Work
2026.03.10 ・ 長編 ・ 59分
潮だまりの地図
七年ぶりに港町へ戻った由良が、祖母に託された地図と失踪した蒼汰の痕跡を辿る物語。

01
第一章 港の匂い
港はまだ眠っていた。岸壁のコンクリートは夜気を抱え込んだまま、足裏へ冷たさをゆっくり返してくる。
潮の匂いは、思っていたよりも古かった。新しい朝の前に漂っているはずなのに、どこか遠い季節の底から立ちのぼってくるような匂いだった。
由良はポケットに両手を入れたまま、停泊した小さな船の列を見ていた。白い船体の輪郭は薄闇の中で曖昧にほどけ、係留ロープだけがやけに現実的な線として目に残った。
「ほんとうに戻ってきたんだな」
声に出してみると、その言葉は海の上を短くすべって、すぐに消えた。
七年ぶりだった。
町を出るとき、由良は二度と戻らないつもりでいた。大学進学のためにこの港町を離れ、そのまま東京で就職した。忙しさを言い訳にして、帰省の回数は年々減った。祖母からの電話にも、あとでかけ直そうと思ってそのまま忘れることが多くなった。
けれど祖母が倒れたという連絡を受けたとき、由良は不思議なほどあっさりと有給を申請し、最終の新幹線に飛び乗っていた。
病院で会った祖母は思ったより元気だった。大事には至らず、数日で退院できる見込みだと医師は言った。ほっとしたのも束の間、祖母は面会の終わり際に、痩せた指で由良の手首をつかんでこう言った。
「家の棚の上、地図を見ておいで」
それだけだった。
理由を尋ねても、祖母は「見ればわかるよ」としか言わなかった。その声は弱々しいくせに妙に確信めいていて、由良は反論の糸口を失った。
病院を出たあと、まっすぐ祖母の家へ向かってもよかった。だが足は勝手に港へ向いていた。
高校生のころ、学校をさぼってはよくここへ来た。何かに傷ついたときも、何かを決めかねたときも、海を見ていれば自分の輪郭がいったん曖昧になる気がした。痛みも焦りも、潮の満ち引きに紛れて薄くなる。そう信じていた。
そのころ、いつも一緒にいたのが蒼汰だった。
同級生で、隣のクラスで、やたらと勘のいい少年だった。由良が何も言わなくても、だいたい機嫌の悪さや落ち込みの原因を当てた。からかうようなことを言うくせに、本当に触れられたくないところには踏み込まない。そういう距離の取り方がうまかった。
蒼汰は卒業の少し前、突然いなくなった。
失踪、と大人たちは言った。家出だとか、海に落ちたのではないかとか、いろいろな噂が流れた。けれど決定的なことは何もわからず、時間だけが過ぎた。由良は進学を機に町を出て、その出来事を心の奥に押し込んだ。押し込んだつもりでいただけかもしれない。
港の匂いを吸い込んだ瞬間、埋めたはずの名前があまりにも鮮明に胸の内側へ浮かんできたのだから。
由良は岸壁の端まで歩き、海面を覗き込んだ。空の色を半端に映した水は鈍い鉛色で、足元の石垣に砕ける波だけが白く泡立っている。
そのとき、背後で軽トラックのエンジン音がした。
「おや、誰かと思えば」
振り返ると、魚市場のほうから一台の軽トラックが近づいてきていた。運転席から顔を出したのは、由良より十ほど年上の男だった。日に焼けた肌に、寝癖のような短い髪。見覚えがある。向こうもこちらの記憶を探るように目を細め、それからあっと声を上げた。
「由良ちゃんか。久しぶりだな」
「……夏生さん」
名を呼んでから、ようやく輪郭が定まった。夏生は蒼汰の兄で、当時は高校を出てすぐ漁協で働いていた。蒼汰よりずっと無口で、けれど弟の話になると少しだけ表情が柔らかくなる人だった。
「帰ってきたって、ばあちゃんのことで?」
「うん。今は落ち着いてる」
「そりゃよかった」
夏生はトラックを降り、岸壁に並んだ発泡スチロールの箱を点検するふりをしながら由良を見た。
「港なんか来るとは思わなかったな」
「わたしも。気づいたら来てた」
「そういうこと、あるな」
それだけ言って、夏生はそれ以上追及しなかった。由良はありがたく思った。だが沈黙のすきまに、蒼汰の名前だけが膨らんでいく。
夏生はしばらく海を眺めたあと、低い声で言った。
「おまえ、あいつのこと、まだ気にしてるか」
由良は答えられなかった。
否定すれば嘘になる。肯定するには、長く放っておきすぎた。
「……たまに思い出すよ」
ようやく絞り出したのは、その程度の言葉だった。
夏生はうなずきもせず、ただ海のほうを向いたままだった。
「ばあちゃんの家に行くなら、古い防波堤のほうには近づくな。崩れてるとこがある」
「古い防波堤?」
「子どものころよく行ってただろ。町外れの」
「ああ……」
「今は危ない」
夏生はそこで言葉を切った。由良はなぜだか、その忠告が単なる安全確認以上の意味を帯びて聞こえた。だが彼の横顔は固く閉ざされていて、続きを尋ねる気にはなれなかった。
軽トラックが去ったあと、港にはまた、朝になる前の静けさが戻った。東の空がわずかにほどけ始め、船の白い輪郭が少しずつ現実を取り戻していく。
由良は深く息を吸い、それから祖母の家へ向かった。
02
第二章 窓辺の地図
祖母の家の窓は、町のいちばん低いところを向いていた。晴れた日には川の反射が見え、曇った日にはただ灰色の面が広がる。
台所の棚のいちばん上には、折り目だらけの地図がしまわれていた。誰ももう使わないはずの紙の地図で、海沿いの細い道だけが何度も触れられたように柔らかくなっていた。
由良は椅子を引いて、その地図を膝の上に広げる。港から家まで、家から坂道まで、坂道から古い防波堤まで。指で辿るたびに、記憶は正しい順番を拒むみたいに少しずつ位置を変えた。
たぶん人は、忘れたのではなく、置き場所を間違えるのだ。
祖母の台所は、七年前とほとんど変わっていなかった。味噌汁の匂いが染み込んだような木の柱。何度拭いても取れない曇りを抱えた窓ガラス。丸椅子の脚についた小さな傷まで、由良は見覚えがあった。変わったのは、自分のほうだけなのだと妙に思い知らされる。
地図の端には、鉛筆で小さな印がつけられていた。
丸でも三角でもない、ためらうような点が三つ。ひとつは港の外れ。ひとつは坂の途中の空き地。もうひとつは、古い防波堤の先だった。
由良は眉をひそめた。こんな印が前からあっただろうか。
地図を裏返すと、かすれた字で短い一文があった。
