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2026.03.14長編 ・ 55分

夢の回廊

精神療法士・織部千紗は、患者の深層心理に潜入する装置DCミラーの被験者となる。他者の夢に入り込み、心の傷を治療する彼女が、やがて夢と現実の境界を見失い、自らの抑圧された欲望と対峙していく。

夢の回廊

01

第一章 DCミラー

他人の夢に入るとき、いちばん危険なのは、自分の夢と混ざることだ。


 すべての始まりは、地下二階の実験室だった。

 織部千紗は白衣のボタンを留めながら、薄暗い廊下を歩いていた。蛍光灯が一本切れかけていて、三歩ごとに明滅する。その不規則なリズムが、まるで誰かの瞼の瞬きのように見えた。

 二十六歳。精神療法士。聖稜大学附属病院の臨床心理部に所属している。

 千紗は鏡があると、つい自分を確認する癖があった。廊下の消火器の横に掛けられた小さな鏡に、自分の顔が映る。切り揃えた黒髪のボブ。色の薄い唇。目尻がほんの少しだけ吊り上がっていて、何もしていなくてもどこか挑発的に見える目。同僚の男たちが視線を向けるのを、千紗は知っている。知っていて、何も感じないふりをしている。

 感じないのではなく、感じることを自分に許していない。そのことに、千紗自身は気づいていなかった。

 実験室のドアを開けると、所長の九条征爾が待っていた。

 五十代。白髪交じり。深い皺の刻まれた顔に、異様に若い目を持つ男。精神医学と脳神経工学の境界領域で世界的な権威とされているが、学会では「危険な夢想家」と呼ぶ者もいた。

「遅いよ、織部くん」 「すみません。外来が長引いて」 「まあいい。見てくれ」

 九条が示した先に、それがあった。

 DCミラー。

 正式名称は「深層意識共鳴映像装置」。患者の脳波パターンを読み取り、夢の構造を三次元データとして可視化するだけでなく、術者の意識を患者の夢の中に「送り込む」ことができるという、理論上のテクノロジー。

 理論上の、はずだった。

 DCミラーの本体は、MRIのトンネルに似た白い円筒形の装置だった。ただし二人分のベッドが並列に配置されていて、それぞれの枕元にヘッドギアが備え付けられている。ギアから延びる無数のケーブルが、中央のモニターユニットに接続されていた。

「動物実験は成功した。霊長類での共鳴率は九十七パーセント。人体実験のフェーズに入る」

 九条の声は淡々としていたが、目の奥に火が灯っていた。

「被験者は?」 「二人必要だ。患者役と術者役。術者は、臨床経験があり、精神的に安定していて、なおかつ共感能力の高い人間が望ましい」

 九条が千紗を見た。

「君だよ、織部くん」

 千紗は九条の目を見返した。この人の目に宿る光は、科学者の好奇心なのか、それとも別の何かなのか。

「わたしですか」 「君以上の適任者はいない。共感性尺度のスコア、君が歴代トップだ」 「それは臨床で使う共感であって、他人の夢に入るための」 「同じことだよ。他人の心に入り込む才能という意味では」

 千紗は装置を見つめた。白い円筒の中の、二つのベッド。並んで横たわる二人の脳が、ケーブルを通じて共鳴する。一方の夢の中に、もう一方の意識が入り込む。

 それは治療なのか、侵犯なのか。

「リスクは」 「共鳴中に術者が自我を失う可能性がある。患者の夢に呑まれて、自分の意識が戻れなくなるケースが、動物実験で二例。いずれも覚醒後に後遺症なく回復したが」 「二例って、何匹中ですか」 「三十二匹中」 「六パーセント」 「許容範囲だ」

 千紗は許容範囲だとは思わなかった。けれど、断る気もなかった。

 精神療法士として四年間、千紗は患者の心に寄り添い、言葉で傷を治してきた。それは根気のいる、長い作業だった。何年もかけて少しずつ信頼を築き、少しずつ心を開いてもらい、少しずつ傷口を見せてもらう。

 もし夢に直接入れるなら、傷を直接見ることができる。

 それは治療の革命だ。

 同時に、パンドラの箱でもある。

「やります」

 千紗は言った。

 九条が笑った。満足そうに。

 その笑みの奥にあるものを、千紗はまだ読めていなかった。


02

第二章 最初の患者

最初の被験者として選ばれたのは、入院患者の安藤真司だった。

 三十四歳。会社員。半年前から重度の不眠症を患い、薬物療法に反応しなかった。覚醒時にも幻覚が生じ、「眠ると戻れなくなる」という強迫観念に取り憑かれている。

 千紗は通常のカウンセリングで安藤を二ヶ月間担当していた。穏やかで、やや神経質な男だった。話し方は丁寧だが、核心に触れると途端に目を逸らす。何かを隠している。それが何かは、言葉だけでは辿り着けなかった。

「安藤さん。今日は少し変わった治療を試したいのですが」

 千紗はベッドサイドで説明した。DCミラーのこと。夢に入ること。承諾書にサインが必要なこと。

 安藤は枕元の天井を見つめたまま、しばらく黙っていた。目の下に深い隈がある。眠れない夜を何百回と過ごした顔だった。

「先生が、僕の夢に入るんですか」 「はい」 「僕の夢は、あまり見せたくないものです」 「治療ですから。見せたくないものこそ、見る必要があるかもしれません」 「……先生は、怖くないんですか。他人の夢に入るの」

