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2026.03.08長編 ・ 63分

銀色の客人

雪国の温泉街に現れた銀色の円盤と、湊が出会う異質な客人から始まる長編。

銀色の客人

01

第一章 雪の底の光

二月の終わり、県境の町である湯澤町は、まだ深い雪のなかに沈んでいた。

 昼のあいだ、国道沿いでは除雪車が押しのけた雪が壁のように積み上がり、観光客はその白い回廊の隙間を縫うように歩く。温泉街では、旅館の軒先から細く湯気が立ちのぼり、スキー帰りの客たちが濡れた手袋を片手に土産物屋をのぞいている。越後湯澤駅の構内だけはいつも少し明るすぎて、外の青白い世界とは別の場所みたいだった。

 だが夜になると、町は急に本来の姿へ戻る。
 白く、静かで、音を吸い込む土地。

 高校二年の小南湊は、その夜、祖母の営む小さな民宿「こみなみ荘」の裏口に立っていた。
 夕食の片づけを終えたばかりだった。食堂では、東京から来たスノーボーダーたちがまだ缶ビールを片手に笑っている。祖母は台所で明日の仕込みをしていて、母は帳場で宿泊名簿を閉じていた。父は数年前に家を出て、今は長岡で別の仕事をしている。特に絶縁というほどでもないが、もうこの民宿の話をすることはほとんどなかった。

 湊は息を吐き、白くなるそれを見た。

 静かな夜だった。
 雪が降っているわけではない。雲もほとんどない。冷え込みだけが鋭く、遠くの山々の稜線が月明かりで硬く光っていた。

 そのときだった。

 山の向こう、苗場の方角の空に、ひとつの光が浮かんだ。

 最初、湊は飛行機だと思った。
 だがすぐに違うとわかった。飛行機なら決まった方向へ進む。ヘリなら音がある。ドローンなら、あんな高さにはいない。

 その光は、空の一点でぴたりと止まり、次の瞬間には信じられない速度で真横へ滑った。

「……なんだ、あれ」

 誰もいないはずの裏庭で、湊は思わず声を漏らした。

 光は青白かった。
 夜空の黒を切り裂くような、鋼鉄を磨いた時のような色。星の瞬きとは違う。もっと人工的で、もっと冷たい。

 湊はポケットからスマホを取り出した。
 ロック解除にもたつき、カメラを立ち上げようとする。指先が冷えてうまく動かない。ようやく動画に切り替えた時には、その光はもうかなり近くまで来ていた。

 ありえない、と思った。
 遠くに見えていたはずなのに、数秒で民宿の裏手の空き地の上にいる。

 光の正体は、円盤だった。

 よくある空飛ぶ円盤。
 昔の映画や古い雑誌の挿絵で見たことがあるような、銀色の皿のような形。ふざけているみたいな見た目なのに、目の前にあると妙に現実感がある。玩具のように単純な輪郭のくせに、存在そのものが風景から浮いていた。

 円盤は雪面から一メートルほど上空で停止した。
 エンジン音も風もない。なのにその周囲だけ、雪の粒がふわりと舞い上がっている。まるで重力の向きがそこだけ少し狂っているみたいだった。

 湊は数歩、前に出た。
 恐ろしい、という感覚はなぜか遅れてやってきた。先に来たのは好奇心だった。こんなものを見て、逃げるだけで済ませられるほど、湊は冷静な人間ではなかった。

 耳の奥に、低い振動のようなものが響いている。
 電車がずっと遠くを走っている時のような、かすかな唸り。

 円盤の底面に一本の細い線が現れた。
 やがてその線が楕円形に広がり、音もなく開いた。

 中は暗かった。
 暗いというより、奥行きの感覚がない。黒い穴というより、そこだけ世界の情報が欠けているような妙な闇だった。

 そして、その闇の中から、何かが降りてきた。

 湊は無意識に息を止めた。

 相手は、人間に見えた。

 身長は湊より少し低い。
 肩から膝にかけて、灰色のコートのようなものをまとっている。素材は布にも金属にも見える。顔の下半分は半透明の膜で覆われていて、肌の色は夜のせいかほとんどわからない。
 だが、歩き方が妙だった。雪面に足を置いているのに、深く沈まない。重さが半分しかないみたいだった。

 その人物は湊の前まで来て、立ち止まった。

「ここは」

 口元は動かなかった。
 なのに声だけが、湊の頭の中へ直接落ちてきた。

ユザワ。地点照合、一致」

 湊の喉がひくりと鳴る。

「え、ちょっと待って。誰」

 相手は数秒、沈黙した。
 観察されているのがわかった。目の位置はわかるのに、表情が読めない。

「質問の意図は理解した」

 また頭の中に声が響く。

「わたしは、あなたの分類でいう地球外知的生命体ではない」

「いや分類とかいいから、まずそこを分かりやすく言ってくれない?」

「わかった」

 相手は少しだけ首をかしげた。

わたしは未来の人類だ

 湊はその場で固まった。
 脳が、その情報をそのまま受け取るのを拒否した。

「……は?」

「あなたの時代から、非常に遠い時代の地球人類。その末裔。外見差異が大きいため、誤認は自然」

 湊は思わず笑いそうになった。笑うしかなかった。
 湯澤の民宿の裏で、夜中に、銀色の円盤から出てきた存在が「未来の人類です」と名乗っている。頭のどこかが、夢だと判断しようとしていた。

「じゃあ、宇宙人じゃないってこと?」

「定義による」

「めんどくさいな……」

「その感想は記録する価値がある」

「記録してどうすんの」

「参照する」

「何を」

「過去を」

 その返答だけが、不思議と冗談に聞こえなかった。

 湊は一歩、さらに近づいた。
 相手からは匂いがしなかった。人間なら、雪の夜には服の湿り気や冷気や体温の気配がある。けれど目の前の存在にはそれが薄い。まるで実体の密度が少し違う。

「なんで、湯澤なんだよ」

「観測地点だから」

「何を観測するの」

 相手は空を見上げた。月は雲に隠れかけていた。

雪を

 その一言が、妙に鋭く湊の胸に刺さった。

「雪?」

「この土地の積雪。融雪。生活との結びつき。気候変動の進行に対する人間の心理応答。文化の変化。町の継続性」

「……なんか、すごい真面目だな」

「わたしたちの時代では重要だ」

 未来人は足元の雪を見下ろした。

「あなたたちにとって、雪は日常の一部だ。時に邪魔で、時に恵みで、時に観光資源で、時に災害でもある。だがわたしたちの時代には、それが“失われた環境”として扱われる地域が多い」

 湊は眉をひそめた。
 町の人たちが最近よく口にする言葉が頭をよぎる。
 昔より雪の降り方が変わった。ドカ雪が増えた。暖冬が増えた。スキー場のオープン時期が読めなくなった。そういう話だ。

「未来じゃ、湯澤に雪がないのか」

「年による。場所による。だが、あなたの知る“当然の冬”は希少になる」

 湊は反射的に言い返した。

「そんなの、まだ分からないだろ」

 未来人は黙った。

「たしかに最近変だよ。けど、まだここには雪がある。駅を出れば白いし、朝は雪かきしなきゃいけないし、客だってスキーしに来る。なくなる前提みたいに言われるの、なんか嫌だ」