潮が引いた日の午後に見ること。
祖母の字だった。丸みがあるのに芯の強い字。由良は思わず地図を持つ手に力を込めた。祖母は何を見せたかったのだろう。なぜ今になって。
ふと、居間の柱時計が九時を打った。病院へ差し入れを持っていく約束の時間が近い。由良は地図を丁寧に畳み、バッグへしまった。
病院へ向かう途中、町を歩く足取りはぎこちなかった。商店街の半分はシャッターが閉じたままで、残りの半分も看板の色を失いかけている。子どものころ賑わっていた駄菓子屋はコインランドリーになり、文房具店は更地になっていた。それでも角を曲がったときにふっと見える海の色だけは、変わらないようでいて、やはり違って見える。
病室で祖母は、ベッドの上からじっと由良を見た。
「見たのかい」
「見た。地図に印がついてた」
「そう」
「何なの、あれ」
祖母はすぐには答えなかった。窓の外の雲を確かめるように目を細め、それから言った。
「順番に行きなさい」
「順番?」
「港。それから坂の途中。最後に防波堤だよ。いきなり最後へ行っちゃいけない」
「どうして」
「そういうものだから」
あまりにも祖母らしい物言いで、由良は少しだけ笑ってしまった。昔から祖母は説明を省く人だった。理由より先に手順を渡す。疑う前に動け、とでもいうように。
「ねえ、これ、蒼汰に関係あるの」
その名前を口にした途端、祖母の表情がわずかに変わった。驚いたのではない。むしろ、ようやくそこへ辿り着いたかという顔だった。
「あるよ」
即答だった。
由良の喉が乾く。
祖母は布団の上に置いた手を、ゆっくり重ねた。
「でも、全部を知ったからって、楽になるとは限らない。人はね、知らないままでいられるなら、そのほうが幸せなこともある」
「じゃあ、どうしてわたしに見せるの」
「見ないままだと、あんたはずっと帰ってこれないからだよ」
由良は言葉を失った。
帰ってこれない――その意味が、この町に対してなのか、自分自身に対してなのか、うまく切り分けられなかった。
病院を出たとき、空は薄く晴れ始めていた。潮見表を確認すると、午後にはかなり潮が引くらしい。由良は近くのコンビニでノートとペンを買い、ベンチに座って地図の印を見直した。
港の外れ。
坂の途中の空き地。
古い防波堤の先。
順番に行きなさい。
祖母の声が耳の奥で繰り返される。由良はノートの最初のページに日付を書き、短く一行だけ記した。
これは、帰るための道順かもしれない。
03
第三章 港に残されたもの
午後まで待つあいだ、由良は港の食堂で昼を済ませた。味の濃い焼き魚定食は、疲れた舌に妙にしみた。店内のテレビではローカルニュースが流れていたが、内容はほとんど頭に入らない。窓の外を通る漁師たちの影と、テーブルの木目ばかりを見ていた。
潮が引き始めるころ、由良は最初の印の場所へ向かった。
港の外れ、使われなくなった倉庫群の裏手だった。錆びたフェンスの隙間から雑草が伸び、コンクリートの継ぎ目には小さな貝殻が詰まっている。海面は朝よりずっと低く、石積みの下のぬめった部分まで露わになっていた。
印の位置に立っても、特別なものは見えなかった。
しばらく辺りを見回し、地図と見比べ、由良は首をかしげる。祖母の書いた「見ること」という言葉は、何か目印の存在を前提にしているはずだった。
しゃがみこんだ拍子に、足元のコンクリートの隙間に何か白いものが挟まっているのに気づいた。細く、湿って、紙の切れ端のように見える。指先でつまんで引き上げると、それはビニールに包まれた小さな封筒だった。
心臓がひとつ大きく跳ねた。
封筒の表には何も書かれていない。古びてはいるが、水が入らないよう何重かに包まれていたらしく、中の紙は無事だった。由良は慎重に開く。
折り畳まれていたのは、メモ用紙を破いたような紙片だった。
一番低いところから始める。高いところでは、遠くが見えすぎるから。
蒼汰の字だった。
少し右上がりで、最後の払いだけ妙に勢いがつく癖。ノートの貸し借りをしたとき、何度も見た字だ。体が一瞬だけ昔の時間へ引き戻される。
由良はその場に立ち尽くした。
どうして。いつ書かれた。誰が隠した。祖母は知っていたのか。
問いがいくつも立ち上がるのに、答えへ向かう道筋はひとつも見えない。
「見つけたか」
振り返ると、いつのまにか夏生がフェンスの外に立っていた。漁協の作業着のまま、帽子を片手で押さえている。
「……夏生さん、これ」
由良が紙片を見せると、夏生の目がわずかに細くなった。驚きよりも、とうとうその日が来たという顔だった。
「ばあちゃんに言われたのか」
「うん。順番に行けって」
「そうか」
「知ってるの?」
夏生はすぐには答えなかった。
しばらく海面のほうを見てから、低い声で言った。
「蒼汰は、いなくなる前に何かを残してた。全部じゃない。断片だけだ。誰かがすぐ辿りつけるような置き方じゃなかった。見つけるやつを選ぶみたいにな」
「選ぶ?」
「おまえか、ばあちゃんか、その両方か。たぶんそんなところだ」
由良は紙片を握りしめた。
怒りに似た感情が胸をかすめる。七年も経ってから選ばれるなんて勝手だ。そう思う一方で、蒼汰らしいと感じる自分もいた。正面から助けを求めることはしない。けれど本当に必要な相手には、遠回りな形でしか手を伸ばせない。そんな不器用さを、由良は知っていた。
「蒼汰は、死んだんじゃないの」
夏生はまばたきを一つした。
「俺は、そうは思ってない」
「どうして」
「死ぬやつの消え方じゃなかった」
それは説明のようでいて、何も説明していなかった。だが夏生の声には妙な確信があった。
「次は坂の途中だな」
「夏生さんも知ってるの?」
「場所はな。中身までは知らない」
「なんで教えてくれなかったの」
問いは少し責める響きを帯びた。夏生はそれを受け止めたまま、目を逸らさない。
「おまえが帰ってこなかったからだ」
由良は返す言葉を失った。
それは責任を押しつける言葉ではなかった。ただ事実として置かれた石のようだった。痛いのに、反論しづらい。
夏生はフェンスから離れながら言った。
「急ぐな。潮は逃げない」
その言葉だけを残して去っていく背中を見送り、由良は紙片をノートに挟んだ。
海風は朝より暖かくなっていたが、胸の内側にはまだ冷たいものが残っていた。
04
第四章 坂の途中の空き地