 千紗は少し考えた。

「怖いです。でも、それ以上に知りたいと思っています。安藤さんが何に怯えているのかを」

 安藤は千紗を見た。目の奥に、助けを求める光があった。

「お願いします」


 DCミラーの中に横たわった。

 白い円筒の天井が近い。ヘッドギアの圧迫感。こめかみに冷たい電極が当たる。

 隣のベッドに安藤が横たわっている。鎮静剤で浅い睡眠に入っている。彼の脳波がモニターに映し出されていて、不規則な波形がゆらゆらと揺れている。

「共鳴開始。三、二、一」

 九条の声が、遠くなった。

 天井が溶けた。

 白い円筒が歪み、色が流れ、視界が暗転した。

 次に目を開けたとき、千紗は見知らぬ廊下に立っていた。

 古いマンション。壁紙が剥がれかけている。蛍光灯が点滅している。どこかで水が滴る音がする。

 これが、安藤真司の夢。

 千紗は自分の手を見た。自分の手だ。白衣は着ていない。カーディガンにジーンズ。なぜか、大学時代の私服だった。

 夢の中では、自分の外見も変わるのか。

 廊下を進むと、ドアがあった。薄い合板のドア。ノブに手をかけると、鍵はかかっていなかった。

 部屋の中に入ると、リビングだった。

 散らかっている。テーブルの上にコンビニの弁当の空き容器。壁に掛かったカレンダーは五年前の日付で止まっている。テレビが点いていて、砂嵐が流れている。

 ソファに、安藤が座っていた。

 現実の安藤より若い。二十代後半くらい。背広を着て、ネクタイを緩めている。目が虚ろだった。

「安藤さん」

 千紗が声をかけると、安藤は顔を上げた。千紗を認識しているのかどうか、分からない目だった。

「誰」 「織部千紗です。覚えていますか」 「織部……先生?」

 安藤の表情が少し和らいだ。

「ここは夢の中です。安藤さんの夢に、わたしが入っています」 「夢……」

 安藤は周囲を見回した。それから、低い声で言った。

「ここから出てください。先生」 「なぜ」 「この先に、見せたくないものがある」

 安藤の視線が、廊下の奥の一点に向けられた。

 暗い廊下。その奥に、もうひとつドアがある。閉まっている。そのドアの隙間から、赤い光が漏れていた。

 千紗は迷った。患者が見せたくないと言っている。それを無理に暴くのは、治療者として正しいのか。

 けれど、このドアの向こうに、安藤の不眠の原因がある。千紗にはそれが分かった。

「安藤さん。一緒に見ましょう」

 千紗は安藤に手を差し伸べた。安藤は怯えた目でその手を見つめていた。

 赤い光が、脈動するように明滅した。


03

第三章 赤い部屋

ドアを開けた。

 赤い部屋だった。壁も床も天井も、深い赤に染まっている。血の色ではない。もっと暖かい赤。胎内の色に似ている。

 部屋の中央にベッドがあった。

 ベッドの上に、女性が横たわっていた。

 裸だった。

 長い黒髪が枕の上に広がっていて、顔は横を向いている。肌は白く、腰の曲線が赤い光の中で陰影を作っていた。女性は眠っているように見えたが、胸が上下していない。

 安藤がドアの前で立ち尽くしていた。顔が蒼白だった。

「安藤さん。この人は」

 千紗の問いかけに、安藤は答えなかった。唇が震えている。

 千紗はベッドに近づいた。女性の顔を確認しようとした瞬間、女性の首筋に痣があるのが見えた。

 指の形の、痣。

 千紗は息を飲んだ。

「安藤さん」

 振り返ると、安藤は膝をついていた。両手で頭を抱えている。

「僕じゃない。僕はやっていない。でも、でも」

 声が壊れた。

「あの夜、僕は彼女を——」

 夢の壁が震えた。赤い光が激しく明滅し、部屋が歪み始めた。天井が下がってくる。壁が迫ってくる。安藤の恐怖が夢の構造を破壊している。

「安藤さん! 落ち着いて!」

 千紗は安藤の肩を掴んだ。夢の中の身体には、現実と同じ触覚がある。安藤の肩は震えていて、冷たい汗で濡れていた。

「ここは夢です。安藤さんの記憶が作った空間です。この女性は実体ではありません」

 臨床心理士としての訓練が、千紗の声を安定させた。

 安藤は千紗を見上げた。涙が頬を伝っている。

「先生。僕は、五年前に……元恋人を、傷つけた。酔って、腕を掴んで、首を……殺してはいない。でも、それからずっと」

「ずっと、眠れないんですね」

 安藤は頷いた。

 赤い部屋が、少しずつ収縮していく。安藤の感情が爆発すれば、夢の空間ごと崩壊する。千紗は安藤を抱きしめた。治療者として、というより、ほとんど本能的に。

「大丈夫です。もう大丈夫」

 安藤が千紗にしがみついた。子どものように。夢の中の安藤は、五年前の罪悪感の中に閉じ込められたままの男だった。

 赤い光がゆっくりと薄れていった。壁の赤が淡いピンクに変わり、やがて白くなる。

 ベッドの上の女性は、消えていた。

 赤い部屋は、ただの白い部屋になっていた。

 千紗は安藤を抱えたまま、白い空間の中に座っていた。安藤は泣いていた。静かに、長く。

 夢が終わった。


04

第四章 覚醒

目を開けると、DCミラーの白い天井だった。

 ヘッドギアが外される感覚。電極が剥がされ、頬に貼られたモニターのシールが冷たい。

「バイタル正常。脳波パターン、通常域に復帰」

 技術員の声が聞こえた。

 千紗はゆっくりと上体を起こした。隣のベッドで、安藤も目を覚ましていた。彼の顔は、入院以来初めて見る穏やかさだった。

「先生」 「はい」 「僕……泣いてましたか?」

 安藤の目尻に、涙の跡が残っていた。

「夢の中で」 「覚えています。赤い部屋。あの人。それから……先生が来てくれた」 「はい」 「先生に抱きしめられた。それで、白くなった」

 安藤は天井を見つめた。

「不思議です。今、すごく眠い」 「眠ってください」 「怖くないんです。初めて」

 安藤はそのまま、自然な睡眠に落ちた。

 千紗はベッドから降りて、コントロールルームに戻った。

 九条が待っていた。モニターに、セッション中の脳波データが表示されている。

「素晴らしいよ、織部くん。共鳴率九十六パーセント。安藤の深層記憶に直接アクセスし、抑圧された罪悪感を顕在化させ、なおかつ夢の構造を破壊せずに離脱した。申し分ない」 「安藤さんの不眠は改善するでしょうか」 「十中八九。根本原因が意識に上った。あとは通常のカウンセリングで処理できる」