 語気が強くなっていた。
 自分でも意外だった。相手はどう考えても異常な存在で、怖がるべきなのに、湊はなぜか腹を立てていた。

 未来人はしばらく動かなかった。
 その沈黙が、怒っているのか、考えているのかも分からない。

 やがて、頭の中に声が戻る。

「訂正する」

「え」

「“消える前の雪”ではなく、“まだ在る雪”」

 湊は少しだけ言葉を失った。
 たったそれだけの言い換えなのに、胸の引っかかりがわずかにほどけた。

「……そっちの方がいい」

「学習した」

 そのとき、民宿の裏口が勢いよく開いた。

「湊ー! 何してんの、こんな寒いところで!」

 祖母の声だった。

 湊は振り返る。
「今行く!」

 ほんの一瞬だけ視線を切った。

 再び前を向いたとき、そこにはもう誰もいなかった。

 円盤も、未来人も、青白い光も、何ひとつ残っていない。
 ただ雪面の上に、自分の足跡だけが並んでいる。

「……は?」

 湊は空き地へ駆け寄った。
 何もない。痕跡がなさすぎる。雪が少し乱れている気もしたが、気のせいだと言われたらそれまでだった。

 スマホを見る。
 動画は撮れていた。だが画面はひどくぶれていて、最後の数秒に銀色の弧のようなものが映り込んでいるだけ。証拠としては弱すぎた。

「湊、聞いてんの?」

 祖母が不審そうにこちらを見ている。厚手のカーディガンの上から割烹着を羽織り、片手にはゴム手袋。いかにも仕事の途中という姿だ。

「……今、そこに変なのいなかった?」

「変なのって何」

「いや、その……人」

 祖母は湊の顔を見て、呆れたようにため息をついた。

「眠いんだよ。今日は客も多かったし」

「でも本当に——」

「いいから中入りな。顔が冷え切ってる」

 民宿に戻ると、ストーブの前の暖かさが現実感を一気に押し戻してきた。
 台所では味噌汁の匂いが残り、廊下には乾ききらないスキーウェアの湿気がある。テレビではローカルニュースが流れ、翌日の降雪予報を淡々と伝えていた。

 湊は食堂の隅でスマホ動画を見返した。
 何度見ても、決定的なものは映っていない。暗い空、かじかんだ手の揺れ、そして最後に一瞬だけ、銀色のもの。

「何見てるの」

 声をかけてきたのは、同級生の朝倉真尋だった。

 真尋は近所の旅館の娘で、同じ高校に通っている。今日は手伝いの帰りに寄ったらしい。濡れた髪を雑に後ろで結び、ダウンジャケットのポケットに両手を突っ込んでいる。顔立ちは整っているが、いつも不機嫌そうに見えるせいで、学校では少し近寄りがたいと思われがちだ。実際には、口が悪いだけで面倒見はいい。

「なんでもない」

「なんでもない顔じゃないけど」

 真尋は湊の隣に座り込み、スマホ画面をのぞきこんだ。

「……なにこれ。心霊動画?」

「違う。UFO」

「は?」

「見た」

 真尋は真顔のまま数秒黙り、それから言った。

「疲れてるね」

「その反応、予想してた」

「いやでも、湯澤にUFOって。もっとこう、アメリカの砂漠とかで出なよ」

「わたしに言うな」

「自分で言ってて変だと思わないの?」

「思う」

 そこまで言って、湊は少し黙った。
 真尋は茶化さなかった。湊が本気で言っていると分かると、彼女は案外ちゃんと聞く。

「……で、何を見たの」

 その声は少し低くなっていた。

 湊はさっきの出来事を、できるだけ順番に説明した。
 空の光。銀色の円盤。未来の人類。雪を観測しているという話。

 話しながら、自分でも途方もないことを言っていると何度も思った。だが真尋は途中で遮らず、最後まで聞いた。

「つまり」

 彼女は整理するように言う。

「UFOっぽい何かが来た。そこから人っぽい何かが出てきた。そいつは未来人だと言った。で、湯澤の雪を調べに来た」

「うん」

「映画なら面白い」

「現実だと?」

「かなり面倒」

 湊は苦笑した。
 真尋らしい言い方だった。

「信じてないでしょ」

「半分くらい」

「半分?」

「全部嘘ついてる顔でもないし、全部本当とも思えない」

「妥当だな……」

 真尋はしばらく考え込み、それから小さく肩をすくめた。

「でもさ」

「なに」

「未来人が雪を見に来るって話、ちょっと嫌な感じする」

「……分かる」

「なくなるかもしれないから記録しに来た、みたいなことでしょ」

「そんな感じ」

 真尋は食堂の窓の外を見た。
 ガラス越しの暗闇の向こうで、庭の雪だけがうっすら青く光っている。

「うちの父さんも最近よく言うよ。昔みたいな冬じゃなくなったって。旅館としては困るって」 「そっちも大変だよね」 「大変だよ。雪が多すぎても困るし、少なすぎても困る。ちょうどよく降ってくれなんて、天気に言っても意味ないけど」

 真尋は立ち上がった。

「明日、その空き地見せて」

「え」

「痕跡とかあるかもでしょ」

「信じてるの?」

「半分って言った」

「その半分、だいぶ優しいな」

「勘違いしないで。面白そうだから」

 そう言って彼女は帰っていった。

 その夜、湊はなかなか眠れなかった。
 布団にもぐって目を閉じるたび、あの青白い光が浮かぶ。未来人の声は、耳ではなく頭の中に直接届いていた。思い出すだけで、現実感の薄い寒気が背中を走る。

 午前一時を過ぎた頃、ようやくうとうとし始めたその時だった。

 窓が、ひとりでに白く光った。

 湊は飛び起きた。

 障子の隙間から差し込む光は月明かりではない。もっと人工的で、静かに脈打っている。
 部屋の空気がぴんと張りつめる。

 恐る恐る窓へ近づき、少しだけ障子を開けた。

 庭の雪の上に、何かが置かれていた。

 手のひらに乗るほどの、小さな銀色の物体。
 丸くて、表面には細い溝がいくつも走っている。機械部品にも見えるし、貝殻にも見える不思議な形だった。

 湊は靴下のまま廊下を抜け、裏口から外に出た。冷気が一気に肌に噛みつく。

 その物体は、自分の部屋の真下にぽつんとあった。
 雪の上に落ちているのに、沈んでいない。

 湊が手を伸ばすと、それはふっと淡く光った。

 触れた瞬間、頭の中に声が響いた。

通信補助端末。返答を要請する

 湊は凍りついた。

 声は、あの未来人のものだった。

「観測は継続される。だが単独では不十分。地上協力者を求める」

 湊は思わず小声で言った。

「……はあ?」

「小南湊。あなたを観測補助者として指名する」

 雪の町は静まり返っていた。
 どこか遠くで、夜行の新幹線がトンネルを抜ける微かな音がした。

 その小さな銀色の端末は、湊の手の中で心臓みたいにゆっくり脈打っている。

 そして湊は、まだ知らなかった。
 この夜を境に、自分が湯澤町に隠されていた時間の歪みへ足を踏み入れることになると。
 雪はただ降っているのではなかった。
 この町では昔から、ときどき、何かを隠すように降っていたのだ。

02

第二章 観測補助者

翌朝、湊はほとんど眠れないまま目を覚ました。

 枕元には、昨夜拾った銀色の端末が置いてある。
 夢ではなかった。手に取ると、金属とも陶器ともつかないひんやりした感触がした。表面には継ぎ目らしい継ぎ目がなく、ボタンも画面もない。それなのに指先を近づけると内側からかすかな青白い光がにじむ。

「湊、起きてる? 朝ごはんできるよ」

 母の声が襖の向こうからした。

「うん、今行く」

 とっさに端末を布団の下へ隠す。
 自分でも情けないと思った。だが説明できるわけがない。昨夜、未来人に通信端末を渡されました、なんて話しても、病院に連れていかれるか本気で心配されるかのどちらかだ。