坂道は町の背骨みたいにまっすぐ上へ伸びていた。海辺の低い土地から住宅地へ向かうその道を、由良は高校の三年間ほとんど毎日歩いた。夏は蝉の声でうるさく、冬は風がまともに吹きつける。学生鞄の重さや、模試の成績や、誰にも話せない苛立ちまで、全部この坂の勾配に押し返されるようだった。
空き地は、坂のちょうど中腹にあった。
今は雑草が伸び放題で、古いブロック塀の一部が崩れている。昔は小さな診療所があった場所だ。閉院して取り壊されたあと、更地のまま長く放置されていた。
由良は地図を確かめながら敷地の端を歩いた。蒼汰と一緒にここを通るたび、彼は必ず塀の上に登り、遠くの海を見た。危ないからやめろと言うと、「高いところから見た町は、秘密が少し減る」と訳のわからないことを言って笑っていた。
高いところでは、遠くが見えすぎるから。
港で見つけた紙片の文が、そこで繋がった。
空き地の隅に、半分土へ埋もれた金属の箱があった。郵便受けに似た、古い工具箱のようなものだ。見つけた瞬間にわかる。これも誰かが意図して置いたものだ。
蓋は錆びていたが、鍵はかかっていなかった。開けると中には、ノートの切れ端ではなく、薄い大学ノートが一冊入っていた。
表紙には何も書かれていない。由良は喉を鳴らし、最初のページを開いた。
そこには蒼汰の文章が並んでいた。日記でも手紙でもない、断片的な記録だった。
この町の人は、海を見て生きているくせに、海の向こうを見ない。見ないようにしている。
見送りは上手なのに、帰ってきた人を見る目を持っていない。
いなくなった人のことは、そのまま海へ返してしまう。探すふりだけして、あとは噂に変える。
ページをめくるごとに、言葉は少しずつ切迫していく。
父さんが消えた日のことを、兄さんはちゃんと覚えていないふりをしている。母さんは本当に忘れたがっている。町は最初から何も知らなかった顔だ。
でも、見た人がいる。見たのに言わない人もいる。
由良の背筋が冷えた。
蒼汰の父――夏生の父でもある漁師は、蒼汰が中学生のころ、海で事故に遭って亡くなったことになっていた。台風の直後の夜、船が転覆し、遺体は数日後に見つかった。町ではよくある不幸として処理された。由良もそう聞かされていた。
ノートの最後のほうには、由良の名前が出てきた。
由良には言わない。言えば止める。止めるのは正しい。でも正しいことだけで息ができるなら、誰も海なんか見ない。
由良はそこで手を止めた。
胸の奥に、古い傷が遅れて熱を持ちはじめる。蒼汰は最初から自分を外していたのだ。守るためかもしれない。巻き込みたくなかったのかもしれない。だが置いていかれた側に残るのは、優しさよりもまず喪失だった。
ノートの最終ページには、短くこう書かれていた。
防波堤の先で、潮がいちばん引く日を待つ。そこで答えを決める。
日付は、蒼汰が失踪した前日だった。
由良はノートを閉じ、しばらく動けなかった。風が草を擦り合わせる音だけが、空き地を満たしている。
やがてポケットのスマートフォンが震えた。病院からだった。祖母が少し熱を出したが心配はいらない、という連絡だった。最後に看護師がつけ加えた。
「おばあさま、何度も“防波堤”っておっしゃってます。お孫さんに伝わってるならいいんですけど」
由良は小さく礼を言って通話を切った。
もう引き返せないところまで来ているのだと、その声で思い知らされた。
05
第五章 古い波の音
夕方、由良は病院へ寄った。祖母は熱こそあったが、意識ははっきりしていた。由良がノートを見つけたことを告げると、祖母は深く息をついた。
「やっぱり、あの子はあんたの名前を書いてたかい」
「知ってたの」
「少しはね」
「どうして止めなかったの」
祖母はすぐに答えず、水差しのコップへ口をつけた。それから、乾いた声で言った。
「止めたよ。でも、あの子は止まる子じゃなかった」
「何をしようとしてたの?」
「探してたんだよ。父親のことを」
由良は椅子に座り直した。
祖母の話はゆっくりだった。言葉を選ぶというより、ひとつ口にするたびに過去から何かを引き上げるような話し方だった。
蒼汰の父の事故には、ずっと妙な噂があったという。台風の夜に、通常なら出港しないはずの船が沖へ出ていたこと。町の誰かと激しく言い争っていたこと。戻ってきた船体の一部に、不自然な傷があったこと。けれど遺された家族は生活に追われ、漁協は事故として処理し、町は触れたがらなかった。
「蒼汰はね、子どものころから、みんなが曖昧にしてることに耐えられない子だった」
祖母は言った。
「曖昧なまま毎日が進むのが、どうしても許せなかったんだろうね」
「それで、自分で調べてた……?」
「そう。だけど、知るっていうのはね、灯りをつけることじゃない。暗がりの形をはっきりさせることなんだよ」
祖母は由良を見た。
「あんた、まだ行くつもりだろう」
由良はうなずいた。
「明日の午後、いちばん潮が引く」
「なら、朝のうちに夏生に会いなさい」
「どうして?」
「ひとりで行くには、あそこは危ない」
祖母はそこで少し笑った。
「それに、あの子もずっと待ってる」
“あの子”が蒼汰なのか夏生なのか、一瞬わからなかった。たぶんどちらもだった。
病院を出ると、町はもう暗くなり始めていた。由良は海沿いの道を遠回りして帰ることにした。
道すがら、商店の灯りがひとつずつともる。魚屋の前で小学生が笑い、酒屋の前で老人が立ち話をしている。小さな町の暮らしは、誰か一人が消えても容赦なく続いていく。そのことが残酷であり、同時に救いでもあるのだと由良は思った。
夜、自宅代わりに使っている祖母の家の座敷で、由良はノートをもう一度読み返した。蒼汰の文は途中から、まるで誰かに向けた報告のようになっていた。
見た人はいる。でも、見たことを口にした瞬間、その人も海に飲まれる。みんなそう思ってる。だから黙る。
黙ることは生き延びることかもしれない。でも、黙った言葉は腐る。腐った言葉の上では、誰もまっすぐ立てない。
蒼汰らしい、やや青臭くて、それでも真っ直ぐな文章だった。
由良はページを撫でる。もし当時これを読んでいたら、きっと「そんな大げさな」と笑っただろう。けれど大人になった今のほうが、町の沈黙の重さを少しわかる。生活がある。仕事がある。誰かを責めれば、自分の足場も崩れる。そういう怖さがある。