 九条がデータをスクロールした。

「ただし、一つ気になることがある」

 モニターに、千紗の脳波データが表示された。安藤の夢の中にいた十七分間のデータ。

「ここ。赤い部屋に入った時点で、君の脳波に異常が出ている」 「異常?」 「辺縁系の活性化。感情処理に関わる領域。具体的には、恐怖、嫌悪、そして——」

 九条が千紗を見た。

「性的興奮」

 千紗は凍りついた。

「赤い部屋に入ったとき、裸体の女性を見たとき。君の脳は、恐怖と同時に、性的な反応を示していた」

「それは……共鳴の影響では。安藤さんの感情が転写されて」 「可能性はある。だが、安藤の脳波には性的興奮のパターンはなかった。あの場面で性的に反応していたのは、君だけだ」

 千紗は何も言えなかった。

 九条はモニターを閉じた。

「気にしなくていい。夢の中では、抑圧された感情が表面に出ることがある。君自身が何かを抱えている可能性は、否定できないがね」

 九条はそう言って、実験室を出ていった。

 千紗は一人残された。

 自分の手を見た。さっきまで、安藤を抱きしめていた手。夢の中で。

 赤い部屋を思い出した。赤い光。白い肌。女性の腰の曲線。

 なぜ、あの光景に反応したのか。

 千紗は自分自身を、理解していなかった。


05

第五章 深層

安藤のセッション以降、千紗はDCミラーを使った治療を次々と担当した。

 二人目の患者は、交通事故のPTSDを抱える中年の女性。千紗は彼女の夢に入り、事故の瞬間の記憶を一緒に追体験し、恐怖の核を特定した。治療は成功した。

 三人目は、幼少期の虐待による解離性障害の少年。夢の構造は複雑で、何層にも重なった「部屋」の中を千紗は進み、最深部で震えている幼い人格と出会った。

 四人目。五人目。六人目。

 千紗は夢に入るたびに、技術を磨いていった。患者の夢の構造を読み、崩壊を防ぎ、核心に到達し、安全に離脱する。それは外科手術に似ていた。精密で、危険で、成功すれば劇的な効果をもたらす。

 同時に、千紗自身の変化も進んでいた。

 夜、自宅のベッドで眠ると、夢を見るようになった。以前はほとんど夢を見ない体質だったのに。

 夢の内容は断片的だった。知らない廊下。開かない扉。鏡に映る自分の顔が、少しだけ違う。目の色が濃い。唇が赤い。まるで自分の「別のバージョン」を見ているような。

 そして、身体の奥に残る感覚。

 目覚めたときに、下腹部がじわりと熱い。手のひらが汗ばんでいる。夢の中で誰かに触れられたような、触れたような、曖昧な記憶。

 千紗はシャワーを浴び、冷水で顔を洗い、その感覚を押し流した。

 仕事に行く。白衣を着る。患者と向き合う。それが日常だ。

 けれど日常の底に、何かが沈殿し始めていた。


06

第六章 共鳴

七人目の患者は、千紗にとって特別な意味を持つことになった。

 名前は瀬尾修一。二十九歳。大学の非常勤講師。専門は文学。

 症状は重度の不安障害と、反復する悪夢。内容は毎回同じで、「水の中に沈んでいく」夢を見るという。

 通常のカウンセリングで三回面談した。

 瀬尾は知的な男だった。話し方に癖があり、言葉を選ぶように間を取る。目が黒くて深く、千紗の言葉をじっと受け止めてから、ゆっくり返す。会話のリズムが心地よかった。

「水の中に沈むとき、恐怖はありますか」

 三回目の面談で、千紗は訊いた。

「最初はあります。でも、深くなるにつれて、なくなっていく。むしろ——」

 瀬尾は言葉を探した。

「安堵に近いものを感じます。沈みきったら、もう浮かばなくていい。そういう安堵」

 千紗はカルテに書きながら、自分の心拍が少し速くなっていることに気づいた。

「その夢を見始めたのは、いつからですか」 「二年前です。当時、付き合っていた女性と別れたあとから」 「その方との関係は」 「深かった。たぶん、深すぎた。彼女の中に、溺れていた」

 溺れる。水に沈む夢と、重なる。

「今は、その方とは」 「連絡は取っていません。でも、夢の中では毎晩会います。水の底で」

 千紗は瀬尾を見つめた。瀬尾も千紗を見返した。

 視線が交差した瞬間、千紗の中で何かが反応した。共感でも同情でもない、もっと根源的なもの。この男の深さに、引き込まれそうになる感覚。

「DCミラーを使った治療を提案したいのですが」

 千紗は、自分でも驚くほど早く、その提案をしていた。


07

第七章 水底

瀬尾の夢に入った。

 最初に感じたのは、水の冷たさだった。

 全身が水に包まれている。海ではない。プールでもない。もっと深い、底の見えない水域。光は上方から差していて、水面が遠くに白く光っている。

 千紗は水の中に浮いていた。呼吸は不要だった。夢の中では。

 下を見ると、瀬尾が沈んでいた。

 ゆっくりと、静かに。目を閉じて、両腕を広げて。まるで水に身を委ねるように。

 千紗は泳いだ。瀬尾を追って、深みへ。

 水圧が増す。光が薄れる。水温が下がる。肌が粟立つ。

 瀬尾に追いついた。

「瀬尾さん」

 水中でも声は届いた。夢の中のルール。

 瀬尾が目を開けた。夢の中の彼は、現実よりも若く見えた。大学院生くらいだろうか。表情が柔らかい。

「誰ですか」 「織部千紗です。あなたの夢に入っています」 「夢……そうか。でも、ここは僕のいつもの場所です」 「沈み続ける場所?」 「ええ。ここに来ると、楽になる」

