかも」
三嶋が笑って手を離した。凛は手首を反対の手で押さえた。触れられた箇所が、しばらくのあいだ熱を持っていた。
23
第二十三章 合鍵の重さ
二月。
東京は一年でいちばん寒い時期を迎えていた。
凛と三嶋の関係は、穏やかに深まっていた。大きな喧嘩はなかった。小さな摩擦はあった。三嶋がリモートワーク中に連絡を返さない時間が長かったり、凛が疲れて無口になったりすると、ほんの少しだけ空気がずれる。
でもそのたびに、どちらかが先に声をかけた。「大丈夫?」あるいは「ごめん」。
その繰り返しが、二人のあいだに薄い信頼の層を積み重ねていった。
ある日曜日、三嶋がぽつりと言った。
「合鍵、渡してもいいですか」
凛は驚いた。
「いいの?」 「凛が来るたびに、俺が先に帰ってなきゃいけないのが、もったいなくて」 「もったいない?」 「凛が家に先にいて、帰ったら迎えてくれる。そういうのが見たい」
凛は顔が熱くなった。
「迎えるって、犬みたい」 「犬でもいい」 「よくない」
けれど凛は、合鍵を受け取った。銀色の、小さな鍵。それが凛のキーケースに加わった瞬間、何かが確定した気がした。
初めて一人で三嶋の部屋に入った日、凛はしばらく玄関に立っていた。
誰もいない部屋。三嶋の匂い。本棚。キッチン。こたつ。ベッド。
この空間に、自分が存在することを許されている。その事実が、凛の胸を静かに満たした。
冷蔵庫を開けて、食材を確認した。卵と、小松菜と、豆腐。凛は味噌汁を作ることにした。
三嶋が帰ってきたのは、味噌汁ができたころだった。
「ただいま」
玄関で靴を脱ぐ音。コートを掛ける音。
「おかえり」
凛はキッチンから声をかけた。
三嶋がキッチンに顔を出したとき、その表情を見て凛は笑ってしまった。幸せを隠しきれない顔。三十一歳の男のものとは思えないくらい、無防備な笑顔。
「何」 「いや。思ったより嬉しい」 「思ったよりって何」 「想像してたけど、実物のほうがよかった」 「……味噌汁、飲む?」 「飲む」
小さなテーブルに向かい合って座り、味噌汁を飲んだ。凛の作った味噌汁は少し味が濃かったが、三嶋は何も言わずに飲み干した。
「おいしい」 「嘘。濃いでしょ」 「濃いけど、おいしい」 「それ、おいしいって言わないんじゃ」 「言うんです。凛が作ったから」
凛は三嶋の頭を軽く叩いた。
「そういうの言うのずるい」 「知ってる」
三嶋が笑った。
こたつに入って、テレビを見て、凛が三嶋の肩にもたれて、いつのまにか眠った。目が覚めたら、三嶋がブランケットをかけてくれていて、彼も隣で眠っていた。
こたつの中で、手が繋がっていた。
凛はそっとその手を握り直した。三嶋は眠ったまま、少しだけ握り返した。
冬の東京の夜は長い。でも、この長さが心地いいと思えるようになったのは、たぶん生まれて初めてだった。
24
第二十四章 雫のピアス
三月の初め。
凛は二十七歳の誕生日を迎えた。
三嶋は何も言っていなかったが、その日の夜、仕事を終えて彼の部屋に行くと、テーブルの上に小さな箱が置いてあった。
「誕生日おめでとう」 「……覚えてたんだ」 「入社情報の書類に書いてあった」 「それ個人情報」 「知ってる」
箱を開けると、シルバーのピアスが入っていた。小さな雫の形。シンプルで、飾りすぎない。凛の耳元に似合うデザイン。
「ショートカットだから、耳元が見える。だから」
三嶋は少し照れたように言った。
凛はピアスを耳につけた。洗面台の鏡で確認すると、小さな雫が光を受けて揺れている。
「似合う?」 「似合う」 「ほんとに?」 「ほんとに。設計通り」
凛は鏡越しに三嶋を見た。彼が背後に立って、凛の肩越しに鏡を見ている。