だからといって、何もなかったことにはできない。
由良は灯りを消す前にノートへ一行書き足した。
わたしは今、ようやくあなたの不器用さの輪郭を理解し始めている。遅すぎるけれど。
外では、どこか遠くで波の音がしていた。
06
第六章 兄の沈黙
翌朝、由良は港の市場裏で夏生を見つけた。発泡スチロールの箱を積み上げる作業の最中で、朝日を浴びた横顔は昨日より疲れて見えた。
「話したいことがある」
由良が言うと、夏生は箱を抱えたまま一度だけうなずいた。
作業を終えるまで待ってくれと言われ、由良は市場の外れのベンチで海鳥を眺めながら時間を潰した。三十分ほどして、夏生は缶コーヒーを二本持って現れた。
「甘いやつしかなかった」
「別にいい」
一本を受け取り、由良は蒼汰のノートを見せた。夏生は立ったまま数ページをめくり、表情を変えずに閉じた。
「読んだのか」
「読んだ」
「なら、もう隠しても仕方ないな」
夏生は防波堤のほうを見た。朝の海はよく晴れていて、昨日とは違って軽やかに見える。
「父親の事故は、事故だけじゃなかった」
由良は息を呑んだ。
「台風の前の日、父親は誰かともめてた。密漁のことだ」
「密漁……?」
「正確には、漁獲の横流しだな。町の何人かが組んでやってた。父親はそれを見つけて、やめろと言った」
夏生の声は低く平坦だった。何度も心の中で繰り返し、感情を削り落とした人の話し方だった。
「台風の夜に父親が沖へ出たのは、連中の誰かを追ったからだって噂があった。でも証拠はない。船の傷も、事故でついたことにされた。俺は高校を出たばかりで、母親は参ってて、蒼汰はまだ子どもで……結局、何もできなかった」
「蒼汰は、それを調べてたの?」
「たぶんな。誰が見て、誰が黙ったかまで追ってた」
「夏生さんは止めなかったの」
夏生は苦く笑った。
「止めたよ。でも、あいつは俺の言うことだけは昔から聞かない」
それは少しだけ兄らしい言い方だった。
由良は缶を握りしめる。
「蒼汰は、どこへ行ったの」
「知らない」
今度の返答には、嘘の気配がなかった。
「失踪した日の夜、防波堤へ行くっていうのは知ってた。俺も追いかけた。でも間に合わなかった。そこで見たのは、割れた懐中電灯と、蒼汰の靴跡だけだ」
「誰かいた?」
「わからない。ただ、波が荒くて、足跡はほとんど消えてた」
「警察には」
「言った。けど、若いのが思いつめて海へ――って話で片づけられた」
由良は唇を噛んだ。
それはこの町がいちばん選びそうな結論だった。悲劇に見えて、実のところ誰にとっても都合がいい。原因を海へ押しつければ、人の顔を見なくて済む。
「今日、一緒に来て」
由良は言った。
夏生はしばらく黙っていたが、やがてうなずいた。
「昼過ぎだ。潮がいちばん引くころに行く」
その返事に、由良の肩からわずかに力が抜けた。
港を出る直前、夏生がぽつりと言った。
「由良。あいつがおまえのことを書いてたのは、頼りたかったからだと思う」
「でも、何も言わなかった」
「言えなかったんだろ」
それが蒼汰だ、と言外に告げる声だった。
由良は返事をしなかった。怒りと寂しさと理解が、胸の中でまだうまく並ばない。
07
第七章 防波堤の先
古い防波堤は、町の外れの岩場へ向かって細く伸びていた。
新しい港湾設備ができてからほとんど使われず、コンクリートの表面は潮と風で削られ、ところどころ鉄筋がのぞいている。夏生の言った通り、ひとりで来ていたら途中で引き返したかもしれない。
空はよく晴れていたが、風は強かった。潮が引いた海はいつもより遠く、岩礁が黒く姿を現している。防波堤の先端近くまで来ると、コンクリートの基部に小さな空洞が見えた。普段は海面の下に隠れている場所だ。
「たぶん、あそこだ」
夏生が言った。
由良はしゃがみこみ、空洞へ手を入れた。冷たい海水とぬめりの感触の奥に、金属の箱の角が触れる。慎重に引き出すと、それは錆びた缶だった。蓋は固かったが、夏生が工具でこじ開けてくれた。
中には、ビニールに包まれた封筒と、小さなカセットテープが入っていた。
「今どきテープ……」
由良がつぶやくと、夏生が目を細めた。
「家にまだ再生機あったはずだ」
封筒の中には、手紙が一通。便箋一枚半。蒼汰の字だった。
由良へ。
ここまで来たなら、たぶんもう途中でやめる気はないんだと思う。
ごめん、と最初に書くのはずるい気がするけど、ほかにうまい始め方がない。
俺は父さんの事故のことを調べてる。事故じゃない可能性がある。誰が関わってるかまでは、まだ全部わかってない。でも、見た人がいる。証拠も少しだけある。
ただ、それを誰かに渡したところで、この町が簡単に変わるとは思えない。変わらないかもしれない。それでも、何もなかったことにされるのだけは嫌だ。
もし俺が戻らなかったら、兄さんを責めないでほしい。兄さんはずっと家を支えてきた。俺みたいに正しさで突っ走れないだけだ。
ばあちゃんにも、あまり無理をさせないでほしい。あの人は見てるだけで何もしないように見えて、誰より長くこの町の重さを背負ってきたから。
そして、由良。
たぶん俺は、おまえにいちばん先に言うべきだった。
でも、おまえは止める。止める声が正しいってことも、俺は知ってる。だから聞いたら行けなくなると思った。
それでも書くのは、たぶん最後に思い出す顔がおまえだからだ。
俺はこの町が嫌いだった。曖昧で、黙ってて、何でも海のせいにするから。
でも、好きでもあった。朝の港の匂いとか、坂の上から見える灯りとか、おまえが笑う前に少しだけ目を伏せる癖とか。そういうものがあるから、たぶん最後までちゃんと嫌いになれなかった。
もし戻れたら、自分で話す。
戻れなかったら、この先は兄さんが知ってる場所へ行ってくれ。
そこで、声が残ってる。
手紙はそこで終わっていた。
由良は読み終えたまま動けなかった。風が便箋を揺らし、指先がわずかに震える。泣くには遅すぎる気がした。怒るにも、もう言葉が追いつかない。
夏生は黙って海を見ていたが、やがて低く言った。
「知ってる場所、ってのはたぶん、船小屋だ」
「船小屋?」
「親父が使ってた古いやつが、岬の裏にある」
「そこに何が?」
「録音機材を持ち込んでたことがある。蒼汰、妙なところで几帳面だったからな」