 瀬尾は微笑んだ。水の底で微笑む男。その表情は穏やかで、同時にどこか官能的だった。

「ここの底に、何があるか知っていますか」 「彼女がいます」

 千紗は瀬尾の視線を追った。

 深淵の先に、光が見えた。水底に、柔らかい光が広がっている。その光の中に、人影があった。

 女性だった。

 裸で、水の中に漂っている。長い髪が水流に揺れていて、目を閉じて、微笑んでいた。

 千紗は目を見張った。

 その女性の顔が、自分に似ていた。

 完全に同じではない。でも、骨格が似ている。目の形が似ている。唇の厚さが似ている。

「この人は」 「彼女です。元の恋人」 「わたしに、似ていませんか」

 瀬尾は千紗を見た。それから水底の女性を見た。

「……似ていますね。初めて気づきました」

 千紗の心臓が跳ねた。

 夢の中の心臓は、現実の心臓と連動している。DCミラーの向こうで、千紗の身体の心拍数が上がっているはずだった。

 水底の女性が、目を開けた。

 千紗と同じ色の瞳が、千紗を見つめた。

 女性が微笑んだ。その笑みは招いていた。こちらへおいで、と。

 千紗は引き込まれた。自分の意志ではなく、水の流れに乗せられるように、女性のほうへ身体が動いた。

「織部さん!」

 瀬尾の声で、千紗は我に返った。

 水底の女性は消えていた。光も消えていた。ただ暗い水が、無限に広がっている。

「大丈夫ですか」 「……大丈夫です」

 嘘だった。大丈夫ではなかった。

 水底の女性に引き込まれた瞬間、千紗の身体は反応していた。恐怖ではなく、欲望として。あの女性に触れたい。あの女性と溶け合いたい。

 それは患者の夢に対する共鳴反応なのか。

 それとも、千紗自身の欲望なのか。

 区別がつかなかった。


08

第八章 混線

瀬尾のセッション後、千紗は自分の変化を無視できなくなっていた。

 夜の夢が、より鮮明になっていた。

 廊下を歩く夢。ドアを開ける夢。鏡を見る夢。鏡の中の自分が、少しだけ違う。目が暗い。唇が開いている。白衣ではなく、黒いドレスを着ている。

 鏡の中の自分が、手招きする。

 そして、誰かに触れられる夢。

 顔は見えない。ただ手の感触だけがある。背中を撫でる指。首筋に触れる唇。腰を引き寄せる腕。千紗の身体が反応し、声が漏れそうになり——

 そこで目が覚める。

 心臓が速い。肌が火照っている。下着が湿っている。

 千紗はベッドの上で膝を抱えた。

 これは何だ。

 DCミラーを使い始めてから、自分の中の何かが目覚めている。他人の夢に入るたびに、自分の深層意識が刺激されて、抑圧していたものが浮かび上がってくる。

 千紗は精神療法士だ。他人の心理を分析するのが仕事だ。自分の心理だって分析できるはずだ。

 できるはずなのに、できない。

 自分のことだけが、見えない。


09

第九章 接触

瀬尾との二回目のDCセッションを行った。

 水の夢は前回と同じ構造だった。ただし、水温が少し高かった。前回の冷たさではなく、体温に近い温度。まるで湯の中にいるような。

 千紗は瀬尾を見つけた。今回は沈んでいなかった。水中に漂っている。目が開いている。

「織部さん」 「はい」 「今日は、底まで一緒に行ってもらえますか」

 千紗は頷いた。

 二人で沈んだ。

 前回の深さを超えた。光がさらに薄れ、水圧が身体を押す。千紗の鼓膜が鳴った。夢の中の水圧に、物理法則はないはずだが、脳は圧迫感を感じていた。

 水底に着いた。

 砂地だった。白い砂が広がっていて、その上に、ガラスの破片が散らばっていた。光を失った水底で、ガラス片だけがかすかに光っている。

「これは」 「彼女との記憶の破片です」

 瀬尾が屈んで、ひとつのガラス片を拾い上げた。その表面に、映像が映っていた。小さな映画のように。

 女性の笑顔。レストランの窓際。ワイングラスを傾けている。

「綺麗な人ですね」 「ええ。でも、壊してしまった」

 瀬尾は別のガラス片を拾った。

 映像が変わった。

 ベッドの上。二人の身体が絡み合っている。

 千紗は目を逸らさなかった。療法士として、これも記憶の一部だ。直視する必要がある。

 映像の中の瀬尾は、女性の首筋に顔を埋めていた。女性の指が、彼の背中を掻いている。声は聞こえないが、表情が見えた。恍惚と、苦痛の混じった表情。

「深すぎた、と言いましたよね。彼女との関係」 「ええ」 「どういう意味ですか」

 瀬尾はガラス片を砂の上に戻した。

「僕たちは、お互いの中に沈みすぎた。彼女の感情が僕の感情になり、僕の感情が彼女の感情になった。境界がなくなった」

 千紗の背筋に、冷たいものが走った。

「それは——」 「共依存です。先生なら分かるでしょう」

 瀬尾が千紗を見た。水底の暗闇の中で、彼の目だけが光っていた。

「でも先生。共依存の何が悪いんですか。愛は、溶け合うことでしょう」

 千紗は答えなかった。

 答えられなかった。

 なぜなら、瀬尾の言葉が、千紗の中の何かと共鳴していたから。

 溶け合いたい。誰かと。境界をなくして。自分がどこで終わり、相手がどこで始まるか分からなくなるまで。

 それは千紗が、ずっと抑圧してきた欲望だった。

 精神療法士として、常に冷静であること。境界を守ること。患者との距離を保つこと。感情移入はしても、感情を移さないこと。

 その訓練が、千紗の本質を封じ込めていた。

 水底で、瀬尾と向かい合っている。二人の距離は近い。夢の水が、体温と同じ温度で二人を包んでいる。

 瀬尾の手が、千紗の頬に触れた。

「先生の目、水の中だときれいですね」

 千紗は手を払うべきだった。患者との接触。禁忌。倫理違反。

 手を払わなかった。

 瀬尾の指が、千紗の顎を辿り、唇の輪郭をなぞった。水中で、動作がゆっくりになる。スローモーションのように。

 千紗の唇が開いた。

「瀬尾さん」 「はい」 「これは、夢です」 「分かっています」 「覚めたら、なかったことになります」 「それでも」

 瀬尾の顔が近づいた。

 唇が触れる直前で、千紗は身体を引いた。

 辛うじて。ほんの数ミリの意志で。

「ここまでにしましょう。今日は」

 声が震えていた。

 瀬尾は目を閉じた。何かを堪えるように。

「……すみません。先生」 「いいえ。これは治療の一環です」

 嘘だった。治療ではなかった。何が起きていたのか、千紗自身が一番よく分かっていた。

 夢が溶けた。水が消えた。白い天井。DCミラー。現実。

 千紗はベッドの上で、しばらく天井を見つめていた。

 唇が、まだ熱かった。


10

第十章 鏡像

九条に呼ばれた。

「君の脳波データに、気になるパターンが続いている」

 九条はモニターを指して言った。瀬尾のセッション中のデータだった。

「前回もそうだったが、今回はより顕著だ。患者の夢の中で、君自身の深層意識が活性化している。通常の共鳴反応ではない」 「どういうことですか」 「君の抑圧された欲求が、患者の夢を触媒にして表出している。他人の夢に入ることで、自分の無意識のドアが開きかけている」