 食堂では宿泊客たちが朝食をとっていた。焼き鮭、温泉卵、味噌汁、山菜の小鉢。いつも通りの湯澤の冬の朝だ。窓の外では除雪車が通り、ガラスが微かに震えている。

 祖母はすでに動き回っていた。七十を越えているのに、雪国の年寄りは異様に丈夫だ。大きな鍋を運びながら、湊にちらっと視線を向ける。

「今日、学校行く前に裏の雪少しどかしといて」

「分かった」

「ぼーっとしてると滑るよ」

「……うん」

 ぼーっとしている自覚はあった。
 食卓についた母が怪訝そうに言う。

「昨日から変だけど、ほんとに大丈夫?」

「寝不足」

「ゲームしすぎじゃないの」

「してない」

 湊は味噌汁をすすった。熱さが胃に落ちて、少しだけ現実が戻る。
 それでも制服のポケットに忍ばせた端末の存在が、ずっと意識の端に引っかかっていた。

 学校へ向かう途中、真尋が待ち構えていた。

「おはよ」

「早いね」

「そっちが遅い」

 真尋は歩きながら、いきなり本題に入った。

「で、あのあと何かあった?」

「なんで分かるの」

「顔」

「顔で全部分かるのやめてほしい」

「便利だから無理」

 湊は少し迷ったが、黙っている方が不自然だと思い、ポケットの中の端末を握った。

「……変なもの、もらった」

「は?」

 通学路の脇には背丈ほどの雪壁が続いている。歩道は狭く、二人は自然と距離を詰めて歩くことになった。湊は周囲に人がいないのを確かめ、端末を取り出して真尋に見せた。

「なにこれ」

「分からない」

「見たまんまだと高そうな文鎮」

「未来人の通信端末らしい」

「急に情報量が多い」

 真尋は端末を受け取ろうとした。
 だが彼女の指先が触れる前に、端末の表面が青く光り、短い音のような振動がした。

「登録対象外。接続拒否」

 真尋がぴたっと止まる。

「今しゃべった?」

「しゃべった」

「……機械が?」

「たぶん」

 真尋はしばらく無言で端末を見つめ、それから真顔で言った。

「半分じゃなくなったかも」

「でしょ」

「面倒の度合いが上がった」

 学校に着いても、その話ばかりしているわけにはいかなかった。
  一時間目は現代文、二時間目は数学。先生の声は耳に入るのに、頭の中には昨夜の言葉が回り続ける。観測補助者。地上協力者。どう考えても穏やかな肩書きではない。

 昼休み、真尋と校舎裏の人気のないベンチへ移動した。
 雪は朝より少しやわらかくなっている。体育館の屋根から、時おりどさりと塊が落ちる音がした。

「それで、端末は何て言ってたの」

 真尋が聞く。

「協力しろって」

「具体的には」

「まだそこまで聞けてない」

「なら聞けば」

「今?」

「今」

 湊は周囲を見回した。
 人気はない。息を吐くと白い煙になって流れていく。湊は端末を手のひらに載せ、小声で話しかけた。

「……聞こえる?」

 端末はすぐに反応した。

「受信確認」

 真尋が小さく肩を震わせる。さすがに驚いているらしい。

「あなた誰なの」

 湊は続けた。

「識別名は未設定。便宜上、昨夜と同一個体と理解してよい」

「便宜上って……名前ないの?」

「あなたたちの個体名文化とは異なる」

 真尋が横から口を挟んだ。

「不便だから名前つけよう」

 端末が少し沈黙する。

「必要性を理解できない」

「こっちが呼びづらい」

「合理的理由として承認」

 湊は思わず真尋を見た。
 この状況でも押し切るの、すごいなと思う。

「じゃあ……」

 湊は少し考えた。
 未来人の声は冷たいようでいて、どこか透明だった。ガラスみたいな印象がある。

硝子(しょうこ)

「それはあなたたちの言語における女性名か」

「そういう感じ。嫌なら変える」

「問題ない。以後、その識別名を受理する」

 真尋が吹き出しかける。

「未来人に適当な名前つけたね」

「適当じゃない」

「ちょっと古風でいいと思う」

 湊は端末へ向き直った。

「それで、わたしに何をさせたいの」

 硝子は答えた。

「観測点の補完。記録の回収。局所的時間異常の検出」

 最後の単語に、真尋が眉を寄せる。

「今、さらっと怖いこと言ったけど」

 湊も同感だった。

「時間異常って何」

「この地域には、複数の時代情報が不安定に重なっている地点がある」

「分かりやすく」

「過去と未来の痕跡が薄く混線する」

「もっと分かりやすく」

「まれに、本来そこに存在しない時代の現象が見える

 湊と真尋は同時に黙った。

 冬の校舎裏を、風が一筋だけ抜ける。
 雪煙が舞い、すぐに消えた。

「……それが、UFOと関係あるの?」

 湊が聞いた。

「ある。わたしたちの航行技術は、その異常を利用している」

「利用?」

「時間層の薄い場所では、時代間の移動コストが低下する」

 真尋が吐き捨てるように言う。

「言ってることは全然分かんないけど、危ないことだけは伝わる」

「認識は正しい」

「正しいんだ……」

 湊は端末を握り直した。

「なんで湯澤にそんな場所があるの」

 硝子は即答しなかった。
 それが逆に不気味だった。

「長期観測中」

「まだ分からないってこと?」

「主因は未確定。だが積雪、地下水、地質、人工構造物、電磁環境、人的活動記録が複合している可能性が高い」

 真尋がぽつりとつぶやく。

「トンネルとか?」

「関連は否定できない」

 湊はふと、町の外れの古いトンネルを思い出した。
 今はほとんど使われず、冬のあいだは雪で近寄りづらい。子どものころ、近くを通ると祖母に「あの辺は夕方以降行くな」と言われた場所だ。雪崩の危険だと思っていたが、それだけではないのかもしれない。

「で、何を回収するの」

「過去の記録媒体、および既存観測装置の残骸」

「残骸?」

「以前の観測個体が喪失した」

「え?」

「説明は後回しにする」

 湊は端末を握る指に力が入った。
 以前の観測個体。喪失。
 それはつまり、湯澤に来た未来人は硝子だけではなかったということだ。

 真尋が低く言う。

「その“喪失”って、死んだって意味?」

 端末は数秒沈黙した。
 それから、

「あなたたちの概念では近い」

 と答えた。

 昼休み終了のチャイムが鳴った。
 妙にのんきな電子音が、話の不気味さとまったく噛み合わない。

 真尋は立ち上がる。

「放課後、裏の空き地で続きね」

「うん」

「その未来人、危ない感じしかしない」

「硝子自身は、そこまで悪いやつじゃない気もする」

「悪いやつじゃないやつが、だいたい一番厄介」

 その評価は少しひどいが、否定しきれなかった。

 放課後。
 民宿の裏手の空き地には、朝よりも薄い雪がかぶっていた。昼の陽射しで少し締まり、表面だけが硬くなっている。

 真尋は長靴で雪を踏みながら、昨日UFOがいたという場所を確かめていた。

「足跡はもう無理か」

「そりゃそうだよね」

「でもここ、変」

「変?」

「雪の沈み方が少し違う」

 真尋はしゃがみ込み、手袋の先で表面を削った。
 たしかにそこだけ、雪の層が不自然に固い。氷の板のようなものが薄くできている。

「昨日、ここに何か熱いものでもあったみたい」

 湊はぞっとした。
 完全に痕跡ゼロだと思っていたのに、そうではないのかもしれない。

 そのとき、端末が震えた。

「反応検出」

「何の?」

「近傍に時間層乱れあり。警戒」

 湊と真尋が同時に顔を上げる。

 空は曇っていない。
 風もほとんどない。なのに、空き地の奥——古い物置小屋のあたりだけ、景色がわずかに揺らいだ。

 熱気の蜃気楼みたいな、空気の歪み。
 だが冬の雪の上で起こるはずがない。

「ねえ」

 真尋の声が少し硬くなる。

「今、見えてるよね」

「見えてる」

 歪みはゆっくり広がった。
 その向こうに、ありえない景色が重なる。

 雪の空き地のはずなのに、そこには雪のない地面があった。
 茶色い土。ぬかるみ。立ち枯れた草。
 さらに、その奥には古びた木造の小屋が見える。今は存在しない形だ。こみなみ荘の裏庭が、まるで数十年前の姿に一瞬だけ戻ったようだった。