カセットテープの重みが、手のひらに小さく食い込んでいた。
08
第八章 声の残る場所
船小屋は岬の裏側、草の伸びた細道の先にあった。
小さな木造の建物で、潮風に晒された壁板は灰色に褪せている。鍵は壊れていて、押すと軋みながら扉が開いた。中は古い網とロープ、錆びた工具、そして使われなくなった船外機の匂いで満ちていた。
棚を探ると、確かに古いラジカセが出てきた。電池は切れていたが、夏生が車から持ってきた予備の電池を入れると、なんとか作動した。
由良はカセットテープを差し込み、再生ボタンを押す。
最初はざあっというノイズだけが続いた。
やがて、息を整えるような小さな音のあとで、蒼汰の声がした。
『……聞こえるかな。たぶん大丈夫だと思う。』
七年ぶりに聞く声は、記憶より少し低かった。けれど語尾の上がり方も、ためらう間合いも、間違えようがないほど蒼汰だった。由良は思わず棚に手をついた。
テープの中で蒼汰は、断片的に調べたことを話していた。
父の事故当夜、港の外れで複数の船が動いていたこと。漁獲の横流しに町の有力者が関わっているらしいこと。見張り役の一人が父と口論していたこと。証拠として、当時の無線の一部を録音した人物がいたこと。
その録音のコピーも、テープの後半に収められていた。
雑音の合間に、男たちの声が短く入る。名前までは明瞭でない。だが、「あの親父に知られた」「今さら戻せない」「海に出たなら海の事故で終わる」といった断片ははっきり聞き取れた。由良の背中を冷たい汗が伝う。
次いで、蒼汰の声がもう一度入った。
『これで全部じゃない。けど、何もないよりはましだと思う。もし俺が明日うまく戻れなかったら、兄さんと、ばあちゃんと、由良に渡してほしいって頼んである。誰に頼んだかは書かない。巻き込みたくないから。』
そこで少し間が空く。
遠くで波の音がしている。蒼汰は息を吐き、それから前よりずっと静かな声で続けた。
『由良、おまえはたぶん怒るよな。先に謝っとく。けど、怒ってくれるなら、そのほうがいい。何も思われないよりは、ずっと。』
テープはそこで終わった。
ラジカセの回転音だけがしばらく続き、やがて自動停止した。
船小屋の中はしんと静まり返る。由良は唇を噛み、目を閉じた。怒りは確かにあった。だがそれ以上に、七年間ずっと不在だったはずの声が、急に目の前へ現れたことで、心の置き場所がわからなくなっていた。
「これ、警察に持っていけば――」
由良が言いかけると、夏生が首を振った。
「今のままだと弱い。時効じゃない案件でも、証拠として通るかは微妙だ。それに当時の関係者も、もう町を離れたのが多い」
「じゃあ意味がないってこと?」
「そうじゃない」
夏生は珍しく強い口調で言った。
「意味があるかどうかは、結果だけで決まらない。何も残らなかったことにしない、そのための意味はある」
由良は顔を上げた。
夏生の目の奥には、長いあいだ蓋をしてきた熱がうっすらと見えた。
「俺は、弟が勝手に消えたって話で終わらせたくない」
その言葉に、由良はようやく小さくうなずいた。
09
第九章 見ていた人
手がかりはまだ残っていた。
蒼汰が「頼んである」と言った相手。祖母かもしれないし、別の誰かかもしれない。由良たちは町の記憶をたどるしかなかった。
最初に祖母へテープを聞かせると、祖母は目を閉じて全部を聞き終え、長く息をついた。
「やっぱり、あの子はここまでやってたんだね」
「誰に頼んだのか知ってる?」
祖母はしばらく考え、ゆっくり首を振った。
「名前までは聞いてない。でも、女の人だったと思うよ」
「女の人?」
「蒼汰が何度か会いに行ってた。海のことをよく知ってる人だって言ってた」
由良と夏生は顔を見合わせた。
海のことをよく知る女の人。町には何人か思い当たるが、そのうちの一人がすぐ浮かんだ。元小学校教師の志保子だった。退職後は岬の上の家で一人暮らしをし、郷土史の記録を趣味のように続けている人だ。蒼汰が高校時代、図書室の資料を借りるためによく出入りしていたとも聞いたことがある。
志保子の家は、岬の上の風の強い場所にあった。
訪ねると、白髪をきちんとまとめた小柄な老女が、驚いた様子もなく二人を迎え入れた。
「来ると思っていました」
由良はぎくりとした。
志保子は居間へ通し、最初から隠す気のない口調で言った。
「蒼汰くんに頼まれていたものがあります」
押し入れの奥から取り出されたのは、分厚い茶封筒だった。中にはコピー用紙数枚と、古い写真が入っている。写真には夜の港の一角が写り、数人の男たちと小型船が見える。鮮明ではないが、日付が蒼汰の父の事故の前日に一致していた。
「これは……」
「わたしの亡くなった夫が撮ったものです」
志保子は静かに言った。
夫は新聞の通信員をしていて、町の記録をよく残していたらしい。偶然写り込んだ港の夜景に、後になって重要なものが含まれていると気づいたのだという。
「でも、当時のわたしには、これを表に出す勇気がなかった」
「どうしてですか」
由良が問うと、志保子は苦く笑った。
「小さな町では、真実は正しいだけでは足りないからです。生活を壊す力を持つ」
それは祖母の言葉と少し似ていた。
志保子は蒼汰が来た日のことを話した。真っ直ぐで、怖いくらいに怒っていたこと。けれど同時に、自分が何に勝とうとしているのかまだ分かっていない少年だったこと。
「彼は、最後にこう言いました。“今すぐ変えられなくても、残しておけば、いつか誰かがちゃんと怒れるかもしれない”と」
由良は胸の奥が痛んだ。
蒼汰は結果より先に、怒る権利を未来へ残そうとしていたのだ。誰かが曖昧さに飲み込まれないために。
「蒼汰はそのあと、どこへ?」
志保子は窓の外の海を見た。
「防波堤へ向かうと言っていました。会うべき人がいる、と」
「誰に?」
「名前は聞いていません。でも……」
そこで志保子は言葉を切った。
「当時、横流しに関わっていた若い漁師が一人、事故のあとすぐ町を出ています。藤崎という人です。蒼汰くんは、その人が何かを知っていると思っていました」
夏生が険しい顔をした。
「藤崎、今どこにいるかわかりますか」
「数年前に隣県へ戻ったと聞きました。詳しい住所までは」
由良は封筒の中身を見つめた。
点と点が、ようやく線になり始めている。だがその線の先に蒼汰本人がいるのかは、まだわからない。