「設計通りって、デザイナーっぽい言い方」 「デザイナーだから」 「わたしのこともデザインしてるの?」 「してない。凛はコードだから。俺にはいじれない」
凛は笑った。
「ありがとう。すごく嬉しい」 「よかった」
振り返って、三嶋の胸に額を預けた。彼の腕が背中に回る。
二十七歳。
去年の誕生日は、一人でコンビニのケーキを食べた。今年は、誰かの腕の中にいる。
一年で、こんなに変わるものなんだ、と凛は思った。
人生も。自分自身も。
「拓海」 「ん」 「わたし、好きだよ」
初めて、その言葉を口にした。
三嶋の腕に、少しだけ力がこもった。
「俺も」
短い返事だった。でもその声は、かすかに震えていた。
あの夜、バーで「好きかどうか分からない」と言い合った二人が、半年かけてたどり着いた言葉。
大きな言葉じゃなくていい。確かであれば。
25
第二十五章 終電のあとの散歩
三月の半ば。
東京に、春の気配が混じり始めた。
凛はオフィスの窓から、渋谷の街を見下ろしていた。まだコートが必要な寒さだが、空の色がほんの少しだけ柔らかくなっている。冬の透明な空気から、春の湿り気を含んだ空気へ。季節が移ろうとしている。
スマートフォンが鳴った。三嶋からのメッセージ。
「今夜、終電のあとに散歩しない?」
凛は画面を見て、少し笑った。
終電のあとの散歩。二人の関係が始まった場所。名前のない時間だった、あの深夜の東京。
「付き合ってるのに、わざわざ終電逃すの?」 「たまには原点に戻りたくて」 「原点」 「うん。あの夜の渋谷に」
凛はしばらくスマートフォンを見つめてから、返事を打った。
「いいよ。逃そう、終電」
午前一時の渋谷は、あの夜と同じ顔をしていた。
けれど、違うこともあった。隣にいる人の手を、もう躊躇わずに握れること。名前のない関係ではなく、名前をつけた関係であること。
二人は道玄坂を上り、円山町を抜け、神泉を過ぎて代々木のほうへ歩いた。あのときと同じ道だった。
「覚えてる?」
凛が訊いた。
「ここで、ラブホのネオンが恥ずかしかった」 「気にしないでください、って言ったんだよな」 「そう。笑わなかった。それが嬉しかった」
三嶋は凛の手を握り直した。
「あのとき、宮瀬さんの横顔を見て思った」 「何を」 「この人のことを、もっと知りたいって」 「それだけ?」 「それだけで十分だったよ。始まりは」
凛は三嶋の腕に自分の腕を絡めた。三月の夜風は、まだ冷たい。でも、隣に体温がある。
「わたしね」 「うん」 「終電を逃した夜が、人生で一番良い判断だったかもしれない」 「それは結果論」 「そうかも。でも結果が良かったから、いいでしょ」 「……そうだね」
三嶋が笑った。
代々木公園の手前で、凛は立ち止まった。あのとき三嶋が「このあと、どうします」と訊いた場所。凛が「帰ります」と答えた場所。
「拓海」 「ん」 「このあと、どうする?」
凛がわざと訊いた。三嶋は一瞬きょとんとして、それから分かったように笑った。
「帰ろう」 「どこに?」 「家に。一緒に」
凛は笑った。
あの夜は、一人で帰った。タクシーの中で、ほうじ茶のペットボトルを握りしめて。
今夜は、二人で帰る。
つないだ手の温度は、缶コーヒーの余熱なんかじゃない。この人自身の温度だ。半年かけて知った、この人の手のひらの温度。
終電のあとの東京は、今夜も少しだけ別の顔をしている。
でもその顔が怖くなくなったのは、隣にいる人のおかげだ。
名前をつけた。この関係にも。この気持ちにも。この先の不確かさにも。
全部に、名前をつけた。
それが大人になるということなら、悪くない。
全然、悪くない。
26
あとがき
本作は、東京を舞台にした大人の恋愛を描くオリジナル創作の長編小説です。