「……なに、これ」

 湊の喉が乾く。

 そして景色の中に、誰かが立っていた

 小柄な少女。
 赤い毛糸の帽子をかぶり、雪のない地面の上でこちらを見ている。年齢は十歳くらいだろうか。顔立ちははっきり見えない。
 だが次の瞬間、湊は息をのんだ。

 その子の顔は、どこか祖母に似ていた。

「うそ……」

 少女は口を開いた。
 だが声は聞こえない。映像だけがある。
 彼女は何かを指さしている。空ではない。地面でもない。町の外れの山の方だ。

 歪みは急激に強くなり、視界がぶれた。

 端末が甲高い警告音を鳴らす。

「接触不可。後退推奨。後退推奨」

 しかし湊は動けなかった。
 目の前の少女が、今にも何か重要なことを伝えようとしている気がしたからだ。

 すると、少女の足元の地面から、銀色の光が一瞬だけ走った。

 次の瞬間、景色が弾けるように消えた。

 空き地は元の雪景色に戻っていた。
 物置小屋も、土も、少女もいない。

 ただ湊の耳にだけ、遅れて小さな声が残った気がした。

 ——さがして

 ほんの一言。
 風に紛れるほど小さいのに、なぜかはっきり意味だけが残る。

 真尋が湊の腕をつかんだ。

「今の、見たよね」

「うん……」

「幻覚じゃないよね」

「たぶん」

「たぶんで済ませないで」

 端末の光が少し弱くなる。
 硝子の声はいつもよりわずかに低かった。

「過去層の局所露出を確認」

「さっきの子、何?」

 湊が問う。

「未確定」

「でも祖母に似てた」

「可能性はある」

「どういう意味」

「この土地では、人の記憶と場所の記録が干渉することがある」

 真尋が顔をしかめる。

「記憶が景色になるってこと?」

「近い」

「最悪なんだけど」

 湊は、少女が指差した方向を見た。
 山の方。町の外れ。古いトンネルのある方向だ。

 胸の奥に、嫌な予感と好奇心が同時に生まれる。
 どちらも雪国の夜みたいに冷たかった。

「さがして、って聞こえた」

 湊が言うと、真尋がこちらを見る。

「わたしには聞こえなかった」

「でも、そう言った気がする」

 硝子が答えた。

「ならば行くべきだ」

「軽いなあ」

「危険性は高い」

「軽くなかった」

 真尋はため息をついた。

「つまり、その古い景色にいた女の子が何かを探せって言ってる。場所はたぶん山の方。で、そこには時間が変になる地点があるかもしれない」

「整理うまいね」

「うれしくない」

 彼女はしばらく黙り、それからきっぱり言った。

「二人で行く」

「え」

「一人で行ったら絶対ろくなことにならない」

「まあ、それはそうだけど」

「それに、あんた一人だと変な未来人に簡単に丸め込まれそう」

「丸め込まれてる自覚はない」

「もう十分巻き込まれてる」

 反論できなかった。

 夕方の空は少しずつ群青色へ沈み、町に早い夜が下り始めていた。
 湯けむりが風に流れ、遠くのリフトが止まる音がする。どこから見ても普通の冬の湯澤だ。

 けれどその下に、別の時間が埋まっている。
 そう思っただけで、見慣れた雪景色が急に信用できなくなる。

03

第三章 祖母の古写真

その日の夕食後、湊は食器洗いの手伝いをしながら、何度も祖母の横顔を盗み見ていた。

 祖母の名は小南志津江
 若い頃からこの町で生きてきた人で、雪の話、温泉の話、客商売の話ならいくらでも出てくる。だが自分自身の昔のことは、案外多くを語らない。

 あの空き地で見た少女。
 赤い帽子。あどけない顔。はっきり見えたわけではない。それでも、志津江の若い頃の写真がもしあれば、似ているかどうか確かめられるかもしれない。

「ばあちゃん」

「なに」

「昔の写真ってある?」

「あるにはあるよ。なんで急に」

「学校でさ、地域の昔のこと調べるかもって話になって」

 咄嗟の嘘としては雑だった。
 だが祖母は意外にも深く追及しなかった。

「二階の押し入れにアルバム入ってる。茶色い箱」

「見ていい?」

「散らかさないなら」

 湊は胸の内で少しだけほっとした。

 その夜、真尋も呼んだ。
 理由を説明すると、彼女は呆れた顔をしながらも来てくれた。

「こういうときだけ行動早いね」

「自分でもそう思う」

 二階の押し入れには、布団や古いスキー板と一緒に、昭和っぽい色あせた箱がしまってあった。箱を開けると、アルバムが三冊、ばらばらの写真が数十枚、それから手紙の束が出てきた。紙と古布の混ざった匂いがする。

 湊と真尋は部屋のこたつに並んで座り、写真を一枚ずつ見ていった。

 昔の湯澤駅。
 雪に埋もれた国道。
 若い頃の祖父母。
 スキー客でにぎわうゲレンデ。
 木造だったころの旅館街。

「時代って感じするね」

 真尋がぽつりと言う。

「うん」

 湊は一枚の写真で手を止めた。

 雪のない地面。
 背景には今はもうない古い物置小屋。
 中央には、小学生くらいの女の子が立っている。赤い毛糸の帽子をかぶって、少し不機嫌そうにカメラを見ていた。

 その顔を見た瞬間、湊の背中に冷たいものが走った。

「これ……」

 真尋も身を乗り出す。

「さっきの子?」

「たぶん」

 写真の裏を見ると、鉛筆で小さく書いてあった。

 昭和四十三年 三月 しづ

 志津江の子ども時代だった。

「やっぱり祖母だ」

「つまり、あの空き地で見たのは本当に過去の景色ってことか」

 真尋の声が低くなる。

 さらに箱を探ると、同じ時期の写真が何枚か見つかった。
 その中の一枚に、妙なものが写っていた。

 町外れの山道。
 雪解けのぬかるみ。
 そして画面の端に、半分だけ、銀色の円形の何かが映っている。

「……見て」

 湊が差し出すと、真尋は写真を凝視した。

「車のミラーとかじゃなくて?」

「この時代にこんな形の?」

「たしかに変」

 写真の裏には、こんなメモがあった。

 山のむこうで光った日

 こたつの上に置いていた端末が、かすかに震えた。

「重要記録を認識」

 硝子の声が響く。

「この資料は観測対象と一致する可能性が高い」

「つまり、昔から来てたの?」

 湊が聞く。

「可能性が高い」

「観測者が、何十年も前から?」

「継続的干渉があったと考える方が自然」

 真尋が嫌そうに眉を寄せる。

「それ、町ぐるみで知らないうちに実験場にされてたみたいで最悪」

「断定はできない」

「断定できない話ばっかりだね、あなた」

 端末は少し沈黙し、やがて返した。

「不確定要素が多い」

「正直でよろしい」

 湊は手紙の束にも目を通した。
 ほとんどは親類とのやりとりや宿の用事だが、一通だけ、封筒に入っていない半端な紙が混じっていた。古い大学ノートの切れ端らしい。

 そこには志津江の字に似た子どもっぽい文字で、こう書かれていた。

 やまのトンネルのところで
 ひかるまるいのを見た
 おとなには言わない
 また来るかもしれないから

 湊は息を止めた。

「……祖母、知ってたんだ」

 真尋が小さく言う。

「少なくとも、何か見てる」

 そのとき階下から祖母の声がした。

「湊ー、ちゃんと片づけなよ!」

 二人はびくっとして顔を見合わせた。
 まるで、見てはいけないものを見てしまった子どもみたいだった。

04

第四章 山の古トンネル

翌日の日曜、湊と真尋は午前のうちに家の手伝いを終わらせ、昼過ぎから山の方へ向かった。

 目的地は、町外れにある古いトンネル。
 今は新しい道路が通っているため、ほとんど使われない旧道の先にある。冬の間は雪で近づきにくいし、地元の子どもでもあまり行かない場所だった。