10
第十章 境目の町
その夜、由良は眠れなかった。
座敷に敷いた布団の上で目を閉じると、蒼汰の声と手紙の文面と、港の写真が何度も浮かんでは沈んだ。町は眠っているはずなのに、壁の向こうでずっと波の音が鳴っている気がした。
翌日、由良は東京の会社へ連絡し、休暇を延ばした。
画面の中の同僚は少し驚いていたが、事情を簡単に話すとあっさり了承してくれた。都会では、個人の過去は案外深く問われない。ありがたい反面、その淡白さが今日は少し寂しくもあった。
夏生と相談し、志保子から聞いた藤崎という男の行方を追うことにした。漁協の古い名簿や、町役場の転出記録にあたれば、おおまかな場所くらいはわかるかもしれない。表向きは祖母の用事を片づけるという体裁で、由良は役場へ出向いた。
役場の廊下は、七年前と同じ蛍光灯の白さをしていた。
窓口で対応してくれたのは、同級生の母親だった。久しぶりだねえと笑いながらも、由良が旧い記録を見たいと言うと、少しだけ表情が曇った。
「昔のこと、今さら掘り返してもね」
その一言に、この町の輪郭が凝縮されている気がした。
掘り返すな。波立てるな。見なかったことにした土を、わざわざまた掘るな。
由良は丁寧に頭を下げ、必要な範囲だけを確認して役場を出た。完全な住所はわからなかったが、藤崎が県境の港町へ移っていたことは掴めた。
「行くのか」
昼過ぎ、夏生が軽トラックの鍵を回しながら訊く。
「行く」
「証拠になる話を聞けるとは限らんぞ」
「わかってる。でも、知らないまま帰れない」
夏生はそれ以上何も言わず、エンジンをかけた。
県境の港町までは車で二時間半ほどだった。窓の外を海岸線が流れていく。途中で見える海はどれも同じようでいて、微妙に色が違う。町が変わるたび、港に置かれた船の大きさも、岸壁の形も少しずつ変わる。境目とは、案外こういう細部の積み重ねなのだろう。
藤崎は、小さな造船所で働いていた。
突然訪ねた見知らぬ二人に最初は警戒していたが、夏生が名乗った瞬間、顔色が変わった。年のころは五十代半ば。焼けた肌に深い皺が刻まれ、目だけが妙に若々しく落ち着かなかった。
「今さら何だ」
彼の第一声はそれだった。
「今さらでも、聞きたいことがある」
夏生の声は静かだったが、硬かった。
造船所の脇の休憩小屋で、由良たちは向かい合った。藤崎はしばらく黙っていたが、やがて観念したように煙草を取り出し、火をつけずに指の間でもてあそび始めた。
「……あの夜、事故じゃなかったのは本当だ」
由良の心臓が強く打った。
藤崎は低い声で続ける。
「けど、殺そうとしたわけでもない。脅して黙らせるつもりだった。沖で船を寄せて、話をつけるだけのはずだったんだ」
「結果、死んだ」
夏生が言う。
藤崎は顔をしかめた。
「台風が予想より早く来た。波が立って、船がぶつかった。あの人は海へ落ちた」
「助けなかったのか」
「助けようとした!」
声が荒くなり、藤崎は自分で驚いたように息を詰めた。
「……でも無理だった。みんな動揺してた。誰かが“事故だ”と言った。そうするしかなかった」
そうするしかなかった。
その言い回しが、由良には吐き気がするほど卑怯に聞こえた。だが同時に、現実の人間はたぶんそうやって決断を誤るのだとも思った。悪意だけではなく、恐怖と保身と一瞬の判断で、取り返しのつかない場所へ滑っていく。
「蒼汰は?」
由良が問うと、藤崎の目が揺れた。
「……会った」
「どこで」
「防波堤だ。事故のことを全部知ってるみたいだった。録音も持ってた」
「それで?」
「俺は話した。もう終わったことだって。今さら誰も救われないって」
藤崎は乾いた唇を舐めた。
「そしたらあいつ、笑ったんだ。“救うためじゃない。終わってないって言うためだ”って」
由良は手を握りしめた。蒼汰の声で容易に再生できる言い方だった。
「そのあと、どうしたの」
「知らない。俺は帰った。あいつは残った」
「ほんとか」
「ほんとだ」
藤崎の目には、少なくともその部分だけは嘘がなかった。
「ただ……」
「何」
「翌朝、港へ戻る途中で、ヒッチハイクしてる若い男を見た。顔までははっきり見てない。でも、たぶん蒼汰だ」
由良と夏生は息を呑んだ。
「どっちへ向かった」
「北だ。県庁のほう」
蒼汰は海へ落ちたのではない。
防波堤の夜を越え、そのまま町を出た可能性が急に現実味を帯びた。
11
第十一章 いなくなる技術
帰りの車中、由良はほとんど喋らなかった。
蒼汰が生きて町を出たかもしれない。その事実は希望というより、別の種類の痛みだった。生きていたなら、なぜ一度も戻らなかったのか。なぜ七年ものあいだ何の連絡もなかったのか。
「責めたいか」
運転しながら、夏生が言った。
「……わからない」
「そうだろうな」
夏生はそれ以上踏み込まなかった。夕暮れの海がフロントガラスの向こうで赤く伸びていく。
町へ戻ると、祖母の退院が翌日に決まったと病院から連絡が入った。由良はほっとしつつも、胸の中に新しいざわめきを抱えたままだった。
夜、祖母へ藤崎の話を伝えると、祖母は静かに聞き終え、しばらくしてから言った。
「生きて出たなら、それはあの子が自分で選んだんだろうね」
「わたしたちを置いて?」
少し尖った声になった。祖母は由良をまっすぐ見た。
「置いていかれたと思うのは当然だよ。でもね、若い子がいなくなるときって、誰かを捨てるためだけじゃない。自分がここにいたままじゃ壊れるから出ていくこともある」
由良は黙った。
正しい。正しいのだろう。けれど納得は別だ。
「会いたいかい」
祖母が尋ねる。
由良は答えるまでに時間がかかった。
「……会って、どうするのかわからない」
「わからないまま会えばいい」
祖母はそう言って、薄く笑った。
翌日、祖母を家へ連れ帰った。小さな体を支えながら玄関を上がると、祖母は「やっぱり家はいいねえ」と呟いた。その一言で、由良は少し泣きそうになった。
午後、志保子から電話があった。
「探していたものがもうひとつ見つかりました」と落ち着いた声で言う。急いで訪ねると、彼女は古いアルバムの間から出てきたという名刺を差し出した。裏に蒼汰の字で、短い住所らしきものが書かれている。
青潮舎 宮城県塩竈市○○町——
「出版社……?」
由良がつぶやくと、志保子はうなずいた。