 千紗は九条を見た。

「止めたほうがいいですか。DCミラーの使用を」 「止める? とんでもない。これは発見だよ」

 九条の目が、あの光を帯びた。科学者の光。

「DCミラーは、患者の治療だけでなく、術者自身の深層心理にもアクセスできる可能性がある。術者が他人の夢を通じて自己分析を行うフレームワーク。これは論文になる」 「わたしの心理を、論文にするつもりですか」 「匿名で、もちろん」

 千紗は拳を握った。

「九条先生。わたしは、被験者であると同時に治療者です。自分の心理的安定が損なわれたら、患者に害を及ぼします」 「だからこそ、自覚しなさい。君が何を抑圧しているのかを」

 九条は椅子に深く座り直した。

「織部くん。君のカルテ、見させてもらったよ。入職時の心理検査。健常範囲だが、一つだけ突出した数値がある」 「……」 「親密性回避。人との深い関係を避ける傾向。恋愛経験は大学時代に一人。以降三年間、誰とも交際していない」

 千紗は黙った。

「君は共感能力が極めて高い。他人の感情を、まるで自分のことのように感じ取れる。だからこそ、深い関係が怖いんだ。溶けてしまうから。自分がなくなるから」

 千紗の胸の奥で、何かが軋んだ。

「瀬尾という患者の夢の中で、君は自分自身と出会っている。水底の女性は、瀬尾の元恋人であると同時に、君の抑圧された自己像だ。感じることを自分に許した、もう一人の織部千紗」

 千紗は九条を睨んだ。

「分析しないでください。わたしは患者じゃありません」 「今はね」

 九条はそれ以上何も言わなかった。


11

第十一章 陥落

三回目の瀬尾のセッション。

 千紗は本来、このセッションを別の術者に引き継ぐべきだった。患者への感情的関与が深まりすぎている。カウンターとランスファレンス――逆転移。療法士が患者に対して個人的感情を抱くこと。精神療法における最大の禁忌のひとつ。

 千紗はそれを知っていた。知っていて、引き継がなかった。

 水の夢に入った。

 今回は、水温がさらに高かった。ぬるま湯ではなく、風呂のような温度。肌が溶けそうだった。

 瀬尾が待っていた。水底ではなく、水面近くに。光が差す場所で、千紗を見ていた。

「織部さん」 「瀬尾さん」 「今日は、見せたいものがあります」

 瀬尾が手を差し出した。千紗はその手を取った。

 水が変わった。透明度が増し、周囲が光に満ちた。水の中に、部屋が現れた。

 ホテルの一室だった。広いベッド。薄いカーテン越しに、夜景が見える。水中にあるのに、部屋の中は乾いていた。夢の論理。

「ここは」 「彼女と最後に会った場所です」

 瀬尾はベッドの端に座った。千紗は立ったまま、部屋を見回した。

 テーブルの上にワイングラスが二つ。一つは空で、一つは赤ワインが半分残っている。窓の外の夜景は東京だった。高層ビルの灯りが、宝石のように散らばっている。

「ここで、別れたんですか」 「ここで、彼女を手放した。手放すべきだと分かっていたから」

 瀬尾が千紗を見た。

「僕たちは互いに溺れていた。このままでは二人とも沈む。それが分かっていたのに、手を離すのに二年かかった」

 千紗はワイングラスを手に取った。夢の中のワインの色は深く、光を吸い込むように暗い。

「瀬尾さん。あなたの治療は、沈むことへの恐怖を手放すことではなく、沈む欲望を受け入れることかもしれません」 「受け入れる?」 「あなたは沈みたがっている。誰かの中に。それは病理ではなく、あなたの本質です。ただ、それを自覚した上で、溺れずに泳ぐ方法を見つける必要がある」