「ほんとに行くんだ」

 真尋はスノーブーツで雪を踏みしめながら言った。

「言い出したのそっちだけど」

「そうだけど、実際行くとなると別」

「帰る?」

「帰らない」

 風は弱いが、空は鉛色だった。
 雪が降りそうで降らない、湯澤らしい重たい冬空。

 端末は湊のポケットの中で、断続的に脈打っていた。

「反応は?」

 湊が小声で聞く。

「増加中。目的地の方向は正しい」

 硝子の返答に、真尋が肩をすくめた。

「便利なのか不気味なのか分かんない」

 旧道へ入ると、人の気配が消えた。
 除雪が十分ではないから、道の輪郭だけがなんとか分かる。脇の林は雪を被って静まり返り、枝から時おり固まった雪が落ちる音だけがする。

 やがて、トンネルが見えた。

 コンクリートの古い坑口。
 黒く口を開け、上部には読みにくくなった銘板がある。半ば雪に埋もれ、周辺だけ妙に暗い。

「やだな……」

 湊が本音を漏らす。

「今さら?」

「今さら」

 トンネルの中は、想像以上に寒かった。
 外の寒さとは質が違う。温度そのものというより、空気が時間ごと止まっている感じがする。足音が遅れて返ってきて、妙に遠い。

 途中までは普通だった。
 壁のしみ。古い配線跡。天井から垂れる小さなつらら。
 だが中ほどまで進んだところで、硝子が急に言った。

「停止」

 二人が足を止める。

「前方に高密度反応」

「何があるの」

「不明。だが、過去観測装置の信号に近い」

 湊はスマホのライトを少し上げた。
 トンネルの壁際、雪解け水のたまった窪みに、何かが半分埋まっている。

 銀色の金属片だった。

 直径二十センチほどの輪。
 端末と似た材質だが、表面は傷だらけで、一部が焼け焦げている。

「これ?」

「一致率八十七パーセント。旧型観測機器」

「残骸ってこれのことか」

 真尋がしゃがみ込む。

 その瞬間だった。

 トンネルの奥から、風もないのに白いものが流れてきた。
 雪煙ではない。霧のようでいて、形がある。細い帯のように地面すれすれを這い、こちらへ向かってくる。

「下がって」

 真尋が言うより先に、硝子が警告を発した。

「接触禁止。時間位相汚染の可能性」

「なにそれ!」

「触れるなという意味だ」

 十分分かる説明だった。

 二人は慌てて後退した。
 白い帯は金属片の周囲をぐるりと回り、そこで渦を巻く。するとトンネルの空気がまた揺らぎ始めた。

 湊は目を見開いた。

 今度現れたのは、冬ではないトンネルだった。
 雪も氷もない。壁はもっと新しく見える。照明が生きていて、向こうから複数の人影が歩いてくる。

 その先頭にいたのは——

「……硝子?」

 湊がつぶやく。

 灰色のコート。透明な膜。
 まぎれもなく未来人の姿だ。だがその横には、もう一人いる。
 同じ装備をした別の個体。こちらは背が高く、歩き方が少し違う。

 そして次の瞬間、高い方の個体の身体が、何もない空間に飲み込まれるように半分消えた

 映像の中の硝子が手を伸ばす。
 しかし間に合わない。
 高い方の未来人は、まるで水面に落ちた影みたいに、音もなく崩れて消えた。

 湊の心臓が嫌な音を立てる。

「これが……喪失?」

 端末は短く答えた。

「そうだ」

 景色がさらにぶれた。
 今度は別の映像が重なる。赤い帽子の少女——幼い志津江が、トンネルの入口に立ってこちらを見ている。彼女の足元には、小さな銀色の欠片が落ちていた。
 少女はそれを拾い、胸に抱え、そして走り去る。

 映像はそこで途切れた。

 静寂が戻る。
 トンネルの中には、湊と真尋、そして壊れた観測機器の残骸だけがあった。

「……つまり」

 真尋が整理するように言う。

「昔、おばあちゃんはここで何かを拾った。未来人は昔からここに来ていて、一人消えた。で、その影響が今も残ってる」

「たぶん」

「たぶん多すぎ」

 湊は金属片を見つめた。

「祖母が拾った欠片、まだ持ってるのかな」

 硝子が答える。

「保管されている可能性が高い。それが残っていれば、原因の一部を特定できる」

「最初からそう言って」

「確信がなかった」

 真尋が呆れたように息を吐く。

「この未来人、慎重なのか段取り悪いのか分かんない」

「両方かも」

 トンネルの外では、とうとう雪が降り始めていた。
 細かい雪が、入口の光の中を斜めに落ちていく。

 湊は思う。
 この町では、雪は景色ではなく、何かを覆い隠す幕なのかもしれない。

05

第五章 志津江の記憶

その夜、湊はついに祖母へ切り込んだ。

「ばあちゃん、昔、山のトンネルのとこで何か見たことある?」

 食後、食堂には客がいない。ストーブの上のやかんが小さく鳴っている。
 志津江は湊を見て、少しだけ手を止めた。

「なんでそんなこと聞くの」

「写真見た」

「……どの写真」

「赤い帽子かぶってるやつ。あと、メモも」

 祖母は長く息を吐いた。
 ごまかすかと思ったのに、そうしなかった。

「真尋ちゃんもいるのかい」

「いる」

 真尋は少し姿勢を正した。

 志津江はしばらく黙っていたが、やがて台所の一番上の引き出しから、小さな布包みを取り出した。黄ばんだ手ぬぐいに包まれていたのは、三日月形の銀色の欠片だった。

 湊のポケットの端末が、強く脈打つ。

「確認。高一致」

「やっぱり……」

 志津江は欠片を見つめたまま、ぽつりぽつりと語り始めた。

 昭和四十三年の春先。
 雪解けの頃、志津江は友だちと山の方まで遊びに行った。そこで、空が急に白く光った。雷でも飛行機でもない。音のない光。怖くなってみんな逃げたが、志津江だけが途中で振り返った。
 すると、トンネルの前に、見たことのない服を着た人が二人立っていた。片方はすぐ消え、もう片方は膝をついて何かを探していた。志津江は怖くて隠れていたが、その人がいなくなった後、地面に落ちていたこの欠片を拾ったのだという。

「誰にも言わなかったの?」

 湊が聞く。

「言ったって信じないだろうしねえ」

 志津江は少し笑った。だがその笑いは昔を懐かしむものではなかった。

「それに、あの頃は今よりずっと、変なことを口にするのが怖かったんだよ。山には山のものがいるって、本気でみんな思ってたから」

「そのあと、何か起きた?」

 真尋が問う。

 志津江の表情が少しだけ曇った。

「……ときどき、見えたよ」

「何が」

「まだ建ってない建物とか、逆にもう壊れたはずのものとか。昔の人影とか。ほんの一瞬だけね」

 湊は黙る。

「怖かった?」

「最初はね。でも慣れる。雪国の人間は、見ない方がいいものを見ても、とりあえず日常を続けるのがうまいんだよ」

 その言い方が、妙に重かった。

 志津江は銀の欠片をこたつの上へ置いた。

「それ、持っていきな」

「いいの」

「もうわたしが持ってても仕方ない。それに、たぶんあんたたちの方に来たんだろう。向こうから」

 湊は目を上げた。
 祖母は全部を理解しているわけではない。だが、何かが自分たちに近づいていることは察していた。

「ひとつだけ言っとく」

 志津江の声が少し低くなる。

「山の向こうに行くなら、雪が急に静かになった時は止まりな

「静かに?」

「音が吸われるみたいに、妙にしんとする時がある。あれは普通の雪じゃない」

 真尋がごくりと息をのんだ。

「それって……」

「理由は知らない。でも、そういう時に昔から人がいなくなる話はあった」

 ストーブの火が、ぱち、と小さく鳴った。

06

第六章 雪が静かになる時

それから三日間、湊はほとんど落ち着かなかった。

 学校へ行き、民宿の手伝いをし、いつものように食事をして眠る。やっていることは変わらないのに、町の見え方だけが変わってしまった。駅前の湯けむりも、夜のゲレンデの照明も、除雪車が押しのける雪の塊も、どれも何かを隠しているように思えた。