「夫の知り合いに、地方の聞き書きを集める編集者がいたんです。蒼汰くんは昔、その人の話を面白がって聞いていたことがあった」
町から消えた少年が、遠くの港町の出版社。
突飛な組み合わせのようでいて、なぜだか妙に納得もあった。蒼汰は昔から、記録することや、語られずに消えるものに執着していた。
由良は名刺を見つめた。
会いに行ける距離だ。今なら。
12
第十二章 北へ向かう列車
二日後、由良は北へ向かう新幹線に乗っていた。
祖母は「行っておいで」とだけ言い、夏生は駅まで送ってくれた。同行はしなかった。これは由良が自分で会いに行くべきだと、二人ともわかっていたのだと思う。
車窓を流れる景色は、関東を抜けるにつれて少しずつ色を失い、代わりに空が広くなっていった。ノートにはこれまで集めた手がかりが挟んである。紙片、ノートのコピー、手紙、写真、名刺。
由良はそれらを何度も読み返しながら、会ったら何を言うべきか考えた。考えるほどわからなくなる。
生きていてよかった、と先に言えるだろうか。どうして連絡しなかったの、と責めるべきだろうか。七年ぶんの言葉は多すぎて、どれも最初の一つには向かない。
塩竈の町は、由良の故郷に少し似ていた。海が近く、道の先でふいに港が開ける。けれど似ているからこそ違いもよく見える。ここでは港がどこか外へ開いていて、閉じた輪のような圧をあまり感じない。
名刺の住所にあった青潮舎は、小さな雑居ビルの二階にあった。
ガラス扉の向こうに、本棚と机が見える。息を整え、由良は扉を押した。
「失礼します」
中には三人ほど人がいた。若い女性が顔を上げる。
「はい」
「……ここに、蒼汰さんって、いますか」
口にした瞬間、心臓が嫌になるほど跳ねた。
女性は少し驚いた顔をし、それから奥へ視線を向けた。
「相良さん、お客さまです」
相良。
聞き慣れた苗字ではない。
だが奥の机から立ち上がった男を見た瞬間、由良はわかった。
少し痩せて、髪が短くなって、輪郭が大人びていても、目の動きだけは変わらない。何かを言う前に、相手の表情の変化を先に読み取ろうとする目。
蒼汰だった。
彼は一歩だけ近づき、それきり動けなくなったように立ち尽くした。由良も同じだった。
七年は長い。長すぎる。再会のための自然な所作を、どちらも失っていた。
「……由良」
ようやく蒼汰が言った。
その声で、由良の中の時間が一気に崩れた。
「生きてたんだ」
最初に出たのは、それだけだった。責める言葉でも喜ぶ言葉でもなく、確認のような一文。
蒼汰はかすかにうなずいた。
「うん」
「最低」
次に出たのは、それだった。
由良は自分でも少し驚いたが、止められなかった。
「知ってる」
蒼汰はそう答えた。
それがあまりに彼らしくて、由良は笑うのと泣くのの中間みたいな息を漏らした。
「少し、時間もらえる?」
蒼汰が言う。
由良は無言でうなずいた。
13
第十三章 七年ぶんの空白
青潮舎の近くの喫茶店で、二人は向かい合って座った。
窓の外には港へ向かう道があり、トラックと自転車が行き交っている。平日の午後の町は静かで、カップを置く音だけがやけに大きく聞こえた。
蒼汰はコーヒーにほとんど手をつけなかった。
「どこから話せばいいかわからない」
「じゃあ、わたしが聞く」
由良の声は思ったより落ち着いていた。怒りはある。けれど怒りだけでここまで来たわけではない。
「防波堤の夜、何があったの」
蒼汰は少し目を伏せた。
「藤崎に会った。だいたい話した通りだと思う。あの人は全部を認めたわけじゃないけど、事故じゃないってことは確信した」
「そのあと?」
「町へ戻ろうと思った。でも戻ったら、証拠を持ってる俺が先に潰される気がした。大げさじゃなく、本当に」
由良は反論しかけて、やめた。あの頃の町ならありえない話ではない。
「志保子さんの伝手で、青潮舎の編集者を紹介してもらった。しばらく預かってくれるって」
「しばらく、が七年?」
蒼汰は痛そうに息を吐いた。
「最初は戻るつもりだった。証拠を整理して、告発の形を考えて、それから……でも時間が経つほど、戻る理由と戻れない理由が絡まって、動けなくなった」
「連絡はできた」
「できた」
即答だった。言い訳しないのが逆に残酷だった。
「怖かった」
蒼汰はそう続けた。
「兄さんにも由良にも、どんな顔をされるか怖かった。怒られるのも当然だし、もう関わるなって言われたら、それも正しいし」
「正しいかどうかで全部決めるの、昔から悪い癖だよ」
由良が言うと、蒼汰は少しだけ笑った。
「知ってる」
それから彼は、青潮舎で働くようになった経緯を話した。地方の聞き書きや、消えかけた産業の記録をまとめる仕事。町から町へ行き、誰にも引き取られない記憶を文章にして残す仕事。
由良には、それがあまりにも蒼汰らしく思えた。自分が消えるようにいなくなったくせに、他人の消えそうなものを拾い集めていたのだ。
「家族には、一度も?」
「……出せなかった」
「わたしには?」
蒼汰は答えるまで少し時間を使った。
「いちばん出したかった。だから、いちばん出せなかった」
その言葉がずるいことを、彼自身もわかっている顔だった。
由良はカップの縁を指でなぞる。簡単に許したくはない。けれど、目の前にいる蒼汰が七年ぶんの後悔を抱えているのも嘘ではなかった。
「手紙、読んだ」
由良が言うと、蒼汰の肩がわずかに揺れた。
「……防波堤のやつ?」
「うん」
「恥ずかしいから忘れてほしい」
「無理」
「だよな」
少しだけ、昔みたいに会話が転がった。
それがかえって痛かった。失った七年が、急に具体的な重さを持って卓上へ置かれた気がしたからだ。
「帰ってきて」
由良は気づくとそう言っていた。
蒼汰は目を見開く。
「すぐじゃなくていい。でも、帰ってきて。おばあちゃんも、夏生さんも、生きてる。待ってる」
「待ってないかもしれない」
「待ってる」
由良は強く言った。
ここだけは断言できた。
蒼汰は長く黙り、それから小さくうなずいた。
14
第十四章 帰ること、帰らないこと
塩竈での一晩、由良はビジネスホテルの狭い部屋でほとんど眠れなかった。
再会はした。生きていることも確かめた。けれどそれで物語が閉じるわけではない。むしろここから先のほうがずっと難しい。帰ることは、見つかることより難しい。いなくなるには勢いが使えても、戻るには言葉が要る。
