Work
2026.03.21 ・ 短編 ・ 5分
数字の表
他人の顔に自分への好感度が表示されるコンタクトレンズが普及した社会で、男は数字だけを頼りに人間関係を選び始める。

人の顔の横に数字が浮かぶようになってから、わたしはやっと安心して人と話せるようになった。
コンタクトレンズの名前は〈フェイスメーター〉。相手が自分をどれくらい好ましく思っているか、〇から一〇〇までで出る。発売から三か月で、駅の広告も、電車の中吊りも、だいたいその話になった。
「もう外せないよ」
昼休み、同僚の今井が言った。彼女の目の中でレンズが小さく光る。
「会議で誰が味方か、一発で分かるもん」
たしかに便利だった。部長はいつも六八。機嫌のいい日は七四。取引先の岸本さんは八二。名刺交換の時点で七九を出してくる人間は、だいたいこちらの提案を断らない。
逆に、低い数字の相手は分かりやすい。経理の三田村はいつも二一。挨拶しても二三にしかならない。わたしは彼に資料確認を頼む回数を減らし、代わりに八〇台を出してくれる営業支援チームの人たちと話すようになった。
損をしたくなかった。
昔から、人を見る目に自信がない。笑っていた人に陰で切られたこともあるし、親切そうな先輩に手柄を持っていかれたこともある。数字があれば、もう勘に頼らなくていい。
わたしは数字に忠実になった。
朝、受付で七六の警備員に軽く会釈する。会議では六〇未満の席から少し遠い場所に座る。飲み会の二次会も、七〇以上が多い卓を選ぶ。すると不思議なことに、人間関係は前よりずっと滑らかになった。
「最近、立ち回りうまいですね」
今井にそう言われたとき、彼女の数字は八七だった。
悪くない気分だった。
ただ、三田村だけは最後まで上がらなかった。
廊下で会っても一八。 書類を渡しても二〇。 こちらが先に「助かります」と言っても、一九。
ここまで低いと、むしろ清々しい。
「あの人、わたしのこと嫌いなんですよね」
給湯室でそう言うと、今井は笑った。
「数字見えてるのに、まだ気にするんですか」
「まあ、避ける目安にはなります」
「それが正解ですよ。低い人って、だいたい面倒ですし」
そのとき今井は九一だった。
月末、部長から新規案件の担当を任された。相手はベンチャー企業の代表、志賀という男だった。初対面で九五。握手した瞬間に九七まで上がった。
「佐伯さんみたいな人、好きなんですよ」
志賀は歯を見せて笑った。細い時計、高い靴、声の大きさまでちょうどいい。打ち合わせは終始なごやかで、帰るころには数字が九九になっていた。
わたしは気分よく稟議を回し、かなり強引に決裁を通した。
そのとき三田村が、珍しく席まで来た。
「この条件、少しおかしいです」
顔を見る。数字は一六。
「どこがですか」
「先方の資金繰り、表面ほどよくない。入金条件も妙です」
「でも、先方とはもう詰めています」
「だからです。詰める前に止めるべきでした」
言い方が鼻についた。好感度一六らしい顔だった。
「個人的な印象で言ってます?」
三田村は少し黙った。
「数字、見えてるんでしょう」
「ええ」
「なら、わたしがあなたを好いてないのも分かるはずだ」
珍しく、自分からその話をした。
「でも、数字と書類は別です」
わたしは笑ってしまった。嫌っている相手から「信用してくれ」と言われても、説得力がない。
「助言はありがたいです」
そう返して、話を切った。
三日後、志賀の会社と連絡が取れなくなった。
前払金ごと消えた、と分かったのはその夕方だった。部長の顔は二七まで落ち、今井は七八のまま「最悪ですね」と言った。わたしのデスクの周りだけ、空気が薄くなったみたいだった。
監査対応で夜まで残され、帰るころには足元がふらついていた。エレベーター前で、三田村に会った。
数字は一二。
「言いましたよ」
そう言われると思った。
けれど彼は封筒を差し出した。
「先方の口座の動き、追える分だけまとめました。明日の朝、これを出したほうがいい」
わたしは封筒を受け取った。
「なんで、ここまで」
三田村は一度だけ眉を上げた。
「あなたのことは好きじゃないです」
数字が一一に下がる。
「でも、会社に損を出すのはもっと嫌いです」
そこでやっと、わたしは何も返せなくなった。
翌朝、その資料で被害は最小限に抑えられた。部長は五五まで戻り、今井は九〇で「助かりましたね」と言った。みんな、昨日よりやさしい顔をしていた。
でも、わたしがいちばん長く見たのは、離れた席で黙ってキーボードを打つ三田村の横顔だった。
数字は相変わらず低い。今日は一三。
それでも、あの数字の高い男より、ずっと信用できる気がした。
退勤時、ビルのガラスに自分の顔が映った。数字は出ない。自分がどれくらい自分に好かれているか、このレンズは教えてくれない。
そのことを、急にいちばん不便だと思った。