 とくに雪の日がいけなかった。

 音がやわらかく吸われる感じがすると、祖母の言葉が頭をよぎる。

 雪が急に静かになった時は止まりな。

 その言葉は迷信のようでいて、妙に現実味があった。実際、端末——硝子——は、空気が静まりすぎる場所でかすかに反応を強めることがあった。

 木曜日の放課後、湊と真尋は駅の東口から少し離れた川沿いの道を歩いていた。学校帰りに遠回りして、町の中で妙な反応が出ないか試していたのだ。

「こういうの、だんだん部活みたいになってきたね」

 湊が言うと、真尋はダウンの襟に口元を埋めたまま返した。

「最悪な部活。活動内容が“時空の異常探し”って、進路指導で絶対止められる」

「顧問もいないし」

「いるじゃん。未来人」

「顧問にしたくないな……」

 そのときだった。

 硝子がポケットの中で短く震えた。

「反応上昇。前方二百メートル」

 二人は顔を見合わせる。

 前方には小さな橋があった。橋の下を流れる川は、雪解け水を集めて黒く速く流れている。町の中心から少し離れただけなのに、人通りはほとんどない。

 橋へ近づくにつれ、空気が奇妙に変わっていった。

 風があるのに、音だけが遠のいていく。
 雪を踏む自分たちの足音まで、布の向こうへ吸い込まれるみたいに曖昧になる。

 真尋が立ち止まった。

「……これ?」

 湊も止まる。
 世界から余計な音が抜け落ちている。車の走行音も、川音も、なぜか一段遠い。

 その静けさの中で、橋の向こう側の景色がゆらりと歪んだ。

「来る」

 硝子の声は低く、短かった。

 次の瞬間、橋のたもとの自販機が消えた。

 いや、消えたのではない。
 そこになかった時代の景色にすり替わったのだ。

 アスファルトはなく、地面は踏み固められた雪と土に変わっていた。今あるはずのガードレールもない。代わりに、古い木柵が立っている。橋そのものも今より狭く、欄干の形が違っていた。

「また過去……?」

 湊がつぶやく。

「断定不可」

 硝子が答える。

「だが時間層の厚みが通常より深い」

 景色の向こうに、人が見えた。
 笠をかぶった男がそりを引いて歩いている。さらに少し離れたところで、子どもが雪玉を抱えて走っている。どちらもこちらには気づいていないようだった。

 真尋が息をひそめる。

「すご……」

 その一方で、湊は別のものに気づいた。
 橋の中央に、誰かが立っている。

 灰色のコート。
 半透明の顔膜。

「……硝子?」

 だが違った。立っている個体は、硝子より背が高い。以前トンネルで消えた未来人——あの“喪失した観測者”と同じ体格だった。

 その存在は橋の欄干へ片手をつき、こちらではなく川を見下ろしていた。

「反応源を確認」

 硝子の声に、わずかな乱れが混じる。

「個体識別コード……アマネ」

「アマネ?」

 湊が聞き返す。

「喪失した観測者の識別名だ」

 湊は心臓が強く打つのを感じた。
 今、目の前にいるのは、過去の映像なのか。それとも、まだどこかに残っている何かなのか。

 アマネと呼ばれた個体は、ゆっくりと顔を上げた。
 そしてはじめて、こちらを見た。

 映像のはずなのに、その視線だけは妙にはっきりと届いた。

 次の瞬間、アマネの口元——いや、声の発生源がどこかは分からないが、直接頭の中に言葉が落ちてきた。

封じきれなかったのか

 湊は凍りついた。

「今の、聞こえた!?」

 真尋も顔を強ばらせる。

「聞こえた」

 硝子が短く応答する。

「双方向干渉を確認。通常の残留像ではない」

 橋の上のアマネは、苦しげに片手をこめかみへ当てた。

「時間井戸の口が、まだ開いている……雪が薄くなる前に閉じろ」

「時間井戸?」

 湊が思わず叫ぶ。

「どこにあるの!」

 しかしアマネの姿はもう不安定になっていた。
 輪郭が雪の中へ溶けるように揺らいでいる。

「山の——」

 そこまでだった。

 景色が崩れ、橋は元の現在の姿に戻った。
 自販機もガードレールも、何ごともなかったようにそこにある。車の音も、川の音も、一気に帰ってきた。

 真尋はゆっくり息を吐いた。

「……今の、“たまたま見えた過去”って感じじゃなかった」

「うん」

「会話してた」

「うん」

 硝子が言った。

「アマネは完全に消失していない可能性が高い」

「それって助けられるってこと?」

 湊の問いに、硝子は一拍置いて答えた。

「不明。だが閉じ込められている可能性はある」

「時間井戸って何」

「局所的に時間層が深く沈み、外部と切り離される現象」

 真尋が顔をしかめる。

「言い換えると?」

「時間の穴だ」

「急に分かりやすい」

 湊は橋の向こう、山の方を見た。
 また、そこだ。祖母の少女時代の幻も、トンネルも、そして今のアマネも、全部が山の方向を指している。

 何かが、山にある。


07

第七章 消えた観測者の正体

その夜、硝子はこれまでより少し長く話した。

 民宿の裏口。
 客が寝静まった後の台所の明かりが、雪に四角く漏れている。湊と真尋はコートを着込んだまま、端末を囲むようにしゃがみこんでいた。

「アマネは、わたしと同時期にこの地点へ派遣された観測者だ」

「同僚ってこと?」

 湊が聞く。

「近い」

「仲良かったの?」

 真尋が容赦なく言う。

 端末は少し黙った。
 硝子にとってその沈黙がどういう意味か、湊たちにはまだ分からない。だが今夜の沈黙は、これまでとは少し違っていた。

「観測方針が異なっていた」

「それ、仲悪いやつの言い方じゃん」

「対立ではない。だが意見はよく分かれた」

 湊は小さく苦笑した。
 未来人でもそういうのあるんだ、と思うと少しだけ人間味が出る。

「アマネは、観測対象へ深く干渉するべきだと考えていた」

 硝子は続けた。

「環境変化を記録するだけでは不十分で、保存できるものは保存すべきだと」

「保存って、雪を?」

「雪だけではない。生活様式、建造物、感情の記録、人間関係——消失可能性の高いもの全般」

 真尋が腕を組む。

「いいこと言ってるようにも聞こえるけど」

「介入は歴史変動を生む」

「つまりルール違反」

「そうだ」

 湊はふと思い出した。
 最初に会ったとき、硝子は“消える前のもの”を見に来たと言った。だが湊が嫌がると、“まだ在るもの”と言い直した。あれは単なる言い回しではなく、観測者としての立場の違いとも関係していたのかもしれない。

「アマネは何をしようとしたの」

「この町の時間異常を利用し、局所的に“保存層”を形成しようとした」

「保存層?」

「ある時代の一部を、別の時代の変化から守るための隔離領域」

 真尋が即座に返す。

「それ、だいぶ危なくない?」

「危険だ」

「やっぱり」

「成功すれば、ある景色や構造物、人の記録を非常に高い精度で保持できる」

「失敗すると?」

「時代の境界が壊れる」

 湊はぞくっとした。
 今、町で起きていることそのものだ。

「じゃあ、アマネが今の異常を作ったの?」

 硝子はすぐには肯定しなかった。

「単独原因ではない。もともとこの土地には素因があった。積雪による音と熱の遮断、地下の水脈、地質、長い交通の蓄積、そして人の記憶」

「そこにアマネが手を入れたせいで、悪化した」

「その理解で大きくは外れない」

 真尋が呆れたように空を見る。

「観光地ひとつ巻き込むスケールのやらかし、重いな……」

 湊はしばらく何も言えなかった。
 アマネは保存したかったのだ。失われるものを、残したかった。
 その気持ち自体は、分からなくもない。雪が薄くなっていくかもしれない未来を思うと、湊もどこかで「今のまま残ってほしい」と願ってしまうからだ。