 自分で言いながら、千紗はその言葉が自分自身に向けられていることに気づいていた。

 瀬尾が立ち上がった。千紗のそばに来た。

「織部さん」 「はい」 「あなたも、沈みたがっていませんか」

 千紗は答えなかった。

 瀬尾の手が、千紗の手首を掴んだ。

「夢の中でしか言えないことがある」 「瀬尾さん、これは」 「分かっています。でも、ここは夢です。あなたが言ったんだ。覚めたら、なかったことになると」

 千紗は手を引くべきだった。

 引かなかった。

 瀬尾が千紗を引き寄せた。腕が腰に回った。顔が近づいた。

 今度は、千紗は身体を引かなかった。

 唇が重なった。

 水の夢の中で。

 千紗の意識は、一瞬だけ真っ白になった。キスの感触は鮮明だった。夢とは思えないほど。瀬尾の唇は温かくて、少し乾いていて、ワインの味が残っていた。

 千紗の手が、瀬尾の背中に回った。シャツの生地越しに、彼の体温を感じた。背中の筋肉の硬さ。肩甲骨の形。

 キスが深くなった。瀬尾の舌が千紗の唇を割り、口腔に入ってきた。千紗は息を詰め、それからゆっくりと受け入れた。

 身体が沈んでいく感覚。水底に引き込まれるのではなく、自分から沈んでいく。心地よい重力。溶けていく境界線。

 瀬尾の手が、千紗の腰から背中へ移動した。白衣のボタンが外れていく——いや、夢の中の千紗は白衣ではなかった。黒いワンピース。鏡の中の自分が着ていた、あのドレス。

 瀬尾の指が、背中のジッパーに触れた。

 その瞬間、千紗の中で警報が鳴った。

 療法士としての訓練。倫理。境界。

 けれどそれと同時に、もう一つの声が聞こえた。鏡の中の自分の声。

 このまま溶けてしまえ。

 千紗は目を閉じた。

 ジッパーが下りた。


 覚醒は、暴力的だった。

 DCミラーの安全装置が作動し、強制離脱が実行された。千紗の脳波が危険域に達したことを、システムが検知したのだ。

 目を開けると、白い天井。蛍光灯の光。九条と技術員たちが、モニターを見つめている。

「共鳴率が九十九パーセントに達した。あと一歩で融合だった」

 九条の声は、驚きと、どこか恍惚を含んでいた。

 千紗はベッドの上で身体を起こした。全身が汗で濡れている。心臓が暴れている。

 隣のベッドで、瀬尾が目を覚ました。彼の目が千紗を見た。

 その目の中に、夢の記憶が残っていた。

 千紗は目を逸らした。

 顔が熱い。身体が熱い。夢の中の感覚が、肌の上にまだ残っている。背中に触れた指。唇の温度。ジッパーが下りる音。

 それは夢の中のことだ。現実ではない。

 けれど脳にとって、夢と現実の区別は、思ったほど明確ではなかった。


12

第十二章 覚悟

千紗は三日間、出勤しなかった。

 自宅のベッドで天井を見つめ、自分自身と向き合った。

 瀬尾の夢の中で起きたこと。あれは千紗が望んだことだ。患者の夢に引きずり込まれたのではなく、千紗自身が踏み込んだのだ。

 九条の分析は正しかった。千紗は親密性を回避してきた。共感能力が高すぎるがゆえに、深い関係に入ると自分が溶けてしまう恐怖がある。だから恋愛を避け、人との距離を保ち、白衣という鎧を纏って生きてきた。

 DCミラーが、その鎧を剥がした。

 他人の夢に入るという行為は、究極の親密さだった。心の最深部に触れ、秘密を共有し、夢の中で一つの空間を分かち合う。千紗の本質——溶け合いたいという欲望——が目覚めたのは、当然の帰結だった。

 四日目の朝、千紗は決断した。

 病院に行った。

 瀬尾の担当を外れることを九条に申告した。九条は黙って頷いた。

「別の術者に引き継ぎます」 「賢明だね」 「それと、DCミラーの使用を一時中断させてください。自分の心理状態を整理する時間が必要です」

 九条は椅子の背にもたれた。

「整理して、どうする」 「戻ります。DCミラーは必要な技術です。わたし以上の適任者がいないことも分かっています。だから、自分を立て直して、戻る」 「自分を立て直すというのは、具体的には」 「自分が何を欲しているのか、認めること」

 九条が少しだけ笑った。初めて見る、穏やかな笑み。

「成長したね、織部くん」 「成長というか……壊れかけて、修理中です」

 千紗も笑った。壊れかけの笑いだったが、正直な笑いだった。


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第十三章 境界

千紗は自分自身のカウンセリングを受けることにした。

 外部の臨床心理士に、週一回の面談を依頼した。同業者に自分の内面を見せるのは恥ずかしかったが、必要なことだった。

 面談を重ねる中で、千紗は少しずつ自分の心理構造を理解していった。

 幼少期の記憶。母親との関係。千紗の母は愛情深い人だったが、感情の波が激しかった。嬉しいときは過剰に抱きしめ、悲しいときは千紗にすがって泣いた。子どもの千紗は、母の感情の受け皿になることを求められた。

 母の感情と自分の感情の区別がつかなくなった時期があった。母が泣けば千紗も泣き、母が笑えば千紗も笑う。それは共感ではなく、融合だった。

 思春期に千紗は決意した。もう誰の感情にも溶けない。自分の境界を守る。

 それが、精神療法士という職業を選んだ理由だった。他人の心に寄り添いながら、決して溶け合わない。距離を保つ技術を磨く。それが千紗の生存戦略だった。

 けれどDCミラーは、その境界を物理的に突破してしまった。

 他人の夢に入るということは、境界の消失を意味する。千紗の脳は、他人の夢の中で「溶ける」快感を覚えてしまった。それはかつて母との間で経験した融合の記憶と重なり、抑圧されていた欲望を呼び覚ました。

「わたしは、溶けたいんだと思います」

 カウンセラーに、千紗は言った。

「誰かの中に。完全に。でもそれは危険だと、頭では分かっている」 「危険だと分かっていても、欲しいものは欲しい。それを認めることが、最初の一歩ですね」 「認めたら、どうなりますか」 「認めた上で、選べるようになります。溶けるか、溶けないか。どちらかしかないのではなく、溶ける深さを自分で選ぶ」