翌朝、蒼汰は青潮舎を半日休み、駅まで見送りに来た。海からの風がホームへ吹き込み、春の名残の寒さが頬に触れる。
「夏生さんに、何て言えばいいかな」
蒼汰が言う。
「まず、ごめんじゃない」
「じゃあ?」
「ただいま」
蒼汰は苦笑した。
「難しいな」
「だから帰るんでしょ」
列車の到着アナウンスが流れる。由良はバッグの紐を握り直した。
「証拠のこと、これからどうする?」
「青潮舎の人に相談する。記事にする形もあるかもしれない。実名は難しくても、町の事故の記録として残せる」
それは完全な解決ではない。関係者全員が裁かれるとも限らない。
それでも、何もなかったことにはしない。その線だけは守れるかもしれない。
「由良」
蒼汰が呼ぶ。
七年前と同じ呼び方だった。
「ありがとう」
「まだ早い」
由良はそう返した。
ありがとうを受け取るには、まだ足りない。けれど拒絶もしなかった。
列車に乗り込み、窓際の席からホームを見ると、蒼汰は立ったまま小さく手を上げた。派手な別れ方をしないところまで変わらない。
列車が動き出しても、由良はしばらく窓の外から目を離せなかった。
15
第十五章 港の朝、もう一度
故郷へ戻ったのは、その二日後だった。
祖母は玄関で待っていて、由良の顔を見るなり「あんた、ちゃんと食べてたのかい」と言った。そういうところも変わらない。由良は笑いながら、塩竈で蒼汰に会ったことを伝えた。
祖母は少しだけ目を潤ませたが、泣かなかった。
「生きてたなら、あとは自分で帰るだけだね」
「うん」
夏生にはその日の夕方、港で会った。
由良が「会えた」と言うと、夏生は数秒だけ何も言わず、それから海のほうを向いた。
「そうか」
それだけだった。けれどその二文字の中に、七年ぶんの緊張が少しほどける音が混じっていた。
「帰ってくるって」
「いつ」
「近いうちに」
「曖昧だな」
「蒼汰だからね」
由良が言うと、夏生は本当に久しぶりに笑った。
数日後、町に小さなざわめきが走った。
蒼汰が戻ってきたのだ。大げさな帰還ではなかった。平日の午後、バス停から歩いて港へ現れ、先に漁協へ顔を出し、そのあと祖母の家へ来たという。由良がその報せを聞いて駆けつけたとき、蒼汰は縁側に正座して祖母に説教されていた。
「七年は長い!」
祖母の声が庭まで響く。
蒼汰は「はい」と小さく返していた。その姿がおかしくて、由良は玄関先で笑ってしまった。
蒼汰が顔を上げる。目が合う。お互い少しだけ気まずくて、少しだけ可笑しい。
「ただいま」
蒼汰が言った。
由良は腕を組み、わざと少し間を置いてから答えた。
「おそい」
「うん」
「でも、おかえり」
その一言で、何かがようやく元の場所に戻った気がした。
完全に同じ場所ではない。七年の不在で、みんな少しずつ形を変えている。失われた時間は戻らないし、父の事故の真相も、蒼汰の不在も、簡単にきれいな物語にはならない。
それでも、戻るとはたぶんそういうことだ。壊れたままの部分を抱えながら、それでも同じ場所にもう一度立つこと。
翌朝、由良はまた港へ行った。
今度はひとりではなかった。隣には蒼汰がいて、少し離れたところに夏生がいる。朝の潮の匂いはやはり古かった。けれどその古さはもう、ただ過去の澱ではなく、長く続いてきた時間そのものの匂いに思えた。
「港って、こんな匂いだったっけ」
蒼汰が言う。
「思ってたより古いよね」
由良が答えると、蒼汰は小さく笑った。
「それ、わかる」
東の空がほどけ、白い船体の輪郭がひとつずつ朝に浮かび上がる。
由良はポケットに手を入れたまま、その光景を見ていた。地図はもうバッグの中にない。必要だった道順は終わったのだと思う。
けれど人が帰るための地図は、一度使い終わったあとも心のどこかに残り続ける。忘れたのではなく、置き場所を間違えていただけだったものたちを、少しずつ正しい棚へ戻していくために。
海の上を、朝の光が静かにすべっていった。
16
エピローグ 窓辺に置くもの
祖母の家の窓は、相変わらず町のいちばん低いところを向いている。
晴れた日には川の反射が見え、曇った日にはただ灰色の面が広がる。台所の棚のいちばん上には、もう地図はない。代わりに透明なファイルが置かれている。中には紙片、ノートのコピー、写真、そして新しく印刷された記事が入っている。
地方誌の小さな特集だった。
海辺の町で長く曖昧にされてきた事故の記録と、語られなかった証言について。実名は伏せられ、決定的な断罪には至らなかった。それでも記事は確かに存在し、図書館にも収蔵された。何も残らなかったことにはならない。
蒼汰は月に数度、塩竈とこの町を行き来するようになった。完全に戻ったわけではない。けれど前みたいにいなくなったりもしない。夏生とはまだぎこちない日もあるが、港で並んで作業する姿を見ると、兄弟は言葉より先に体が思い出すものなのだとわかる。
由良は東京の仕事を続けながら、以前より頻繁に町へ帰るようになった。帰るという言葉の意味が、少し変わったのかもしれない。
町は相変わらず小さく、相変わらず少し息苦しい。それでも、そこにある曖昧さをただ嫌うだけではなく、何が曖昧にされ、何が守られてきたのかを見ようと思えるようになった。
ある午後、由良は窓辺で新しい地図を広げた。観光用の簡単な町歩き地図だ。古い防波堤はもう載っていない。代わりに、新しく整備された遊歩道や展望デッキが色分けされている。
「ずいぶん変わったね」
背後で蒼汰が言う。
「でも、載ってない道のほうが大事なこともある」
由良が答えると、蒼汰は苦笑した。
「それ、仕事で使わせてもらっていい?」
「だめ」
即答すると、蒼汰は肩をすくめた。
そんなやり取りをしながら、由良はふと思う。人はきっと、失くしたものを完全には取り戻せない。けれど、失くしたまま終わらせないことはできる。
見つからなかった言葉を拾い、置き場所を間違えた記憶を正し、誰かの沈黙に形を与える。そのための地図は、たぶんどこにも完成形では存在しない。歩くたび、少しずつ描き直すしかない。
窓の外では、川の反射が揺れていた。
その向こうに、遠く海の光がある。由良は地図を閉じ、窓辺へ手を置く。触れたガラスは冷たかったが、その向こうの午後は明るかった。
潮の匂いが、かすかにした。