「でも」

 湊が言う。

「残すために、今を壊したら意味ないよね」

 硝子は答えた。

「……そうだ」

 その肯定は、これまでよりずっと静かだった。

「時間井戸の位置は分かるの?」

 真尋が尋ねる。

「候補は絞れている。山の旧観測点付近」

「トンネルの先?」

「さらに奥だ」

 湊は思わず顔をしかめた。
 冬の山道。しかも普通じゃない異常地点のさらに先。行きたくない理由なら十分すぎるほどある。

 それでも、行かなければならないと思った。
 祖母の昔。アマネ。町の歪み。全部がつながってきている。

 そして何より、これはもう自分たちだけの好奇心ではなかった。
 町そのものの問題になり始めている。

 硝子が最後に言った。

「時間井戸が拡張すれば、露出は町の中心へ近づく」

「どれくらいで?」

 湊の問いに、硝子はあまりにも静かに答えた。

「次の大雪までに」


08

第八章 未来の湯澤

山へ向かう前に、湊はどうしても確かめたいことがあった。

「未来の湯澤って、どんな感じなの」

 翌日の夕方、民宿の裏手でそう問うと、硝子は珍しくすぐには答えなかった。

「答える必要があるか」

「あるよ」

 湊はきっぱり言った。

「わたしたち、今から危ない場所に行くんでしょ。なら、何のためにやるのか知りたい」

 真尋も腕を組んでうなずく。

「そう。報酬のない危険業務ほど説明が必要」

「報酬という概念は」

「いいから」

 硝子は短く沈黙したあと、端末の表面を淡く光らせた。

「視覚共有を行う。短時間のみ」

 青白い光が広がり、雪の上に薄い映像が浮かんだ。

 最初は湯澤駅だと分からなかった。

 駅舎の形は大きく変わっていない。だが周囲の白さが足りない。山肌にはまだらに雪が残るだけで、かつて一面を覆っていた冬の密度がない。空気は今より乾いて見え、地面には排水設備のようなものが張り巡らされている。

 スキー客よりも、研究者や視察のような服装の人間が多い。
 案内表示には、いくつもの言語でこんな文が表示されていた。

 季節性積雪保存区画への立ち入りには許可が必要です

「保存区画……」

 湊がつぶやく。

 映像は切り替わる。
 今度はゲレンデだった。

 だがそこにあったのは、自然雪に頼るスキー場ではなかった。地形は残っているのに、滑走面の一部だけが人工的に白く維持されている。周辺には透明な防風壁のような構造物が立ち、まるで雪を展示しているみたいだった。

 真尋が小さく息をのむ。

「うそでしょ……」

 さらに映像は温泉街へ移る。
 旅館はまだある。だが数は減り、昔ながらの宿はごくわずかだ。季節の観光地というより、“雪と温泉の文化保存地区”のような扱いに見えた。

 湊は画面の端に、小さな表示を見つけた。

 越後湯澤 積雪文化アーカイブ第三区

「アーカイブ……」

 その単語が、刺のように胸に残る。

 やがて映像は消えた。
 冷たい現実の雪景色だけが戻る。

 しばらく誰も話さなかった。
 先に口を開いたのは真尋だった。

「思ってたより残ってる。でも、残り方がいや」

「うん」

 湊も同じだった。
 全部が消えてなくなるわけではない。けれど“生きている町”ではなく、“保存された町”へ近づいている感じがした。

「だからアマネは、保存しようとしたのかもね」

 湊が言うと、硝子は否定しなかった。

「その可能性は高い」

「でも、わたしは」

 湊は少し考えてから、ゆっくり言った。

「展示物みたいに残るより、ちゃんと今の町として続いてほしい」

 真尋が横目で見る。

「きれいごとっぽいけど、わたしもそれ」

「きれいごとかもしれない」

「でも、そのくらいでちょうどいいのかも」

 雪がまた降り始めていた。
 細かくて軽い、音の少ない雪。

 湊は空を見上げる。
 未来を変えたい、なんて大げさなことは言えない。けれど、今ここにある町が、誰かの標本みたいに扱われるのは嫌だった。

 今を今のまま生きられる可能性を、少しでも残したい。
 そのためなら、山へ行く理由としては十分だった。


09

第九章 時間の井戸

次の土曜日。
 空は朝から重く、午後にはまとまった雪になる予報が出ていた。

 湊は祖母に「真尋と図書館」と言って家を出た。嘘としては弱いが、山に行くとは言えない。真尋はロープ、小型ライト、カイロ、非常食まで持ってきていて、ちょっとした登山隊みたいだった。

「準備よすぎない?」

「こういうとき、雑なやつから死ぬ」

「縁起でもないな」

「生きて帰る気があるなら文句言わない」

 旧道を抜け、トンネルを越え、そのさらに奥へ進む。
 人の手の入らない雪道は想像以上に歩きにくく、膝まで沈む場所もあった。木々の間を抜ける風は弱いのに、空気だけがひどく冷たい。

 やがて硝子が言う。

「近い」

 前方の斜面の下に、小さな平地があった。
 そこには、半分雪に埋もれた古い小屋の土台だけが残っている。かつて何かの管理小屋だったのかもしれない。祖母の写真に写っていた山の景色と、どこか似ていた。

 その瞬間、世界が静かになった。

 風の音が消える。
 服の擦れる音も、息の音も、雪を踏む感触まで遠のく。

 湊は立ち止まった。
 祖母の言葉が脳裏をよぎる。

 雪が急に静かになった時は止まりな。

「真尋」

「うん。分かってる」

 硝子の光が強まる。

「前方直下。時間井戸を確認」

 小屋の跡の中央、雪の薄い場所に、円形のくぼみがあった。
 最初はただの地面のへこみに見えた。だが近づくにつれ、違うと分かった。

 その穴は、深さの感覚がおかしい。
 浅いはずなのに、覗き込むと底が遠い。しかも中では、色の違う景色が何層も重なっていた。

 春の土。
 真夏の草。
 昔の雪。
 未来の乾いた地面。
 夜の町。
 朝の駅前。

 全部が輪になって、静かに沈んでいる。

「……これが、時間井戸」

 湊の声は自分でも驚くほど小さかった。

「そうだ」

 硝子が答える。

「局所保存層の形成に失敗し、時代層が陥没した状態」

 真尋が一歩下がる。

「見てるだけで酔いそう」

 そのとき、井戸の底の景色がゆっくり変わった。

 灰色のコートが見える。
 人影がひとつ、膝をついている。

「アマネ!」

 湊が叫ぶ。

 井戸の中のアマネは顔を上げた。今度ははっきりこちらを見ている。

「来たか」

 声は頭の中へ直接響く。
 以前よりもはっきりしていた。

「閉じるなら今しかない。雪が境界を支えている」

「どうすればいいの!」

 湊が聞くと、アマネは井戸の縁を見上げた。

「媒介を返せ。過去へ持ち出された欠片と、こちらの残骸を合わせろ。起点をひとつに戻せ」

 真尋がすぐに言う。

「祖母の欠片と、トンネルの残骸?」

「そうだ」

 湊はリュックから、志津江にもらった三日月形の欠片を取り出した。
 真尋は先日回収した旧型観測機器の輪の一部を差し出す。ふたつはたしかに同じ材質で、近づけると淡く発光した。