 千紗は目を閉じた。

 溶ける深さを、選ぶ。

 それが、千紗がDCミラーに戻るための条件だった。


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第十四章 再会

二ヶ月後、千紗はDCミラーの臨床に復帰した。

 新しい患者を担当し、以前と同じように夢に入り、治療を行った。ただし、以前とは違うことがあった。

 夢の中で、千紗は自分の境界を意識するようになった。患者の感情が流れ込んでくるのを感じながら、それを受け止めつつ、自分自身でいることを手放さない。

 溶けかけたら、戻る。その判断を、意志で行う。

 うまくいく日と、いかない日があった。でも、以前のように夢に呑まれることはなくなった。

 そして、瀬尾に再会した。

 廊下で、すれ違った。瀬尾は別の術者による治療を継続していて、症状は改善に向かっていた。水に沈む夢は、頻度が減っていた。

「織部さん」 「瀬尾さん。調子はどうですか」 「だいぶ良くなりました。新しい先生も良い方で」

 瀬尾は少し痩せていたが、目の色は明るくなっていた。

「あの、織部さん」 「はい」 「夢の中でのこと。覚えていますか」

 千紗の心臓が、一拍跳ねた。

「覚えています」 「あれは……夢でしたか」 「夢でした。治療中の、特殊な環境で起きたことです」

 千紗は自分の声が安定していることを確認した。

「でも、感情は本物だった。少なくとも僕のほうは」

 瀬尾がまっすぐ千紗を見た。

「退院したら、お茶でもいかがですか。夢の外で」

 千紗は二拍、間を置いた。

 精神療法士と元患者の個人的関係。倫理的にはグレーだが、治療関係が完全に終了していれば、禁止ではない。

 それは建前だった。本当は、千紗の中で何かが動いていた。

「考えさせてください」 「もちろん」

 瀬尾は微笑んで去っていった。

 千紗は廊下に立ったまま、自分の心臓の音を聞いていた。

 溶けたいという欲望は、まだある。消えてはいない。

 でも今は、それを抱えたまま立っていられる。

 溶けるか、溶けないか。溶けるなら、どこまで。

 それを、自分で選ぶ。


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第十五章 夢の果て

瀬尾が退院したのは、桜が咲き始める三月の終わりだった。

 千紗は退院の日に立ち会わなかった。代わりに、瀬尾の最終カルテに目を通した。「水に沈む夢の頻度は月に一、二回に減少。日常生活に支障なし。経過観察に移行」。

 良い結果だった。DCミラーを使った治療は、確かに効果があった。

 その夜、千紗のスマートフォンにメッセージが届いた。

「退院しました。お茶の件、まだ有効でしょうか。瀬尾」

 千紗はスマートフォンを見つめた。

 自宅のワンルーム。小さなキッチン。本棚に並んだ心理学の専門書。壁に掛かった一枚の絵——学生時代に自分で描いた水彩画。水面を描いた絵。

 千紗は「有効です」と返した。


 翌週の日曜日、千紗は駅前のカフェで瀬尾と会った。

 白衣ではなかった。ベージュのニットに、紺のスカート。髪を少しだけ巻いた。化粧も、いつもより丁寧にした。

 カフェに入ると、瀬尾がすでに座っていた。窓際の席。ジャケットにシャツ。眼鏡をかけている。入院中は見なかった眼鏡だった。

「眼鏡、かけるんですね」 「普段はコンタクトですが、休みの日は楽なので」 「似合ってます」

 千紗は向かいに座った。コーヒーを二つ頼んだ。

 会話は自然だった。文学の話。映画の話。東京の好きな場所。嫌いな食べ物。瀬尾は生牡蠣が食べられないと言い、千紗はパクチーが駄目だと言って、二人とも笑った。

 夢の話は、しなかった。

 カフェを出て、近くの公園を歩いた。桜はまだ三分咲きで、枝の先にピンクの蕾が膨らんでいた。

「織部さん」 「千紗でいいですよ」 「千紗さん」

 瀬尾が立ち止まった。

「僕は、夢の中であなたに恋をした。でも、あれが夢だったのか、本物だったのか、正直まだ分からない」 「わたしも分かりません」 「だから、確かめたいんです。夢の外で」

 千紗は瀬尾を見つめた。

 この人の深い目。水底のような暗さ。でも今は、光が差している。

「わたしも、確かめたい」

 千紗は言った。

 瀬尾が千紗の手を取った。指先が絡んだ。現実の感触。夢の中より少しだけ乾いていて、少しだけ硬い。

 でも温かかった。人間の温度だった。

 桜の蕾が、風に揺れた。

 千紗は思った。溶けるかもしれない。この人の中に。でも今度は、自分で選んで溶ける。そして、戻ることもできると知っている。

 夢ではなく、現実で。

 目を開けたまま。


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第十六章 境界線の上で

瀬尾との関係は、千紗が想像していたよりもゆっくりと進んだ。

 週末にカフェで会い、美術館を巡り、書店で互いの本を選び合う。瀬尾は千紗にガルシア・マルケスを勧め、千紗は瀬尾にオリヴァー・サックスを勧めた。文学と心理学の交差点に、二人だけの言語が生まれていく。

 触れ合うことには、慎重だった。

 千紗のほうが、慎重だった。瀬尾の手を取ることは自然にできるようになった。肩が触れても、動揺しなくなった。けれどそれ以上に踏み込むことに、千紗は躊躇していた。

 夢の中であれだけの感覚を経験していたから。

 現実の接触が、夢の残響と混ざることが怖かった。瀬尾に触れたとき、それは「今ここ」の感覚なのか、夢の記憶の再生なのか。区別がつかなくなったらどうする。

 四月の終わり。瀬尾の部屋に初めて行った。

 高円寺のアパート。本と原稿用紙に埋もれた、狭いワンルーム。壁には古い映画のポスターが貼ってあり、窓辺にコーヒーメーカーが置いてある。

「散らかっててすみません」 「いいえ。瀬尾さんらしい」 「修一でいいですよ」

 千紗はソファに座った。瀬尾がコーヒーを淹れている。その背中を見ながら、千紗は自分の心拍を測っていた。精神療法士の職業病だ。自分の生理反応を常にモニタリングしてしまう。

