Work
2026.03.21 ・ 短編 ・ 7分
広告のなかの反省
つらい記憶を広告映像に変換する脳内補助機能が普及した社会で、男は快適さと引き換えに、自分が忘れてはいけないものまで失っていく。

嫌な記憶は、思い出す代わりに十五秒の広告になる。
わたしがその機能を入れたのは三年前だった。正式名称は長くて覚えていない。みんな単に「広告化」と呼んでいた。
上司に怒鳴られた記憶を掘ろうとすると、頭のなかに爽やかな炭酸飲料のCMが流れる。恋人に振られた場面を思い出しかけると、白い砂浜で犬が駆ける保険会社の映像に切り替わる。気まずい飲み会、失敗したプレゼン、病室の匂い。どれも最初の輪郭だけ見えたあと、すぐ広告の明るさに塗り潰される。
便利だった。
人は、思い出して反省するより、思い出さずに前を向くほうが生産的だ。少なくとも、そういう宣伝文句だったし、たぶん半分くらいは本当だった。
わたしは寝つきがよくなった。会議でも堂々と話せるようになった。失敗の細部が残らないから、同じ部署の連中がぎくりとするような案件でも、わたしだけ平然としていられた。
「強いですね、篠崎さん」
後輩の名取はそう言った。
「切り替えが早いというか」
たぶん、早いのではない。切られているのだ。
でも、結果は同じだった。
先月、わたしは昇進した。歓迎会で部長は、
「過去に引きずられない人間は伸びる」
と笑った。
たしかにその通りだった。反省はだいたい足を引っ張る。後悔は判断を鈍らせる。傷ついた記憶をそのまま保存しておくのは、古いOSを使い続けるのに似ている。
そう思っていた。
違和感が生じたのは、妹に言われた一言がきっかけだった。
「お兄ちゃん、あのときも同じ顔してた」
法事の帰り、駅前の喫茶店でのことだ。妹はアイスコーヒーの氷をストローで回しながら、わたしを見ていた。
「あのときって?」
「だから、母さんが倒れた日の病院」
その瞬間、頭のなかで上品なピアノが鳴った。
白いキッチン。光るフライパン。家族の笑顔。冷凍食品の宅配サービス。
十五秒きっちり流れて、終わった。
病院の場面は戻ってこない。
「覚えてないの?」
妹は少し眉を寄せた。
「忙しかったからな」
そう答えると、妹は笑わなかった。
「便利だね、それ」
皮肉だと分かったが、うまく返せなかった。
帰りの電車で、わたしは母のことを思い出そうとした。すると今度は、柔らかな照明の介護ベッドのCMが流れた。穏やかなナレーションが言う。いつか来る日に、備えを。
いつか来る日ではなかったはずだ。
もう来て、終わった日のはずだった。
それから少しずつ、おかしなことが増えた。
取引先の担当者に強く抗議された記憶は、高級ボールペンの広告に変わった。元恋人が泣きながら何か言っていた場面は、マッチングアプリの陽気な動画にすり替わった。謝った覚えのある相手ほど、なにについて謝ったのか思い出せない。
ただ、謝ったという事実だけが、薄い付箋みたいに残る。
ある日、名取が企画書を持ってきた。数字に見覚えがあった。以前、どこかで同じ間違いを見た気がする。
「このままだと危ないですか」
名取が訊く。
わたしは答えようとして、止まった。
危ない。
そう断言できる根拠が、自分のなかにない。たぶん過去に似た失敗をしている。たぶん痛い目も見ている。けれど、その核心へ近づくと、頭のなかで車のCMが始まる。濡れた山道を、静かなEVが滑るように走っていく。
「たぶん、大丈夫だ」
わたしは言った。
その案件は二日後に燃えた。
名取は謝りに来た。わたしも謝った。だが、どこか空虚だった。自分のなかに、失敗を引っかく棘が残っていない。痛くない謝罪は、きれいに包装された菓子折りみたいだ。
数日後、名取が休職した。
部長は肩をすくめた。
「若いと切り替えが下手だから」
わたしは反射的にうなずき、それから急に気分が悪くなった。
この台詞を、前にもどこかで聞いた気がした。
帰宅して、久しぶりに機能の設定画面を開いた。普段は見ることもない。初期設定のまま、ずっと使っていた。
画面には簡素な文が並んでいた。
ストレス軽減レベル。 置換時間。 残留感情の保持率。
その下に、小さく折りたたまれた詳細項目があった。
学習優先度。
何気なく開く。
さらに小さな文字が出た。
「反復的な後悔・羞恥・罪責に紐づく記憶は、適応促進のため教訓性を弱めて再符号化します」
わたしはしばらく意味を読めなかった。
教訓性を弱める。
つまり、つらいだけでなく、そこから何を学んだかまで薄めるということだ。
画面の一番下に、もっと小さな履歴があった。
利用状況。
総変換回数 12,483回。
その数字の多さに少し笑いそうになり、それから凍った。
すぐ横に、よく変換された記憶のカテゴリが表示されていた。
一位 業務上の判断ミス 二位 家族との応対 三位 事故関連
事故。
わたしはその単語を見た瞬間、はじめて自分の喉が鳴るのを聞いた。
事故なんて、何のことだ。
思い出そうとした。
頭のなかで、明るい自動車保険のCMが始まった。雨上がりの道路。笑顔の家族。ドライブレコーダーがあなたを守ります、という軽い声。
気分が悪い。吐きそうだ。なのに場面そのものは出てこない。
わたしは震える指で履歴の詳細を開いた。
個別映像の閲覧には、強い心理負荷が発生する可能性があります。
その警告の下に、一行だけ、素っ気ない記録があった。
「二〇二五年六月十一日 接触事故後、救護義務に関する強い罪責反応を検知。継続的ストレス軽減モードへ移行」
接触事故。 救護義務。
部屋の空気が急に薄くなった。
わたしはその夜、自分がなにをしたのか思い出せない。
いや、思い出せないようにしてきたのだ。
しかも、ただ苦しまないためではない。二度と同じ痛みを感じないために。つまり、二度と同じ怖さを学ばないために。
スマートフォンが震えた。妹からだった。
「名取さん、しばらく休むって。あの子にまで、前みたいなことしないでね」
前みたいなこと。
頭のなかで、今度は転職サイトの広告が始まった。晴れたオフィス、軽やかな足音、新しい一歩を応援します、という女の声。
わたしは画面を伏せた。
たぶん、わたしはこれからも普通に出社できる。
事故の記憶も、母の病室も、名取の顔も、必要なだけ明るい映像に変えて、よく眠って、きちんと働けるだろう。もしかしたらまた昇進するかもしれない。
痛みがないなら、人は壊れにくい。
でも、壊れにくい人間が、まともだとは限らない。
設定画面の下には、機能停止のボタンがあった。
わたしはそこに指を置いたまま、押せなかった。
もし止めたら、あの十五秒の向こう側が一気に戻ってくるかもしれない。
戻ってこないかもしれない。
どちらでも、たぶんもう手遅れだった。
やがて画面が暗くなり、黒いガラスに自分の顔が映った。ひどく穏やかな顔だった。
広告に守られている人間は、最後まで感じがいい。