 だがその瞬間、井戸の景色が激しく揺れた。

 硝子が警告する。

「不安定化。接近しすぎるな」

「じゃあどうするの」

「井戸の縁へ置け」

 湊は雪の上に膝をつき、震える手で欠片を縁へ近づけた。
 冷たい。なのに中心部だけが熱を持っている。

 アマネが井戸の中から手を伸ばす。
 距離はあるはずなのに、その指先がこちらへ届きそうに見えた。

「硝子」

 アマネが言う。

「お前の判断は正しかった。保存ではなく、接続を戻せ」

 硝子はすぐには答えなかった。
 だが端末の光がこれまでで最も強く脈打つ。

「認識した」

「湊、真尋」

 アマネの声は、今にも千切れそうに細くなっていく。

「この町は保存するものじゃない。流れの中で、揺れながら続くものだ」

 湊は息をのむ。
 最初からそう思えていたわけではないのだろう。失われるのが怖くて、止めたくなったのだろう。その気持ちがあったからこそ、ここまで壊してしまった。

 湊は欠片を置いた。
 真尋が残骸を重ねる。

 かちり、と小さな音がした。

 次の瞬間、井戸の中の景色が一斉に光った。

 白い。
 目を焼くような白ではない。雪明かりが何百倍にもなったような、静かな白。

 世界から音が消えた。

 湊は誰かに腕を引かれた気がした。真尋かもしれない。硝子かもしれない。あるいは、もっと古い雪の記憶かもしれなかった。

 そして白の中で、最後にアマネの声だけが聞こえた。

「——まだ在るものを、見失うな」


10

最終章 まだ在る雪

気がつくと、湊は雪の上に倒れていた。

 頬が冷たい。
 息を吸うと、肺の奥まで冬の空気が入ってくる。

「湊!」

 真尋の声がして、顔を上げる。
 彼女も雪まみれになっていたが、無事だった。端末——硝子も、少し光を弱めながら湊の手元に転がっている。

 小屋跡の中央を見た。

 時間井戸は、消えていた。

 ただの雪原になっている。
 円形のくぼみも、異様な景色の重なりもない。風が戻り、枝の揺れる音がちゃんと聞こえる。

「……閉じたの?」

 湊が言うと、硝子が答えた。

「主異常の収束を確認」

「アマネは」

 沈黙。

 それから硝子は、これまででいちばん静かな声で言った。

「帰還は確認できない」

 真尋が目を伏せる。
 湊もすぐには何も言えなかった。

 助けられたのか、助けられなかったのか。完全には分からない。
 ただ、あの最後の声が悲鳴ではなかったことだけが、わずかな救いだった。

 山を下りるころには、雪が本降りになっていた。
 静かで、重く、いつもの湯澤の雪だ。

 トンネルを抜け、旧道を戻り、町の灯りが見えたとき、湊はようやく胸の奥のこわばりがほどけるのを感じた。駅前の光。旅館の看板。コンビニの駐車場。見慣れたものが、見慣れたままそこにある。

 たったそれだけで、泣きそうになる。


 その後、町の異常はぴたりと消えたわけではなかった。
 ときどき、雪の日の夕方に、少しだけ昔の気配が混じることはある。けれど橋の向こうが別の時代に丸ごと変わるようなことはなくなった。トンネルの中の歪みも消え、硝子の反応も穏やかになった。

 祖母の志津江には、山で起きたことを全部は話さなかった。
 それでも彼女は何となく察していたのか、湊が無事に帰ったその夜、何も聞かずに熱いお茶だけ出してくれた。

「雪、降ってきたねえ」

 そう言った祖母の声が、妙に優しく聞こえた。

「うん」

「今年の雪は、今年しか見られないからね」

 湊は湯のみを両手で包み、深くうなずいた。


 春が近づくにつれ、町の雪は少しずつゆるみ始めた。
 屋根の雪が落ち、道路脇の壁が低くなり、川音が大きくなる。観光客の服装も少し軽くなった。

 そんなある日、湊は越後湯澤駅の構内で、一枚の写真を撮った。

 改札前を歩く人。
 湯気の立つ売店。
 濡れた床。
 窓の向こうに残る雪山。

 なんでもない景色だった。

 でも今の湊には分かる。
 なんでもない景色ほど、あとから振り返ると二度と戻らない。

 真尋が横からのぞきこむ。

「また記録?」

「うん」

「真面目だね」

「ばあちゃんが、あるうちに見とけって言ってたから」

「いいこと言う」

 真尋は少し笑い、それから缶コーヒーをひと口飲んだ。

「でも、あんた前よりちゃんとこの町見るようになったよね」

「そうかも」

「前は“ずっとあるもの”みたいな顔して歩いてた」

「ひどい言い方」

「事実」

 湊は小さく笑う。
 否定はできない。

 そのとき、ポケットの中で硝子がかすかに震えた。

「何?」

 湊が小声で言うと、端末は淡く光る。

「異常ではない」

「じゃあ何」

「記録推奨」

「……それだけ?」

「それだけだ」

 真尋が吹き出す。

「だいぶこの時代に馴染んできたね、その未来人」

「学習したんじゃない?」

「誰に似たんだか」

 湊はスマホをもう一度構えた。

 人が行き交う。
 アナウンスが流れる。
 どこかで土産物の袋が鳴る。
 雪解けの水が、外のどこかで静かに落ちている。

 まだ在る。
 この町も、雪も、生活も、ちゃんと今ここにある。

 未来に何が待っているのかは分からない。
 減るものもあるだろうし、変わるものもあるだろう。
 けれど、失われるかもしれないからといって、最初から標本みたいに眺めるのは違う。

 生きているものは、揺れながら続く。
 変わりながら残る。
 だから今は、今として見ておくしかない。

 湊はシャッターを切った。

 その瞬間、駅のガラス越しに見える山の端で、青白い光が一度だけ小さくまたたいた気がした。

「……見た?」

 湊が言うと、真尋は外を見て、少しだけ肩をすくめた。

「どうだろ。雪の反射かも」

「そっか」

「でも」

 真尋は口元だけで笑う。

「反射じゃなくても、もう前ほどびっくりしない」

 湊も笑った。

 たぶん、本当にそうだった。

 町は今日も雪の中にある。
 静かで、少し不便で、温かくて、変わり続ける場所として。

 そのことが、前よりずっと好きだと思えた。


11

エピローグ

数年後。
 東京の大学へ進学した湊は、冬の終わりに湯澤へ帰省していた。

 改札を出た瞬間、冷たい空気が頬に触れる。
 土産物屋の匂い、温泉の湯気、遠くの山の白さ。変わったものもあるが、変わらないものもたしかにある。

 駅前で真尋が手を振っていた。
 地元に残り、家の旅館を手伝いながら新しい企画を動かしているらしい。相変わらず口は悪いが、前より少し大人っぽく見えた。

「遅い」

「いきなりそれ?」

「歓迎してる」

「伝わりづらいな」

 二人で歩き出す。
 雪は以前より少ない年だった。けれどゼロではない。歩道の脇にはちゃんと白が残り、子どもが小さな雪玉を作っている。

 湊はスマホを取り出した。
 今でも写真を撮る癖は続いている。

「まだ撮るんだ」

 真尋が言う。

「うん。前より増えた」

「で、ちゃんと見返してる?」

「たまに」

「えらい」

 そのとき、バッグの奥で、長く眠っていた端末がほんの少しだけ震えた。

 湊は立ち止まる。
 取り出した表面には、かすかな一行だけが浮かんでいた。

 観測継続中

 その文字を見て、湊はふっと息を吐いた。

「元気そうでよかった」

「何?」

 真尋がのぞきこもうとする前に、表示は消えた。

「なんでもない」

「なんでもある顔だけど」

「まあ、ちょっとね」

 湊は空を見上げる。
 冬の終わりの、少しやわらかい空。山の上にはまだ雪がある。

 全部は守れない。
 全部は残らない。
 それでも、まだ在るものは確かにある。

 だからきっと、これからも見ていける。
 なくなる前のものとしてじゃなく、今ここに在るものとして。

 湊はポケットの中で端末を握り、また歩き出した。