 心拍、やや上昇。呼吸、浅い。手掌発汗、わずかに。

 緊張している。

 瀬尾がコーヒーを持ってきた。向かい合って座り、互いにカップを持った。

「千紗さん」 「はい」 「訊きたいことがあります」 「何ですか」 「あの夢の中で起きたこと。あなたにとって、あれは治療でしたか」

 千紗はコーヒーカップを置いた。

「最初は治療でした。でも、途中から違った」 「何に変わった?」 「わたし自身の、欲望に」

 正直に言った。瀬尾の前では、嘘をつきたくなかった。

「あの夢の中で、わたしは溶けたかった。あなたの中に。それは患者への共感ではなく、わたし個人の欲望でした。だから担当を外れた」 「その欲望は、今もありますか」

 千紗は瀬尾を見た。

「あります」

 瀬尾はカップを置いた。ソファを立ち、千紗のそばに来た。

「僕にも、あります」

 瀬尾の手が千紗の頬に触れた。現実の手。夢ではない。指先が温かくて、少し震えていた。

「怖いですか」

 瀬尾が訊いた。

「怖い。でも、怖いまま触れたい」

 瀬尾が千紗の唇に、自分の唇を重ねた。

 夢の中のキスとは、違った。

 夢のキスは鮮明で、完全で、あらゆる感覚が増幅されていた。現実のキスは、もっと不完全だった。唇の角度が少しずれて、鼻が当たって、瀬尾のコーヒーの味が混じっていて。

 でもその不完全さが、圧倒的にリアルだった。

 千紗は瀬尾の首に腕を回した。彼の体温が近い。心臓の音が、千紗の胸に伝わってくる。不規則で、速くて、人間の音だった。

 キスが深くなった。瀬尾の手が千紗の腰に回った。引き寄せられて、身体が密着する。千紗は瀬尾のシャツを掴んだ。

「修一さん」 「うん」 「ゆっくりでいい?」 「もちろん」

 瀬尾が千紗の額にキスをした。それから頬に。耳の後ろに。首筋に。

 千紗は目を閉じた。

 夢の残響が、かすかに聞こえた。水の中の温度。ジッパーの音。溶けていく感覚。

 でも今、千紗は目を開けることができた。

 目を開けて、瀬尾の顔を見ることができた。夢ではなく、現実の顔。眼鏡のフレームの下にある、少し不安そうな目。

「大丈夫。ここにいるよ」

 千紗は瀬尾にそう言った。

 それは、自分自身にも言っている言葉だった。


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第十七章 朝

千紗が瀬尾の部屋で初めて朝を迎えたのは、五月の連休のことだった。

 目を覚ますと、薄いカーテン越しに朝の光が差し込んでいた。高円寺の朝は静かで、遠くで鳥が鳴いている。

 隣に瀬尾がいた。うつ伏せで眠っていて、背中に薄い布団がかかっている。肩甲骨の形が見えた。

 千紗は自分の身体を確認した。裸だった。昨夜の記憶が戻ってくる。

 瀬尾は丁寧だった。千紗の反応をひとつひとつ確かめるように触れた。急がなかった。千紗が緊張して身体を強張らせると、手を止めて、髪を撫でた。

「無理しなくていいよ」 「無理してない。……ちょっとだけ、怖いだけ」 「何が怖い」 「溶けすぎること」

 瀬尾は千紗の顔を両手で包んだ。

「溶けても大丈夫。僕が覚えてるから。千紗がどんな形をしているか」

 その言葉で、千紗の身体から力が抜けた。

 溶けた。

 でも、消えなかった。

 瀬尾の腕の中で、千紗は確かに自分自身だった。共感能力の高い精神療法士。他人の夢に入れる女。溶けることを恐れながら、溶けることを求めている矛盾した人間。

 その全部が、ここにいた。

 朝、千紗はベッドの中で瀬尾の寝顔を見ながら、ある確信を得た。

 夢と現実は、違う。

 当たり前のことだ。でもDCミラーを経験した千紗にとって、それは当たり前ではなかった。

 夢の中では、すべてが完全だった。感覚は増幅され、恐怖は純化され、快楽は極限まで研ぎ澄まされる。

 現実は違う。不完全で、ぎこちなくて、予測通りにいかない。瀬尾の寝息は少しうるさいし、枕が合わなくて首が痛いし、朝の光が眩しすぎる。

 でも、この不完全さの中にしか、本物はない。

 夢は治療の道具だ。人の心の奥に入るための技術だ。けれど、人と繋がるのは、現実でしかできない。

 千紗は瀬尾の肩に顔を寄せた。彼の体温を感じながら、もう少しだけ眠ることにした。

 夢は、見なかった。


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第十八章 日常

千紗と瀬尾の関係は、誰にも言わなかった。

 元患者と療法士。知れれば問題になる可能性がある。千紗は瀬尾の直接の担当から外れてから半年以上が経っていたが、それでも慎重になる必要があった。

 けれど日常は、ゆっくりと変わっていった。

 瀬尾の部屋に、千紗の歯ブラシが増えた。千紗の部屋に、瀬尾の文庫本が積まれるようになった。休みの日は一緒に料理を作り、映画を観て、本を読んだ。

 千紗はDCミラーの臨床を続けていた。新しい患者の夢に入り、治療を行う。以前のように夢に呑まれることはなくなっていた。自分の境界を保ちながら、他人の心の奥に入る技術。それは千紗だけが持つ能力だった。

 六月のある夜、千紗は瀬尾の部屋で夕食を作っていた。

「千紗」 「ん」 「今日、夢を見た」 「水の夢?」 「いや。違う夢」

 瀬尾はキッチンカウンターに肘をついた。

「千紗が夢に出てきた。一緒に歩いてた。普通の道を、普通に」 「それは夢というより、現実では」 「そう。だからびっくりした。僕の夢が、普通になったんだなって」

 千紗は火を止めて、瀬尾を見た。

「治ったんだね」 「千紗のおかげだよ」 「DCミラーのおかげでしょ」 「違う。千紗のおかげ」

 瀬尾が千紗の後ろに回り、腰に腕を回した。背中に彼の胸が当たる。温かい。

「僕は沈みたがっていた。でも千紗が、一緒に沈んでくれて、そのあと浮かび上がってくれた。だから僕も浮かべた」

 千紗は瀬尾の腕に自分の手を重ねた。

「わたしも、あなたのおかげで浮かべたんだよ」

 夕食は少し焦げた。でも二人とも、気にしなかった。


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第十九章 エピローグ

一年後。

 千紗はDCミラーの臨床主任に昇格していた。

 装置は改良を重ね、二次元から三次元の可視化が可能になり、リスク管理プロトコルも大幅に強化された。千紗の経験が、その設計に活かされている。

 新しい術者の育成も千紗の仕事になった。若い臨床心理士たちに、千紗は最初にこう教える。

「他人の夢に入るとき、いちばん危険なのは、自分の夢と混ざることです」

 受講者たちがメモを取る。

「でも、いちばん大切なのも、同じことです。自分の夢を知らなければ、他人の夢の中で自分を保てない。自分が何を恐れ、何を求めているかを知ること。それが、夢に入るための最初の訓練です」

 講義を終えて、千紗はオフィスに戻った。デスクの上に、瀬尾からのメッセージが届いていた。

「今夜、家で食べる? パスタ作る」

 千紗は「行く」と返した。

 窓の外に、夏の空が広がっていた。白い雲が、ゆっくりと形を変えていく。

 千紗はふと、鏡を見た。

 廊下の鏡に映る自分。黒髪のボブ。白衣。少しだけ吊り上がった目。

 鏡の中の自分は、以前と同じ顔をしていた。でも、目の奥にある光が違う。

 以前の千紗の目は、何かを隔てていた。世界と自分のあいだに、透明な壁を置いていた。

 今の千紗の目は、開いていた。

 怖さを知った目。溶ける甘さを知った目。そして、溶けたあとに自分に戻れることを知った目。

 千紗は鏡に向かって、少しだけ笑った。

 他人の夢に入る仕事は、これからも続く。

 けれど帰る場所がある。現実に。不完全で、ぎこちなくて、パスタが少し茹ですぎで、瀬尾の部屋は相変わらず本だらけで、枕は合わないし、朝は眩しい。

 その全部が、千紗の現実だった。

 夢より不完全で。

 夢より、ずっといい。


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あとがき

本作は、精神療法と夢への潜入をテーマにしたオリジナル創作の長編小説です。